小型連絡車両がホワイトベースから降りた瞬間、空気の重さが変わった。
格納庫に流れ込んできた湿った風は、モニター越しに見ていたインドではなかった。潮の匂い、土の匂い、焦げた樹脂みたいな匂い、それから人が多すぎる場所特有の熱。どれも混ざっていて、鼻の奥に張り付く。宇宙や艦内の空気とは違う。地球の空気なのに、素直に深呼吸したい感じではない。
俺は車両の後部座席で、端末の地図を確認していた。市場跡北側。旧搬送路。投下予定地点。民間通信の窓口候補。言葉にするとそれっぽいが、実際の地図は頼りない。建物は壊れているし、道は塞がっているし、人の流れは数字よりずっと生々しい。
ララァ・スン。インドにいるはずの少女。
それだけを頼りに出てきた。改めて考えると、かなり雑だ。これで人探しをするのは無茶がある。でも、だからといって引き返す気にもなれない。ここまで来て、何も見ずに戻る方がたぶん後悔する。
リュウさんが運転席で、前方を見たまま言った。
「レン。先に言っとくぞ。全部は拾えねえ」
「分かってます」
「分かってる顔じゃねえんだよな、お前は。困ってるやつが目に入ったら、そっちへ走りそうな顔をしてる」
「……かなり努力します」
「努力じゃ足りねえって言われてただろ。いいか、俺たちの仕事は現地確認だ。投下地点を見て、通信窓口を確認して、戻る。拾うと決めたもんだけ拾う。拾えねえものまで背負ったら、車ごと沈むぞ」
荒い言い方だった。でも、リュウさんの声には俺を責める響きはない。止めるために言っている。前へ出すぎる前に、縄を付けている感じだ。
「はい」
「今のは少しマシだな」
「評価制なんですか」
「現場はだいたい評価制だ」
軽口の形をしているが、目は笑っていない。リュウさんは周囲をずっと見ている。壊れた倉庫の影、瓦礫の山、壁際に座る人、遠くの屋根に立つ男、銃を持っているかどうか。俺よりずっと大人の見方だ。
旧搬送路に車両を止めると、熱と湿気がさらに強くなった。市場跡は、かつて市場だった場所というより、人が集まるしかなくなった場所だった。屋根の抜けた建物。水たまり。壊れた店先。布を張っただけの小さな日陰。座り込む老人。子どもを抱えた女性。荷物を抱えた男たち。誰もが疲れていて、それでも誰かに押されるように動いている。
ホワイトベースから投下された小型コンテナは、少し離れた開けた場所に落ちていた。周囲には人が集まり始めている。喜びよりも警戒が先に見える。そりゃそうだ。空から白い軍艦が来て、物資を落としていったのだ。ありがたいだけで済む方がおかしい。
俺たちはまず、コンテナの周りへ向かった。リュウさんが前に出て、片手を上げる。
「下がれ。押すな。中身は医療品と浄水剤だ。順番に渡す。奪い合ったら割れるぞ」
声の強さと身振りで意図は伝わったらしい。近くにいた連邦系の腕章を付けた男が、こちらへ駆け寄ってきた。腕章は汚れていて、本物かどうかも分からない。ただ、少なくともその場の人間には顔が利くらしい。
リュウさんが短くやり取りし、俺は横でコンテナの封を確認した。医療品、浄水剤、簡易食料。量は少ない。少なすぎる。ここにいる人間全員に行き渡るはずがない。分かっていた。分かっていたが、実際に目の前で見ると胃が重い。
フラウから預かった医療品パックを、腕章の男に渡す。男は一瞬だけ目を見開いて、何度も頭を下げた。感謝されると、余計にきつい。こんな少しで礼を言われるのは、気持ちが悪いくらいに苦しい。
