当初設定を勘違いしていたため全面改稿
地球が遠ざかっていく。
旅客船が地球を離れるまで、俺は座席へ体を押しつけられていた。背中にかかる重さは、地上で座っている時より強い。窓の外では雲と海が少しずつ遠ざかり、青い地球の輪郭が見えるようになっていった。
やがて船内へ短い案内が流れ、主推進が止まった。その瞬間、体を座席へ押しつけていた重さが消えた。
「うわっ」
体が浮いたわけではない。腰と肩を固定具で留められているから、座席から離れることはなかった。それでも、手を持ち上げると、そのまま空中で止まった。腕を下ろそうとしなければ、勝手に落ちてこない。服の裾もわずかに浮き、髪が額から離れていく。
頭では知っていた。
船も、中にいる人間も、まとめて地球の周りを落ち続けている。だから船内では重さを感じない。知識として分かっていても、自分の体で味わうのはまるで違った。上下がなくなったというより、今まで当然だった「下へ落ちる」が急に消えた感じだった。
固定具をつけたまま、窓へ顔を寄せる。
青と白の球体が、黒い宇宙の中に浮かんでいた。映像では何度も見たことがある。けれど、実際に自分がその外側へ出てみると、きれいという感想だけでは済まなかった。
本当に離れている。
今まで暮らしていた街も、学校も、友達も、あの青い球のどこかにある。
「レン、窓に額をつけないの」
隣の席から母さんに注意された。
「つけてないよ」
「髪が触れているわ」
「今は髪の方が勝手に浮いてるんだけど」
「それでも少し離れなさい」
「はーい」
手すりをつかみ、体を座席側へ引き戻す。地上と同じつもりで動くと、思ったところで止まらない。ほんの少し腕へ力を入れただけなのに、肩が座席へ当たった。
母さんがこちらを見る。
「講習で、ゆっくり動くように言われたでしょう」
「今ので分かった」
「講習の時に分かってほしかったわね」
慣性航行へ入ってしばらくすると、係員の許可が出て、固定具を外せるようになった。
俺は手すりをつかんでから留め具を外した。立ち上がろうと足へ力を入れた瞬間、体が座席から離れた。床へ足を下ろしたつもりだった。
けれど、足は何にも触れない。そのまま体だけがゆっくり前へ進み、慌てて腕を伸ばす。
「待って、止まらない」
「手すりをつかみなさい」
「分かった!」
近くの手すりをつかんだが、強く引きすぎた。体が手すりを中心に回り、頭と足の位置が逆になる。窓も座席も、さっきまでとは違う向きに見えた。
上下がないというのは、こういうことらしい。母さんは固定具を外しながら、呆れた顔をしていた。
「楽しそうね」
「楽しいよ。ちょっと気持ち悪いけど」
「最初から動き回るからよ」
姿勢を戻そうとして、今度は足が座席へ当たった。反動でまた体が流れる。
無重力は、ふわふわ浮いているだけの楽な環境ではなかった。動く時には、どこを押すか考えなければならない。一度動けば、床へ足をつけて止まることもできない。
それでも面白かった。
指先で手すりを軽く押すだけで、体がゆっくり進んでいく。手を離したあとも速度は変わらない。髪も服の裾も浮いたまま、体と一緒に移動する。飲み物の袋から漏れた水が、丸い粒になって空中へ漂った時には、思わず手を伸ばした。
「レン」
「触るだけ」
「回収しなさい」
「はい」
前世を含めても、初めての宇宙だった。面白くないわけがない。
それでも、行き先は変わらない。
サイド7。
一年戦争の始まりに巻き込まれる場所。俺は窓に映る自分の顔を見た。
十一歳。
襲撃までは、まだ一年以上ある。
何ができるかは分からない。少なくとも、今日すぐにザクが来るわけではない。
前にも似たようなことを考えた気がする。どうも俺は、危ない場所へ近づくたびに同じ言葉で自分を落ち着かせるらしい。
「見えてきたぞ」
父さんの声で顔を上げた。窓の向こう、遠くに細長い構造物があった。
宇宙港と接続された建設中のコロニー。その周囲を、資材運搬船や作業艇が小さく動いている。
