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第10話 普通が壊れる音
翌朝も、サイド7は普通に始まった。
空調の音がして、通路を人が歩いて、端末には学校の予定が出ている。食卓には温め直した朝食が並び、父さんは立ったまま端末を確認し、母さんはその父さんの手元を見て少し眉を上げていた。
「食べながら端末を見るのはやめなさいって、昨日も言ったわよ」
「見ながら食べているんじゃない。食べる前に見ているだけだ」
「そのまま食べ始めるでしょう」
「……努力する」
「努力目標なのね」
いつものやりとりだった。
少し忙しい。少し慌ただしい。でも、ちゃんと温かい。
俺はパンをかじりながら、二人を見た。父さんは施設管理と搬送管理。母さんは搬入管制と現場補佐。今のサイド7で一番危ない匂いがする場所に、二人とも近い。
言いたいことは山ほどあった。
今日、行かないでほしい。
せめて危ない場所から離れてほしい。
もし警報が鳴ったら、すぐ逃げてほしい。
でも、どれも言えない。理由を説明できない。説明したところで、子どもの悪い夢で終わるか、逆に信じられてもっと面倒な方向へ転がるかだ。未来知識は便利なようで、肝心な時に口へ出せない。ほんと使い勝手が悪い。
「レン、今日は学校が終わったらまっすぐ帰るのよ」
母さんが俺の皿に果物を足しながら言った。
「工作室は?」
「使ってもいいけれど、遅くならないこと。あと、搬送区画の近くへは行かない。最近、あなたの足取りがそっちに寄りすぎています」
「足取りまで見られてる」
「母親だから」
「管制官だから、の間違いじゃない?」
「両方よ」
母さんは少し笑った。
父さんも端末から顔を上げる。
「今日の搬送は少し込み合う。表示が変わったら、いつもの道でも勝手に判断しないこと。レンは分かったつもりで先に動くところがある」
「父さんまで」
「父さんだから言うんだ」
そう言って、父さんは俺の頭を軽く撫でた。
その手を、俺は一瞬だけ見上げた。
「……うん。表示を見る。慌てても走らない。危ない場所には近づかない」
「よし。いい子だ」
「いい子なので、今日の野菜は少なめでお願いします」
「それとこれは別だな」
「父さん、急に厳しい」
母さんが笑った。
俺も笑った。
笑えた。
このまま何もなければいい。
そう思った時点で、もう何かが近い気がした。
学校も、いつも通りだった。
授業があって、休み時間があって、先生が端末の提出状況を確認して、誰かが忘れ物をして騒ぐ。工作室の予定表には、アムロの名前もあった。俺の下級生枠とは少しだけ重なる。
放課後、工作室を覗くと、アムロは丸い外装パーツを前にして、端末とにらめっこをしていた。フラウも近くにいて、呆れ半分でそれを見ている。
「レン、今日は変なところを見る係は休みか」
アムロが顔を上げて言った。
「休みたいけど、丸いやつを見るとつい働いてしまうんだよね」
「仕事みたいに言うなよ」
「出世したので」
「まだ係だろ」
「係から主任を目指します」
「何の主任だよ」
アムロは少し笑った。
フラウも肩をすくめる。
「二人とも、本当に機械の話になると元気ね。レンくん、アムロが遅くなりそうだったら止めてくれる?」
「僕が止められると思います?」
「……無理そうね」
「信用が早い」
「だって二人とも止まらなそうだもの」
フラウの声は柔らかかった。
この人も、この日常の一部になり始めている。アムロの少し困った顔。フラウの世話焼き。先生の片付け注意。工作室の工具の音。
守りたい。
そう思った。
全部は無理だと分かっていても、思うだけなら止められなかった。
最初の異変は、音ではなかった。
照明だった。
工作室の天井灯が、一瞬だけ弱くなった。ちらついた、というほど大きくはない。けれど、俺の目は拾った。次に、床から低い振動が来た。遠くで何か大きなものが動いたような、腹に響く揺れ。
先生が顔を上げる。
「今の、何?」
