ララァがホワイトベースに来てから、何日かが過ぎた。何日か、と言うのは、別に俺が日付を忘れたわけではない。たぶん。いや、正直ちょっと怪しい。艦内時間はちゃんと表示されているし、ブリッジでは進路も日付も管理されている。
けれど、地上を移動しながら修理して、補給を数えて、避難民区画を回して、いつ来るか分からないジオンの影に備えていると、一日一日の輪郭がかなりぼやける。朝になったら照明が明るくなる。昼になったら食事が配られる。夜になったら照明が落ちる。以上。ホワイトベース式の一日である。雑だ。でも、その雑な一日を何度か重ねるうちに、避難民区画の空気は少し変わっていた。
「はい、並んで。押さない。今日は先に子どもと負傷者。大人の人は後で配ります」
フラウの声が、避難民区画の入口に通る。最初の頃は、その声だけで子どもたちが少しざわついた。今は違う。文句を言うやつはいる。いるが、列はできる。食器を持つ順番も、水パックを受け取る場所も、食べ終わった器を戻す箱も、なんとなく決まり始めていた。生活のルールというやつは、できてしまえば地味だ。けれど、できるまでは普通に戦場である。
「レン、その箱はこっち。水パックは子ども用と大人用で分けて。混ざると後で数が合わなくなるから」
「了解。水、食料、寝床。ガンダムより先にこっちがないと人間は詰むな」
「当たり前でしょ」
「当たり前を毎日回すのが一番大変って話」
「分かってるなら手を動かして」
「はい」
フラウは列の先頭と奥を何度も見比べながら、器と水パックを流す場所を変えていた。子どもが一人でも横へ抜けようとすると、名前を呼んで戻す。負傷者の分は先に避け、大人用の器には少しだけ量をずらす。誰かが泣きそうになると、叱る前に手を止めて顔を見た。派手なことはしていない。ただ、ここでフラウが止まると、食事の列も、子どもたちの寝場所も、たぶんまとめて詰まる。
俺が抱えている箱の重さより、あっちの方がよほど重そうだった。俺が箱を置く横で、ララァが小さい器を子どもたちに渡していた。最初はフラウに言われたことを一つずつ確認していたが、今は少しだけ手順を覚えている。
「小さい器は、先にこちらね」
「うん。タカシは二つ取らない」
「ばれた」
「声が先に二つ取ろうとしていたわ」
「声?」
タカシが首を傾げる。ララァも少し考える。
「手より先に、ほしいと思っていたから」
「それ、ずるくない?」
「食べ物を二つ取ろうとする方がずるいと思うわ」
近くの子どもたちが笑った。タカシはむっとした顔をしたが、結局ひとつだけ器を受け取った。ララァは完全に馴染んだわけではない。子どもたちも、まだ彼女を少し不思議な人として見ている。けれど、もう「新しく来た知らない人」ではなかった。器を渡す人。少し変な言い方をする人。フラウの手伝いをしている人。そんな位置になりつつある。それだけでも大きい。ララァを拾って、ホワイトベースに入れた。そこで終わりではない。食事の器をどこに置くか、水を何杯飲めるか、寝る場所を誰の隣にするか。そういう細かいところまで全部ついてくる。胃は重い。でもまあ、今さら逃げる気もない。
「ララァ、疲れたら言ってね。ずっと立ってなくていいから」
フラウが言うと、ララァは器を重ねながら小さく首を振った。
「大丈夫。声の流れが少し分かってきたから」
「声の流れ?」
「食事の前は近くなるの。食べ始めると少し離れる。食べ終わると、また別の声になる」
「……それ、疲れない?」
「疲れるわ。でも分からないままよりは、少し楽」
フラウはすぐに何かを言わなかった。たぶん、どう返せばいいか考えたのだろう。ララァの言葉は時々こうだ。分かるようで分からない。でも、嘘ではない感じだけが残る。
「じゃあ、声が近すぎる時は休んで」
「ええ。フラウの声は近くても痛くないから、たぶん大丈夫」
「たぶん?」
「レンの真似」
「俺を巻き込むな」
子どもたちがまた笑った。こういう笑いが出るようになった。それだけで、この数日は無駄ではなかったと思う。
◇
サイド7から脱出して約一か月、ホワイトベースの中には妙な分担ができていた。誰かが決めたわけではない。いや、ミライさんやブライトさんが最低限の線は引いている。配給量、行動範囲、重要区画への立ち入り禁止、医療品の使用順。そういうものはちゃんと決められている。でも、それとは別に、艦内の人間たちが勝手に覚えた役割がある。カイさんは文句を言いながら箱を運ぶ。ハヤトは数を確認する。フラウは子どもと配給を回す。ララァは布を畳み、食器を渡し、時々子どもの質問に変な角度から答える。俺は……まあ、力仕事と端末確認と、余計なことを言ってフラウに止められる係だろうか。役割名がひどい。
