第29話 地球は優しくない
地球は重かった。
いや、知っていた。コロニーにも疑似重力があったし、前世では地球で暮らしていた。というかほとんどの人類は地球で暮らしてた。なのに、一度宇宙であのふわふわした艦内生活に慣れたあとだと、床に体を押しつけてくるこの感覚が妙に腹立たしい。
足の裏に床がある。膝に体重が乗る。肩にベルトが食い込む。汗が首筋を伝って、服の内側に張りつく。空調は動いているはずなのに、空気がどこか湿っていて、金属と焼けた断熱材と、土っぽい匂いが混じっていた。
地球だ。
空がある。地面がある。重力がある。
いや、重力が重い。
「レン、動けるか」
リュウさんの声に、俺は固定ベルトを外しながら片手を上げた。
「動けます。地球の自己主張が強いだけです」
「地球の自己主張ってなんだよ」
「重力です。さっきから俺の全身に、お前は地面の住人だって説教してきます」
リュウさんが一瞬だけ笑った。けれど、その顔にも疲れが濃い。大気圏突入を抜けた直後のホワイトベースに、余裕なんてものはない。艦内の警報は少し減ったが、完全には止まっていなかった。赤が黄色に変わっただけ。死ぬかもしれない警報から、放っておくと死ぬ警報になっただけだ。
十分ひどい。
ブリッジへ上がる途中、通路のあちこちで乗員や避難民が動いていた。壁際に座り込んでいる老人。泣き疲れて眠っている子ども。腕に包帯を巻いた作業員。フラウがカツたちを抱えるようにして移動させ、セイラさんが医療ケースを開けて中身を確認している。
「フラウ、大丈夫?」
声をかけると、フラウは顔を上げた。疲れているのに、子どもたちの前ではできるだけ普通の顔を作っている。
「大丈夫、とは言えないけど、動けてるわ。レンくんこそ、またすぐ出るつもりじゃないでしょうね」
「出たくはないかな。地球初日くらい観光したい」
「観光する場所じゃないでしょう」
「知ってる。現地民としては笑えない」
レツが俺を見上げた。
「レン兄ちゃん、地球って安全じゃないの」
「安全な地球はたぶんあるよ。俺たちが落ちた場所が外れなだけ」
「外れ?」
「うん。かなり外れだね」
フラウが困った顔をしたので、それ以上は言わなかった。子ども相手に、ここがジオンの勢力圏かもしれないなんて説明しても仕方がない。というか説明したら泣く。俺だって泣きたい。
ブリッジに入ると、空気はさらに重かった。重力とは別の意味で。
ブライトさんは艦長席に座っていない。いや、正確には座っているのだが、腰を落ち着けているというより、そこから逃げられないように固定されている感じだった。ミライさんが前方の地形図を見ながら、操舵系の調整を続けている。オペレーター席では通信士たちが、途切れ途切れの回線を拾おうとしていた。
「降下地点、予定より大きく北へずれています。現在位置は北アメリカ方面。詳細な座標は、地形照合中です」
ミライさんの声は落ち着いていた。落ち着いているからこそ、内容の悪さが分かる。
ブライトさんが短く息を吐く。
「補給予定地点との距離は」
「現状では遠すぎます。こちらから移動するにしても、地形の問題があります」
「通信は」
「長距離は不安定です。連邦側の中継に届くまで、何度か位置を変える必要があります」
宇宙世紀、地球に降りても通信事情が優しくない。というか、戦争中の敵勢力圏で通信が優しいわけがない。前世の携帯電話感覚で考えると痛い目を見る。もう十分痛い目を見ているけど。
「レン・イズミ、状況確認はできるか」
ブライトさんに呼ばれて、俺は端末表示を覗いた。そこにはホワイトベースの損傷一覧が並んでいる。外装損耗、姿勢制御系の負荷、推進剤残量低下、対空火器の弾薬消耗、艦内医療品不足、食料配分再計算、水の使用制限。
「できれば見なかったことにしたいです」
「できないから聞いている」
「はい。艦は飛べます。ただし余裕はかなりないです。推進剤は節約必須。弾薬も、対MS戦を何回もやれる量じゃない。水と食料は避難民がいる分、計算より減りが早いです。医療品も足りません」
「修理部品は」
「足りるか足りないかで言えば、足りません。壊れた場所を全部直すのは無理です。優先順位をつけて、飛ぶ、撃つ、守る、の順になると思います」