映像で見た完成済みのコロニーとは違う。外壁の一部はまだ骨組みが露出し、周辺には大型の建設機材が固定されている。光の点がいくつも並び、暗い宇宙の中で工事区域だけが忙しそうに見えた。
「あれがサイド7?」
「サイド7の第一号コロニーだ」
父さんは窓の外を見たまま答えた。
「まだ全部が完成しているわけではない。入れる区画も限られている」
「外から見ると、思ってたより工事中だね」
「だから父さんたちが呼ばれたんだ」
母さんが小さく笑った。父さんは昇進してからもあまり変わっていない。
ただ、移動中も端末を確認している時間が増えた。サイド7へ着けば、もっと忙しくなるのだろう。旅客船が港湾区画へ近づく。
巨大なコロニーが窓いっぱいに広がった。
人工の大地。人工の空。その中で、人が暮らす。
前世では作品の舞台だった場所が、今から俺の生活する場所になる。怖さは消えない。
それでも、少しだけ胸が高鳴った。
◇
サイド7の最初の印象は、静かだった。
人がいないわけではない。通路には建設作業員が歩き、搬送車が行き来し、施設端末からは作業予定が流れている。
ただ、地球の住宅区と比べると、使われていない空間が多かった。居住区の先には工事用の隔壁があり、その向こうは立入禁止になっている。店は最低限。学校も仮設の小さな施設で、生徒より大人の職員の方が多く見える日さえあった。
人工の空は、最初の数日は落ち着かなかった。雲が決まった時刻に動き、夕方になれば照明が落ちる。風も雨も設備が作る。地面に立てば重力はあるのに、空の向こうが宇宙だと考えると、足元まで薄く感じた。
「ずっと上を見ていると転ぶわよ」
入居した日の帰り道、母さんに言われた。
「空が変だから」
「そのうち慣れるわ」
「母さんは平気なの?」
「仕事で何度かコロニーには来ているもの」
「ずるい」
「何が?」
「先に見てる」
「仕事よ」
母さんの担当する港湾区画は、居住区から少し離れている。父さんも着任直後から施設管理の引き継ぎに追われた。
二人とも帰宅時間は不規則だったが、地球にいた頃と極端に変わったわけではない。
俺は小さな仮設校へ通い、同じように先行赴任してきた技術者や作業員の子どもたちと過ごした。授業の合間にも、遠くから工事の振動が伝わる。
通学路は月に何度か変わった。昨日まで壁だった場所に扉ができ、使っていた通路が資材搬入のため閉鎖される。街が完成してから住み始めたのではない。街ができていく途中へ、自分たちが入り込んだのだ。
最初はサイド7という名前を見るだけで身構えていた。
けれど、一か月、二か月と過ぎるうちに、その感覚も少しずつ薄れた。襲撃される場所である前に、家から学校へ歩く場所になった。閉鎖区画の手前にある自動販売機は、たまに商品が補充されない。
仮設校の裏手は人工芝がまだ一部しか敷かれておらず、ボールが工事用の柵へ入ると先生に怒られる。居住区の食堂は人数が少ないせいか、顔を覚えられるのが早かった。危険な地名にも、日常はできる。
それが少し不思議だった。
◇
翌年の春を過ぎる頃から、サイド7の空気が変わった。
工事そのものが変わったわけではない。人が増え始めた。新しい住宅区画が開き、店の明かりが増え、仮設だった学校も隣の棟まで使用するようになった。
U.C.0078年5月以降、一般移民の受け入れが本格的に始まったのだ。学校では転入生の紹介が続いた。
教室の人数が増え、廊下が騒がしくなる。上級生と下級生で分かれていた施設利用時間も調整され、工作室の一部は複数学年で使うようになった。
俺にとっては、ようやく学校らしくなったという感じだった。
その名前を聞いたのは、全校集会のあとの廊下だった。
「二学年上だって」
同じクラスの子が、新しく来た生徒の名簿を見ながら言った。
俺は歩いていた足を止めた。
「誰?」
「だから、転入生。上の学年に何人か来てるよ」
「そうなんだ、なんて人?」
「アムロ・レイにハヤト・コバヤシ、それとフラウって女の子と留年して年が少し上だけどカイってひと」
え?