俺は何をしに来たんだ。難民を助けに来たのか。ララァを探しに来たのか。どちらも嘘ではない。でも、全部ではない。自分の目的をきれいに言えないまま、人に医療品を渡している。こういう時、自分の善意にも疑いが出る。心の整理まで難易度が高い。
「レン、ぼうっとすんな」
「はい」
「目を使え。人を見るのはいいが、流れも見ろ。人の流れが割れてる場所、逆に固まりすぎてる場所。そういうところに揉め事が出る」
リュウさんに言われて、俺は市場跡全体を見た。人の流れ。投下コンテナへ向かう列。水を求める人。負傷者を運ぶ人。通り過ぎるだけの人。建物の奥へ逃げるように動く人。旧搬送路の影でこちらを見ている男たち。
そして、胸の奥で、静かに水面が揺れた。
声ではない。呼ばれているわけでもない。ただ、遠くにあった波紋が、急に近くなった感じ。昨日までの違和感とは違う。ぼんやりした引っかかりではなく、ここに何かがあると、体の内側が先に反応している。
俺は息を止めた。どこだ。人混みの向こう。壊れた柱。布を張った日陰。市場跡の奥。そこにいる人の感情は、どれも濁っている。疲れ、焦り、苛立ち、空腹、恐怖。なのに、その中にひとつだけ、妙に静かなものがあった。
静かすぎる。周りの怒りや焦りを受けているのに、自分ではほとんど波を立てていない。水面の下から、じっと世界を見ているような気配。
ララァ
内心で名前が浮かんだ瞬間、旧搬送路の奥で騒ぎが起きた。コンテナへ向かっていた人の流れが、急に左右へ割れる。数人の男が、壁際の集まりを押しのけていた。服装はバラバラだが、腰に拳銃、手に棒、ひとりは古い軍用ナイフを持っている。正規兵というより、武装した現地勢力か、敗残兵まがいの連中だ。
リュウさんが低く舌打ちした。
「揉め事だ。レン、動くな。まず見る」
言われた瞬間、俺は足を止めた。危ない。今もう踏み出しかけていた。
男たちの一人が、小柄な少女の腕を掴んでいた。薄い布を肩に掛けた、痩せた少女だった。泣き叫んではいない。暴れてもいない。ただ、腕を掴まれたまま、相手を見ている。その目が、人混みの隙間を抜けて、俺の方を見た。
胸の奥の水面が、近くで揺れた。
この子だ。
男が少女の腕を引いた。
俺は走った。
「レン!」
リュウさんの声が背中に飛ぶ。でも、足は止まらない。止められないではなく、止めないと決めていた。
最初の男がこちらに気づき、拳銃へ手を伸ばした。遅い。そう思った自分に、少しだけぞっとした。
相手の手が腰へ動くより先に、俺は距離を詰めていた。踏み込み、肩を落とし、腕の内側へ入る。拳銃を抜かれる前に手首を払う。骨を折るつもりはないが、落とさせるには十分な角度で捻る。男の指から拳銃が滑り、地面に落ちる前に俺は膝で相手の太腿を潰した。
男の体勢が崩れる。肘を胸に入れ、足を払う。地面に叩きつける。息が抜ける音がした。
二人目が棒を振ってきた。頭を狙う大振り。見える。あまりに大きい。俺は一歩だけ内側へ入り、棒を持つ手首の下へ腕を差し込む。体重をずらして、相手の肘を外へ流す。勢いが余った男の腹へ肩を当て、膝裏を蹴る。倒れる。棒を踏む。
三人目のナイフは少し危なかった。刃が横から来る。俺は後ろへ引かず、前へ入った。ナイフは距離が大事だ。引くと刃の間合いに残る。入れば腕ごと壊せる。いや、壊しちゃだめだ。
相手の手首を外から押さえ、肘を体に寄せる。ナイフの向きを自分から外し、そのまま肩で押し込む。足を掛けて倒す。手首を地面に押し付けると、ナイフが落ちた。
ここまで、たぶん数秒。周囲の音が遅れて戻ってきた。悲鳴、怒鳴り声、足音。俺の息は乱れていない。乱れていないことが、逆に少し怖い。