言っていて嫌になる。だが、誰かが言わないといけない。
ブライトさんは端末を見たまま黙った。十九歳の顔ではない。けれど、十九歳がしていい顔でもない。ホワイトベースは地球に降りた。けれど、それで楽になるわけではなかった。宇宙で追われて、地球でも追われる。場所が変わっただけで、殺意の方向はあまり変わっていない。
「避難民は」
「ざっと百二十人前後です。正確な人数は区画ごとの確認待ち。負傷者、病人、高齢者、子どもが多いです。食料も水も、普通の軍艦の計算では合いません」
リュウさんが横から口を挟んだ。
「まず重傷者と子どもだな。水の配分を絞りすぎると倒れるぞ」
「分かっています」
ブライトさんの返事は硬かったが、怒鳴りはしなかった。ルナツーを出た時より、少しだけ飲み込み方が変わっている。いや、変わらないと壊れるのだろう。ブライトさんも、ミライさんも、リュウさんも、壊れないように無理をしている。
俺は端末から目を離し、格納庫へ向かった。
地球に降りたせいで、格納庫の空気も変わっていた。宇宙では工具や部品が漂っていたが、今はすべてが下へ落ちる。固定し忘れた小さなパーツが床に転がり、整備員が舌打ちしながら拾っている。
そして中央には、白いガンダムがいた。
RX-78-2。大気圏を抜けた機体は、全身に焼けた跡を残していた。耐熱フィルムの残骸が剥がされ、装甲の一部には熱で変色した線がある。それでも立っている。いや、固定具に支えられているのだが、俺には立っているように見えた。
アムロはその近くに座っていた。座っていた、というより、座らされていた。整備員と医療班に囲まれ、簡易検査を受けている。顔色は悪い。けれど目は死んでいない。
「アムロ」
声をかけると、アムロがゆっくりこちらを見た。
「レン……そっちは」
「黒い方は艦内で震えてただけ。白い方ほど根性はなかった」
「根性の問題じゃないだろ」
「知ってる。機体仕様の問題です。言ってみただけ」
アムロは少しだけ口元を動かした。笑ったというには弱いが、返事としては十分だった。
「よく戻ったな」
俺がそう言うと、アムロは視線をガンダムへ戻した。
「戻ったっていうか……戻されただけだ。マニュアルがなかったら、たぶん無理だった」
「マニュアルを見て実行できた時点で普通じゃないから、そこは胸を張っていいと思う」
「お前に普通じゃないって言われるの、なんか嫌だな」
「俺も言ってて説得力がないと思った」
その横で、ジョブ・ジョンが工具箱を抱えながらこっちを見た。
「レン、1号機のログ確認、手伝える? 右脚と左腕、また警告が出てる」
「はいはい。地球に降りても相変わらず手のかかる子だな」
「子って言うなら、もう少し大人しくしてほしいんだけど」
黒いガンダムは、2号機から少し離れた位置で固定されていた。ルナツーで黒く仕上げられた外装は、大気圏突入の熱を直接浴びていない。それでも、直前の戦闘と急速帰艦の負荷は残っている。シールドの縁は削れ、左腕の出力ログには黄色い警告が並び、右脚の応答遅延は地上重力下でさらに厄介な数字を出していた。
端末を接続すると、警告が並ぶ。
右脚応答補正、再調整必要。
左腕駆動出力、六十四パーセントから六十八パーセントで揺れ。
ビームライフル、連続使用制限維持。
シールド、長時間防御不推奨。
「……戦えるけど、優しくはないな」
「いつも通りじゃない?」
ジョブの言葉に、俺はうなずいた。
「そうだね。いつも通り、動くけど信用しすぎるなって感じ」
「それ、兵器としてどうなんだろう」
「試作機なんてだいたいそんなもんだよ。たぶん」
「また、たぶんって言った」
「今のは許して。俺も整備のプロじゃないし」
地上では、1号機の癖がまた変わる。宇宙では姿勢制御と推進の問題だった。地上では、重力が脚と関節に乗る。右脚のわずかな遅れは、着地や踏み込みで致命的になりかねない。左腕の出力制限は、シールドを構え続けるだけでも負担になる。
それでも、使うしかない。
