黒いガンダムの宇宙世紀   作:いずりょう

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第48話 確かめたい名前

 ホワイトベースの中で生活の形が少しずつ整ってくると、逆に目立つものがある。艦内の騒音ではない。人の数でもない。食料や水の残りでもない。情報だ。

 

 戦闘中は、目の前の敵と警報と操縦桿で頭がいっぱいになる。だが、敵が来ていない時間が少し続くと、通信席に流れてくる断片や、ブリッジで交わされる短い報告が妙に引っかかるようになる。はっきりした命令ではない。完全な暗号解読でもない。ノイズだらけの通信、ジオン側の呼称、部隊の移動、誰かの名前。そういう細かいものが、艦の中へ少しずつ入ってくる。

 

 そして、その断片が一番刺さる人間がいる。セイラさんだった。

 

「ジオン側、短距離通信の断片を拾いました。音声は不明瞭ですが、ガルマ・ザビに関する後送報告と、北米方面部隊の再編に関するものと思われます」

 

 通信席で、セイラさんはいつも通りの声で報告した。いつも通り、のはずだった。背筋は伸びている。声は乱れていない。指先も端末の上で正確に動いている。だが、俺はその横顔を見て、少しだけ嫌な感じを覚えた。戦闘前に胸の奥がざわつく時とは違う。もっと静かで、気づいたら足元にひびが入っているような感じだ。

 

 ブライトさんがブリッジ中央で振り向く。

 

「ガルマ・ザビの生死は?」

 

「不明です。ですが、死亡等ではないようです。先日の戦闘で、敵司令官が生存した可能性は高いかと」

 

「分かった。続けてくれ」

 

「はい。……もう一つ、断片の中にシャア・アズナブルの名がありました。その他にも色々混在しています。内容は確定できません」

 

 シャア。その名前がブリッジの空気を少しだけ変えた。

 

 ブライトさんは眉を寄せた。ミライさんは操舵席で視線だけを動かす。俺は、反応しないように意識した。意識しないと反応する。名前ひとつでこれだけ面倒になる相手もそういない。

 

 セイラさんの声はまだ冷静だった。だが、最後の「確定できません」だけ、わずかに硬かった。

 

「赤い彗星がに何かあったということか?」

 

「その可能性はあります。ただし、報告先が宇宙であること、単純事柄ではないかもしれません。判断できません」

 

「こちらとしては、赤い彗星が一時的にでも前線から離れているなら助かる。だが、油断はできないな」

 

「ええ」

 

 ミライさんが静かに応じた。

 

 俺も同意だった。シャアがいないなら楽になる。普通ならそう考えていい。だが、この世界ではガルマが死んでいない。シャアは原作通りにはならず、黒いガンダムを危険視したはずだ。あの男がただ引っ込んで終わるとは思えない。むしろこっちに妙な印を付けられたようなものだ。

 

 問題は、それをセイラさんに言えるかだ。言えるわけがない。

 

 セイラさんは通信整理を続けている。シャア・アズナブル。断片は断片でしかない。けれど、彼女にとってはただの敵の名前ではない。兄かもしれない名前だ。キャスバル・レム・ダイクン。前世で知っているその名は重いが、ここではセイラさんの中に残っている傷そのものだ。

 

 俺はシャアの正体を知っている。知っているが、言えない。

 

 この「知っているけど言えない」が、宇宙世紀に来てから何度目か分からないくらい出てくる。便利な未来知識どころか、胸の中に入ったまま抜けない破片みたいなものだ。言えば状況を壊す。言わなければ誰かが危ない方へ進むかもしれない。どちらを選んでも胃に悪い。

 

「レン」

 

 ブライトさんに呼ばれて、俺は一拍遅れて顔を上げた。

 

「黒い1号機の復帰後確認は終わっているな」

 

「はい。通常戦闘は可能です。ただ、整備員からは復帰明けの無理な運用は避けろと釘を刺されています」

 

「当然だ。出撃の可能性はある。だが、まだこちらから仕掛ける段階ではない。周辺警戒と進路維持を優先する」

 

「了解しました」

 

 返事をしながら、視界の端でセイラさんを見る。彼女は端末へ目を落としていた。報告は終わった。だが、指が次の通信整理へ進むまでに少しだけ間があった。

 

 それはほんのわずかな遅れだった。たぶん、ブライトさんは気づいていない。ミライさんは気づいたかもしれない。だが、今この場で触れるほどのものではない。軍務の場で、通信士の個人的な揺れを表に出すわけにはいかない。セイラさんも、それを分かっている。分かっているから、余計に危うい。

 

 ◇

 

 ブリッジを出た後、俺は補給品の移動を頼まれて避難民区画近くの通路へ向かった。最近の俺は、MSパイロットなのか荷物係なのか、ときどき分からなくなる。黒いガンダムが復帰したからといって、艦内作業が消えるわけではない。むしろ出撃できるようになった分、平時に手を動かしておけという空気すらある。宇宙世紀、休ませる気が薄い。

