ザクもジオンもシャアも、まだ遠い。
そう思っていた俺の前に、次の敵が現れた。
幼児教育施設である。
いや、敵ではない。たぶん。少なくとも向こうに攻撃の意思はない。子どもが集まって、遊んで、簡単な勉強をして、先生に見守られる場所だ。平和そのものだ。前世の感覚で言えば、保育園とか幼稚園とか、まあそのあたりに近い。
ただ、俺からすると問題がある。
集団生活。
先生。
同年代の子どもたち。
そして、俺の中身は三十五歳。
……難易度設定を間違えていないか?
母さんに手を引かれて施設の入口まで来た俺は、まず自動扉の幅を見た。次に床の発光ライン。壁の避難誘導表示。受付の奥にいる大人の数。そこまで見てから、母さんに視線を落とされた。
「レン、今日は点検に来たわけではありません。先生に挨拶して、友達と遊んで、帰ってきたら何が楽しかったか教える日です。扉の幅や表示の位置を覚える日は、また別の日にしなさい」
「うん。わかった。今日は点検じゃなくて、ちょっと見るだけにする」
「それを点検と言うのよ」
即死だった。
ごまかしが通じない。さすが母さん。搬入管制だの現場指揮補佐だのをやっている人間の観察眼は、子どもの浅い言い訳くらい普通に貫通してくる。
俺は少しだけ口を尖らせた。外面用である。中身三十五歳が本気で拗ねているわけではない。いや、ちょっと悔しいけど。
「初めての場所で周りを見るのは悪いことではないわ。でも、あなたはたまに最初から全部できるようにしようとするでしょう。今日はできないことがあっていい日です。先生に聞いて、友達に聞いて、分からないままでも少し遊んでみなさい」
「分からないまま、遊ぶの?」
「そう。世の中には、分からないまま始めても大丈夫なことがあります。もちろん、搬入区画でそれをやったら怒ります」
「そこはやらない」
「よろしい」
やさしいのか厳しいのか分からない。
いや、たぶん両方だ。母さんの教育方針はだいたいそういう感じである。優しい顔で現場基準を混ぜてくる。幼児向けなのに安全講習の味がする。
入口の自動扉が開き、明るい声がした。
「おはようございます。レン君ですね。初めまして、担当のミナトです」
出てきたのは、若い女性の先生だった。声が柔らかくて、しゃがんで目線を合わせてくれる。いかにも子ども慣れしている感じだ。
いい先生っぽい。
そして、子どもを見るのに慣れている。
つまり、俺にとっては強敵である。
「おはようございます。レン・イズミです。よろしくおねがいします」
俺はできるだけ普通に頭を下げた。
できるだけ。
なのに、母さんが隣で小さく息を吐いた。
あれ。何かやらかしたか。
ミナト先生は一瞬だけ目を丸くして、それからにこっと笑った。
「とても丁寧に挨拶できましたね。初めての場所でも落ち着いていて偉いです。でも、今日は上手にできることより、困った時に先生を呼べることの方が大事ですからね」
落ち着いている子。
初手からその判定である。
まずい。俺の目標は「少し変だけど普通の子ども」であって、「落ち着いた幼児」ではない。落ち着いた幼児、字面がもう怖い。俺なら少し距離を取る。
母さんは俺の頭に軽く手を置いた。
「この子は少し大人びているところがありますけれど、まだ小さいので、無理をしているようなら止めてください。興味があるものを見ると、周りが見えなくなることもあります」
「分かりました。好きなものがあるのはいいことですから、様子を見ながら声をかけますね。レン君は、どんなものを見るのが好きかな?」
「きかいとか、ひかるひょうじとか、うごくもの。あと、どこにつながってるのかなって思うもの」
「なるほど。じゃあ、この施設にも気になるものはあるかもしれませんね。ただ、触っていいものと見るだけのものがあるから、それは先生と一緒に確認しましょう」
先生、うまい。
触るな、ではなく、一緒に確認しましょう。子どもの興味を潰さずに制限する言い方だ。前世三十五歳の俺が普通に感心してしまった。
感心している場合ではない。
俺はいま、幼児として初登園中である。
母さんはしゃがんで、俺の目線に合わせた。
「レン、母さんは夕方に迎えに来ます。先生の話を聞くこと。困ったら自分だけで決めないこと。あと、楽しかったことを一つは覚えて帰ること。避難表示は楽しかったことに入りません」
「先に言われた」
「あなたは言いそうだから」
信用があるのかないのか。
母さんは少し笑って、俺の額に軽く触れた。べったり抱きしめられるより、このくらいの距離感がありがたい。前世記憶持ちとしては、過剰なスキンシップはなかなか精神に来る。だが、まったく何もないと、それはそれで少し寂しい。
面倒くさいな俺。
母さんが行ってしまうと、俺はミナト先生に連れられて部屋へ入った。
そこには、子どもがいた。
当たり前だ。幼児教育施設だからな。
だが、実際に同年代の子どもがまとまっている光景は、想像以上に圧があった。声が多い。動きが読めない。急に走る。急に止まる。急に床に座る。急に笑う。急に泣く。
なんだこの不規則機動集団。
モビルスーツより予測しづらいかもしれない。いや、モビルスーツにはまだ乗ったことがないけど。
ミナト先生が手を叩いた。
「みんな、少しだけ聞いてください。今日から一緒に過ごすレン君です。初めてで緊張しているから、困っていたら教えてあげてね。レン君は機械や光る表示が好きだそうです。でも、みんなのおもちゃを勝手に分解するわけではないので、安心してください」
