黒いガンダムの宇宙世紀   作:いずりょう

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第四章 白い艦の少女
第42話 インドの空


 インド方面へ近づくにつれて、ホワイトベースの中に流れる通信はまた重くなっていった。

 

 最初は混線だった。民間周波数に混じる雑音、途中で切れる呼びかけ、どこのものか分からない短い救難信号。だが、ムンバイ近郊という地名が端末に出る頃には、それはただのノイズではなくなっていた。避難民の移動、港湾区画の混乱、食料不足、医療品不足。誰が敵で誰が味方か、画面越しでは分かりにくい情報が、まとめて艦内に入ってくる。

 

 少し前に戻った余裕は、完全には消えていない。食堂ではまだ小さな子どもの声がするし、カイさんも文句を言う元気くらいはある。だが、通信卓から流れてくる断片を聞くたびに、空気が少しずつ硬くなる。戦闘警報ではないのに、胃のあたりが重くなる感じだ。

 

 俺はブリッジの端で、地図表示を見ていた。ムンバイ近郊。港湾区画。市場跡。内陸へ伸びる古い道路。難民の流れ。前世で地図帳を真面目に覚えていたわけではないから、細かい地理は正直怪しい。だが、インドという単語だけは、頭の中で妙に重く響いている。

 

 ララァ・スン

 

 あの少女は、インドにいるかもしれない。ただし、それだけだ。俺が知っているのは、本当にその程度でしかない。インドのどこか。シャアと出会う前か、後か。この世界ではどうなっているのか。ムンバイ近郊で合っているのか。それすら確信はない。前世知識は古い地図だと整理したばかりなのに、その古い地図をもう広げている。

 

 我ながら都合がいい。だが、捨てるには危なすぎる名前だった。ここで見落とせば、ララァはきっと戦争に飲まれる。いや、この世界がずれている以上、絶対にそうなるとは言えない。それでも、何もしなければ俺の知っている流れに近い場所へ流れていく可能性は高い。そう考えてしまうくらいには、俺の中でララァという名前は大きかった。

 

 ブリッジでは、ブライトさんが民間通信の整理結果を見ていた。顔色はよくない。疲労もあるが、それ以上に、見える範囲に困っている人間が多すぎるのだと思う。

 

「大規模な収容はできない。ホワイトベースには余裕がない。医療品と浄水剤の一部、通信中継、現地確認。それが限界だ」

 

 ブライトさんは、誰に向けるでもなくそう言った。冷たい判断ではない。むしろ、冷たくなれないから線を引いている。線を引かないと、艦ごと止まる。止まれば見つかる。見つかれば戦闘になる。そうなったら、助けるどころか難民街そのものを戦場にしてしまう。

 

 ミライさんが進路表示を切り替えた。

 

「このまま西へ抜けるなら、港湾区画の真上は避けます。気流が荒れていますし、低く入りすぎると民間人の移動にも影響します。ただ、市場跡の北側から内陸へ回る進路なら、短時間だけ低空確認ができます。艦体負荷は増えますけれど、速度を落としすぎなければ許容範囲です」

 

「艦は降ろせないな」

 

「はい。降ろすなら別の場所です。ここで着地するのは危険です」

 

 セイラさんは通信卓から顔を上げずに言った。

 

「民間通信の中に、連邦系の古い連絡窓口が残っています。ただし信頼度は低いわ。ジオンの正規部隊というより、残った兵、警備隊、武装した民間人が混ざっているようです。接触するなら、誰と話しているのか見極めないと危険ね」

 

 誰と話しているのか分からない場所。そこへ、俺は行きたいと言わなければならない。

 

 かなり無茶だ。分かっている。だが、艦内で通信を聞いているだけでは見つからない。ララァがインドにいるはずだとしても、ここから名前を呼べるわけじゃない。映像に都合よく映るはずもない。こちらから近づくしかない。

 

 黒いガンダムは使えない。まだ右脚、左腕、シールド保持、火器管制に不安が残っている。そもそも難民街にMSを出す時点で論外だ。白いガンダムでも駄目だ。ガンダムが降りてきた瞬間、そこは救助地点ではなく戦場の目印になる。

 

 だから、MSなしの哨戒。

 

 俺は息を吸った。

 