 

 通路の先で、セイラさんとララァが向かい合っていた。フラウも少し離れたところにいる。ララァが勝手に重要区画へ入ったわけではない。避難民区画から医療区画へ戻す布を運んでいる途中で、セイラさんと出くわしたらしい。

 

 俺は足を止めた。近づくべきか、離れるべきか。一瞬迷った。こういう時の正解はだいたい後からしか分からない。嫌な仕様である。

 

「もうこの艦には慣れたの?」

 

 セイラさんがララァに聞いていた。声は丁寧だ。だが、ただの世間話ではない。セイラさんは、ララァを見る時に少しだけ目が鋭くなる。危険視というほどではない。けれど、レンがなぜこの少女を探してまで連れてきたのか、まだ納得していない目だ。

 

「少しだけ。全部ではないわ」

 

「全部に慣れる必要はないわ。ここは安全な家ではないもの」

 

「ええ。けれど、市場跡よりは待っている人がいる」

 

 セイラさんの眉がわずかに動いた。

 

「待っている人?」

 

「食事を待つ人。戻ってくる人を待つ人。何かが決まるのを待つ人。ここには、待つ場所があるのね」

 

 ララァは布を抱えたまま、静かに言った。不思議な言い方だ。けれど、前より、言葉が少し地に足をつけている気がする。人の流れや距離の方を見ている。市場跡で奪われる側にいた彼女が、ホワイトベースの中で待つという形を覚え始めているのかもしれない。

 

 セイラさんは少しだけ黙った。

 

「あなたは、レンを信用しているのね」

 

「ええ」

 

 ララァは迷わず答えた。

 

 それが少し怖かった。セイラさんも、それを感じたのだろう。

 

「なぜ?」

 

「彼が、私をあの場所から連れて出したから」

 

「それだけ?」

 

「それだけではないわ。でも、最初はそれで十分だった」

 

 ララァはそこで、セイラさんをじっと見た。

 

「あなたにも、探している人がいるのね」

 

 通路の空気が、ほんの少し固まった。

 

 フラウがこちらへ視線を向ける。俺がいることに気づいたのだろう。助け舟を出すべきかどうか、判断に迷っている顔だった。

 

 セイラさんは、すぐには答えなかった。だが、動揺を顔に出しすぎる人ではない。まばたき一つの間に、いつものセイラ・マスの表情へ戻る。

 

「どうしてそう思うの?」

 

「遠くを見る時があるから」

 

「私は通信士よ。遠くを見るのも仕事のうちでしょう」

 

「そうかもしれないわ」

 

 ララァは否定しなかった。踏み込みすぎない。分かってしまうものを、そのまま押しつけない。そこは、ララァの中で少し変わってきている部分かもしれない。俺が知っていたララァを思うと、妙に危ういのに、妙に慎重でもある。

 

 セイラさんはララァから視線を外し、俺を見た。見つかった。いや、さっきからいたので、見つかったというより確認されたというべきか。どちらにしても逃げられない。

 

「レン、あなたも近くにいたのね」

 

「荷物運びの途中です。盗み聞きするつもりではなかったんですが」

 

「結果として聞いていたのなら、あまり変わらないわ」

 

「それはそうですね」

 

 反論できない。

 

 セイラさんはララァに向き直った。

 

「布はフラウに戻して。医療区画の前で止まるのよ。中へは入らないで」

 

「ええ。決まりは守るわ」

 

 ララァは素直に頷いた。フラウが少し頭を下げ、ララァと一緒に通路の奥へ向かう。すれ違う時、ララァは俺を見た。何か言うかと思ったが、何も言わなかった。それでいい。今は、何も言わない方がいい。

 

 セイラさんは、ララァの背中が見えなくなってから、静かに息を吐いた。

 

「不思議な子ね」

 

「そうですね」

 

「それだけ?」

 

「それ以上を説明できるほど、俺も分かっているわけではありません」

 

「あなたは時々、分からないという言葉を便利に使うわ」

 

 セイラさんはそういうところを見逃さない。俺の中で警戒ランプが黄色になった。無視していい黄色ではない。

 

「便利に使ってるつもりはないです。ただ、本当に分からないことも多いので」

 

「では、分かっていることは?」

 

「それを聞かれると困ります」

 

 言えるわけがない。

 

「困るのね」

 

「困ります」

 

 セイラさんは俺を見たまま、少しだけ目を細めた。問い詰めるには、ここは通路だ。軍務中でもある。彼女もそれを分かっている。だから、すぐには踏み込んでこない。だが、疑いは消えていない。むしろ深くなった気がする。

 

 ◇

 

 その日の後、セイラさんは通信席に戻っていた。

 

