生存戦略は、足元から。
そう決めた俺の日常は、表面上はあまり変わらなかった。
朝起きる。顔を洗う。ご飯を食べる。野菜で少しだけ負けそうになる。父さんがいる日は制御教材を見る。母さんがいる日は端末時間を管理される。外に出れば、同じ年頃の子どもたちと走り回る。
文字にすると、完全に普通の子どもである。
実際、周りから見てもたぶんそうだったと思う。少し機械が好きで、少し物覚えがよくて、少し手がかからない子ども。たまに妙なことを言うが、まあ子どもだからで流される範囲。
この「範囲」を守るのが、一番難しかった。
本気でやりすぎると変な子になる。かといって何もしなければ、九年後にたぶん死ぬ。いや、九年後という数字も前世知識からのざっくり計算であって、細かい日付まで完璧に覚えているわけではない。そこがまた嫌だった。
知っている。
でも全部は知らない。
これが地味にきつい。
前世のネット小説なら、未来の年表を完全暗記している主人公もいた。歴史の流れ、人物の動き、事件の日付、重要アイテムの場所。全部分かっているから、最短距離で動けるやつだ。
俺は違う。
初代ガンダムの大筋は知っている。サイド7襲撃、アムロ、シャア、ホワイトベース、ガルマ、ランバ・ラル、ジャブロー、ソロモン、ア・バオア・クー。そういう大きな流れは頭にある。
だが、サイド7のどの通路を誰が通ったか。襲撃当日に何時何分にどの区画で爆発が起きるか。RX-78の各機が正確にどこに置かれているか。そんなものは知らない。
そもそもこの世界が、俺の知っているTV版そのままなのかも分からない。
つまり未来知識は便利だが、攻略Wikiではない。しかも更新停止しているうえに、たぶん別バージョンの情報が混ざっている。何それ怖い。せめてパッチノートくらい置いておいてほしかった。
だから、未来知識だけに頼るのは危ない。
できることは、今いる場所を覚えることだった。
……と言うと、なんだか真面目な訓練っぽいが、実際にやっていることは鬼ごっこである。
鬼ごっこで逃げ道を覚える。床の線を見る。作業員の動きを見る。遊具に登るふりをして手すりの高さを確かめる。
いや、完全に遊びの顔をした地味トレである。
この年齢の遊びに「避難経路確認」を混ぜるな。俺が言うのも何だが、発想が怖い。
でも便利なのだから仕方ない。走れる。曲がれる。逃げ道を探せる。誰がどこから来るかを見る癖がつく。手すりや壁の位置も覚えられる。鬼ごっこ、実はかなり優秀だった。前世の体育教師に言われても絶対に信じなかったと思う。
ただし、勝ちすぎてはいけない。
毎回最短ルートで逃げる。毎回相手の動きを読んで避ける。毎回転ばない。そんな子どもは怖い。俺なら怖い。
だから、時々わざと捕まる。時々転ぶ。時々変な方向へ逃げる。
……これが意外と難しい。
人間、分かっている失敗をするのは気持ち悪い。右へ行けば逃げられると分かっているのに、わざと左へ行く。滑りそうな床を見ているのに、少しだけ足を取られる。前世の社会人経験が、まさか子どもの遊びで負けるために使われるとは思わなかった。
「レン、こっちこっち。あっちから回れば逃げられるって」
同じ居住ブロックの子どもが、広場の低い遊具の向こうから手を振った。
俺は一瞬だけ周囲を見た。右側には柱。左側には低い壁。背後からは鬼役の子が一人。正面の通路は広いが、広いからこそ別の子に回り込まれやすい。
完全に挟まれる配置である。
「そっちは逃げ道っぽく見えるけど、たぶん先に回り込まれるやつだよ。行くなら柱の方からぐるっと……いや、やっぱり今のなし。なんか俺、また変なこと言ってる」
「レンって、たまに大人みたいなこと言うよな。遊んでるだけなのに、なんで道の話になるんだよ」
「父さんが、広い道はみんな使うから混むって言ってた。たぶん。言ってなかったかもしれないけど、言ってたことにしておいて」
便利だな父さん。
俺の中では、父さんがどんどん万能言い訳素材になっていく。ごめん父さん。たぶん言ってない。
「じゃあ広い方じゃなくて、柱の方?」
「本当はそう。でも、俺がそう言うと作戦っぽくなるから、今の俺たちは何も考えずに走ったことにしよう」
「へんなの。じゃあ走ろうぜ」
結果、俺たちはまとめて捕まった。
捕まった子どもたちは笑っている。俺も笑った。こういう時、ちゃんと笑うのは大事だ。内心で「索敵が甘い」とか考えてはいけない。いや、考えてはいるのだが、顔に出してはいけない。
普通の子ども。
普通の子ども。
自分に言い聞かせる。
広場の端には、まだ開放されていない通路がある。壁には工事中を示す表示。少し離れた場所には、資材を運ぶ小型リフトの出入口。作業服の大人たちが通る時間帯も、だいたい決まっている。
そんなものを見ていると、また別の子が不思議そうに俺の顔を覗き込んできた。
「レン、また上とか床とか見てる。何かあるの?」
「ひかるやつ。これ、たぶん警報が鳴ったら光るんだよ。どこまで続いてるのかなって」
「警報なんて鳴らないよ。鳴ったら先生が来るし」
「まあ、鳴らないのが一番いいんだけどさ。鳴った時にどっち行くか分からないと、たぶんみんなでわーってなるでしょ」
「わーってなったら、レンが先に行ってよ。なんか知ってそうだし」
「俺を先頭にするのはやめよう。俺、たぶん迷子にならないようにするので精いっぱいだから。みんなを連れていくとか、責任が重い」
「せきにん?」