誰かがそう言った瞬間、警報が鳴った。
甲高い音ではない。コロニー内の非常警報は、耳を刺すというより、体の奥へ押し込んでくるような音だった。赤い表示が壁面に走り、通路側の扉の上に避難誘導の矢印が出る。
空気が変わった。
工作室の笑い声が消えた。
子どもたちが一斉に喋り始める。先生が声を張る。端末が通信を拾おうとして、何度か失敗音を出す。
来た。
本当に来た。
画面の向こうじゃない。
現地民としては笑えない、どころじゃない。
「全員、工具を置いて。走らないで、先生の指示を聞いてください」
先生の声は震えていなかった。
すごいと思った。俺より大人だ。いや、俺も中身は大人のはずなんだが、今は体の奥が冷たい。知っていたのに、来ると分かっていたのに、実際に警報が鳴ると息が詰まる。
通路側から、さらに強い揺れが来た。
遠い衝撃音。
悲鳴。
何かが落ちる音。
フラウがアムロの腕を掴んだ。
「アムロ、行こう。早く避難しないと」
「分かってる。でも、今の揺れ、搬送区画の方じゃないのか」
アムロの顔が変わっていた。
混乱している。だが、それだけではない。耳と目が周囲の情報を拾おうとしている。こいつはこいつで、もう何かを見始めている。
俺は一瞬、言いそうになった。
アムロ、2号機へ行け。
ガンダムに乗れ。
でも、飲み込んだ。
駄目だ。
それを俺が言ったら、流れが変わる。変わりすぎる。アムロが自分で向かうから意味がある。俺が未来知識で押し込むものじゃない。
2号機はアムロ。
俺は1号機。
「レンくん、あなたもこっちへ」
先生が俺を呼んだ。
俺は頷きかけて、壁面表示を見た。避難矢印は居住区側へ向いている。だが、別の小さな表示が、搬送区画側の一部閉鎖を示していた。通信は乱れている。父さんと母さんのいる可能性が高い方角が、赤に近い色へ変わっていく。
父さん。
母さん。
足が、そちらへ向きかけた。
行きたい。
行くべきだ。
そう思う自分がいる。
でも、そこへ行って何ができる。十二歳の体で、搬送区画の爆発に巻き込まれたかもしれない二人を探せるのか。重機もない。権限もない。救助装備もない。行ったところで、俺まで死ぬだけかもしれない。
それでも行きたい。
行きたいのに、行けない。
胸の奥で何かがきしんだ。
「先生、避難通路はあっちです。表示が変わってます。こっち側、たぶんすぐ混みます」
「レンくん?」
「小さい子は、先に居住区側へ。工具棚の横の補助扉、開けられると思います。先生なら権限ありますよね」
先生の目が一瞬だけ揺れた。
「あなたは?」
「僕は……確認したい場所があります」
「危ないですよ」
「分かってます。でも、行かないともっと危ないかもしれない」
言い切ってから、俺は自分の声が思ったより落ち着いていることに気づいた。
怖い。
普通に怖い。
でも、止まっていられない。
先生が何かを言う前に、通路側でまた揺れが来た。子どもが泣き出す。フラウがそちらへ駆け寄り、小さい子の肩を抱いた。アムロは一度俺を見た。
「レン、どこへ行くんだ」
「ごめん。ちょっと、見てくる」
「見てくるって、今はそういう状況じゃないだろ」
「分かってる。だから、アムロはフラウたちを頼む」
未来を言うな。
誘導するな。
でも、これくらいは許してくれ。
アムロは眉を寄せた。納得していない顔だ。だが、フラウが呼ぶ声と、通路の混乱が彼の視線を引いた。
アムロはアムロで動く。
たぶん届く。
そう信じるしかない。
俺は工作室を飛び出した。
走るな、と母さんに言われていた。
でも、今だけは無理だ。
通路はすでに混乱していた。非常灯が赤く点滅し、壁面表示が避難経路を何度も書き換えている。遠くから煙の匂いが来る。誰かが泣いている。大人が叫んでいる。端末の通信音が途切れ途切れに鳴る。
俺は人の流れに逆らわないように、壁際を選んで進んだ。
搬送区画へは行かない。
行けない。
歯を食いしばって、整備区画へ向かう。