前世で何度も聞いた名前。ガンダムに乗る少年。宇宙世紀の流れを変える存在。
本当に来た。
頭の中ではいくつもの言葉が浮かんだが、実際に出たのは短かった。
「……本当にいるんだ」
「転入生なんだから、いるだろ」
「そうだね」
妙な顔をされた。俺はごまかすように歩き出した。
アムロ・レイがサイド7に来た。
なら、前世で知っている流れが近づいている。そう考えた一方で、少しだけ見てみたいとも思った。
原作の主人公を見物したい、という意味ではない。いや、それもある。
実際にいるのなら、どんな人間なのか気になる。機械ばかり触っていて、フラウに世話を焼かれ、やがてガンダムへ乗る少年。
ただ、学校の中を探し回るほどではなかった。学年が違えば教室も違う。
そのうち見かけるだろうと思っていたら、その日のうちに会った。
放課後、工作室へ工具を返しに行った時だった。扉の前で、二人の生徒が話していた。
一人は茶色い髪の少年。もう一人は、髪を短く整えた少女だった。
「アムロ、今日は荷物を片づけるって言っていたでしょう」
「必要な箱はもう開けたよ」
「必要じゃない箱も全部開けたんじゃないの?」
「中身を確認しないと分からないだろ」
「だから、確認したあと元に戻してって言ってるの」
聞いたことのある関係だった。少女が俺に気づき、少し横へ避けた。
「ごめんなさい。通る?」
「うん。工具を返すだけ」
工作室へ入ろうとして、少年と目が合った。
アムロ・レイ。
画面の中で知っていた顔より幼く、当たり前だが動いている。俺が少し長く見てしまったせいか、アムロが眉を寄せた。
「何?」
「えっと……アムロ・レイ?」
「そうだけど」
「僕、レン・イズミ。下の学年」
「どうして名前を知ってるんだ?」
「転入生の名簿に出てたから」
「ああ」
それだけで納得したらしい。原作主人公との初対面としては、驚くほど普通だった。
「私はフラウ・ボゥ。よろしくね、レンくん」
「よろしく」
フラウは自然に笑った。こちらも、前世で知っている人物だ。
けれど、その場で感じたのは原作の登場人物に会ったという興奮より、アムロの荷物を片づけさせるのは大変そうだな、という感想だった。
「アムロ、行くわよ」
「少しだけ工作室を見てから」
「少しだけって言う時は長いでしょう」
「今日は見るだけだよ」
「昨日も聞いた気がする」
フラウに押されるように、アムロは工作室から離れていった。
俺はその背中を見送った。
アムロ・レイ。
確かにいた。
ただ、実際に会ってみれば、未来の英雄というより、機械を見つけると帰るのを忘れそうな上級生だった。
◇
アムロと話すようになったのは、それから少しあとだった。
学校の工作室は、放課後になると学年ごとに利用時間が分けられている。ただ、生徒数と設備の都合で、俺たちの枠の最後と上級生の枠の最初だけは時間が重なった。
その日、俺は自分の作業を片づけたあと、床の上を何度も往復する小型走行ユニットを見ていた。四つの車輪と簡単なセンサーを持つ、教材用の機械だ。
前へ進み、線の手前で止まり、向きを変えて戻る。動いてはいる。でも、戻ってくるたびに少しずつ左へ寄っていた。
操作端末を持っていたのはアムロだった。
何度目かの走行を終えると、彼はすぐにログを開く。
「センサーの値は揃ってる。停止位置も範囲内……」
独り言のように呟いている。俺はユニットの横へしゃがみ込んだ。
左の車輪が床へ触れるたび、右よりわずかに深く沈んでいる。外装もほんの少し傾いて見えた。
「左、重くない?」
口にすると、アムロが端末から顔を上げた。
「何が?」
「こっち側。走る時、少し沈んでるよ」
「左右の重量は測った。差は許容範囲だよ」
「重さじゃないなら、支えてるところかな」
「ログでは駆動出力も同じだ」
「でも、曲がってる」
「それは見れば分かる」
少し刺のある言い方だった。初対面から親しいわけではない。横から口を出されたら、そうなるだろう。
「ごめん」
俺は立ち上がろうとした。その時、ユニットが再び動き始めた。線の手前で止まり、向きを変える。
やはり左へ寄る。
アムロは端末を見たあと、今度はユニット本体へ目を向けた。
「もう一回動かすから。どこが沈んでるか見てくれないか?」
