第16話 子ども扱い
リュウさんに肩を借りて格納庫を離れると、足の裏に伝わるホワイトベースの振動が少し変わった。歩いているのは俺のはずなのに、艦の方が先に動こうとしているような感覚がある。背後では整備員たちがRX-78-1とRX-78-2の固定を続け、避難民の誘導と負傷者の搬送が同じ通路を取り合っていた。サイド7から逃げるための準備が、整ったから進むのではなく、整わないまま押し出されていく。そういう音だった。
「端末を見るなとは言わねえが、歩きながらはやめろ。今のお前、足元が全然信用できねえ」
「自分では歩いてるつもりなんですけど、足の方が反対してます」
「反対してる足に従え。俺が支えてなきゃ、今のでふらついてるぞ」
「ありがとうございます。今日は礼を言う相手が多くて助かります」
「礼はいいから、まず医療班に座らされてこい。1号機よりは優しく固定してくれる」
医療班に固定、という言い方に少しだけ笑いそうになった。実際、今の俺は1号機とあまり変わらない。自由歩行不可、姿勢制御不安定、右脚部応答遅延。人間にそんな表示が出るなら、たぶん今の俺には全部ついている。違うのは、俺にはビームライフルを持たせる予定がないことくらいだ。いや、予定がないままでいてほしい。切実に。
通路の途中でも、端末は気になった。父さんと母さんへの通信はまだ失敗したままだ。搬送区画と搬入管制方面は確認不能。確認班進入不可。表示だけなら短い。けれど、短いからといって軽いわけではない。今すぐ走って戻れるなら戻りたい。でも、リュウさんに支えられている時点で、俺が行って何かできる可能性は低い。分かっている。分かってしまう。医療班へ連れて行かれる体が、その現実をこれでもかと突きつけてくる。
医療班のいる区画は、格納庫より少し奥にあった。そこも落ち着いた場所ではなかった。担架に乗せられた兵士、腕を押さえた避難民、泣いている子ども、怒鳴らないように必死で声を抑える医療担当者。狭い空間に、痛みと不安と消毒液の匂いが詰まっている。宇宙世紀の戦艦の医療区画なんて、もっと整然としたものを想像していたが、現実はだいぶ雑だった。というより、雑にならざるを得ないだけだ。
「この子も見てくれ。MSから降りたばかりだ」
リュウさんがそう言った瞬間、近くにいた医療担当の女性が、俺を上から下まで見た。視線が鋭い。整備員が1号機の損傷を見る時と似ているが、こちらは人間用だ。たぶん逃げられない。
「座って。今すぐ」
「はい」
「返事はいいわね。顔色は悪いけれど」
「座ってる分にはかなり優秀です」
「優秀かどうかはこちらが判断します」
普通に子ども扱いだった。いや、実際に子どもなのだから当たり前なのだが、さっきまで1号機を動かした人間として見られていた反動で、妙に戸惑う。危険人物とか、戦力候補とか、事情を聞くとか、そういう単語が頭の中にあったせいで、いきなり「座って」「腕を出して」「水を飲んで」と言われると、体の年齢を思い出させられる。12歳。医療班の椅子に座らされるには、あまりにも自然な年齢だった。
袖をまくられ、腕や肩を確認される。軽い裂傷、打撲、筋肉の強張り、軽度の脱水、強い緊張状態。そう判断されるたびに、俺は人間の故障項目として整理されていく気分になった。痛み止めを少量、水分補給、しばらく座って安静。言われていることは全部正しい。正しいが、ホワイトベースが出航準備中だと思うと、安静という単語だけが別の世界の言葉みたいに聞こえる。
「大丈夫です」
「大丈夫な子は、そういう声で大丈夫とは言いません」
医療担当者は容赦なかった。隣にいたセイラさんが、負傷者対応の手を止めずにこちらを見る。さっきまで格納庫にいたはずだが、今は医療班側に回っているらしい。彼女は俺の手元を見て、端末を握る指に気づいた。
「レン、手の力を抜いて。端末は逃げないわ」
「逃げてくれたら追いかける理由ができるんですけど」
「今のあなたに、追いかける許可は出ません」
「厳しい」
「必要な厳しさよ」
