前へ出す。
そう決めた。
決めたのだが、決めただけで前へ出られるなら、さっきからこんなに警告音は鳴っていない。
RX-78-1は、俺の入力に一拍遅れて反応した。いや、一拍というには遅すぎる。こっちが「右」と言ってから、機体が「今の右ですか?」と聞き返してくる感じだ。戦場で確認の返事を待っている暇はない。普通に困る。というか、死ぬ。
「右脚、遅い。左腕、使えない。姿勢制御、信用できない。武装、頭だけ」
口に出して確認する。
笑えるくらい悪条件だ。
笑えないけど。
粉塵の向こうで、緑の巨体が動いた。モノアイの光がこちらを向いたように見える。完全に狙われているかは分からない。けれど、この黒と赤の1号機が動いたことで、少なくとも注意は引いた。
それだけでもまずい。
だが、それだけでも意味はある。
ザクの正面に立つな。
通路の線から外れろ。
整備区画の奥に戻るな。
壊させるな。
俺は機体を左へずらした。足で歩くというより、壁と床と残った固定具を使って、体を滑らせる感覚だ。まともなパイロットが見たら怒ると思う。いや、パイロット以前に整備員が泣くかもしれない。だが、今は正しい操縦より倒れない操縦が大事だった。
右脚が遅れる。
機体が沈む。
腰を逃がす。
警告。
肩が壁を擦る。
また警告。
「うるさい。分かってる」
警告に言い返しても仕方ない。
でも言わないと、こっちの気が持たない。
外部カメラの端で、避難している作業員が見えた。さっきのバルカンで巻き上げた粉塵が、まだ通路側を濁らせている。その隙に数人が走っている。走るな、と母さんに言われていた。でも今は走れ。今だけは走っていい。というか走れ。
「通路側、開けます。こっちへ来ないでください」
外部スピーカーに声を乗せる。
子どもの声が、巨大な機体から響いた。
自分でも変な感じだった。
『あの機体、誰が――』
『下がれ、巻き込まれるぞ!』
『民間人を先に出せ!』
返事は混乱していたが、人は動いた。
それでいい。
説明は後。
後があるなら、の話だけど。
ザクが一歩踏み出した。瓦礫が砕ける音がする。巨体の動きだけで、通路の空気が押されるようだった。俺は頭部バルカンをもう一度選ぶ。狙うのはザク本体じゃない。装甲に傷をつけようなんて考えるな。そんな欲を出したら、こっちが詰む。
狙うのは足元。
瓦礫。
煙。
センサーの前。
「もう一回、嫌がらせ」
トリガーを引く。
短い連射。コックピットに細かい振動。バルカン弾が通路の床と壁を叩き、粉塵がさらに濃くなる。ザクのモノアイが揺れた。こちらへ踏み込むのを一瞬ためらったように見える。
効いている。
倒せてはいない。
でも、止められてはいる。
数秒だけ。
たった数秒だけ。
俺はその数秒で、1号機をさらに壁側へ押し込んだ。右脚が遅い。左腕が使えない。なら、背中と肩と腰で逃がす。父さんの教材でやった負荷分散の最悪版だ。いや、父さんも、まさか息子がガンダムで壁を使って立つとは思っていないだろう。
父さん。
通信を投げる。
反応なし。
母さん。
接続失敗。
胸の奥が削れる。
行きたい。
搬送区画へ。搬入管制へ。二人がいるかもしれない場所へ。
でも、今そこへ向かったら、この1号機はザクの前に背中を晒す。通路もふさぐ。人の逃げ道も潰す。俺も死ぬ。誰も助からない。
分かっている。
分かっているから、きつい。
通信がまた乱れた。
『白い機体、ザクに接触――』
『民間人だぞ、誰が乗っている!』
『止めろ、そこは――』
『駄目です、制御が――』
白い機体。
アムロ。
直接は見えない。粉塵と隔壁と通路の向こうだ。だが、音が変わった。さっきまでの破壊音とは違う。巨大なもの同士がぶつかる重い音。金属がねじれる音。何かが床を滑る音。
RX-78-2が動いている。
アムロが、動かしている。
さすがだ、なんて簡単には言えない。
あいつも今、訳が分からないまま必死のはずだ。フラウのことも、避難している人のことも、たぶん全部頭にある。その上で、あの白い機体に乗っている。
アムロ、そっちは頼む。
俺はもう一度、1号機の姿勢を戻した。
その時、ザクの影が粉塵を裂いて動いた。
こちらへ来る。
まずい。
正面から来るな。
来るなと言って来ない敵なら苦労しない。
俺は機体を下げようとして、反応の遅さに舌打ちしかけた。下がる動作が遅い。なら横へ逃がす。いや、横も遅い。だったら、粉塵の濃い側へ頭だけ向ける。バルカンでさらに視界を荒らす。
ザクのモノアイではなく、その少し手前。
床。
割れた外装材。
配管の破片。
撃つ。
粉塵が弾ける。
ザクの足が一瞬止まる。
その向こうで、白い影が動いた。
見えたのは一瞬だけだった。白い装甲。赤と青の差し色。巨大な腕。ザクにしがみつくような、押し返すような動き。
原作の場面。