「なんでもない。大人っぽい言葉を使ってみたかっただけ」
「やっぱりへんなの」
変なの。
実に便利な言葉である。
子どもが少し変なことを言っても、「変なの」で済む。大人が言えば不審だが、子どもなら不思議がっているだけに見える。俺はこの言葉に何度も救われた。
変な子。
でも危ない子ではない。
天才ではない。
不気味でもない。
その辺りに収めるのが目標だった。
家では、父さんの教材が少しずつ増えた。
最初は小さな制御ユニットだけだった。次に、入力の種類を切り替えられるもの。光センサー、圧力センサー、温度センサー。さらに、小さな警告灯と連動する教材。子ども向けなので危険はないが、仕組みはちゃんとしている。
父さんは、教材を渡すたびに同じことを言った。
「レン、動かす前に見るんだ。スイッチを押すことより、押していい状態かどうかを見られる方が大事だ。機械はな、動かせる人間より、止めどころを分かっている人間の方が信用される」
子ども向けにしては、話が重い。
だが父さんの口調は穏やかだった。難しいことを言っている自覚はあるのか、教材の小さなアームを指で示しながら、なるべく簡単な言葉を選んでくれている。
「動かすより、止める方が大事なの?」
「どちらも大事だ。ただ、動かす方は楽しい。だからみんな覚えたがる。でも止める方は地味だ。地味なところを雑にすると、機械は人に怪我をさせる。父さんの仕事も、派手にすごいものを動かすというより、毎日ちゃんと動いて、ちゃんと止まるようにすることが多いな」
父さんは少しだけ苦笑した。
「まあ、格好よくないと言い切ると父さんも少し寂しいが」
「じゃあ父さんは、地味ですごい」
「褒めているのか、それは」
「褒めてる。たぶん」
「たぶんを付けると怪しくなるな」
父さんは笑って、教材のスイッチを入れた。小さなアームが動き、警告灯が一度だけ点滅する。単純な動きだが、入力から制御、出力までが見えるように作られている。
宇宙世紀の技術教育、普通にすごい。
戦争に使わなければ、もっと素直に感動できたと思う。
「思った通りに動いた時も、そこで終わりにするな。うまく動いたなら、なぜうまく動いたのかを見る。失敗した時だけ原因を探す人間は多いが、成功した時の理由を見られる人間は強い」
「成功したのに、まだ見るの? うごいた、やったー、じゃだめ?」
「気持ちは分かる。父さんも、やったーで終わりにしたい時はある」
あるのか。
技術少佐にも、やったーで終わりたい瞬間があるらしい。ちょっと安心した。
「だが、『動いたからいい』で終わらせると、次に同じことをした時に失敗する。機械は気分で動いているわけじゃないからな。動いた理由も、止まった理由も、必ずどこかにある」
「きぶんで動いたら?」
「その機械は点検が必要だ。あるいは作った人間が点検される」
父さんの冗談が地味に怖い。
いや、実際に宇宙世紀の機械が気分で動いたら笑い事ではない。コロニーとかモビルスーツとか、気分屋になられたら困る。絶対に困る。
父さんは機械の話をしている。
でも俺には、それが歴史改変の話にも聞こえた。
うまくいった時ほど怖がる。
もし将来、俺が何かを変えられたとして、それで安心してはいけない。助けたつもりで別の何かを壊すかもしれない。生かしたことで、もっと悪い未来につながるかもしれない。
重い。
父さん、子ども向け教材で人生の難易度を上げないでほしい。
「レン、また顔が難しくなっているぞ。今のは、そんなに怖い話ではない。小さい機械でも大きい機械でも、見る、考える、無理をさせない。まずはそれだけ覚えておけばいい」
「でも、見るところいっぱいある。ぜんぶ見てたら、ずっと終わらない」
「その通りだ。だから順番を決める。全部を同時に見ようとすると、結局何も見えなくなる。まず危ないところ、次に壊れやすいところ、最後に自分が触ったところだ」
「自分がさわったところも見るの?」
「そこが一番怪しいこともある。人は、自分の作業は正しいと思いたがるからな。大人だって間違える。大人は間違えないふりが少し上手いだけだ」
「それ、だめじゃない?」
「駄目だな。だから父さんは、レンには間違えた時に見直せる人になってほしい」
父さんはそう言って、教材の電源を切った。
「今日はここまでだ。まだやりたい顔をしているが、できると思った時ほど休む。疲れた頭で続けると、分かったつもりだけが増える」
「それはずるい。父さん、正しいことを言ってやめさせるの、ずるい」
「正しいことは便利だからな」
ずるい。
和泉家、正論が強い。
母さんの安全教育も、日常に混ざって続いた。
ただし、母さんの場合は父さんより生活感が強い。機械の仕組みではなく、人がどう動くか、どう慌てるか、どこで転ぶか。そういう現場寄りの話が多かった。
外へ出る前、母さんは俺の服の襟を直しながら言った。
「レン、警報が鳴った時に最初に見るのは、走る方向じゃなくて表示よ。慌てて走る子ほど、だいたい一番危ない方に行くの。これは大人でも同じ。急いでいる人ほど、自分が見たいものしか見なくなるわ」
「じゃあ、まず色を見る。赤なら止まる。黄色なら注意。あと、母さんが怖い顔をしてたら絶対止まる」
「そこは覚えなくていいけれど、覚えているなら役には立つわね」
母さんは少しだけ笑った。
こういう時の母さんは優しい。だが、言っている内容は普通に現場の話だ。子どもの外出前の注意というより、新人作業員への安全講習に近い。
俺、幼児だよな?