先生、それは安心させ方として正しいのか。
子どもたちの視線が一斉にこちらへ向く。遠慮がない。好奇心がそのまま刺さってくる。
「レンです。よろしくおねがいします。えっと、勝手に分解はしません。たぶん」
「たぶんなんだ」
「しない。今のは、ちょっと言ってみただけ」
危ない。
たぶんを付けるな。勝手に分解しそうな幼児になる。いや、しないけど。たぶん。だから付けるな。
最初の活動は、ブロック遊びだった。
子どもたちは思い思いに積む。高く積む子。横に広げる子。色だけで選ぶ子。途中で飽きて別の子のものを見に行く子。
自由。
自由すぎる。
俺はブロックを手に取って、少し考えた。
ここで構造的に安定したものを作ると、また変な子になる。かといって何も考えずに積むのは、前世の理性が邪魔をする。ブロック一つで悩むな。宇宙世紀を生き残る前に、幼児用ブロックで詰まるな。
とりあえず、普通っぽい塔を作ることにした。
普通っぽいとは何か。
知らん。
俺は四角いブロックを重ね、途中でわざと少しずらした。完璧にまっすぐではない。だが倒れない。子どもらしい雑さと、最低限の安定性の両立。
何を真剣にやっているんだ俺は。
隣にいた男の子が、俺の塔を見て首を傾げた。
「レンのそれ、なんか倒れそうで倒れない。どうしてまっすぐにしないの?」
「まっすぐだと、ちょっとつまらないかなって思って。でも、倒れると危ないから下は広くした。えっと、かっこよさと安全の両方を……いや、今のなし。なんか大人っぽいこと言った」
「かっこよくて安全なら、すごいじゃん。ぼくもやる」
「やるなら、下を広くした方がいいよ。上だけななめにすると、たぶんすぐ倒れる」
「たぶん?」
「かなり倒れる」
男の子は真剣に頷いて、自分のブロックを斜めに積み始めた。
そして、普通に倒れた。
「レン、倒れた」
「ごめん。かなり倒れるって言ったけど、思ったより早かった」
「先にもっと強く言ってよ」
「これ以上強く言うと、俺が先生みたいになる」
「レン、へんなの」
出た。
変なの。
実に便利な言葉である。
子どもが少し変なことを言っても、「変なの」で済む。大人なら不審だが、子どもなら不思議がっているだけに見える。俺はこの言葉に何度も救われている。
変な子。
でも悪い子ではない。
天才ではない。
不気味でもない。
その範囲に収めたい。切実に。
ミナト先生が近づいてきて、床に散らばったブロックを一緒に拾ってくれた。
「二人とも、倒れたら次にどうすればいいか考えられるのはいいことです。でも、作る時は周りの子に当たらない場所でやりましょうね。レン君も、考えるのは上手だけれど、遊びだから全部を正解にしなくても大丈夫ですよ」
やんわり刺された。
全部を正解にしなくてもいい。
母さんと似たことを言う。
俺の周りの大人、どうしてこうピンポイントに刺してくるのか。いや、俺が刺さる場所を歩き回っているだけかもしれない。
「正解じゃなくてもいいの?」
「いいですよ。遊びには、倒れて笑うことも、変な形になって面白いこともあります。もちろん、誰かが怪我をするのは駄目ですけど、全部きれいに作らなくても大丈夫です」
「……遊び、むずかしい」
「ふふ、レン君にはそう感じるのかもしれませんね。でも、難しいと思えるなら、少しずつ上手になりますよ」
先生はそう言って、俺の塔の横に小さな丸いブロックを置いた。
「これは入口にしましょうか。塔には入口があった方が、誰かが遊びに来られますから」
なるほど。
強度でも構造でもなく、誰かが遊びに来るための入口。
そういう発想は、俺にはあまりなかった。
俺は塔を見た。
少し斜めで、倒れそうで倒れなくて、入口がある塔。
……まあ、悪くない。
「じゃあ、ここは入口。こっちは、えっと、逃げ道じゃなくて、帰る道」
「逃げ道って言いかけたよな」
「言いかけてない。帰る道。楽しい塔だから、帰る道もいる」
「へんなの。でも、帰る道ある方がいいな」
男の子はそう言って、自分の崩れたブロックを集め直した。
なんとなく、会話になった。
友達、と言うにはまだ早い。だが、少なくとも逃げられてはいない。怖がられてもいない。
よし。
幼児社会、初手即死は回避した。
俺は内心で小さく息を吐いた。
施設の部屋には、明るい声と足音が満ちている。壁には手作りの絵が貼られていて、低い棚にはおもちゃが並んでいる。床の発光ラインは、普段はただの線に見える。けれど、非常時にはたぶん子どもたちを出口へ誘導する。
平和だ。
少なくとも今は。
でも、この平和も巨大な機械の中にある。空気も光も重力も、誰かが管理している。そう思うと、かわいい部屋の端にある表示灯まで、妙に重く見える。
嫌な見方だ。
でも、見ないよりはいい。
ミナト先生が次の遊びに声をかけ、子どもたちがばらばらに動き出す。俺もその流れに混ざる。混ざりながら、少しだけ周りを見る。
母さんに言われた通り、点検ではない。
見るだけ。
……いや、たぶん点検だなこれ。
こうして、俺の幼児教育施設生活は始まった。
家と広場だけだった俺の「普通の子どもごっこ」は、集団生活という新しい舞台に広がったわけである。
モビルスーツより先に、社会性。
ザクより先に、ブロック遊び。
シャアより先に、初対面の子どもたち。
宇宙世紀を生き残るための課題としては、どう考えても地味すぎる。
でもまあ、足元からだ。
生存戦略その二。
普通の子どもとして、ちゃんと遊ぶ。
……これ、思っていたより難しい。