東方拾得録   作:まほろばのーぶる

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第8話 人の里に縁を結ぶ

 博麗神社の朝ごはんは、味噌汁の湯気から始まった。

 

 卓の上には、湯気を立てる味噌汁と、茶碗によそわれた白いご飯。

 

 小皿の漬物。

 

 それから焼き魚。

 

 派手ではない。

 

 けれど、今のボクには十分すぎるくらい立派な朝ごはんだった。

 

 それを一人でてきぱきと用意した霊夢の評価は、ボクの中で静かに跳ね上がった。

 

 あまりに豪華な食事に緊張して震える手で箸を使い白いご飯を一口食べた瞬間、ボクはそのまま固まった。

 

「……霊夢」

 

「何よ」

 

「この白い粒、すごい」

 

「白い粒って……ただの白米よ」

 

「はくまい?……米って、こんなに甘いものなの?」

 

「炊きたてなら、まあそうなんじゃない?」

 

 霊夢は短く言って、お茶をすすった。

 

 ボクはもう一口、ご飯を食べる。

 

 噛む。

 

 噛む。

 

 あ、甘い。

 

 甘い!

 

 昨日までの出来事を思うと、世界はもう少し厳しくてもおかしくなかった。

 

 無縁塚で目を覚まして、神社に来て、森に飛ばされて、妖怪に追われて、吸血鬼に血を吸われて、倒れて、起きたらまた神社だった。

 

 なのに今、目の前には幸せご飯がある。

 

「……幻想郷、急に手加減してくれたね」

 

「手加減じゃなくてただの朝ごはんよ」

 

「朝ごはんってすごい。荒れた人生を一膳で丸め込んでくる」

 

「大げさね」

 

 霊夢が呆れたように言う。

 

 隣では魔理沙が魚をつつきながら笑っていた。

 

 アリスは湯呑みを手に、少しだけ目元を緩めている。

 

「よかったな、ナナシ。米に感動できるくらい元気で」

 

「うん。ボクはいま、米という概念に対する認識を改めているよ」

 

「なんだそれ」

 

「魔理沙もちゃんとお米に敬意を払った方がいい。これは粒状の幸福だよ」

 

「粒状の幸福」

 

 魔理沙が吹き出した。

 

 ボクはもう一口、勢いよくご飯をかき込む。

 

 その瞬間、喉に詰まりかけた。

 

「んぐっ」

 

「ほら、落ち着いて食べなさい!」

 

 霊夢がすぐに湯呑みを差し出してくれる。

 

 ボクは両手で受け取り、お茶を飲んだ。

 

「……助かった。米に討たれるところだった」

 

「米は何もしてないでしょ」

 

「お米が悪いんじゃない。お米の魅力にボクの処理能力が追いつかなかっただけで」

 

「結局、あんたが慌てただけじゃない」

 

 霊夢はそう言って、ボクの茶碗に少しだけご飯を足した。

 

 その動きがあまりにも自然で、胸の奥が少し温かくなる。

 

 ご飯をよそってもらう。

 

 ただそれだけのことなのに、なぜかひどく大事なものに思えた。

 

「……ありがとう」

 

「いいから食べなさい。今日は里に行くんだから」

 

「うん」

 

 ボクは頷いた。

 

 人間の里。

 

 昨日、紫が言っていた場所だ。

 

 縁を作るために、行った方がいい場所。

 

 ちゃんとこの世界に引っかかるために、誰かに会う場所。

 

 なんだかちょっぴりわくわくする。

 

 

 

 

 そのあと、幸福度の高い朝ごはんをたらふく食べて、満腹の眠気と闘いながら食休みしていた時。

 

「里までは、歩いてどれくらい?」

 

 ふと思いついて何気なく聞いてみると、場の空気が一瞬止まった。

 

 霊夢が不思議そうにこちらを見る。

 

 魔理沙がにやりと笑う。

 

 アリスが少しだけ視線を逸らす。

 

「……え?」

 

 嫌な予感がした。

 

「歩くわけないだろ」

 

 魔理沙が言った。

 

「飛んで行くに決まってるぜ」

 

「…………」

 

 ボクはとりあえず箸を置いて、真剣なまなざしを霊夢に向ける。

 

「霊夢」

 

「何よ」

 

「徒歩という選択肢について、冷静に協議したい」

 

「却下」

 

「まだ議題を提出しただけなんだけど!?」

 

「時間がかかるもの」

 