セイラさんの声は静かだった。責めるのではなく、止める声だ。俺は言われた通り、少しだけ指の力を抜いた。端末の画面は暗くしてある。暗くしても、通信失敗の文字は頭に残っている。父さんと母さん。死亡ではない。でも無事とも言えない。確認できない、という言葉が一番きつい。何度もそう思うのに、何度思っても慣れない。
「親御さんの確認は続けているわ。リュウからも回っている。今の段階では、搬送区画も搬入管制も応答なし。確認班は入れていない」
「はい。聞きました」
「聞いた上で、もう一度確認したいのね」
「はい」
セイラさんは少しだけ表情を緩めた。慰めではない。分かっている、という顔だった。
「今は、それ以上のことは言えないわ」
「分かってます。分かってるのが、ちょっと嫌です」
「そういう時は、嫌だと言えばいいわ」
「じゃあ、嫌です」
「ええ」
短いやり取りだった。泣き崩れるわけでも、強がりで全部飲み込むわけでもない。ただ、嫌だと言う。それだけで、ほんの少し呼吸がしやすくなった気がした。セイラさんはそれ以上踏み込まなかった。ありがたい。今、優しい言葉を長くかけられたら、たぶん壊れる。
『ブリッジより医療区画。負傷者収容状況を報告してください。出航準備は継続中です』
ミライさんの声が通信に乗った。医療担当者が簡潔に負傷者数と重症者の状況を返す。ブリッジではブライトさんが指揮を執り、ミライさんがその横で艦の準備を支えているのだろう。声だけでも、落ち着いている人間がいるというのは大きい。格納庫や医療区画の空気は揺れ続けているが、ブリッジの声は艦全体に細い芯を通している。
『レン・イズミの状態は』
次に入ったのはブライトさんの声だった。医療担当者が俺を見る。
「意識あり。会話可能。打撲、軽い裂傷、疲労、軽度の脱水、強い緊張状態。少なくとも今すぐMSに戻す状態ではありません」
言い切った。ありがたいくらいはっきり言い切った。俺が何か言う前に、セイラさんも続ける。
「医療班としては休ませるべきです。監視が必要なら、座らせたままにしてください」
『分かった。医療班に見せろ。だが、目は離すな。事情は後で聞く』
目は離すな。事情は後。拘束よりは柔らかいが、信用されているわけではない。1号機を動かした子ども。施設管理のイズミ少佐の息子。何を知っていて、なぜ乗れたのか。ブライトさんからすれば、確認すべきことだらけだろう。けれど、今はホワイトベースを出すことが先。それも分かる。
『1号機は固定を続けろ。無理に動かすな。2号機の状態確認も続ける。アムロ・レイにも無理をさせるな』
その一言で、俺は少しだけアムロの方を気にした。医療区画から格納庫の全部は見えないが、通路の向こうで白い機体の足元を人が行き来しているのは分かる。アムロもきっと、まだ囲まれている。民間人の少年なのに、ガンダムを動かした本人として確認を受けている。俺は軍人の子だから、まだ何かを知っている可能性を疑われる。アムロは民間人だからこそ、なぜ動かせたのかを聞かれる。似ているようで違う。どちらも楽ではない。
そのアムロが、少しして医療区画の入り口近くまで来た。誰かに呼ばれたのか、何かの確認のついでかは分からない。顔色はやっぱり悪い。俺を見つけると、少しだけ近づいてきた。
「医療班に行くのかと思ったら、もう座らされてるのか」
「行かされた。たぶん正しい」
「大丈夫なのか」
「大丈夫って言うと怒られそうだから、座ってる分には大丈夫」
「それ、大丈夫なのか?」
「座ってる分には」
アムロは少しだけ困った顔をした。いつもなら機械の話に逃げるところだが、今はその機械が大きすぎる。白い2号機と黒赤の1号機。どちらも少年が動かした。そんな事実の前では、工作室の小型機械みたいな気軽さは戻ってこない。
「また乗るのかと思った」
「今は乗らない。1号機も俺も、整備待ち」
「整備って、人間にも使うのか」
「今の俺、機体より先に整備された方がいいかもしれない」
「……軽く言うなよ」
「軽く言わないと、ちょっと止まる」
