黒いガンダムの宇宙世紀   作:いずりょう

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第38話 戻れない子ども

 太平洋を越える。言葉にすると簡単だ。地図の上なら、北アメリカの西側から海を越えて、日本列島の方へ線を引けばいい。前世の地図帳なら指でなぞって終わる。だが、現実のホワイトベースは傷だらけの巨体で、地球の重力を受けながら低空を進んでいる。しかも相手は海だ。隠れる場所は少ない。補給は難しい。

 

 推進系に無理をさせれば艦が悲鳴を上げる。宇宙船を地球で飛ばすだけでも無茶なのに、それで長距離横断をしろというのだから、宇宙世紀は本当に遠慮がない。ブリッジの表示には、太平洋横断の進路候補と損傷箇所が並んでいた。まだ俺たちはアメリカ大陸の西岸側にいる。ここで長く止まれば、ガルマ隊の残存戦力や周辺のジオン部隊に捕まる可能性がある。かといって、このまま海へ出るには艦もMSも不安が多すぎた。

 

「このまま太平洋へ出るのは危険です」

 

 ミライさんの声は穏やかだったが、内容はかなりきつい。

 

「進路は取れます。でも艦体下部の補修が仮止めのままです。推進系も、長時間の連続運用には余裕がありません。海上で速度を落とすことになれば、探知された時に逃げ道がありません」

 

「ここで止まれば追いつかれる」

 

 ブライトさんが端末から目を離さずに言う。

 

「はい。ですから、ここでは航行に必要な応急処置だけです。本格的に降ろすなら、海を越えた後になります。日本列島側で、地形を使える場所を探すべきです」

 

 最低限。最近、その言葉ばかり聞いている気がする。最低限の補給。最低限の修理。最低限の休息。最低限の睡眠。人間も機械も、最低限だけ積まれて次へ進まされる。嫌な積み方だった。

 

「MSデッキの状況は」

 

「二号機は地上戦後の調整中。一号機は右脚、左腕、シールド保持部、火器管制に負荷が残っています。元々が不完全だったところへ、先の戦闘でかなり無理をしています」

 

 俺は少しだけ視線を逸らした。無理をしています、ではない。した。ガウを爆散させないために、1号機のリソースを全部使った。右脚の遅れ、左腕の弱さ、シールド保持の限界、ライフルを撃ちすぎられないこと。全部分かった上で踏み込んだ。後悔はしていないが、機体に無理をかけた事実は消えない。

 

「さすがに1号機は、本格修理に入れないと危険ですね」

 

 俺が言うと、ブライトさんの視線がこちらへ向いた。

 

「戦力が一つ落ちるか」

 

「このまま無理をさせる方が危ないです。右脚と左腕だけじゃなくて、シールド保持と火器管制にも変な負荷が出てます。動けるうちにばらして戻さないと、次に肝心なところで動かなくなるかもしれません」

 

「整備班の判断は」

 

 主任の整備員が端末を見ながら答えた。

 

「同じです。一号機は動きます。ですが、戦えていること自体が不思議なレベルです。二号機は元が万全なので消耗も抑えられていますが、一号機は元々が壊れている状態で使っている。怪我が治る前に無理をして、傷口がまた開くのを繰り返している感じですね。一度オーバーホールして、可能な限り戻さないと」

 

「太平洋横断中にできるか」

 

「完全には無理です。航行中は固定を外せる範囲が限られます。横断後に艦を降ろせるなら、そこで右脚、左腕、保持具、火器管制ラインを開けます。足りない部品は次の補給待ちになりますが、それでも今よりはかなり戻せます」

 

 ブライトさんは短く息を吐いた。

 

「分かった。ミライ、太平洋横断後に一時降下できる候補を探してくれ。セイラ、連邦系の通信記録は拾える範囲で確認。今は近隣だけでいい。日本列島側に入ってから、避難区域と補給に使える場所を絞る」

 

「了解しました」

 

 セイラさんは短く答えた。変に優しくも、余計に刺すでもない。今はただ通信士として必要なことをする声だった。アムロはその間、あまり喋らなかった。白い2号機の調整ログを見ているようで、どこか別のものも見ている顔だった。

