艦内の振動が、また少し変わった。医療班の席に座らされていると、その変化が妙にはっきり分かる。足で踏ん張っているわけでも、操縦席のシートに体を預けているわけでもない。ただ固定された椅子に座り、腕に簡易処置を受け、端末を握っているだけなのに、ホワイトベースが少しずつ「止まっている艦」から「動く艦」へ変わっていくのが伝わってきた。
『ブリッジより全区画。出航準備、最終確認。医療区画は負傷者の固定を確認してください。格納庫は新型機の固定状況を報告』
ミライさんの声が、艦内放送に乗って流れる。落ち着いている。落ち着いているように聞こえる。実際に本人がどこまで落ち着いているかは分からないが、少なくとも声はそうだった。今のホワイトベースでは、それだけで十分に意味がある。泣いている子ども、痛みをこらえる負傷者、走り回る医療担当者。そういうものの中に、一本だけ細い線が通る。
「ほら、椅子から立たない。固定ベルト、ちゃんと締めて」
医療担当の女性が俺の肩を押さえた。別に立つつもりはなかった。なかったが、端末を見た瞬間、体が勝手に少し前へ出ていたらしい。
「大丈夫です。椅子に固定されてる分には、かなり安定してます」
「そういう返事をする子は、大体安定していません」
「医療班の判断、厳しいですね」
「厳しくしておかないと、勝手に動くでしょう」
反論できなかった。俺は端末を見下ろす。父さんと母さんへの通信は、また接続失敗。搬送区画、搬入管制方面は確認不能。確認班進入不可。表示はほとんど変わっていない。変わっていないのに、艦だけが動こうとしている。
出航する。その言葉の意味が、今になって胸の奥に刺さった。ホワイトベースがサイド7を離れるということは、父さんと母さんを置いていくということでもある。死亡ではない。でも、無事とも言えない。確認できないまま離れる。これが一番きつい。今すぐ戻りたい。戻って、搬送区画まで行って、父さんと母さんを探したい。そう思うのに、現実の俺は医療班の椅子に固定されている。立てばふらつく。走れば転ぶ。戻っても何もできない可能性が高い。そして何より、ホワイトベースが出なければ、ここにいる全員が危ない。分かっている。分かっているのが、本当に嫌だった。
「端末は見ていてもよろし。でも、握り潰すのはおよしなさい」
セイラさんが近くの担架を固定しながら言った。負傷者の様子を確認し、ベルトを締め、医療担当者に短く指示を出す。その合間に俺の手元まで見ている。観察力が高い。いや、今はありがたいと思うべきなのだろう。
「端末って、握り潰せるものなんですかね」
「あなたなら試しかねない顔よ」
「さすがにしません。壊したら通信できなくなりますし」
「なら、なおさら力を抜きなさい」
言われて、俺は指の力を少しだけ抜いた。端末は逃げない。表示も消えない。父さんと母さんが見つかるわけでもない。けれど、手放すこともできなかった。
『格納庫、1号機固定完了。右脚部補助フレーム再固定。腰部、肩部、背部、固定具確認。自由移動は不可』
『2号機、固定確認。機体確認は継続中。パイロット、アムロ・レイの状態確認も継続』
『未固定物資は放棄。繰り返す、未固定物資は放棄。人員と新型機の保全を優先しろ』
格納庫側の通信が断片的に聞こえる。白い2号機と黒赤の1号機が、今も格納庫で並んでいる。片方は前世で見た白いガンダム。もう片方は、本来ならここにいない俺の機体だ。いや、俺の機体と言うにはまだ早い。今の1号機は、格納庫固定具に支えられている故障機に近い。自由歩行不可。戦闘機動不可。右脚部応答遅延。左腕部出力制限。姿勢制御不安定。武装は頭部バルカンだけで、残弾も減っている。ビームライフルもシールドもビームサーベルも、まだ正式装備ではない。
固定すれば撃てるかもしれない、という嫌な発想は頭の片隅にある。だが、今は違う。今は出ることが先だ。俺が知っている流れなら、この後ホワイトベースはサイド7を出て、宇宙でシャア隊の追撃に入る。そこまでは大筋として知っている。けれど、今はまだ戦闘じゃない。ここで勝手に戦闘を足す場面ではない。サイド7の中の戦いは終わり、今は逃げる時間だ。
画面越しなら、出航シーンだった。白い艦が動き出す。避難民を乗せて、宇宙へ出る。そこからホワイトベースの旅が始まる。前世なら、そういう見方もできた。だが現地民としては違う。これは始まりの名場面ではなく、壊れた日常を置いていく時間だ。学校も、工作室も、家も、父さんと母さんの職場も、全部サイド7の中にある。そこから離れる。全然、かっこよくない。普通にしんどい。
「レン」
通路側から声がした。アムロだった。医療区画の入り口近くに立っている。まだ軍人に呼ばれている途中なのか、長くはいられなさそうだった。顔色は悪い。俺もたぶん人のことは言えない。
「艦が動くのか」
「みたい。俺は椅子に固定されたままだけど」
「まだそんなこと言ってるのか」
「言ってないと、ちょっときつい」
アムロは黙った。俺の軽口がいつも通りではないことくらい、さすがに分かるのだろう。いや、いつも通りに聞こえていたら、それはそれで問題だ。
「サイド7を出るんだな」
「うん。……出るしかないんだと思う」
「戻れないのか」