やりすぎたか。
そう思ったところで、リュウさんが追いついた。
「そこまでだ、レン!」
その声で、俺はやっと手を止めた。ナイフの男の手首を押さえたまま、顔を上げる。リュウさんは拳銃を構えてはいない。ただ、体の大きさと声で周囲を押さえている。
「下がれ! こいつらを連れていく気はねえ。物資も奪わせねえ。まだやるなら相手になるが、次は俺が止めるぞ」
低い声だった。撃つぞ、ではない。だが、その場の人間には十分だった。倒された男たちは呻き、周囲にいた別の連中は一歩下がる。リュウさんは大人だ。俺みたいに一点へ突っ込むのではなく、場全体を見て、退路と空気を作っている。
少女は、まだそこにいた。腕を掴んでいた男が倒れたことで自由になったはずなのに、逃げていない。俺を見ている。怖がっているというより、こちらの奥を見ている感じだった。
黒い髪。褐色の肌。痩せた頬。だけど目だけが、妙に深い。
ララァ・スン
名前を呼びそうになって、喉の奥で止めた。俺は彼女の名前を知らない。知らないはずだ。ここで呼べば全部が歪む。
俺はゆっくり手を下ろし、できるだけ声を低くしないようにした。
「怪我は?」
少女はすぐには答えなかった。周囲の騒ぎより、俺の顔を見ている。
「あなたは、怒っているのに、怖くないのね」
静かな声だった。
不思議なことを言っている。なのに、不思議ちゃんという感じではない。周りの怒鳴り声や恐怖の中で、その声だけが水の中を通ってきたみたいに柔らかかった。
「怖くないわけじゃない。今もたぶん、ちょっとやりすぎた」
「でも、わたしを傷つけに来たのではない」
「ここから出たいなら手を貸すよ」
言ってから、少し息を吐いた。これでいいのかは分からない。保護する、なんて言葉は上からすぎる。助ける、もたぶん軽い。俺は彼女の人生を知った気になっているだけで、本人にとって何がいいのかはまだ知らない。
少女は俺を見たまま、小さく首を傾げた。
「あなたは、わたしを知っているの?」
心臓が一瞬、変な跳ね方をした。
知っている。でも、知らない。俺が知っているのは前世の物語の中のララァで、目の前の少女ではない。そこを間違えると、たぶん一番やってはいけないことになる。
「知っている気がしただけだ。ちゃんとは知らない」
「そう」
少女は、それで納得したように目を伏せた。
リュウさんが横から声をかける。
「名前は言えるか?」
少女はリュウさんを見て、それから俺へ視線を戻した。
「ララァ。ララァ・スン」
やっぱり。
胸の奥で、古い地図の名前が現実に重なった。安心はない。むしろ重くなった。見つけてしまった。間に合ったのかもしれない。だが、ここからどうするのかは別問題だ。ララァを拾うということは、歴史を一つ、大きく曲げるということでもある。
リュウさんは一瞬だけ俺を見た。たぶん、俺の顔が変わったのだろう。
「レン。説明は後だ。今は撤収だ」
「はい」
「ララァ、だったな。俺たちはこの辺に長くいられねえ。来るなら今だ。嫌なら無理には連れていかん。ただ、この場に残るのは危ない」
ララァは周囲を見た。倒れた男たち、物資へ集まる人たち、壊れた市場、濁った水たまり。そこに未練がないわけではないのだろう。でも、帰る場所があるようにも見えなかった。
「あなたたちのところは、静か?」
リュウさんは少し困った顔をした。俺も困った。ホワイトベースが静かかと聞かれると、かなり答えにくい。戦闘艦だ。整備音はうるさいし、ブライトさんは怒るし、カイさんは文句を言うし、アムロはガンダムの前で悩む。