 俺が知っている流れなら、この先でアムロは母親と再会する。今も同じ流れになる保証はない。ガルマは死ななかったはずでそうなるとシャアの動きも変わるはず。ホワイトベースのルートも、俺の知っているものから少しずつズレている。だから今は、何も言わなかった。太平洋を越える。それが先だった。

 

 

 海は広かった。当たり前だ。分かっていた。だが、ホワイトベースの中から見る太平洋は、前世で飛行機の窓から見た海とはまるで違った。逃げ場のない青と灰色が、どこまでも続いている。敵が来れば隠れにくい。推進系が止まれば落ちる。艦内の誰もそれを口にしないが、全員が分かっていた。

 

 MSデッキでは、黒い1号機が固定されたまま最低限の処置を受けている。右脚の外装は一部だけ開かれ、左腕の保持部には仮固定が追加されている。ライフルの火器管制ラインも、警告ログを残したまま一時的に抑え込まれていた。完全修理ではない。海を越えるまで持たせるための処置だ。ジョブ・ジョンは端末を抱えて、部品番号を読み上げていた。

 

「右脚補正用の部品、応急分だけ確認できました。左腕保持具は予備が足りません。シールド接続部は、次の補給がないと完全には戻せません」

 

「記録しておけ。今あるもので横断中にできるところまでやる。降ろしてから開けるぞ」

 

「はい」

 

 ジョブは真面目に頷いた。工具を持って走り出そうとして、主任の整備員に「走るな」と止められる。地上での艦内は、宇宙とは違う。揺れれば足を取られる。工具も人間も、ちゃんと重い。こういう小さい面倒さが、ずっと積もっていく。今のジョブは、こういう細かい補助が妙に向いている。今更だけどこの世界のジョブ整備班なんだよな。

 

 俺は1号機の開いた右脚を見た。この機体を守ったから、俺はここにいる。サイド7で守れたものは多くなかった。両親も、コロニーの穴も、テム・レイも、全部には届かなかった。ほとんど守れたのはRX-78-1だけだ。それでも、その一点が今のホワイトベースを変えている。

 

 だからこそ、壊すわけにはいかない。人を救うために機体を無理させる。けれど、機体を壊せば次に救えるものが減る。正解がどこにあるのかは分からない。分からないまま、次の修理と次の戦闘が来る。太平洋を越えた後、ホワイトベースは日本列島の沿岸から少し内側へ入った山間部へ艦を降ろした。

 

 地形で艦影を隠しやすく、近くには旧居住区と避難者の集まる小規模な集落がある。連邦系の古い通信記録も残っていた。ジオン影響下から完全に離れたわけではないが、アメリカ西岸側で立ち止まるよりはずっとマシだった。艦を降ろした瞬間から、修理作業が始まった。

 

「一号機、右脚外装開放。固定具を増やせ。左腕は保持部から見る。ライフルは接続を切ってログを吸い上げろ」

 

「艦体下部の仮補修、追加材を出せ。推進系の冷却ラインも確認するぞ」

 

「二号機は簡易点検でいい。地上戦のログだけ消すな。パイロットの入力癖が残ってる」

 

 MSデッキと艦体下部で、声が重なる。やっと本格修理に入れる。そう思うと同時に、ここまでよく持ったなという気持ちもあった。ホワイトベースも1号機も、かなり無理をしている。ブリッジでは、周辺記録の確認が進んでいた。

 

「周辺の旧居住区記録を確認。避難者が集まっている小規模集落があります。連邦系の救護記録も一部残っています」

 

 セイラさんが淡々と読み上げた。表示された地名を見て、アムロの顔が動いた。

 

「この辺り……」

 

 小さな声だった。誰かに説明するというより、自分の記憶と照らし合わせている声だ。

 

「どうした、アムロ」

 

 ブライトさんが端末から目を上げる。

 

「母さんがいた町に近いんです。正確には、少し離れてるけど……でも、この辺りなら、誰か知っている人がいるかもしれない」

 

 まだ何も分かっていない。けれど、地図に出た地名と、アムロの中に残っている生活の記憶が重なってしまったのだろう。胃の奥が少し重くなった。ここまで来たことで、前世の記憶と目の前の現実が嫌な形で重なり始めていた。母親がいる、と決まったわけじゃない。ただ、アムロが探しに行く理由としては、それで十分だった。

 

「確認したいんです」

 