「今は、無理だと思う」
短く答えた。俺が知っている流れなら、この後どうなるか。シャア隊の追撃。ルナツー。地球降下。分かっている大筋はある。けれど、今のアムロにそんなことを話せるわけがない。未来知識を話せないから、俺に言えるのは現実だけだ。今は戻れない。出るしかない。
アムロは視線を少し落とした。何かを言いたそうにして、結局言わなかった。たぶん、アムロにも置いていくものがある。家。父親。機械の部屋。サイド7での日常。フラウたち。いや、フラウは艦内にいるが、それでも今までの日常ごと持ち出せるわけではない。
「アムロも、座れるなら座った方がいいよ」
「そんな余裕があるのか」
「ないから、座れる時に座った方がいい。リュウさんに見つかったら言われると思う」
「レンも言われてるじゃないか」
「俺はもう座らされてるから勝ち」
「勝ちなのか、それ」
「たぶん」
アムロは少しだけ息を吐いた。笑った、というほどではない。でも、ほんの少しだけ表情が緩んだ気がした。その直後、格納庫側から呼ばれて、アムロは戻っていった。白い2号機へ。まだ再出撃ではない。機体確認と本人確認の続きだ。だが、あいつがもう普通の避難民として扱われていないことは分かる。
俺も同じだ。違う形で、同じではない。アムロは民間人の少年で、RX-78-2を動かした本人。俺は軍人の子で、RX-78-1を動かした十三歳。大人たちは俺たちを守るべき子どもとして見ている。同時に、ホワイトベースを守るための戦力候補としても見ている。どちらか一つならまだ分かりやすいのに、現実はそうしてくれない。
医療区画の通路の向こうに、フラウの姿が見えた。小さな子どもたちを抱え、泣き出しそうな子の頭を撫でている。自分も不安なはずなのに、世話をする側に回っている。彼女の視線が一瞬こちらを向き、アムロの背中を追い、それから俺にも向いた。俺は軽く手を上げようとして、医療担当者に睨まれたので、指だけで小さく合図した。
カイはその少し後ろで、壁にもたれるようにしていた。
「本当に出るのかよ。ここ、サイド7だぞ。俺たちの住んでたところだろ」
誰に言うでもない声だった。いつもの皮肉にしては、力が弱い。文句を言うことで現実を遠ざけようとして、言った本人が一番遠ざけられない顔をしている。ハヤトは黙っていた。白い2号機と黒赤の1号機、アムロと俺、その全部を見ている。何かしたい。でも何ができるか分からない。そんな焦りが、まだ言葉になる前の形で表情に出ていた。
『ブリッジより格納庫。新型機固定状況を最終確認』
『1号機固定維持。動かしません』
『2号機固定確認。機体確認は継続します』
『医療区画、負傷者固定完了』
『避難民収容班、区画閉鎖準備に入ります』
報告が重なる。短い言葉ばかりだ。誰も長く話している余裕がない。ブライトさんの声が入ったのは、その直後だった。
『各員、出航準備を急げ。未固定物資は放棄。人命と新型機の固定を優先する。アムロ・レイ、レン・イズミの確認は後だ。今は艦を出す』
若い声だ。けれど、命令として通そうとしている。パオロ艦長が負傷している以上、この艦を動かすのはブライトさんだ。まだ若すぎる指揮官。避難民、負傷者、新型機、子どもパイロット、壊れたサイド7。その全部を抱えて、出ると決めなければならない。横暴な大人ではない。余裕がない若者だ。そう思えるくらいには、俺も少し落ち着いてきたのかもしれない。いや、落ち着いているというより、疲れで感情の波が鈍くなっているだけかもしれない。どちらにせよ、ブライトさんが今しなければならない決断は分かる。
『ミライ、進路は』
『港湾区画からの離脱進路、確保しています。ただ、区画損傷の影響で姿勢制御に注意が必要です』
『分かった。ホワイトベース、出航する』
その言葉が流れた瞬間、医療区画の空気がわずかに止まった気がした。次の瞬間、低い振動が床から椅子へ伝わってくる。固定ベルトが胸元を押さえ、担架の金具が小さく鳴る。照明が一瞬だけ揺れ、誰かが息を呑んだ。ホワイトベースが動き始める。サイド7の港湾区画から離れるために、白い艦がゆっくりと身を起こす。
医療区画の小さなモニターに、外部映像の一部が映った。鮮明ではない。画面も小さい。けれど、壊れた通路、非常灯の赤、閉じた隔壁、港湾区画の構造物が少しずつ遠ざかっていくのが見えた。あそこに、俺の日常があった。父さんが働いていた。母さんが管制に立っていた。俺が走り回った広場や、アムロと機械の話をした工作室も、どこかにつながっている場所だった。
もう、日常の場所じゃない。その言葉が、胸の奥に静かに沈んだ。端末を見ても、通信は返ってこない。父さん。母さん。心の中で呼んでも、当然返事はない。ホワイトベースは止まらない。止まれない。俺がここで泣いても、叫んでも、椅子から立とうとしても、艦は出る。出なければ、ここにいる人たちがもっと危ない。
だから俺は、端末を握ったまま、椅子に座っていた。軽口は出なかった。出さなくてもいい場面だと思った。ホワイトベースが、サイド7を離れ始める。前世で見た始まりの場面は、今の俺にとっては、故郷を置いていく音だった。艦内の振動を聞きながら、俺は目を閉じずに、小さなモニターの中で遠ざかる港湾区画を見続けた。