「ブライトさん。市場跡の北側、短時間の現地確認に出してください」

 

 ブリッジの空気が一瞬止まった。ブライトさんがこちらを見る。リュウさんも眉を上げた。セイラさんは、通信卓に手を置いたまま、目だけをこちらへ向ける。

 

「何を確認するつもりだ」

 

「難民の流れと、投下物資を受け取れる場所です。通信だけだと、どこに人が集まっているか分かりません。艦を降ろせないなら、低空確認と小規模な哨戒で見るしかないと思います」

 

「それはお前が行く理由にはならん」

 

 当然の返しだった。

 

「艦内の誰でもいいわけではありません。俺は地形と人の流れを見て、危ない場所を避ける判断ならできます。黒いガンダムを出すつもりはありません。MSなしで、短時間だけです」

 

「それは、聞こえはいいが危ねえぞ。現地に出たら、何がいるか分からん。武装した連中がいるかもしれねえし、ジオン兵が紛れてるかもしれねえ。お前が何かを気にしてるのは分かる。だが、気になるってだけで外に出るのは違う」

 

「分かってます」

 

「本当に分かってる顔じゃねえな」

 

 否定できない。俺はララァという名前を知っている。インドにいるはずだと思っている。だが、それを説明できない。説明できないから、現地確認という名目に乗せるしかない。かなりずるい。自覚はある。

 

 俺は一度、口を閉じた。前世知識を言えない。ララァの名前も言えない。なら、ここで出せる理由は何か。

 

「……あの島も、俺たちは深入りしませんでした。深入りしなかったから壊さずに済んだ。でも、少しだけ見たから、物資を落とす判断はできた。今回も同じです。艦を降ろさない。MSも出さない。けど、見ないまま通り過ぎたら、何を落とせばいいかも、どこに落とせばいいかも分からない」

 

 ブライトさんは黙っている。

 

「俺が行きたいのは、助けたいからだけじゃありません。艦を巻き込まないためにも、どこまで近づいていいのか見る必要があります。通信だけで決める方が危ないと思います」

 

 これは嘘ではない。嘘ではないが、全部でもない。ララァのことを隠している以上、かなり苦い言い方だ。

 

 ミライさんが表示を見ながら、穏やかに口を挟んだ。

 

「短時間なら、艦から小型連絡車両を降ろせます。港湾側ではなく、市場跡北側の旧搬送路です。そこなら艦を完全に降ろさなくても、低空で一時的に人員を出せます。ただし時間は長く取れません。戻る経路を先に決めておく必要があります」

 

「人員は」

 

 リュウさんがすぐに答える。

 

「俺が行く。レン一人では出せねえ。あと、現地通信を見る人間が一人。セイラ、お前はブリッジ側か?」

 

「私は通信卓を離れない方がいいでしょう。現地へ出るなら、携帯端末で最低限の周波数だけ拾えるようにします」

 

 セイラさんはそう言って、俺を見た。

 

「レン。よろし? あなたが何を見ているかは分からない。でも、外に出たら勝手な判断は許されない。リュウの指示に従うこと」

 

「努力します」

 

「努力ではなく、従いなさい」

 

 さっきのブライトさんとほとんど同じことを言われた。信用があるのかないのか。いや、たぶんない方だな。仕方ない。

 

 カイさんはガンキャノン待機の指示を受けて、嫌そうに顔をしかめた。

 

「で、俺は留守番か。まあ、難民街にガンキャノンで出ていけって言われるよりは百倍マシだけどよ。あんな赤いデカブツで近づいたら、救助じゃなくて脅しだもんな」

 

「艦周辺待機だ。敵影があっても、こちらから撃つな」

 

「分かってるって。撃ちたいわけじゃねえよ。むしろ撃たずに済むなら一生撃ちたくないね」

 

 軽口はある。だが、いつもより少し鈍い。難民通信を聞いた後では、さすがのカイさんも茶化しきれないのだろう。

 

 ハヤトはガンタンクの待機位置を確認しながら、短く言った。

 

「艦の近くは見ます。外へ出る人たちが戻れるように」

 

 リュウさんが頷く。

 

「それでいい。お前は持ち場を守れ。外に出たやつを心配して砲塔をあちこち向けるなよ。かえって危ねえ」

 

