教室の中に入ると、子供たちの視線が一斉にこちらへ向いた。
さっきまで外から聞こえていた声が、今は目の前にある。
好奇心。
少しの警戒。
それから、知らない子が来た時特有の、遠慮のない観察。
ボクは包みを足元に置き、できるだけきちんと背筋を伸ばした。
「では、ナナシ。まずは簡単なところから始めよう」
黒板の前に立った慧音が、穏やかに言う。
「よろしくお願いします」
「これは読めるか?」
慧音は紙に筆を走らせた。
山。
川。
人。
里。
それから少し間を空けて、短い文を書く。
人は米を食べ、水を飲む。
「読めます」
ボクはそのまま読み上げた。
「山。川。人。里。……人は米を食べ、水を飲む」
「よし」
慧音は頷いた。
そこまでは、本当に簡単だった。
問題は、その次だった。
「では、これはどうだ」
慧音が出した紙には、細かな字で記録のような文章が書かれていた。
ぱっと見ただけで、子供向けではないと分かる。
「……簡単なところから始めるって話じゃなかった?」
「……始めた。今から少し確かめる」
「落差が急」
「分からなければ、分からないでいい」
「……逃げ道を用意されると逆に怖いんだけど」
霊夢が横から紙を覗いた。
「何よ、それ」
「昔の異変の記録を、名前を伏せて書き直したものだ。今回は、どこまで文脈を読めるかを見るために使う」
「……ああ、そういうこと」
魔理沙も覗き込んで、すぐに眉を寄せた。
「うわ。知ってる話でも、こう書かれると面倒だな」
ボクは紙に目を落とした。
そこには、こんな内容が書かれていた。
ある夏、幻想郷の空が紅い霧に覆われた。
霧は日光を遮り、人里にも届いた。
妖怪たちは動きやすくなり、人間たちは不安を覚えた。
ただし、霧を広げた者の目的は、人間の里を直接襲うことではなかった。
この異変を収めるには、何を調べるべきか。
ボクは少し考えた。
「……霧を全部払うより、霧を出している中心を探すべきだと思う」
「……なぜ?」
「広がった霧は結果だから。外側から払っても、出している場所が残っていたらまた増える」
「中心は、どう探る?」
「日光を遮って得をする相手を探す……かな。人里を直接襲う目的ではないなら、霧そのものに別の理由があるはず。たとえば、日差しが苦手な者が昼間も動きたい、とか?」
霊夢が少しだけ目を細めた。
魔理沙は感心したように言う。
「……そこまで読めるのか?」
「読めるというか、そういう形に見える」
「形?」
「うん。被害の広がりと、目的が同じとは限らない。里まで霧が来てるからって、里が狙いとは限らないと思う」
慧音は静かに頷き、次の紙を出した。
「では、次だ」
「……まだあるの?」
「今のは入口だ」
「入口から内容が濃いよ」
今度の記録には、こうあった。
春になっても雪が止まず、幻想郷に春が来なかった。
各地から春の気配が失われ、その力は一か所へ集められていた。
異変の原因は寒さそのものではなく、春を集める行為にあった。
この異変を収めるには、何を見極めるべきか。
「寒さの原因じゃなくて、春の行き先」
ボクは紙を見ながら言った。
「春が消えたんじゃなくて、集められてる。なら、どこに集まってるかを探すべきだと思う」
「なぜ集めたと思う?」
「ただ寒くしたいだけなら、春を集める必要はない。集めた春を使って、何かを起こそうとしてる。春っぽく言うなら、咲かせる、満たす、眠っているものを動かす……そういう目的があるはず」
霊夢が小さく息を吐いた。
「……だいたい合ってるわね」
「だいたい?」
「細かい名前は知らないんでしょ」
「知らない。だから、仕組みだけ」
「仕組みだけでそこまで行くのが変だけれど」
「変って言われても困る」
慧音は三枚目の紙を出した。
「では、これはどうだ」
「慧音、だんだん試験というより尋問みたいになってない?」
「……そんなことはないぞ」
「その言い淀み方でわかっちゃうよ?」
慧音は少しだけ口元を緩め、最後の紙を出した。
「では、これで最後にしよう」
紙には、花のことが書かれていた。
季節外れの花が幻想郷の各地で咲き乱れた。
花は美しく、しかし異常なほど多かった。
原因は花そのものではなく、本来行くべき場所へ行けないものが、花に宿ったことにあった。
この異変を収めるには、花を刈ればよいか。
「よくない」
ボクは首を横に振った。
「花は結果で、原因じゃないから」
「では、原因は何だと思う?」
「“本来行くべき場所へ行けないもの”が何かを考える。花に宿れるなら、目に見える物じゃなくて、もっと形の薄い……というよりは形がないものだと思う」
「たとえば?」
「……魂とか、幽霊とか。そういうもの?」
教室が静かになった。