「俺はガンキャノンに乗るかもしれない人間であって、衣類箱を抱えて艦内を往復する人間じゃないはずなんだけどな」
カイさんが、今日も文句を言いながら箱を置いた。今日も、というあたりがもう日常である。
「カイさん、その箱は医療区画前じゃなくて避難民区画です」
ハヤトが端末を見ながら指摘する。
「お前、そういうの早くなったな」
「間違えると後で戻すことになるから」
「理由が現実的すぎる」
「前に戻したじゃないですか。カイさんが」
「覚えてんなよ、そういうの」
カイさんは文句を言いながらも箱を持ち直した。文句は出る。手も動く。相変わらず便利な仕様である。本人には絶対に言わない。ミライさんは壁際に端末を固定し、配分表を確認していた。水、食料、衣類、医療品、洗濯物、避難民の寝場所。表示だけ見ると管理項目だが、その一つ一つが普通に人間の生活である。
「子ども用の服は、袖を詰めればあと数人分は回せます。洗濯は今日は半分だけ。水を使いすぎると明日の配給に響きます」
「半分だけって、残りは?」
俺が聞くと、ミライさんは少し困ったように笑った。
「我慢してもらうことになるわ。清潔も大事だけれど、水がなくなったらもっと困るでしょう?」
「宇宙世紀、洗濯物にも容赦がない」
「地球にいるのに、艦の中では水が自由に使えないものね」
「地球のありがたみが遠いですね」
「ええ。でも、遠いと思えるだけ、少し余裕が出たのかもしれないわ」
ミライさんはそう言って、次の項目へ視線を移した。穏やかだが、判断は早い。削るところは削る。守るところは守る。柔らかい言い方をしているだけで、やっていることはかなり厳しい。ブライトさんが来た時も、ミライさんは同じ調子だった。
「避難民区画の水配分は」
「今日は回ります。明日は少し調整が必要です。洗濯の回数を減らして、身体確認は負傷者と子ども優先。ララァの分は避難民扱いで記録しています」
「ララァ・スンの行動範囲は」
「守っています。フラウが一緒の時だけ医療区画前まで。重要区画には入れていません」
ブライトさんは短く頷いた。疲れている。いつ見ても疲れている。というか、疲れていないブライトさんを見た記憶が最近ない。
「不便だろうが、規則は守ってもらう」
ブライトさんがララァへ言う。
「はい」
ララァは静かに答えた。
「必要なものがあるなら、フラウかミライへ言え。勝手に動くな」
「分かりました。勝手に動く人が多いから?」
ララァの視線が少しだけ俺へ来た。
「俺を見るな」
ブライトさんまで俺を見た。
「……心当たりがあるなら気をつけろ」
「はい」
返事が早かったと思う。反論できる材料がなかったからだ。カイさんが横で笑いをこらえている。むかつく。
「レンもだいぶこの艦の規則に馴染んできたじゃないか。注意される側として」
「その馴染み方は嫌ですね」
「贅沢言うな。ここで馴染めるだけ大したもんだ」
カイさんは軽く言ったが、その言葉は思ったより軽くなかった。ここで馴染めるだけ大したもの。それはララァにも、避難民にも、俺たちにも言える。ホワイトベースは安全な家ではない。きれいな避難所でもない。軍艦で、戦場へ向かう箱で、いつ敵が来るか分からない場所だ。それでも、何日もいれば人は順番を覚える。食事の列、水の配分、寝る場所、怒られる境界線。誰が文句を言いながら箱を運び、誰が黙って数を合わせ、誰が子どもたちを止め、誰が穏やかな顔で配分を決めるのか。そういうものが、少しずつこの艦のいつもの形になっていく。
「ララァ、この布はこっちでいい?」
ハヤトが聞いた。
「乾いたものは右。まだ湿っているものは左だと、フラウが言っていたわ」
「ありがとう」
「あなたは、数を数えている時の声が静かなのね」
「え?」
「焦っている時より、少し落ち着いている」
ハヤトは目を瞬かせた。それから、少し照れたように端末へ視線を落とす。
「……数なら、見れば分かるから」
「分かるものがあるのは、いいことだと思うわ」
「そうかな」
「ええ」