「時間をかける価値があるんだよ。歩くという行為にはね、地面との信頼関係があるんだよ?足を出せば、そこに地面がある。踏めば支えてくれる。そして重力とも円満な関係を築ける。これはとても大切なことだと思う」

 

「話が長い」

 

「今かなり大事なことを言ったつもりなんだけど!?」

 

 魔理沙が楽しそうに箒を肩に担いだ。

 

「でも前に1回飛んだだろ。ほら、神社に来た時」

 

「だから嫌なんだよ!?」

 

 ボクは思わず声を上げた。

 

「経験していない恐怖ならまだ、知らないからうっかり乗れる。でもボクは知っている。空が高いことを。地面が遠いことを。魔理沙が速度を出す時に、意地悪そうなにやけ顔で楽しそうな顔をすることを」

 

「楽しかっただろ?」

 

「楽しかったのは魔理沙だけだよ。ボクは途中で何度か、魂だけが空に置いてけぼりになりそうになった!」

 

「落ちなかったじゃないか」

 

「落ちなかったことを成功例として出すのは、少し基準が低いと思う」

 

 魔理沙はますます笑った。

 

「大丈夫だって。今度はちゃんと掴まってればいい」

 

「前回も掴まってたよ。魂が何回か置いていかれそうになっただけで」

 

「魂くらい幻想郷ならどうにかなるだろ」

 

「ならないでほしい」

 

 霊夢が立ち上がった。

 

「ぐずぐずしない。日が高いうちに行って帰るわよ」

 

「霊夢、話し合いを」

 

「……魔理沙」

 

「任せろ」

 

「任せないで!?」

 

 

 

 

 

 

 そして気がついた時には、ボクは魔理沙の箒に乗せられていた。

 

 前に魔理沙。

 

 後ろにボク。

 

 両手は魔理沙の服をがっちり掴んでいる。

 

「強く掴みすぎだぜ」

 

「命綱なんだから文句を言わないでほしい」

 

「私は命綱じゃなくて運転手だ」

 

「じゃあ安全運転して」

 

「善処する」

 

「善処という言葉は事故の匂いがする!」

 

 霊夢がふわりと宙に浮く。

 

 アリスも人形たちを伴って空へ上がった。

 

 魔理沙の箒が、少し傾く。

 

「それじゃ、行くぜ」

 

「ま、待って。心の準備が——」

 

「出発!」

 

 箒が飛び出した。

 

 その後のことは、あまり覚えていない。

 

 覚えているのは、朝の空気が冷たかったこと。

 

 地面がみるみる遠ざかったこと。

 

 魔理沙が意地悪くにやにや笑っていたこと。

 

 霊夢が当然みたいな顔で飛んでいたこと。

 

 アリスの人形が何度か心配そうにこちらを見ていたこと。

 

 そしてボクが、人生で使う予定のなかった悲鳴をまとめて使い切ったことくらいだ。

 

「魔理沙のばか! 安全速度という概念と一度ちゃんと話し合って!」

 

「ちゃんと抑えてるぜ!」

 

「幻想郷に速度超過の法律はないの!?」

 

「少なくとも私は捕まったことないぜ!」

 

「前科がないだけで安全証明にはならないよ!?」

 

「これでも、いつもと比べるとかなりゆっくりなんだがな」

 

「常習犯だった!」

 

 そんなやり取りをしながら、ボクたちは空を疾走していく。

 

 風が耳元で鳴る。

 

 恐る恐る目を開ければ、幻想郷の景色が広がっていた。

 

 森。

 

 道。

 

 川。

 

 田畑。

 

 小さな家々。

 

 綺麗だと思う余裕は、少しだけあった。

 

 ……本当に少しだけ。

 

 それ以外の大部分は、早く地面に帰りたいという祈りで埋まっていた。

 

 

 

 

 

 

 人間の里に着いた時、ボクは真っ先に地面へ手をついた。

 

「……地面。あぁ、地面だ」

 

「地面に話しかけるな」

 

 霊夢が言った。

 

「君はいつもそこにいてくれたんだね」

 

「だから話しかけるなって」

 

「再会の挨拶くらいさせてよ」

 

 魔理沙が箒を担いで笑う。

 

「大げさだなあ」

 

「こ、この……魔理沙には分からないよ。さっきまであんなに地面から遠かったんだよ?」

 

「だから空を飛ぶってそういうもんだろ」

 

「その常識認識がもう怖い」

 

「でも前よりは叫んでなかったぜ? 慣れたか?」

 