「花を刈っても、宿っているものの行き場が戻らないなら、たぶん別の形で残る。だから、花じゃなくて流れを直す必要がある」
慧音は、しばらく黙っていた。
霊夢も魔理沙も、何も言わなかった。
子供たちは、内容が難しすぎたのか、ぽかんとしている。
「ナナシ」
「はい」
「今の記録に、心当たりがあるのか?」
「ないよ?」
ボクは正直に答えた。
「赤い霧も、春が集まる話も、花の話も、何も知らない」
「……では、なぜ答えられた?」
「え? 文に書いてあることを並べただけだよ?」
「並べただけで、そこまで読める者は多くない」
「……そうなの?」
慧音は頷いた。
「少なくとも、これは寺子屋を学び舎として勧誘するための確認ではない」
「……だよね。途中から明らかに難しかったもん」
魔理沙が笑った。
「霊夢、お前よりあいつの方が説明うまいかもしれないぜ」
「……うるさいわね。私は解決する側なの」
「解説役ではないと」
「そうよ」
「開き直ったな」
霊夢は軽く魔理沙を睨んだ。
慧音は黒板に、いくつかの名を書いた。
博麗神社。
人間の里。
妖怪の山。
迷いの竹林。
魔法の森。
「では、これは分かるか?」
「読めはするね」
「意味は?」
「博麗神社は、今住ませてもらってるところ。人間の里はここ。魔法の森は、昨日ひどい目にあったところ」
「妖怪の山は?」
「分からない。名前からして、今のボクは近づかない方がよさそう」
子供たちがくすりと笑う。
「迷いの竹林は?」
「分からない。でも入ったら迷いそう」
「そのままだな」
「名前が親切だよね」
慧音は少しだけ声を落とした。
「では、先ほど紙に記録されていた異変が、いつ、誰によって、どのように解決されたかは?」
「分からない」
「赤い霧の中心がどこだったかは?」
「分からない」
「春を集めた者の名は?」
「分からない」
「花に宿ったものの正体は?」
「……推測はできるけど、知ってはいない」
ボクはもう一度記録された紙を見る。
文字は読める。
記録の筋道も追える。
でも、それがこの土地で本当に起きたことだという実感はない。
「話としては読める。でも、歴史としては知らない」
自分で言って、少し変な気分になった。
「答えは出る。理由も分かる。でも、どこでそういう考え方を覚えたのか分からない」
ボクは自分の頭を軽く指で叩いた。
「棚に本だけ残ってて、誰が並べたのか分からないみたい」
教室が静かになった。
慧音は何も言わず、ボクを見ていた。
怖くはない。
でも、見逃さない目だった。
「そうか」
やがて慧音は筆を置いた。
「記録は読める。物事の筋道も立てられる。知らない出来事でも、文面から要点を抜き出せる」
「おかげで、自分の機能がいくつか確認できたよ」
「機能、という言い方は少し気になるが」
「他の言い方が、まだ見つからなくて」
慧音は苦笑した。
けれど、すぐに表情を引き締める。
「ただ、君自身の歴史が見えない」
「ボク自身の?」
「ああ。幻想郷のことを知らないのは、外から来たなら当然だ。だが、外の土地の名も、昔話も、歌も、誰かに教わった覚えもない」
「……うん」
「知識はある。だが、過去と結びついていない」
その言葉は、妙に胸の奥に沈んだ。
過去と結びついていない。
それは、まさにボクのことだった。
慧音は、少しだけ声を柔らかくした。
「今日はここまでにしよう。十分だ」
「うん。ありがとうございました」
◇
ボクが頭を下げると、途端に子供たちがわっと寄ってきた。
「ナナシ、すごい!」
「どうしてそんなに分かるの?」
「外から来たの?」
「ナナシって本当に名前なの?」
「髪の毛真っ白できれいだね!」
一度に聞かれて、ボクは少しだけ後ろへ下がる。
「じゅ、順番にお願い。ボクの処理能力にも限界があるから」
「しょりのうりょく?」
「一度にたくさん来ると、頭の中ですってんと転ぶという意味だよ」
「……頭って転ぶの?」
「たまに転ぶ」
子供たちが笑った。
ひとりの男の子が、じっとボクを見る。
「ナナシって変な名前だな」
「そうだね。かなり直球の仮名だね」
「嫌じゃないの?」
「嫌ではないよ。呼びやすいでしょ?」
「うん。覚えやすい」
「そこが売りなのです」
「売りなの?」
「……たぶん」
また笑い声が上がる。
最初の距離は、そこで少し縮まった。
「ねえ、遊ぼ?」
女の子が聞いてきた。
「遊ぶの? ……うん、いいよ」
霊夢と慧音に視線を向けて確認すると、2人とも頷いてくれた。
「何して遊ぶの?」
「人数がいるなら、しりとりもできるし、なぞなぞもできるし、石を使う遊びもできるね」
「石?」
「そう。石をいくつか置いて、順番に取っていく遊び。最後の石を取った方が負け、とか」
「何それ!」