ハヤトは何か言いかけて、やめた。代わりに、布の山を右へ寄せる。地味だ。ものすごく地味だ。でも、こういう地味な作業をちゃんとやる人間がいないと艦は回らない。アムロや俺みたいにMSで目立つ場所へ行くやつばかりでは駄目だ。いや、俺が目立ちたいわけではない。できれば目立たず生きたい。黒いガンダムに乗っている時点で説得力が死んでいるが。
◇
十月の終わりが近づく頃、避難民区画には少しだけ「いつもの音」が増えていた。食器を戻す音。毛布を畳む音。子どもたちが小声で遊ぶ音。カイさんが文句を言う音。フラウが「走らない」と止める声。ハヤトが数を確認する声。ミライさんが端末で配分を直す音。
そして、遠くから聞こえる工具の音。MSデッキの方は、ずっと何かをしている。黒い1号機も、白い2号機も、ガンキャノンも、ガンタンクも、次の戦闘に備えている。俺もそちらへ顔を出す時間はある。だが、今日は避難民区画側の片づけを手伝っていた。この二週間弱で分かったことがある。戦闘がない日でも、ホワイトベースは普通に忙しい。休暇ではない。安全でもない。敵が来ていないだけだ。でも、敵が来ていない時間に何をするかで、次に敵が来た時の持ちこたえ方が変わる。寝る。食べる。洗う。数える。直す。叱る。笑う。かなり地味だが、たぶん全部必要だ。
アムロが食事を受け取りに来たのは、照明が夜に近づいた頃だった。顔には疲れがある。手には端末。白いガンダムの調整か、戦闘ログか、そのあたりだろう。食事中くらい閉じろと言いたいが、アムロにとって機械を見ることは息継ぎでもあるのかもしれない。
「アムロ、座って食べて」
フラウが言う。
「分かってるよ」
「分かってる人は端末を閉じる」
「……はい」
アムロが素直に閉じた。ララァが器を一つ運ぶ。アムロの前で足を止め、少しだけ首を傾けた。
「アムロ」
「……何?」
「今日は、白い機械の音が遠いのね」
アムロは困った顔をした。
「それ、どういう意味?」
「分からないわ。ただ、前より少し遠い」
「ガンダムの調整はしてたけど……遠いって言われても、よく分からないよ」
「私も、うまく言えない」
「そっか」
それだけだった。でも、アムロは器を受け取った後、少しだけララァを見ていた。前にも感じた言葉にしづらい引っかかり。黄色警告くらいの違和感だ。赤ではない。けれど、見なかったことにすると後で面倒になりそうなやつ。
それにしてもあの二人が直接話してるのを見ると少し感動すらする。片づけが終わると、ララァは避難民区画の端に座り、目を閉じた。眠っているわけではない。艦内の音を聞いている時の顔だ。最初の日より、肩の力が少しだけ抜けているように見える。
「まだ痛い音は多い?」
俺が聞くと、ララァは目を閉じたまま答えた。
「多いわ。でも、順番が分かってきた」
「順番?」
「食器の音の後に、フラウの声。子どもの声の後に、誰かが毛布を引く音。遠くで工具の音がして、その後に艦内放送。全部が一度に来るより、少し楽」
「音の予定表みたいだな」
「そうかもしれない」
ララァは小さく息を吐いた。
「市場跡の音は、いつも順番が崩れていたわ。怒る声、急ぐ足音、泣く声、何かを奪う声。近いものと遠いものが、全部混ざっていた」
「ここも静かじゃないけどな」
「ええ。でも、ここには待っている声がある」
「待っている声?」
「食事を待つ声。フラウが戻るのを待つ声。ミライが決めるのを待つ声。カイが文句を言い終えるのを待つ声」
「最後のは待たなくていい気がする」
「でも、聞いている人がいるわ」
カイさんが少し離れた場所で「俺の文句を勝手に分類するなよ」と言った。聞こえていたらしい。避難民区画に小さな笑いが起きた。ララァは目を閉じたまま、ほんの少しだけ口元を緩める。完全に馴染んだわけではない。ここが安全な家になったわけでもない。だが、ララァはもう、ただ置かれているだけではなかった。器を渡し、布を畳み、子どもの質問に答え、カイさんの文句を拾い、ハヤトの数を見て、フラウの声を覚えている。
この二週間弱で、ホワイトベースの中に小さな場所ができた。たぶん、それがこの日常の意味だ。遠くで、工具が金属を叩いた。MSデッキの音だ。食器の音と、工具の音。子どもの声と、艦内放送。配給の列と、機体の修理。どちらも、この艦がまだ動いている証拠だった。ホワイトベースの生活は、危ういまま続いている。そして次はたぶん、あの工具音の側を見ることになる。