「静かではないと思う。たぶん、うるさいし、面倒な人も多い。でも、今ここよりは安全にできる。少なくとも君を利用するために連れていくわけじゃない」
「あなたは、それを本当に思っているのね」
「思ってるよ」
ララァは小さく頷いた。
「なら、行くわ」
その瞬間、遠くで乾いた音がした。銃声ではない。たぶん金属を叩いた音か、何かが倒れた音だ。だが、人の流れがまたざわつく。リュウさんが即座に周囲を見た。
「時間切れだ。レン、ララァを車へ。走らせるな、転ぶ。俺が後ろを見る」
「了解」
俺はララァへ手を差し出した。彼女は少しだけその手を見てから、そっと握った。軽い。手が細い。けれど、握り返す力は弱すぎなかった。
小型連絡車両へ戻る途中、何人もの視線が刺さった。助けを求める目。警戒する目。怒る目。羨む目。俺たちはララァ一人を連れて戻る。全員は拾えない。さっき医療品を渡した人たちも、この場に残る。分かっている。分かっていても、足が重い。
リュウさんが後ろから低く言った。
「レン、振り返るな。今拾うと決めたもんを落とすな」
その言葉で、俺は前を向いた。
小型連絡車両にララァを乗せる。リュウさんが最後に乗り込み、扉を閉める。車両が動き出すと、市場跡の騒ぎが少しずつ遠ざかった。遠ざかるだけで、消えるわけではない。あの場所はあのまま残る。俺たちが離れた後も、人は腹を減らし、怪我をし、誰かに押されて動き続ける。
俺はララァの向かいに座った。ララァは窓の外を見ていた。泣いてはいない。怯えてもいない。むしろ、周囲の感情を拾いすぎて疲れているように見えた。静かすぎるのは、強いからではなく、波を立てる余裕がないからなのかもしれない。
リュウさんが通信を入れる。
「こちら現地確認班。撤収する。保護対象一名あり。負傷は軽微、敵正規部隊との接触なし。小規模な武装集団と揉めたが、こっちは無事だ」
『保護対象?』
ブライトさんの声が硬くなる。
「説明は戻ってからだ。置いては来られなかった」
短い沈黙。
『了解した。ただちに戻れ。艦は長く待てん』
「分かってる」
通信が切れる。リュウさんは端末を置き、俺を見た。
「お前、強いな」
それは褒め言葉というより、確認だった。
「……たぶん」
「たぶんじゃねえ。普通の子どもの動きじゃなかった。訓練してるのは知ってたが、あれはちょっと違う」
「やりすぎましたか」
「やりすぎる前に止めた。だから次は、止められる前に止まれ」
「はい」
「でも、あそこで動かなきゃ連れていかれてた。そこは間違ってねえ」
その一言で、少しだけ息ができた。間違っていない。全部が正しいわけではない。でも、あの瞬間に手を伸ばしたことだけは、間違いではなかったと思える。
ララァがこちらを見た。
ララァは小さく頷いた。それだけだった。
ホワイトベースが近づいてくる。白い艦体が、低空の雲と湿った空気の中に浮かんでいる。あれが安全な場所かと言われると困る。戦艦だ。戦場を渡る艦だ。けれど、少なくとも今の市場跡よりは、彼女を奪おうとする手から遠ざけられる。
古い地図にあった名前は、現実の少女になった。
ララァ・スン
俺はその少女を、戦場から一歩だけ遠ざけた。それがどれだけ歴史を変えるのかは分からない。分からないが、車両の揺れの中で、俺は自分の手に残った細い指の感触を忘れないようにしていた。
感想の返信で若干ネタバレしてしまって申し訳ない予約投稿なのに投稿されてるつもりで返信してしまった・・・
一応航路とか整合性もたせた流れにしてます
余談ですが時期的にも場所的にもWBは08とかなりニアミスしています