画面の向こうで何度も見たはずの、始まり。
でも今は、名場面じゃない。
災害だ。
人が逃げている。壁が壊れている。父さんと母さんに連絡がつかない。工作室の先生やフラウがどうなったかも分からない。俺は壊れかけの1号機で、倒れないようにするだけで精一杯だ。
白い機体が、ザクを押し込んだ。
通信が割れる。
『危ない、そこは――』
『誘爆する!』
『下がれ!』
『白い新型が――』
次の瞬間、光が走った。
音より先に、白い閃光が視界を焼いた。
衝撃。
RX-78-1が横から殴られたように揺れる。警告表示が一気に増えた。姿勢制御。右脚部。腰部負荷。外部センサー乱れ。俺の体はベルトに叩きつけられ、息が詰まった。
「ぐっ……!」
倒れる。
今度こそ倒れる。
俺は反射で操縦桿を引いた。右脚を待つな。腰で受ける。肩を壁へ逃がす。左腕は諦める。背中の装甲で衝撃を受ける。金属の悲鳴がした。コックピットの中まで嫌な音が響く。
でも、倒れなかった。
倒れなかっただけだ。
外の空気が変わった。
最初は音だった。警報音の種類が切り替わる。低く押し込むような非常警報に、さらに鋭い音が重なった。次に、耳がおかしくなるような圧が来る。体の内側から引かれるような、変な感覚。
壁面表示が切り替わる。
気圧異常。
隔壁閉鎖。
区画退避。
進入禁止。
赤い文字が、次々に増える。
作業員の顔色が変わった。軍人の怒鳴り声の質も変わる。さっきまでの「攻撃された」という混乱ではない。もっと根本的な、ここにいること自体が危ないという声だ。
俺は、暗い画面の中で、赤い文字を見た。
これが、穴か。
知っていた。
知っていたのに、止められなかった。
アムロがザクを倒す。ザクが爆発する。コロニーに穴が開く。ホワイトベースへ避難する。前世では流れとして覚えていた。アニメの始まりとして、事件として、設定として。
今は違う。
空気が抜ける。
人が叫ぶ。
隔壁が閉まる。
ここはもう、壊れていく場所だ。
「アムロ、やったのか……」
やった。
でも、やってしまった。
責める言葉ではない。アムロがやらなければ、もっと死んでいたかもしれない。あの白い機体が動かなければ、ザクはさらに奥へ進んでいたかもしれない。
それでも、穴は開いた。
知っていた通りに。
俺がここにいても、止められなかった。
父さん。
母さん。
通信を送る。
接続できない。
もう一度。
接続できない。
表示は冷たい。
ただそれだけを返してくる。
胸の奥が、今度は削れるどころでは済まなかった。何かがごっそり抜ける感じがした。だけど、泣く時間はない。探しに行く時間もない。隔壁が閉まる。避難経路が変わる。ここにいたら、1号機ごと閉じ込められる。
今できること。
今、できることだけを見ろ。
RX-78-1を壊さない。
動ける範囲で、退避導線へ向かう。
アムロのガンダムには触れない。
ホワイトベース方面へつながる道を探す。
父さんと母さんは――
そこだけ、考えが止まった。
止めるな。
今止まったら、全部終わる。
俺は操縦桿を握り直した。
1号機の表示は相変わらず赤と黄色だらけだった。駆動系も姿勢制御も、まともに信用できない。だが、まだ動く。動くなら、動かす。
『整備区画、退避! 隔壁が閉まるぞ!』
『新型を放棄しろ、今は人命優先だ!』
『待て、あれが動かないと通路が塞がる!』
誰かが叫んでいる。
放棄。
そうした方が合理的なのかもしれない。
でも、俺にはできない。
この1号機は、もうただの機体じゃない。俺がここまで来て、無理やり起こして、倒れないように支えた機体だ。これをここで失ったら、この先の俺にできることが大きく減る。
それに、通路を塞いでいるのも事実だ。
動かすしかない。
「どいてください。通路を開けます」
外部スピーカーに声を乗せる。
やっぱり子どもの声だった。
でも、今はそれでいい。
「この機体、まだ動きます。まともには動きません。でも、どかすくらいならやります」
『お前、何者だ!』
「説明は後で!」
何回これを言えばいいんだ。
でも本当に後だ。
後があるなら。
俺は1号機の右脚を少しだけ前に出した。遅い。沈む。腰で受ける。壁を使う。肩で逃がす。バルカンはもう撃たない。今は弾を残す。次に何があるか分からない。
通路の奥で、また白い閃光が揺れた。
遠い。
でも、そこに白い機体がいる。
アムロがいる。
なら、俺は俺の道を開ける。
サイド7の警報が鳴り続けている。
学校も、工作室も、朝食の食卓も、さっきまで普通だった通路も、全部同じ場所にあるはずなのに、もう同じ場所ではなかった。
ここはもう、日常の場所じゃない。
逃げる場所を考えなければならない。
父さんと母さんに連絡がつかないまま、俺は壊れかけの1号機を、閉じかける隔壁の方へ向けた。