閉じかける隔壁の方へ、1号機を向けた。
向けた、という言い方は少し格好よすぎるかもしれない。実際には、まともに向いてくれない機体を、俺がシートの中で半分祈りながらねじっているだけだった。
右脚が遅い。
左腕は使えない。
姿勢制御は信用できない。
武装は頭だけ。
そして今、サイド7の空気が抜けている。
普通に考えれば、十二歳の子どもが壊れかけの新型モビルスーツに乗ってどうにかできる状況ではない。いや、普通に考えなくても無理だ。前世の俺が画面越しに見ていた時は、コロニーに穴が開いた場面を「うわ、やばいな」くらいで見ていた。今はその「やばいな」の中にいる。
全然、感想の温度が違う。
『気圧異常。第三区画、隔壁閉鎖進行中』
『退避してください。指定避難経路へ移動してください』
『搬送ライン一部停止。作業員は指示に従って退避――』
警告が重なって聞こえる。コックピット内の音声も、外から流れ込んでくる放送も、どれがどれだか分からなくなりそうだった。表示は赤と黄色で埋まっている。さっきまでの戦闘警告とは違う。これは、施設が死なないために人間を押し出そうとしている警告だ。
俺は操縦桿を握り直した。
「戦うな。倒すな。塞ぐな」
声に出した。
言わないと、頭が余計な方向へ走りそうだった。
ザクをどうこうする段階ではない。白い方はアムロだ。あいつが今どこで何をしているのか、全部は分からない。それでも、さっきの白い機体の動きと通信断片だけで十分だった。アムロは乗った。RX-78-2は動いた。俺は2号機に触っていない。
なら、俺の仕事はこいつだ。
RX-78-1。
壊れかけの黒と赤の1号機を、ここで置いていかない。
足を出す。
右脚が遅れる。
予想していた。していたが、予想していても怖いものは怖い。巨人の片足が遅れるというのは、人間の足がもつれるのとは訳が違う。機体全体が、ほんの少し傾く。その少しが、コックピットの中では崖に足をかけたみたいに感じる。
俺は腰を先に逃がした。
父さんが昔言っていた。動かす前に、荷重がどこへ行くかを見ろ。止める前に、逃げ道を作れ。機械は気合いで立たない。
その言葉だけが、やけに鮮明だった。
前へ行くのではなく、横へずらす。歩くのではなく、残った床のラインに機体を乗せる。壁際の補強フレームに肩をかすらせ、背部を一瞬だけ預ける。左腕は使わない。使えないものを使おうとすると、今度こそ姿勢が死ぬ。
コックピットが揺れた。
「っ、くそ」
悪態が漏れる。
子どもらしくないとか、そういうことを気にしている余裕はなかった。今さらだ。新型モビルスーツに乗っている時点で、普通の子どもムーブはだいぶ遠くへ行っている。
視界の端で、人が走っていた。
作業員。避難民。負傷者を支える誰か。誰かに抱えられた子ども。非常灯の赤に照らされて、みんなの顔が同じ色に見える。
俺が倒れたら、そこを塞ぐ。
このサイズの機械が通路を塞げば、それだけで人が死ぬ。
「動け。いや、動きすぎるな。そこまででいい」
自分で言っていて意味が分からない。
だが、今の1号機にはそれくらいがちょうどよかった。大きく動かすと転ぶ。止めすぎると隔壁に閉じ込められる。歩かせるのではなく、逃がす。まさにそれだった。
俺は通信を開いた。
「父さん、母さん、聞こえますか。レンです。応答してください」
返答なし。
分かっていた。
でも送った。
「父さん、母さん。搬送区画、応答してください。レンです」
ノイズ。
その奥で、別の通信がかすかに混ざった。
『搬入管制、応答なし――』
『搬送ラインB、圧力低下――』
『確認班は入るな、閉鎖されるぞ!』
胸の奥が、嫌な形で縮んだ。
俺は表示を呼び出した。呼び出さなければよかったと、すぐに思った。
搬送区画方面。
赤。
搬入管制方面。
赤と黒。
細かい状態は表示されない。権限が足りないのか、回線が死んでいるのか、それとも表示する意味がないほど壊れているのか。どれか分からない。分からないことが、一番きつい。
死亡ではない。
でも、無事とも言えない。
軍の端末は、そういう一番嫌な場所に父さんと母さんを置いた。
「……もう一回」
俺は通信を送った。
つながらない。
もう一度送った。
つながらない。
分かっていた。
分かっていても、画面に出る接続失敗の文字は毎回別の刃物みたいだった。
行けない。
搬送区画へは行けない。今この1号機でそっちへ向かえば、たぶん途中で倒れる。倒れたら避難路を塞ぐ。仮に行けたとしても、俺に何ができる。十二歳の体で、壊れかけのMSで、穴の開いたコロニーで、父さんと母さんを探す?