「やる!」
子供たちはすぐに食いついた。
慧音が少しだけ困ったように眉を上げる。
「こら、まだ寺子屋の中だぞ」
けれど、そう言った後、慧音はすぐに柔らかく笑った。
「まあ、少しならいいだろう。庭で遊びなさい」
「はい!」
子供たちが一斉に返事をした。
気がつけば、ボクは寺子屋の庭で子供たちに囲まれていた。
地面に線を引く。
小石を並べる。
簡単なルールを説明する。
「いい? この遊びは、強い人が勝つんじゃなくて、よく考えた人が勝つ遊びだよ」
「じゃあナナシが勝つじゃん」
「大丈夫。ボクは今から少し弱くなるからね」
「弱くなれるの?」
「ふっふっふ! 手加減という便利な技術があるのだ」
「すごい!」
「手加減は便利技能だからね。君たちも将来、身につけることができるさ」
そう言って分かりやすく得意げな顔を作って、ゲームの盤面を準備する。
子供たちが笑いながら小石を取っていく。
途中で間違える子がいると、ボクは答えを言わずに聞いた。
「今、残りはいくつかな?」
「えーっと、5」
「次に2つ取ったら?」
「3」
「その次、相手は何個取れる?」
「……あ」
「気づいた?」
「気づいた!」
ぱっと顔が明るくなる。
それを見ると、胸の奥が少し弾んだ。
できた、と誰かが笑う瞬間は、見ていて楽しい。
その後は、しりとりをしたり、なぞなぞを出したり、地面に丸を描いて陣取りのような遊びも教えたりした。
勝った子は飛び跳ね、負けた子は悔しがり、次は勝つと騒いだ。
慧音は少し離れたところで、その様子を見ていた。
腕を組みながらも、目元は優しい。
霊夢は縁側の端に腰かけて、お茶を飲んでいる。
魔理沙は子供たちに混ざって、本気で石取り遊びに参加していた。
「よし、私の勝ちだな!」
「魔理沙、大人げない」
「勝負は勝負だぜ」
「子供相手に全力を出す大人は、後で反省文を書くべきだよ」
「なんでだよ」
アリスはその横で人形を動かし、子供たちに小さな劇を見せている。
子供たちはそれにも歓声を上げた。
寺子屋の庭は、しばらくとても賑やかだった。
けれど、楽しい時間はいつの間にか進む。
陽が傾き始めた頃、霊夢が立ち上がった。
「そろそろ戻るわよ」
「え、もう?」
ボクが言うより先に、子供たちが声を上げた。
「ナナシ、帰っちゃうの?」
「また来る?」
「次はさっきの石のやつ、続きやろうよ!」
「なぞなぞも!」
袖を引かれ、手を掴まれ、ボクは少し困って笑った。
「ええと、ボクにもいろいろと労働の予定があってね」
「ろうどう?」
「神社で働くの」
「ナナシ、働くの?」
「住み込み雑用係見習いだからね。肩書きは長いけど、やることは多分雑用」
「雑用係なんだから雑用でしょ」
子供たちがまた笑う。
その時、慧音が近づいてきた。
「ナナシ」
「はい」
「今度は、教える側として手伝ってほしい」
「ボクが?」
「ああ。君は説明がうまい。子供たちがどこで分からなくなっているか、よく見ている。何より、答えを先に渡さない」
「……そうなの?」
「そうだ。子供たちが、自分で気づくように待てる。だから君がいい」
慧音の声は、まっすぐだった。
「もちろん、毎日でなくていい。神社の仕事もあるだろう。空いた時で構わない」
「でも、ボクでいいの?」
「君がいい」
そう言われて、少しだけ言葉に詰まった。
君がいい。
その言葉は、思っていたより胸に残った。
「それに、もちろん手伝ってくれた分の報酬も渡す」
「……報酬」
思わず復唱してしまった。
魔理沙がにやりと笑った。
「お、目の色が変わったな」
「慧音先生!」
「慧音でいいぞ」
ボクは背筋を伸ばした。
「慧音! 次回の勤務日はいつになりそうですか?」
「急にやる気だな」
「労働には対価がある。ボクは社会の仕組みを尊重するよ」
「現金なやつめ」
魔理沙が笑う。
「あんたが言うな」
霊夢が即座に言った。
「霊夢、今のは私への偏見だぜ」
「事実よ」
「否定が早いな」
慧音は小さく笑った。
「では、詳しいことはまた相談しよう。無理のない範囲で頼む」
「うん。改めてよろしくお願いします」
ボクが頭を下げると、子供たちがまた声を上げた。
「ナナシ先生?」
「先生なの?」
「先生見習い?」
「雑用係見習い兼、先生見習い?」
「肩書きがどんどん増えていく……」
ボクが呟くと、魔理沙が笑った。
「いいじゃないか。賑やかで」
「名刺が必要になったらどうしよう」
「名刺?」
「肩書きを書く小さい紙だよ」
「それならお前のは紙が足りなくなりそうだな」
魔理沙の言葉に子供たちが、また笑った。
寺子屋の庭に、夕方の風が通っていく。
こうしてボクは、住み込み雑用係見習いに加えて、先生見習いという肩書きまで手に入れた。