 アムロはブライトさんを見た。

 

「母さんがそこにいるかどうかは分かりません。でも、前に住んでいた場所から近いんです。誰か、知っている人がいるかもしれない」

 

 ブライトさんはすぐには答えなかった。艦は修理中だ。MSも開いている。長く止まれないが、今すぐ飛び立てる状態でもない。アムロ一人の事情で艦を危険に晒すわけにはいかない。だが、アムロの顔を見れば、このまま無視して2号機へ乗せるのも危ういことは分かる。リュウさんが低く言う。

 

「ブライト、行かせてやれ。確かめるだけでも違う。あの顔のまま次に乗せる方が怖い」

 

「……修理が終わるまでだ。戻れなくなる距離へは行くな。リュウ、同行しろ。通信設備や避難者記録があるなら確認してこい」

 

「了解」

 

 

 アムロの記憶にあった家は、もう家というより、誰かが一時的に使っている避難場所になっていた。窓には布がかかり、玄関脇には水の容器が積まれている。壁には古い弾痕が残り、庭らしき場所には部品箱と毛布が置かれていた。アムロはそこで一度足を止めた。

 

「ここ、だったんだ」

 

「入るか」

 

 リュウが聞くと、アムロは少しだけ迷ってから頷いた。中にいたのは、アムロの母親ではなかった。見知らぬ女性が二人と、老人が一人。こちらが名を名乗ると、そのうちの一人がアムロの顔をじっと見た。

 

「レイさんの子?」

 

 アムロの肩が小さく跳ねた。

 

「母を知ってるんですか」

 

「カマリアさんなら、今は救護所の方にいるよ。難民の手伝いをしてる。ここには、もうほとんど戻ってこない」

 

 アムロは返事をしなかった。ただ、息を吸う音だけが聞こえた。救護所は、集落の外れにあった。元は倉庫だったのだろう。入口には布が吊られ、中には簡易寝台と水の容器が並んでいる。怪我人、老人、子ども。そこに、白い布を腕に巻いた女性がいた。

 

「アムロ……?」

 

 声が震えていた。アムロが立ち止まる。

 

「母さん」

 

 カマリア・レイは、信じられないものを確かめるように近づいてきた。アムロの顔を見て、肩に触れ、軍服に目を落とす。その目が少しずつ揺れた。

 

「生きていたのね。よかった。本当に……」

 

「母さんも」

 

 アムロはそこで言葉を詰まらせた。

 

「その格好は何なの。あなた、軍にいるの?」

 

「ホワイトベースに乗ってる。僕は、ガンダムに」

 

「ガンダム……?」

 

 カマリアの表情が変わった。

 

「まさか、あなたが戦っているの」

 

「戦わないと、みんなが」

 

「アムロ」

 

 弱い声だった。怒鳴ってはいない。けれど、その声でアムロの言葉は止まった。

 

「そんなことをしてはいけないわ。あなたは子どもなのよ」

 

 救護所の外で、誰かが鋭く叫んだ。

 

「伏せろ!」

 

 リュウが動いた。集落の外れに、ジオン兵らしい二人組がいた。敗残兵か偵察かは分からない。こちらを見つけた一人が銃を上げる。アムロの動きは速かった。持たされていた護身用の拳銃を抜き、撃った。乾いた音が倉庫の壁に跳ね返る。敵兵の肩口が弾け、男が悲鳴を上げて倒れる。もう一人はリュウの威嚇射撃で物陰へ下がった。大きな戦闘ではない。数秒で終わる、小さな危険だった。でも、カマリアには十分だった。彼女はアムロの手を見ていた。拳銃を握る手を。戦場で迷わず反応した息子を。

 

「アムロ……あなた、人を撃ったの」

 

 アムロは答えなかった。答えないことが答えになっていた。

 

「そんな……そんな子に、なってしまったの」

 

 その言葉は、鈍く刺さった。責めるためだけの言葉ではない。怖かったのだろう。理解できなかったのだろう。自分の知っている息子が、目の前で兵士として動いた。その事実に耐えられなかった。

 

「母さんには、分からないよ」

 

 アムロの声は荒れていなかった。ただ、硬かった。

 

「僕だって、撃ちたくて撃ったわけじゃない。でも撃たなかったら、誰かが撃たれてた」

 