無理だ。
普通に無理だ。
それを理解できる自分が、少し嫌だった。
『新型機、動けるなら搬送導線へ出せ! 格納庫側で拾う!』
『無理だ、あの状態で歩かせるな!』
『なら引くしかないだろ! 隔壁に挟まれたら終わりだ!』
外部スピーカーか、作業員の通信か。どちらにしても、俺のことだ。
俺は喉の奥を動かした。
「こちらRX-78-1。自力歩行は無理です。搬送導線まで寄せます。引けるなら、引いてください」
一瞬、通信の向こうが黙った。
『……子どもの声?』
そうだよ。
悪かったな。
今その反応をしている場合じゃないだろ。
『誰だ、乗ってるのは!』
『後だ! 今は機体を回収する! 固定アームを出せ!』
『牽引ワイヤー準備! 足元に人を入れるな!』
怒号が飛ぶ。
その中に、少し低い声が混ざった。
『おい、中の坊主。聞こえるか。無理に立たせるな。こっちで引っかける。機体を右へ倒すなよ』
リュウさん、だと思った。
サイド7で何度か見たことがある。ホワイトベースの人間。軍人の中では声が柔らかい方で、でも今は完全に現場の声だった。
「倒したくて倒すわけじゃないです」
『言える元気があるなら上等だ。右肩を壁から離すな。左は捨てろ。足を止めるなよ、止めすぎると固まる』
「了解」
言われるまでもない。
でも、大人の声があるだけで少しだけ楽になった。
RX-78-1の足元に、作業アームが伸びてくるのが見えた。白く光る誘導線。牽引ワイヤー。搬送補助用の固定具。普通ならモビルスーツを運ぶための設備なのだろう。今は壊れかけの1号機を、巨人ではなく荷物として扱っている。
ありがたい。
今のこいつは、荷物扱いされるくらいでちょうどいい。
機体がまた揺れた。
右脚が遅れ、腰が落ちる。視界が少し斜めになる。警告が増える。姿勢補正が勝手に入ろうとして、逆に動きが重なる。
「余計なことすんな」
俺は補正を一段切った。
切った瞬間、体がシートに押しつけられる。支えが消えたわけではない。ただ、機械が勝手にやろうとしていた無理を止めただけだ。ここからは俺が合わせるしかない。いや、十二歳に何をさせているんだこの機体。設計者を呼んでほしい。たぶん呼んでも父さんたちの知り合いなので、今は余計にきつい。
ワイヤーが右腰付近の固定部に噛んだ。
『牽引入る! 中、衝撃来るぞ!』
「来てます!」
『まだ本番じゃない!』
「先に言ってください!」
次の瞬間、機体が引かれた。
世界が横にずれた。
コックピットの内側で、体がベルトに食い込む。歯を食いしばった。視界が白くなりかける。右脚が床を擦り、背部がフレームに当たり、肩の外装が嫌な音を立てる。
壊すな。
でも止めるな。
もう少し。
もう少しだけ。
『隔壁、閉鎖まで二十!』
『避難者通過! 下げろ、下げろ!』
『1号機、導線に乗った! そのまま引け!』
機体の足が、搬送ラインの上に乗った。
乗ったというより、乗せられた。俺はそれに合わせて膝を殺し、腰を少し逃がし、倒れようとする重さを壁へ流した。自分でやっているのに、自分の操作ではないみたいだった。大きな機械の癖に、人間の肩を借りて歩く負傷者みたいに動く。
いや、実際そんなものか。
RX-78-1は負傷している。
まだ戦う前から、もう負傷している。
それを無理やり起こして、俺はここまで引っ張ってきた。
格納庫へ向かう搬送導線の先に、白い光が見えた。非常灯とは違う。作業灯。ホワイトベースの中へつながる光だ。
その手前で、また通信を送った。
「父さん。母さん。こちらレン。応答してください」
接続失敗。
分かっていた。
分かっていたのに、息が詰まった。
『中の坊主、もうすぐ格納庫だ。意識あるか』
「あります」
『なら目を開けてろ。寝るなよ』
「寝られる状況じゃないです」
『それだけ言えりゃ十分だ』
リュウさんの声が少しだけ笑った気がした。
その直後、1号機がホワイトベースの格納庫へ引き込まれた。
空気が変わった。
音が変わった。
広い。明るい。人が多い。怒号、機械音、警告、金属のきしみ、誰かの泣き声。格納庫は安全地帯なんかではなかった。むしろ混乱の中心に近い。それでも、サイド7の壊れた通路よりは、まだ人間が生きるために動いている場所だった。