「悲鳴の種類が増えただけだよ。そんなに簡単に慣れないからね?」

 

 そうしてボクはようやく立ち上がった。

 

 目の前には、人間の里が広がっている。

 

 道の両側には店が並び、人が行き交っていた。

 

 野菜を並べる店。

 

 布を扱う店。

 

 煙を上げる茶屋。

 

 子供の声。

 

 犬の鳴き声。

 

 誰かが誰かを呼ぶ声。

 

 知らない場所なのに、当たり前だけど昨日の森よりはずっと息がしやすかった。

 

「まずは生活に必要なものを揃えるわよ」

 

 霊夢が言う。

 

「服と日用品ね」

 

 アリスがボクの格好を見る。

 

「その白い衣だと、里では少し目を引くわね」

 

「白いから清潔感はあると思うんだけど」

 

「清潔感と普段着らしさは別だぜ」

 

 魔理沙が言った。

 

「そもそも子供がひとりでそんな格好してたら、だいたい迷子か訳ありに見える」

 

「ボクは実際、迷子で訳ありだから反論しづらい」

 

「でしょうね」

 

 霊夢があっさり頷いた。

 

「せめて里で歩いていても浮かない服にしなさい。目立たないって、それだけで大事よ」

 

「なるほど。安全対策としての着替えってことだね」

 

「そういうこと」

 

 そう言う霊夢に連れられて、まずは古着を扱う店に入った。

 

 店のおばさんは、霊夢たちを見てすぐに笑顔になった。

 

「あら、霊夢さん。今日は珍しい組み合わせだねえ。そっちの子は?」

 

「ナナシ。しばらく神社で預かることになったの」

 

 霊夢が簡単に言う。

 

 ボクは慌てて頭を下げた。

 

「ナナシです。今日から神社で住み込み雑用係見習いになりました。名前も身元も仮運用中ですが、よろしくお願いします」

 

 店のおばさんは一瞬きょとんとして、それから大きく笑った。

 

「なんだい、幼い見た目なのにしっかりしてるじゃないか」

 

「短くまとめると自己紹介が不審者寄りになるので、少し柔らかくしてみました」

 

「その自己紹介でも十分変わってるよ」

 

「じゃあ改善の余地ありってことだね」

 

 そう言ってにこりと微笑むと、おばさんはまた笑い、それから柔らかい顔になった。

 

「そうかい。神社にいるなら安心だね。ちょっと待ってな。動きやすそうな服を見てあげるよ」

 

「ありがとうございます。この恩は、いつか雑用で返すよ」

 

「小さいのに律儀だねえ」

 

 そう言って、おばさんは服をいくつか出してくれた。

 

 さらに、手ぬぐいを1枚おまけしてくれた。

 

「いいの?」

 

「いいよ。新生活祝いだ」

 

「新生活って、布から始まるんだね」

 

「まずは着るものからだよ」

 

「なるほど!衣食住の衣が先頭にある理由を実感したよ」

 

「……本当に口が回る子だねえ」

 

 おばさんが感心する様子で言った。

 

 次に雑貨屋へ行った。

 

「櫛と、小さな巾着……は持ってるか、あと紙も少しあった方がいいかしら」

 

 アリスが品物を見ながら言う。

 

「字は書けるのかい?」

 

 ちょっとこわもての店の主人がボクに聞いてきた。

 

「書いたことはまだないけどたぶん書けます。少なくとも、大体の文字は読める気はします」

 

「気がする、なのかい?」

 

「記憶がないので、できることも一度それぞれ確認が必要で……」

 

 ボクは近くに置かれていた紙の束を見る。

 

 そこに添えられた値札の文字は、問題なく読めた。

 

「……あ、この紙は少し高いんですね」

 

 店の主人が目を丸くする。

 

「読めるじゃないか」

 

「読めました。よかった。自分の機能がひとつ確認できました」

 

「機能って言い方はどうなんだい」

 

 店の主人は肩を揺らし、こわもての顔を少しだけ柔らかくして笑った。

 

「変わった子だねえ。面白いから、少し安くしておくよ」

 

「えっ」

 

 ボクは紙と店の主人を見比べた。

 

「面白さで値段が下がることってあるんだ」

 

「普通はないわよ」

 

 霊夢が言った。

 

「じゃあ今のは?」

 

「あんたが面白がられただけ」

 

「面白がられると少し得をする……」

 

「調子に乗らない」

 