「前から見てもいい?」
「触らなければ」
走行位置から少し離れ、正面側へ回る。動き出したユニットを見る。
「左前。止まる時に一回沈んで、そのあと戻ってる」
「停止制御の時だけ?」
「進み始めも少し。でも、止まる時の方が大きい」
アムロが速度を落とし、もう一度走らせた。今度はログだけでなく、左前輪の動きを直接見ている。
「支持部の戻りが遅い……?」
「たぶん」
「たぶんって」
「中を見てないからたぶんとしか言えないよ」
アムロはユニットを停止させ、外装を外した。支持部そのものに大きな破損はない。
ただ、左前輪へつながる小さな緩衝部品が、取り付け位置からわずかにずれていた。
「これだけで、あんなに寄るかな」
「分からない」
「さっきから自信ないな」
「外したのアムロだし」
「僕が組んだんじゃない。教材を調整してるだけだよ」
「じゃあ、先生の責任ってこと?」
「そういう話じゃない」
アムロは部品を正しい位置へ戻し、固定具を締め直した。再び走らせる。
前よりはまっすぐ進んだ。
けれど、停止して方向を変えたあと、まだ少し左へ寄る。
「直ってない」
「少しはよくなったよ」
「少しね」
アムロは再びログを開いた。今度は停止時の数値を拡大する。
「左のセンサー補正が遅れてる。支持部が沈んだ時に距離が変わって、補正が一回余分に入ってたんだ」
「じゃあ、両方?」
「取り付けのずれと制御の補正。どっちかだけ直しても残る」
アムロは設定値を変更した。三度目に動かしたユニットは、線の手前で止まり、まっすぐ戻ってきた。
「よし直った」
「直ったね」
床へ戻ってきた機械を見ていると、アムロがこちらを向いた。
「よく気づいたな」
「床に触るところを見てただけだよ」
「普通はログを見るだろ」
「僕、まだそのログの見方を全部知らないし」
「だから車輪を見るのか」
「見えるところから見る」
アムロは少し考えた。
「変なところを見るんだな」
「それ褒めてるの?」
「半分くらいね」
アムロが少し笑った。その日から、工作室で顔を合わせれば話すようになった。
アムロは作業へ集中すると、俺が話しかけても返事をしないことがある。俺が構造ばかり気にして見当違いの場所を疑えば、違うと普通に言う。
逆に、アムロが数値ばかり追っている時、実際の動きに変なところがあれば俺が口を出した。二人とも間違えたこともある。原因だと思っていた振動が、隣の作業台から伝わっていただけだった時は、先生に二人まとめて笑われた。
フラウも時々、工作室へ顔を出した。
「まだやってるの?」
「今来たばかりだよ」
アムロが答える。
「一時間前にも同じことを聞いたわ」
「その時より進んだよ」
「時間の話をしてるの」
フラウが俺を見る。
「レンくんからも言って」
「僕も今、原因が分かりそうで」
「駄目な方へ仲間が増えてる」
「僕は横から見る係だから」
「その係、止める仕事はないの?」
「採用されてないです」
フラウは呆れたように息を吐いたが、俺たちが工具を片づけるまでは待っていた。
そんな時間が積み重なった。上級生と下級生。
原作主人公と、原作には存在しなかった俺。
最初はそう考えていた。けれど、いつの間にかアムロはアムロになっていた。
機械の話をしている時だけ説明が長い。途中で別のことへ気づくと、人の話を聞かなくなる。
でも、こちらの指摘が正しければ、年下だからと無視はしない。
フラウはフラウで、アムロの忘れ物を拾うことはあっても、何でも代わりにやってやるわけではなかった。
「自分で取りに戻りなさい」
と言いながら、忘れた場所は教える。俺も二人と一緒に帰ることが増えた。サイド7へ来た時、ここは危険な場所でしかなかった。
その場所に、友達ができた。
◇
アムロが丸い機械を工作室へ持ち込んだのは、その年の終わり頃だった。最初は、左右に分かれた外装と、内部の枠だけだった。
咄嗟に思った。あ、これハロか。
「……何これ?」
「自律移動用の試作機」
「どうして丸いの?」
「転んでも戻りやすいから」
「本当に?」
「外装を利用すれば」
アムロは当然のように答えた。組み上がると、丸い機体は床を転がるように動いた。