「そんなことを言う子じゃなかったわ」

 

「僕だって、こんなことを言うようになると思ってなかった」

 

 カマリアは泣きそうな顔で、アムロの手を掴んだ。

 

「ここに残れないの? 逃げる方法を探せば」

 

「戻らないといけない」

 

「どうして」

 

「僕が戻らないと、困る人がいるんだ」

 

 その言葉は、子どもが母親に言うには重すぎた。リュウが周囲を確認しながら低く言う。

 

「アムロ、時間だ。長居できねえ」

 

 残酷な声ではなかった。だが、時間は本当に残酷だった。カマリアはアムロの手を離さなかった。引き留めたいのに、どう引き留めればいいのか分からない顔だった。

 

「アムロ、お願い。人を殺すようなことは」

 

「母さん」

 

 アムロは一度だけ目を伏せた。

 

「僕、行くよ」

 

 それだけ言って、手を離した。カマリアは追いかけなかった。追いかけられなかったのかもしれない。

 

 

 ホワイトベースにアムロとリュウさんが戻ってきた時、俺はMSデッキで1号機の右脚を見ていた。黒い外装は吊り上げられ、内部のアクチュエーターと補正ユニットがむき出しになっている。左腕の保持部も分解中で、シールド接続用の予備部品は足りない。火器管制ラインのログも、きれいとは言い難かった。臨時修理と言いながら、やっていることはかなり本格的だ。というか、これをやらないと次が危ない。

 

「戻ったか」

 

 ブライトさんの声が通信越しに聞こえた。余計なことは聞かない。ミライさんはアムロの顔を見て、少しだけ目を細めた。セイラさんは何も言わず、通信整理へ視線を戻した。全員が分かっているわけではない。でも、今は踏み込む時ではないということくらいは分かっていた。アムロは白い2号機の前で足を止めていた。俺は手袋を外し、少し離れた場所で迷ってから声をかける。

 

「アムロ」

 

「母さんには、僕が変わったように見えたんだと思う」

 

 アムロは機体を見たまま言った。

 

「僕は、あの人の知ってる僕じゃなくなってた」

 

「……そうか」

 

「でも、戻れない」

 

 俺は返事を探した。大丈夫だ、と言うのは違う。分かる、と言うのも違う。俺は両親に会えなかった。会えなかったから傷つかずに済んだわけではない。でも、会えたアムロの痛みを、俺が同じ形で分かるわけでもない。

 

「戻れないことは、あると思うよ」

 

 結局、そんな言葉しか出なかった。

 

「でも、今戻る場所はここにある。良い場所かどうかは別として」

 

 アムロは少しだけ笑った。笑ったというより、息が抜けただけかもしれない。

 

「ホワイトベースが、戻る場所か」

 

「少なくとも、今はな」

 

「変な話だ」

 

「本当にそう」

 

 それ以上は言わなかった。ジョブが部品箱を抱えて近づいてくる。気を遣ったのか、少しだけ声が小さい。

 

「右脚補正部品、仮組みできます。左腕保持具は一つだけ使えそうです。シールド接続用の予備は足りません。ライフル側の端子は、応急用ならあります」

 

「足りない分は次の補給だな」

 

「はい。全部は無理です」

 

 動きながら直す。戦いながら直す。この艦は、本当にそうやって進むしかないらしい。艦内放送が入る。

 

『全員、出航準備。進路、西。補修作業を継続しつつ、移動を再開する』

 

 ブライトさんの声だった。ホワイトベースは待ってくれない。アムロの母親が泣いていても、アムロが傷ついていても、1号機の右脚が開かれたままでも、艦は進む。ジオンは止まらないし、補給は足りないし、次の修理場所を探さなければならない。

 

 次はたぶん、マチルダさんの補給だ。エンジン修理。MSの消耗部品。オデッサ作戦の情報。それから、俺が知っている流れなら小さな爆弾の話が来る。モビルスーツ同士の撃ち合いとは違う、生身の敵兵と小型兵器の怖さが来る。

 アムロは母に会った。でも、昔の自分には戻れなかった。俺はそれを知っていても、何も解けなかった。ホワイトベースは、アムロの痛みと、修理途中の黒い1号機を抱えて、さらに西へ進んでいく。

 

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