 ぴし、と霊夢の指がボクの額を軽く弾いた。

 

「ぴゃ」

 

 変な声が出た。

 

 

 そのあと八百屋では、小さな干し芋をもらった。

 

 茶屋の前では、店の人に「霊夢さんとこの子かい」と声をかけられた。

 

 道を歩けば、誰かが振り返り、誰かが笑い、誰かが「大変だったねえ」と言ってくれた。

 

 もちろん、全員がすぐに親しくなったわけではない。

 

 不思議そうな目もあった。

 

 警戒するような視線もあった。

 

 それでも、霊夢たちが隣にいると、里の人たちは少しだけ安心した顔になる。

 

 ボクはそのたびに頭を下げた。

 

 名前を名乗る。

 

 仮の名前でも、呼んでもらう。

 

 それだけで、胸元の巾着袋が少し重くなるような気がした。

 

「……なあ、霊夢」

 

 少し離れたところで、魔理沙が小声で言った。

 

「何よ」

 

「あいつ、すごくないか」

 

「何が」

 

「さっきの雑貨屋の親父、値切ろうとするといつも渋い顔するんだぜ。なのに、ナナシが少し喋っただけであっさりまけた」

 

「そうなの?」

 

「ああ。八百屋の婆さんも、余り物でもない干し芋を包んでたし。あれ、普通は常連の子供にしか渡さないやつだ」

 

 アリスが静かに言う。

 

「人たらしね」

 

「本人に自覚がなさそうなのが厄介だぜ」

 

「本当にね」

 

 ボクは3人のところへ戻った。

 

「見て。干し芋をもらった」

 

「買い物に来たのよね?」

 

「うん。買い物をしたら、干し芋がついてきた」

 

「普通はついてこないわよ」

 

「人里の文化かと思った」

 

「違うぜ」

 

 魔理沙が笑う。

 

「お前が気に入られただけだ」

 

「気に入られることで干し芋が発生するなら、これはひとつの才能では?」

 

「調子に乗らないって言ったでしょ」

 

 霊夢が指を構える。

 

 ボクは慌てて額を押さえた。

 

「待って。2回目の物理注意はしなくても学習済みです」

 

「ならよし」

 

「危なかった。額の治安が守られた」

 

「何よ、額の治安って」

 

 買い物を終えるころには、ボクの腕には包みが増えていた。

 

 替えの服。

 

 手ぬぐい。

 

 櫛。

 

 紙。

 

 それから、干し芋。

 

「……増えた」

 

 思わず呟く。

 

「何が?」

 

 魔理沙が聞いた。

 

「持ち物」

 

「そりゃ買い物したからな」

 

「買い物って、物が増えるんだね」

 

「当たり前のことを妙にしみじみ言うな」

 

 魔理沙は笑ったけれど、アリスは少しだけ柔らかい顔をした。

 

「必要なものが増えるのは、悪いことではないわ」

 

「うん」

 

 ボクは包みを抱え直した。

 

 少し重い。

 

 けれど、その重さは嫌ではなかった。

 

 

 

 

 

 

「最後に寺子屋へ行くわよ」

 

 霊夢が言った。

 

「寺子屋?」

 

「この里の子供たちが勉強する場所だぜ」

 

 魔理沙が答える。

 

「先生に挨拶しておいた方がいいわ」

 

 アリスも頷いた。

 

「里で困ったことがあった時、頼れる人だから」

 

「なるほど。先生へのご挨拶」

 

 ボクは背筋を伸ばした。

 

「見た目だけで判断されると、ボクも机に座る側になりそうだね」

 

「実際、見た目は完全にそっち側でしょ」

 

 霊夢が言う。

 

「でも、見た目で決めるのは危ないと思うんだ。フランドールも見た目は小さかったけど、吸血鬼だったし」

 

「あれと同じ基準で考えない方がいいわよ」

 

「そうなの?」

 

「そうよ」

 

 魔理沙が笑った。

 

「まあ、お前も喋るとあんまり子供っぽくないけどな」

 

「外見と中身の差については、ボクもボクの説明書がほしい」

 

「説明書があっても長そうだぜ」

 

 アリスが小さく笑った。

 

「でもまあ、慧音なら悪いようにはしないわ」

 

「なら安心だね。先生という職業には、基本的に敬意を払うべきだと思うし」

 

「急にまともなことを言ったわね」

 

「普段もわりとまともだよ」

 

「わりと、ね」

 

「……含みがある」

 

 

 

 

 

 