正確には、内部の移動機構で向きを変え、外装を揺らしながら進む。音声入力へ反応させる機能も試しているらしい。
ただし、呼びかけに反応したと思ったら、まったく違う方向へ進むこともあった。
「アムロ、右」
丸い機械は左へ曲がった。
「右だって」
今度は止まった。
「反抗期?」
「音声の区切りを拾えてないだけだよ」
「人間なら聞こえないふりしてる動きだけど」
「人間じゃない」
外装の片側が床に触れるたび、少しだけ音が違った。俺が近づくと、アムロが先に言った。
「また変なところを見るのか」
「係なので」
「今度はどこ?」
「こっちの外装。少し浮いてない?」
固定位置を確かめると、外装パーツの一つが最後まで入っていなかった。
「本当によく見つけるな」
「アムロが中ばかり見るからちょうどいいでしょ」
フラウは丸い機械を見下ろしながら、困ったように笑っていた。
「これ、いつ完成するの?」
「もう少し」
「その言葉、何回目?」
「今度は本当にもう少しだよ」
完成する頃には一年戦争が始まっていた。
◇
U.C.0079年1月。
ジオン公国が地球連邦政府へ宣戦布告した。前世で知っていた一年戦争が、本当に始まった。最初に変わったのは、学校の予定だった。
授業が短縮され、通信回線の一部が制限される。保護者の勤務状況によっては、子どもを学校で長時間預かる制度も始まった。
次に、公共放送の内容が変わった。各地の戦闘。破壊された艦隊。被害を受けたコロニー。
ジオン軍が投入した人型兵器。モビルスーツ。
前世では何度も見たザクの姿が、実際の戦闘映像として画面に映った。
画質は荒く、遠距離から撮影されたものだった。
それでも、人型の巨体が宇宙空間を移動し、連邦軍の艦艇へ接近する姿は分かった。
格好いいとは思えなかった。あれが撃つ先には、本当に人がいる。
戦闘の被害は、すぐに数字だけではなくなった。
一般移民として来た家族の中には、ほかのサイドに親族を残している人も多い。連絡が取れないと泣く子がいた。先生の一人は、数日学校へ来なかった。
コロニー落としの報道が流れた日は、街全体が静かだった。画面に映った地球の傷を見ながら、俺は何も言えなかった。
知っていた。
起こると分かっていた。
それでも、実際に起きたことを知って平気でいられるわけではなかった。
ルウムで連邦艦隊が敗れたあと、サイド7の空気はさらに変わった。建設予定の一部が止まる。資材の搬入順が変わる。港湾区画へ入る軍艦と輸送艦が増える。
以前は建設作業員が多かった通路で、制服姿の軍人を見かけるようになった。立入禁止区域が広がり、学校へ向かう経路も何度か変更された。
サイド7は直接の大規模攻撃を受けていない。だから安全なのではない。まだ使える施設が残っているから、連邦軍にとっての価値が上がっている。
父さんと母さんの帰宅も遅くなった。父さんは施設管理に加え、軍用機材の搬送計画へ関わるようになった。母さんの担当する港湾区画にも、内容を公表されない貨物が増えたらしい。
もちろん、二人は家で詳しい話をしない。
「最近、軍の荷物が多いね」
食事中に聞いたことがある。
「戦争中だからな」
父さんの答えはそれだけだった。
「何を運んでるの?」
「レンに話せるものなら、最初から隠していない」
「聞くだけ聞いてみた」
「素直でよろしい」
それ以上は追わなかった。聞かなくてもある程度は想像できた。
V作戦。
地球連邦軍がモビルスーツを開発する計画。ただ、前世の記憶と同じ形で進んでいるとは限らない。
このサイド7は戦争前から建設されていた。軍の施設も、研究区画も、最初からある。そこへ開戦後、さらに人員と機材が集められている。
何がどこまで準備されていたのか、俺には分からない。ただ想像してた以上に早い段階で研究はしていたんだなとは思った。
学校からの帰り道で見る密閉コンテナが増えたこと。夜になっても搬送路の照明が消えないこと。軍施設側の電力表示が、以前より大きくなっていること。
父さんと母さんの仕事が増えたこと。
そして、前世で知っている何かが、サイド7の中で形になりつつあることだった。戦争が始まっても、日常が全部なくなったわけではない。