途中で父さんの端末へ呼び出しを送った。反応なし。母さんにも送る。接続できない。もう一度。駄目。通信状況不安定。表示はそれだけを返してくる。
やめろ。
その無機質な文面が一番きつい。
「父さん、母さん……」
声に出ていた。
返事はない。
全部は無理だ。
知っていた。第9話の夜、自分でそう考えた。なのに、実際に突きつけられると、全然納得できない。知っていたから平気、なんてことはない。知っていたのに止められなかった、という事実だけが重くなる。
それでも足は止めない。
何もしないよりはマシだ。
整備区画に近づくほど、空気は重くなった。人の流れは減り、代わりに作業員と軍人が走る姿が増える。怒鳴り声。閉鎖扉の警告音。振動。遠くで、また何かが爆ぜた。
ザクだ。
見ていなくても分かる。
あの巨体がこの中で動いている。前世で見た緑の機体。テレビの画面では兵器だった。今は災害だ。歩くだけで建物が壊れる。撃てば人が死ぬ。そんなものが、サイド7の中にいる。
現地民としては、本当に笑えない。
俺は整備区画の補助通路へ滑り込んだ。
ここから先は、普通の子どもが入っていい場所ではない。もちろん知っている。知っていて入る。今さら不審児童も何もない。宇宙世紀の不審児童、ついに軍用機の方へ向かう。字面は最悪だが、他に選択肢がない。
被せものの下に立つ人型の機体が見えた。
前に遠目で見た時より、ずっと大きい。
近づくと、首が痛くなるほどだった。
RX-78-1。
あのガンダムとは違う、黒と赤が目立つ1号機。
白いガンダムはアムロ。
俺は、こいつだ。
周囲には誰もいないわけではなかったが、混乱で統制は崩れていた。別区画の被害対応に人が引っ張られている。機体を守る余裕が薄い。だからこそ、ここへ来るしかなかった。
俺は作業用の昇降ステップに飛びついた。
小さい体が恨めしい。足が届かない。手が滑る。だが、何年もこの体で動いてきた。登り方は知っている。力任せじゃなく、支点を使う。母さんに怒られそうな動きで、俺は上へ上がった。
コックピットハッチの周辺は、見た目ほど整っていなかった。
カバーは閉じられているが、周囲の固定具には仮止めが残っている。細かいことは分からない。だが、完全な出撃状態ではないことだけは、近づけば嫌でも分かる。
見た目だけなら完成しているように見えた。
動くかどうかも分からない機体に賭けると、昨日の夜に決めただろ。
俺はコックピットへ入った。
狭い。
子どもの体でも、胸が詰まるような圧迫感がある。座席に体を押し込み、手を伸ばす。前世知識と父さんの教材と、今まで積み上げた機械の癖を見る感覚を総動員する。
起動手順。
完全には知らない。
でも、表示は読める。
入力。主電源。補助系。姿勢制御。手動確認。安全解除。
指が震える。
怖いからじゃない。
いや、怖いからでもある。
俺は息を吸った。
「頼む」
主電源を入れた。
コックピット内に光が走る。低い起動音。続けて、警告音。
一つではない。
複数。
表示が立ち上がり、赤と黄色が並ぶ。
駆動系。
姿勢制御。
右脚部応答遅延。
左腕部出力制限。
武装欄は、ほとんど空白。
頭部バルカンだけが、使える可能性ありとして表示されている。
……おい。
見た目だけじゃないか。
何これ。まともじゃない。いや、分かってた。分かってたけど、実際に表示されると胃が落ちる。ガンダムに乗ればどうにかなるなんて、前世のゲーム脳にも限度がある。これは完成品の主人公機じゃない。調整中の、動くか怪しい1号機だ。
操縦桿を握った。
反応が重い。
ほんの少し入力しただけで、機体の奥から嫌な遅れが返ってくる。小型ユニットの揺れなんて可愛いものだ。これは桁が違う。巨大な体が、目を覚ましたくないとでも言っているみたいだった。
外で、また衝撃が響いた。
時間がない。
父さん
母さん
アムロ
フラウ
先生
工作室
普通の日常
全部が頭をよぎって、すぐに押し込めた。
泣くのは後だ
考えるのも後だ
今は動け
俺は警告表示を睨みながら、操縦桿を握り直した。
動け
頼む
動けよガンダム!!