いや、助かるけど。
「搬入区画の近くでは、荷物を見ている人より、荷物を見ていない人に気をつけなさい。荷物を見ている人は自分の危険を分かっているけど、端末を見ながら歩いている人は、あなたを見ていないことがあるから」
「見てない大人は、こわい」
「そう。大人だから安心、ではないの。忙しい大人は、たまに子どもより周りが見えていません」
「それ、言っていいの?」
「家の中だけにしておきなさい」
母さんはさらっと言った。
なかなか辛辣である。
父さんといい母さんといい、和泉家の大人は子どもに対して妙に現実的だ。甘やかしていないわけではない。ちゃんと心配してくれるし、食事も怪我も見てくれる。だが、それはそれとして「現場は危ない」という認識が強い。
サイド7で暮らすなら、たぶん正しい。
建設途中のコロニーで、しかも軍関連施設がある。安全教育は大事だ。前世の俺なら、母さんはしっかりした親だなと感心していたと思う。
今の俺は、その注意を全部頭に叩き込んでいた。
「避難誘導が光ったら、光っている方に行く。でも、人が多すぎたら別の道も見る。えっと、知らない扉には入らない。作業服の人が急いでる時は、邪魔しない。でも困ったら、横から大きな声で呼ぶ」
「よく覚えているわね。レンは覚えるのが早いけれど、早い子ほど自分はできると思って急ぐことがあります。急ぎそうになったら、一度足を止めなさい。止まるのも行動のうちです」
止まるのも行動。
また人生に使えそうな言葉が増えた。
俺の幼少期、教訓が多すぎないか。三歳児向けの人生講座ではない。いや、今の俺には必要なのだが。
それでも、こういう会話は嫌いではなかった。
前世の記憶があるせいで、俺は両親にべったり甘えることが難しい。中身三十五歳で「だっこ」とか「さみしい」とか言うのは、かなり精神に来る。もちろん外面として必要なら言うが、積極的にやりたいものではない。
だから、距離感は少し変だったと思う。
子どもにしては手がかからない。泣きわめかない。聞き分けがいい。質問は多いが、無茶は少ない。両親から見れば、育てやすい子だったのかもしれない。
俺自身も、両親が忙しくて家にいないことに、そこまで寂しさは感じなかった。前世の記憶があるからだ。自分の中に大人の感覚が残っているせいで、親に構ってもらえないと耐えられない、みたいな気持ちは薄い。
ただ、それは両親を嫌っているのとは違う。
父さんは忙しいのに教材を用意してくれる。母さんは疲れていても食事や怪我や端末時間を見てくれる。二人とも仕事優先ではあるが、俺を邪魔にしているわけではない。
この家は、冷え切っていない。
その事実は、思っていたより俺の中に残った。
だから、守れるなら守りたい。
そう思ってしまうくらいには、俺はこの家が嫌いではなかった。
もっとも、そのためにやっていることは、今のところ鬼ごっこと教材と警報表示の確認である。
地味。
圧倒的に地味。
宇宙世紀を生き残るための訓練というより、親に見守られながら元気に遊ぶ子どもでしかない。いや、見た目はそれで正解なんだけど、内心との落差がひどい。
俺は今日も広場を走り、わざと少し捕まり、父さんの教材を見て、母さんに端末時間を止められる。
ザクもジオンもシャアも、まだ遠い。
今の敵は、野菜と、端末時間と、普通の子どもらしさだ。
……モビルスーツに乗る前から、難易度の方向性がおかしい。
生存戦略は、まだまだ地味である。