アムロの2号機だけに全部を背負わせるわけにはいかないし、ガンキャノンとガンタンクもまだ完全に慣れているとは言えない。カイさんはガンキャノンのそばで文句を言いながら、弾倉らしきものを確認していた。
「おいレン、これ地上で撃ったら反動はどうなんだよ。宇宙と違って逃げ場がねえだろ」
「反動はあるけど、機体重量で受けられる分、宇宙より分かりやすいかも」
「分かりやすいってだけで怖さが減るわけじゃねえんだよな」
「それはそう」
カイさんは露骨に嫌そうな顔をしたが、それでも作業の手は止めなかった。前ならもう少し逃げ腰に見えたかもしれない。今も逃げたいのは間違いないだろうが、少なくとも、自分の機体の前にはいる。
ハヤトはガンタンクの足元で、整備員に何か聞きながら弾薬箱を数えていた。小柄な体に重力が乗って、動きはぎこちない。それでも、逃げるより先に数えている。
「ハヤト、無理するなよ」
声をかけると、ハヤトは少しむっとした顔でこちらを見た。
「無理じゃない。数えてるだけだし」
「いや、それも大事。弾があるかないかで普通に死ぬから」
「……分かってる」
短い返事だった。アムロと俺の間にいると、ハヤトはたぶんずっと苦しい。けれど、数を確認するやつがいなければ戦えない。撃つやつだけで戦争は回らない。そんな当たり前のことを、この艦では子どもが覚えていく。
本当に宇宙世紀は教育環境が最悪だ。
しばらくして、艦内放送が入った。
『各区画、損傷確認を継続。水と食料の使用は配給指示に従ってください。医療班は負傷者を第二区画へ。整備班はMS稼働可能状況をブリッジへ報告』
マチルダさんたちの補給が来るなら、できるだけ早い方がいい。水、食料、医療品、推進剤、弾薬、修理部品。ついでに塩。いや、塩はかなり大事だ。人間、味気ない飯が続くと心が削れる。避難民と子どもが百人規模で残っている艦内ならなおさらだ。
ただ、それは補給部隊に会えてからの話だ。
その前に、敵に見つかったら終わる。
ブリッジに戻ると、空気がさらに悪くなっていた。通信士がヘッドセットを押さえ、声を張る。
「微弱な索敵波を確認。ジオン地上部隊のものと思われます。距離はまだありますが、こちらの降下熱を拾われた可能性があります」
ブライトさんの顔が固まった。
「位置は」
「照合中。複数方向から断続的に入っています」
ミライさんが地形図を拡大した。北アメリカ。原作通りなら、ここから先に待っている名前は一つある。
ガルマ・ザビ。
ザビ家の末弟。北米方面の司令官。シャアにだまされ、死ぬ男。
けれど今の俺が知っているのは、原作の流れだけだ。実際に敵がどう動いているか、シャアがどこにいるか、ガルマがどこまでこちらを掴んでいるかなんて分からない。敵軍の情報が筒抜けでわかる便利機能は、残念ながら俺には搭載されていない。
それでも、この場所はまずい。
「ブライトさん」
「分かっている。補給地点へ向かう前に、敵の索敵を振り切る必要がある」
「はい。あと、ここが北アメリカなら……敵の動きは早いと思います」
ブライトさんは俺を見た。問い詰める目ではない。だが、根拠を求める目だった。
「理由は」
「ジオンの地上軍が強い地域です。こっちにとっては予定外でも、向こうにとっては自分たちの庭です。降下したばかりのホワイトベースは、目立ちすぎます」
嘘ではない。全部は言っていないだけだ。
ミライさんが静かに言う。
「こちらはまだ、地上での移動にも慣れていません。追撃を受ければ、宇宙とは別の難しさがあります」
「MS隊の地上運用も、確認が必要です」
俺がそう言うと、ブライトさんは短くうなずいた。
「各員、損傷確認を急げ。移動は続ける。敵に捕捉されたと判断した場合、直ちに戦闘配置へ移行する」
命令が飛ぶ。ブリッジの空気が変わる。地球に降りた安心感なんて、最初から長持ちしなかった。
窓の外には、青い空があった。
雲が流れている。遠くに荒れた大地が見える。前世なら、空を見上げて少しは感傷に浸れたかもしれない。けれど今の俺たちにとって、その空は隠れる場所の少ない戦場で、あの大地は敵の勢力圏だった。
地球に降りた。
けれど、助かったわけじゃない。
俺たちは、ガルマ・ザビの庭に落ちたのだ。