学校は続いた。工作室も、利用時間を短くしながら残された。アムロは以前よりも機械へ向かう時間が増えたように見えた。父親の仕事が忙しいらしく、フラウが呼びに来ることも多くなった。
「アムロ、今日は家に戻るって言ってたでしょう」
「もう少しで終わる」
「そのもう少しを聞き飽きたわ」
「レン、ここの反応どう見える?」
「今、僕に振る?」
「二人とも!」
そうして怒られる時間まで、少しだけ貴重に感じた。
◇
MSを見たのは、夏だった。
学校からの帰り道、通常通路が軍用搬送のため閉鎖されていた。俺を含めた住民は、封鎖線の手前で待たされる。
いつものことになり始めていた。大型コンテナや建設機材が通る時は、生活区画側の移動が止められる。その日は、運ばれてきたものが異常に大きかった。
搬送路の奥から、複数の大型車両が近づいてくる。
全体は厚い覆いで隠されていた。ただ、途中で覆いの一部が引っかかり、ほんの数秒だけ内側が見えた。
最初に見えたのは、巨大な脚だった。人の形をしている。装甲は黒く、ところどころに赤がある。
見上げても全体が視界に収まらない。作業員が慌てて覆いを戻す。
搬送車両の側面には、短い表示が出ていた。
RX-78-1
心臓が強く鳴った。プロトタイプガンダム。白くない。
前世で一番よく見た二号機とは違う。黒と赤の一号機。
試作一号機。プロトタイプ。TV版では出てこなかったはず、咄嗟に思ったのはこの世界はORIGINなのか?ということ。
目の前に存在している。搬送列の後方には、別の大型コンテナがあった。
隙間から白い装甲の一部が見えた。側面の表示はRX-78-2。
こちらは知っている。アムロが乗るガンダム。
封鎖が解除されても、すぐには足が動かなかった。
「通行を再開します。立ち止まらないでください」
係員に促され、ようやく歩き出す。
黒い一号機と、白い二号機。前世で知っている流れと、少し違う。
少なくとも俺が覚えているTV版では、一号機を明確に見た記憶はない。設定や外伝では存在したはずだが、どこまで動いたのかも曖昧だ。
この世界は、俺の知っている原作通りに動いてるわけじゃない。それでも、ガンダムはサイド7にあった。
なら、高確率で襲撃は来る。
その日の夕食で、母さんに聞かれた。
「今日、搬送区画の近くにいたでしょう」
「通学路が閉鎖されてたから待ってただけだよ」
「封鎖が解除されたあとも、少し残っていたわね」
「見てたの?」
「管制記録を確認しただけ」
「監視されてる……」
「住民の動線確認よ。あなた一人のために見ているわけではありません」
「ちょっと安心したよ」
「でも、最近あの辺りへ寄りすぎています。軍の搬送が増えているから、用がない時は近づかないこと」
「分かった」
嘘はついていない。
実際、封鎖線を越えたことはない。ただ、学校や工作室から帰る時、搬送区画側の表示を見ることは増えていた。
いつ何が運ばれるのか。通路がどちらへ閉じられるのか。ガンダムがどの区画へ入ったのか。見える範囲で気にしていた。それ以上のことはできない。施設責任者の息子でも、俺はただの住民だ。
父さんの端末へ触れることも、母さんの権限を使うこともできないし、するつもりもなかった。分からないことばかりだった。
それでも、一つだけ選択肢が増えた。
二号機以外のガンダムがある。
その事実は、頭から離れなかった。
◇
九月に入り、港湾区画の警備がさらに厳しくなった。戦艦が来るという話を、住民向けの予定表で見た。軍用艦の入港そのものは珍しくなくなっていたが、その日は周辺通路の閉鎖範囲が広かった。
学校帰り、遠くの観測窓から艦影が見えた。通常の輸送艦とは違う。
艦首から左右へ伸びた構造。白い船体。前世で何度も見た形。
ホワイトベース
あの独特な形、見間違えるはずがなかった。
喉が乾いた。
サイド7
九月
RX-78
ホワイトベース
記憶の中で、ばらばらだったものが一本につながった。
襲撃が近い。
近いどころではない。俺は通路脇の公共端末を見た。
U.C.0079年9月17日。
その日付を見た瞬間、前世の記憶から答えが浮かんだ。
九月十八日。
サイド7襲撃。
アムロがガンダムに乗る日。
明日だ。なぜ今日まで気づかなかった!