『固定具を上げろ!』
『右脚を支えろ、膝が落ちる!』
『左腕は触るな、出力が死んでる!』
『中のパイロットを確認しろ!』
パイロット。
その言葉に、少しだけ笑いそうになった。
パイロット。
俺が。
違うだろ。
今日は、ただ壊れかけの機体を倒さないようにしていただけだ。
RX-78-1の動きが止まった。
完全に止まった瞬間、全身から力が抜けた。止まるって、こんなにありがたいことだったのか。父さん、動かすより止め方が大事って本当だったよ。できれば本人に直接言いたい。言いたいから、返事をしてくれ。
俺はまた通信を送ろうとして、手が少し震えていることに気づいた。
疲労か。衝撃か。怖さか。
たぶん全部だ。
外部カメラの視界が少し横へ動く。
そこで、見えた。
白い機体。
RX-78-2。
格納庫の中で、先に固定されている。装甲には戦闘の跡があり、まだ熱が残っているように見えた。白い。やっぱり白い。前世で何度も見た、あのガンダムだ。
その少し離れた場所に、俺の1号機が固定されていく。
黒と赤。
支えられないと立てない、壊れかけのプロトタイプ。
RX-78-2。
RX-78-1。
サイド7で生まれた二機のガンダムが、ホワイトベースの中に並んだ。
誰かが息をのむ声が聞こえた。
誰かが「あれも新型か」と言った。
別の誰かが「子どもが乗っていたのか」と言った。
俺はそのどれにも答えなかった。
答える余裕がなかった。
通信欄には、まだ接続失敗の文字が残っている。
白と黒が並んだ。
でも、父さんと母さんの声は、まだ返ってこなかった。
コックピットハッチの外で人が動く。開放手順の表示が走り、外から強制解除が入る。冷たい空気が流れ込んだ。シートベルトを外そうとして、指がうまく動かない。仕方なく、少し遅れて外した。
ハッチが開いた。
格納庫の光が目に刺さる。
「おい、大丈夫か。意識はあるな」
リュウさんが外から覗き込んでいた。
俺は頷いたつもりだったが、ちゃんと動いたかは分からない。
「あります。たぶん」
「たぶんって顔じゃねえぞ。無理に立つな」
「立つ気はないです。というか、立ったらたぶん落ちます」
「正直でいい」
リュウさんはそう言って、俺を引き上げる準備をした。
その向こうで、アムロがこっちを見ていた。
顔色は悪い。俺と同じくらい、いや、俺よりずっと色々なものを見た顔だった。白い方に乗った少年。RX-78-2を動かした少年。原作主人公。白いガンダムのパイロット。
でも今そこにいるのは、工作室で機械の話をしていた二つ上の上級生だった。
「レン」
アムロが言った。
「お前、あれに乗ってたのか」
俺は少し息を吸った。
喉が痛い。
「アムロこそ、白い方に乗ってたでしょ」
「乗るしかなかった」
「こっちも」
それだけだった。
それ以上は、どちらも言えなかった。
言ったところで、何をどう説明すればいいのか分からない。アムロがガンダムに乗ることを知っていたなんて言えない。俺が1号機へ行くと決めていたなんて言えない。父さんと母さんに連絡がつかないことも、今ここで言葉にしたら、何かが崩れそうだった。
フラウの声が遠くで聞こえた。
「アムロ、レンくん……」
振り向く余裕はなかった。視界の端に、子どもたちを抱えるフラウの姿が見えただけだ。いつもの学校や工作室のフラウではない。顔は青く、目元は赤い。それでも小さい子たちの肩を抱いて、必死に立っていた。
日常が壊れた。
その言葉だけが、胸の奥に落ちる。
リュウさんに支えられ、俺はコックピットから出た。
足が床についた瞬間、膝が笑った。情けない。だが笑う膝があるだけ、まだマシだ。サイド7のどこかには、もう立てない人がいる。声を返せない人がいる。返せないだけで、生きているかもしれない人もいる。
俺は端末を見た。
父さん。
母さん。
もう一度、通信を送る。
接続失敗。
ホワイトベースの格納庫で、白い2号機と黒赤の1号機が並んでいる。
周りはそれを見ている。
でも俺は、失敗の文字から目を離せなかった。