「分かってます」

 

 ハヤトは少しだけ悔しそうに、でも真面目に返した。急に前へ出たいと言わないところが、今のハヤトらしい。自分の場所を守ることを覚え始めている。

 

 フラウは避難民区画へ運ぶ医療品の仕分けをしていたが、俺が外に出ると聞いて顔を上げた。

 

「レンも行くの?」

 

「短時間だけ。リュウさんも一緒だし、MSで出るわけじゃない」

 

「それ、安心していいのか分からない言い方」

 

 フラウは少し怒った顔をした。でも、すぐに医療品パックを一つ差し出してきた。

 

「これ、持っていって。向こうで誰かに渡せるなら渡して。でも、無理はしないで。渡すために戻れなくなったら意味ないんだから」

 

「分かってる」

 

「本当に?」

 

「……かなり分かってる」

 

「少し怪しい」

 

 疑われている。まあ当然だ。俺はたぶん、今かなり怪しい顔をしている。

 

 格納庫では、黒いガンダムが整備フレームに固定されたままだった。見た目は戻ってきている。だが、右脚の点検パネルは開いたまま、左肩には追加保持具、火器管制には警告ログの表示。ジョブ・ジョンが端末を持ったまま、俺に気づいて眉を寄せた。

 

「レン、1号機は出せませんよ」

 

「分かってる。今日は機体じゃなくて、俺だけ外に出る」

 

「それはそれで止めたいんですけど」

 

「ジョブの止める範囲、最近広くない?」

 

「広がるようなことをする人が多いからです」

 

 正論だった。痛い。

 

 アムロは白いガンダムの足元で、整備員と短く話していた。俺が近づくと、すぐにこちらを見る。

 

「レン、現地確認に出るんだって?」

 

「短時間だけな」

 

 アムロは俺をじっと見た。疑うというより、納得できないものを見ている顔だった。

 

「あの島の時、僕も行ってみるまで分からなかった。見ないと分からないことがあるのは、分かる。でも、見たら戻れなくなることもあるんじゃないのか」

 

「あると思う」

 

「だったら」

 

「だから、リュウさんと行く。勝手に奥へは行かない。……たぶん」

 

「たぶんは駄目だろ」

 

「今のは本当に駄目だった」

 

 アムロは呆れたように息を吐いた。少しだけ、いつものアムロに近い顔だった。

 

「戻ってこいよ。ガンダムの調整、まだ話したいところがあるんだ」

 

「それは戻る理由として強いな」

 

「真面目に言ってるんだけど」

 

「俺も真面目に受け取ってる」

 

 軽い会話に見せたかった。でも、たぶんお互い分かっている。外に出るということは、何かを持ち帰るか、何かを置いてくるということだ。

 

 小型連絡車両の準備が整った。ホワイトベースは市場跡北側の旧搬送路へ向けて、低空で進路を取る。艦は降りない。長く留まらない。小さな車両と、少量の医療品、浄水剤、通信端末。それだけを出す。

 

 ブリッジからブライトさんの声が入る。

 

『現地確認班、聞こえるか。任務は市場跡北側の確認、投下地点の安全確認、民間通信窓口の把握。戦闘は避けろ。深入りは許可しない。リュウ、レンを見張れ』

 

「了解。見張るどころか、必要なら首根っこ掴んで戻す」

 

『頼む』

 

「頼まれた」

 

 リュウさんが俺を見てにやりとした。

 

 車両が艦から降ろされる準備に入る。床がわずかに揺れ、外気の熱と湿り気が格納庫の端から入り込んできた。インドの空気。潮と土と、どこか焦げた匂い。モニター越しではない現実の匂いが、鼻の奥に刺さる。

 

 胸の奥の違和感が、少しだけ濃くなった。

 

 声ではない。まだ、呼ばれていると断言できるほどではない。ただ、古い地図の上にあった名前が、ようやく現実のどこかに重なり始めている気がした。

 

 ララァ・スン

 

 インドにいるかもしれない少女。

 

 俺はその名前を口に出さず、リュウさんの後ろで小型連絡車両へ乗り込んだ。探しに行く。助けられるかどうかは、まだ分からない。それでも、ここまで来て何もしないという選択だけは、もうできなかった。

 

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