 寺子屋は、里の少し落ち着いた場所にあった。

 

 中からは、子供たちの声が聞こえる。

 

 読み上げる声。

 

 笑い声。

 

 誰かが慌てて言い直す声。

 

 戸口に立つと、中からひとりの女性が出てきた。

 

 銀色の髪。

 

 落ち着いた目。

 

 きちんとした立ち姿。

 

 見るからに先生、という雰囲気の人だった。

 

「霊夢。どうしたんだ?」

 

「この子を紹介しに来たの」

 

 霊夢はそう言って、ボクの背を軽く押した。

 

 ボクは一歩前に出て、頭を下げる。

 

「はじめまして。ナナシです」

 

「ナナシ?」

 

 女性は少し目を瞬かせた。

 

 霊夢が、簡単に事情を説明する。

 

 無縁塚で魔理沙に見つけられたこと。

 

 名前も記憶も分からないこと。

 

 しばらく博麗神社で預かることになったこと。

 

 人間の里で顔をつないでおくため、挨拶に来たこと。

 

 女性は黙って聞いていた。

 

 途中で口を挟まず、ひとつずつ確かめるように頷いていた。

 

「そうか」

 

 やがて女性は、ボクと目線を合わせるように少し屈んだ。

 

「私は上白沢慧音。この里で寺子屋を開いている」

 

「上白沢慧音さん」

 

「慧音でいい。里で困ったことがあれば、ここへ来るといい」

 

「ありがとうございます。頼れる場所が増えるのは、とても助かります」

 

 ボクが頭を下げると、慧音は穏やかに頷いた。

 

「それと、もし望むなら寺子屋に来てもいい。読み書きや計算、この里で暮らすために必要なことなら教えられる」

 

「寺子屋に」

 

 ボクは教室の方をちらりと見る。

 

 子供たちが何人か、こちらを興味津々に覗いていた。

 

「見た目としては、かなり自然に混ざれそうだね」

 

「見た目としてはな」

 

 魔理沙が横から言った。

 

「魔理沙、含みが強い」

 

「いや、お前、さっき値札は普通に読んでたしな」

 

「読めたね。自分でも少し安心した」

 

 慧音が、そこで少し興味を示したように目を細めた。

 

「文字は読めるのか?」

 

「うん。少なくとも、雑貨屋さんの値札は読めました」

 

「……そうか」

 

 慧音は少し考えるようにしてから、穏やかに言った。

 

「なら、少しだけ確認してみてもいいか?」

 

「確認?」

 

「無理にとは言わない。だが、記憶が曖昧なら、何ができて何ができないかを知っておくのは大事だ。読み書きや計算がどの程度できるか分かれば、里で困ることも減る」

 

 その言い方は、試すというより、足元を確かめるようなものだった。

 

 ボクは包みを抱え直して、頷く。

 

「なるほど。ボクの今の学力を確認する訳ですね」

 

「そう言ってもいい」

 

「では、お願いします」

 

 慧音は小さく頷き、寺子屋の戸を開けた。

 

「では、中へ。ちょうど授業も一区切りついたところだ」

 

 教室の中から、子供たちの視線が一斉にこちらへ向く。

 

 ボクは思わず、霊夢たちを振り返った。

 

「……第一印象の難易度が上がった」

 

「大丈夫よ」

 

 霊夢が言う。

 

「さっきまでも十分変だったから」

 

「励まし方に改善の余地がある」

 

 魔理沙が肩を揺らして笑う。

 

「行ってこいよ、ナナシ。先生に見てもらえるなら安心だぜ」

 

 アリスも静かに頷いた。

 

 ボクは小さく息を吸った。

 

 寺子屋の中は、墨と紙の匂いがした。

 

 子供たちの視線が少し痛い。

 

 でも、不思議と嫌ではなかった。

 

 慧音が黒板の前に立ち、こちらを見る。

 

「では、ナナシ。まずは簡単なところから始めよう」

 

「はい」

 

 ボクは包みを足元に置き、姿勢を正した。

 

 名前も記憶もまだ曖昧なまま。

 

 けれど、できることをひとつずつ確かめることはできる。

 

 そう思うと、少しだけ胸の奥が落ち着いた。

 

「よろしくお願いします、慧音先生」

 

「ああ。よろしく、ナナシ」

 

 慧音は穏やかに頷いた。

 

 そして、子供たちのざわめきが残る寺子屋で、ボクの小さな確認試験が始まろうとしていた。

 

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