足元が一瞬、遠くなった気がした。分かっていたはずだった。
この日が来ることは、サイド7へ赴任すると聞いた時から知っていた。
それでも一年以上暮らし、学校へ通い、友達ができ、日常になった場所が明日壊されると考えると、前とはまるで違った。
ここには父さんと母さんがいる。
アムロがいる。
フラウがいる。
先生や学校の子どもたちがいる。
食堂の人も、通路で挨拶する作業員もいる。
前世では名前も知らなかった人たちが、本当に生活している。
軍へ警告することを考えた。
敵が来る。
偵察部隊が侵入する。
だが、俺には敵艦の正確な位置も、侵入経路も、時間も分からない。
匿名で伝えたところで、悪戯か混乱目的と判断される可能性が高い。
両親へ話すことも考えた。
けれど、父さんも母さんも明日も仕事だ。
危険だから仕事へ行かないでほしいと言っても、施設責任者が理由もなく職務を放棄できるはずがない。
前世で見たから、などと言えばなおさらだ。細かな違いもすでにある。
黒い一号機の存在。
戦前から整えられていた施設。
俺自身。
知っている未来が、そのまま起こる保証はない。それでも、何もしないでいられるほど離れた話ではなくなっていた。俺は港湾区画の方を見た。両親を助けたい。
襲撃が始まったら、二人のところへ向かいたい。
その考えが最初に浮かんだ。
だが、十二歳の俺が戦闘中の搬送区画へ行って何ができる。行けば、自分まで死ぬ可能性の方が高い。なら避難するべきか。
原作通りなら、アムロが二号機へ乗る。ガンダムがザクを倒す。ホワイトベースは生き残る。俺が余計なことをしなければ、その流れは残るかもしれない。
あのプロトタイプガンダムをもし動かせるなら、守れるものが増えるかもしれない。
考えながら、自分でも無茶だと思った。俺はモビルスーツを操縦したことがない。起動手順も知らない。そもそも乗り込めるかもわからない。
見たのは遠くから一度だけだ。
ガンダムだから動く、などという保証はない。
それでも、二号機へは行けない。
二号機はアムロだ。
俺が先に乗れば、原作の流れを壊すどころか、アムロが生き残る可能性まで奪うかもしれない。
アムロへ事前に話すこともできない。
なら、俺が選べるのは一号機だけだった。
◇
その夜、父さんと母さんは遅くならずに帰ってきた。
翌日の搬送が多いため、今日は早めに切り上げたらしい。
母さんは食事のあとも端末で予定を確認し、父さんは施設側から届いた連絡へ短い返信を返していた。
「明日、忙しいの?」
俺が聞くと、父さんは端末から目を上げた。
「少しな」
「少しで済む量には見えないけど」
「終わらせるのが仕事だ」
「父さんらしいね」
母さんが端末を閉じた。
「レンは学校が終わったら寄り道しないこと。搬送区画の近くへは行かないで」
「分かってる」
「返事だけはいいのよね」
「ちゃんと守ってるよ。封鎖線も越えてないし」
「越えたら大問題です」
いつもの会話だった。明日、何も起きなければいい。記憶が間違っていればいい。
そう思いながら、俺は二人を見た。
「父さん、母さん」
「何だ?」
「明日も気をつけてね」
父さんと母さんが、一瞬だけ顔を見合わせた。
「急にどうしたの?」
「軍の荷物が増えてるし、忙しそうだから」
「レンも気をつけなさい」
「うん」
それ以上は言えなかった。自室へ戻り、ベッドへ横になる。眠れる気はしなかった。頭の中で、明日のことを考える。
全部を守りたい。
父さんも母さんも。アムロもフラウも。学校の子どもたちも、サイド7で暮らしている人たちも。
でも、俺一人には無理だ。
両親のところへ向かっても、助けられる保証はない。避難するだけなら、自分は生き残れるかもしれない。
アムロは二号機へ行く。そこは俺が奪ってはいけない。残るのは、黒い一号機。
動くかどうかも分からない。武器があるのかも知らない。乗り込めたとして、立たせることさえできないかもしれない。
それでも、何もしないよりはましだ。
もし明日、警報が鳴ったら。アムロには二号機を任せる。俺は、黒い一号機へ行く。
その機体が本当に動くかどうかも知らないまま、俺はそう決めた。