それは前にも似たようなことを言った気がする。アムロは黙って、少しだけ頷いた。たぶん分かるのだろう。分かってしまうのだろう。アムロも、軽く言わないと止まる側に立たされている。
「アムロも、座れそうなら座った方がいいよ」
「そんな余裕、あるのかな」
「ないから、座れる時に座った方がいい。たぶんリュウさんに見つかったら座らされる」
「それは嫌だな」
「でも正しい」
「分かってる」
短い会話だった。けれど、少しだけアムロの顔が人間に戻った気がした。パイロットとか、民間人とか、ガンダムを動かした少年とか、そういう名前ではなく、工作室で機械の話をしていた二つ上の上級生の顔だ。すぐに誰かに呼ばれ、アムロは戻っていった。俺はそれを見送ってから、端末をまた見そうになって、セイラさんに見られていることに気づき、手を止めた。
「見てもいいわ。ただ、見続けないこと」
「難しい注文ですね」
「今のあなたには必要な注文よ」
「今日は必要な厳しさが多いです」
「そういう日なの」
その通りだった。そういう日。サイド7が壊れて、父さんと母さんに連絡がつかず、ホワイトベースは逃げる準備をしていて、俺は医療班の椅子に座らされている。1号機を動かした戦力候補で、同時に普通に子ども扱いされる患者。どちらか一つにしてほしい。いや、子ども扱いだけでいい。本当はそっちの方が正しい。
格納庫側からリュウさんが戻ってきた。肩で息をしているわけではないが、顔に疲れがある。現場を行ったり来たりして、整備班にも避難民にもブリッジにも対応しているのだろう。まさに緩衝材だ。人間クッションとも言う。本人に言ったら怒られそうなので言わない。
「どうだ、医療班に固定された気分は」
「1号機より安全です。たぶん」
「たぶんを付けるな。医療班に怒られるぞ」
「もう怒られてます」
「ならよし」
リュウさんは俺の様子を見てから、医療担当者と短く話した。歩かせすぎるな、水を飲ませろ、目を離すな、端末を取り上げるな、ただし見続けさせるな。そんな指示が飛び交う。俺は完全に管理対象だった。戦力候補というより、倒れそうな子どもだ。少しだけ安心して、少しだけ悔しい。自分でも面倒な感情だと思う。
「1号機の状態は?」
俺が聞くと、リュウさんは露骨に眉を上げた。
「今は機体より自分を見ろ」
「気になるじゃないですか」
「気になるのは分かる。だが今のお前が見ても、修理は進まねえ」
「見てるだけで整備が進む特殊能力は、まだ覚えてないです」
「覚えなくていい。そんなもんがあったら、また無理をする理由にするだろ」
その通りなので反論しなかった。1号機は固定中。自由歩行不可。戦闘運用不可。今はそれでいい。固定すれば撃てるかもしれない、という発想は頭の奥に残っているが、今は出す場面ではない。今は医療処置、出航準備、機体固定が優先。俺が知っている流れから見ても、ここで余計な戦闘を作るべきではない。シャア隊の追撃は、出た後に来る。たぶん。たぶん、という言葉が最近どんどん信用できなくなっているが。
『ブリッジより全区画。出航準備、最終確認に入ります。避難民収容班は誘導を急いでください。負傷者の固定を確認。未固定の物資は放棄。繰り返します、未固定の物資は放棄』
ミライさんの声が、今度は少しだけ強くなった。その後にブライトさんの声が続く。
『ホワイトベースは出航を優先する。各員、持ち場を離れるな。事情確認は後だ。今は艦を出す』
艦内の振動が、また変わった。低く、腹の底へ響くような震え。医療区画の照明がわずかに揺れ、誰かが担架の固定を確認する。セイラさんが負傷者へ声をかけ、リュウさんが通路の向こうへ視線を走らせる。俺は医療班の椅子に座ったまま、手元の端末を握った。通信はまだ返ってこない。父さん、母さん。心の中で呼んでも、当然返事はない。
まだ休めない。そう思った。けれど、今の俺にできることは立ち上がることではない。座って、倒れずに、次に動ける状態を残すことだ。子ども扱いされるのは少し戸惑う。でも、たぶん今は、それが正しい。ホワイトベースが、サイド7を離れる準備を終えようとしていた。俺は医療班の席に固定されたまま、その振動を黙って聞いていた。