 俺はブリッジ脇に立ち、出撃可能状態になった黒い1号機の待機指示について確認を受けていた。ブライトさんは周辺警戒と進路の話をしている。ミライさんは進路データを修正している。セイラさんは通信を整理している。一見、いつものブリッジだ。

 

 けれど、俺の目はどうしてもセイラさんへ行く。端末に表示される断片通信。ジオン側の呼称。赤い彗星。シャア・アズナブル。金髪の士官。処分保留。宇宙への報告。確証にはならない。だが、セイラさんの中にある名前へ近づくには十分すぎる。

 

「レン」

 

 ブリッジを出たところで、セイラさんに呼び止められた。

 

 予想はしていた。だからといって、心臓に悪くないわけではない。

 

「少し話せるかしら」

 

「はい」

 

 通路の端へ移動する。人の流れはあるが、声を落とせば聞こえにくい場所だ。セイラさんは無駄な前置きをしなかった。

 

「あなたは、赤い彗星についてどう思っているの?」

 

「どう、というと?」

 

「敵として危険だと思っているのか。それとも、別の意味で気にしているのか」

 

 いきなり中心近くへ来た。セイラさんらしい。遠回しに見えて、刃はちゃんとこちらへ向いている。

 

「敵として非常に危険です。実際に何度もホワイトベースを追い詰めていますし、あの動きや判断を見ても普通の指揮官やパイロットとは違う」

 

「それは、誰でも分かる答えね」

 

「そうですね」

 

「では、別の意味では?」

 

 俺は少し黙った。

 

 シャアは危険だ。赤い彗星で、ザビ家への復讐者で、セイラさんの兄で、アムロの宿敵になる男で、ララァの運命を変えるはずだった男だ。前世の知識ならいくらでも言える。言えるが、ここで言えば全部が壊れる。

 

「俺は、あの人の全部を知っているわけじゃありません」

 

「全部?」

 

「敵のエースとしての顔は見ました。でも、それ以外は推測です。推測だけで誰かに何かを言うのは危ない」

 

「あなたは、推測という言葉も便利に使うのね」

 

「便利な言葉ばかりですみません」

 

 軽く言ったつもりだったが、セイラさんは笑わなかった。

 

「インドでララァを探した理由も、推測?」

 

 来た。

 

 やっぱりそこへ来る。

 

 俺は通路の壁に視線を逃がしそうになって、やめた。逃げると余計に怪しい。いや、もう十分怪しいのだが。

 

「危険な場所にいる子を見つけた。助けられると思ったから助けた。それが理由です」

 

「それは理由の一部でしょう」

 

「全部を説明するには、俺にも整理できていないことが多いです」

 

「あなたは、ララァが特別な子だと知っていたの?」

 

「……見つけた時に、そう感じました」

 

 嘘ではない。全部でもない。

 

 セイラさんは、俺の言葉をゆっくり噛むように聞いていた。

 

「レン、あなたは時々、先に結果を知っているような動き方をするわ。もちろん、そんなことがあるはずはない。けれど、サイド7からずっと見ていると、偶然だけで片づけるには不自然なことが多すぎる」

 

「俺が怪しいという話なら、否定はしづらいです」

 

「そういう話に逃げないで」

 

 声は荒くない。だが、力強かった。

 

 俺は口を閉じた。

 

 セイラさんは、少しだけ視線を落とした。

 

「私には、確かめたいことがあるの。誰にも言えないことよ。軍務に持ち込んではならないことだとも分かっている。だからこそ、あなたが何かを知っているのなら、聞きたいと思ってしまう」

 

 その言葉は、かなり危うかった。

 

 セイラさんは自分で分かっている。分かっていて、踏み込みかけている。理性があるからこそ、危険な場所にいる自分を客観視できてしまう。だが、客観視できることと止まれることは別だ。

 

「セイラさん」

 

 俺は慎重に言葉を選んだ。

 

「確かめたいことがあるのは分かります。でも、それを一人で確かめようとするのは危ないです」

 

「一人で、とは言っていないわ」

 

「言っていなくても、そう考えているように見えます」

 

 セイラさんの目が少し鋭くなった。外したかもしれない。でも、ここで完全に黙る方がまずい気がした。

 

「俺は、セイラさんが何を探しているのかを全部知っているわけじゃありません。ただ、今のホワイトベースで一人で動けば、艦もセイラさん自身も危なくなる。それだけは分かります」

 

「あなたに言われると、少し説得力が変ね」

 

「それは否定できません」

 

 俺が勝手に動いたことはある。むしろ何度もある。だから、セイラさんを止める資格があるのかと言われると困る。困るが、止める必要がある時に資格の有無で黙っていたら、たぶんもっと後悔する。

 

 セイラさんはしばらく俺を見ていた。それから、静かに言った。

 

「レン。もし、あなたが私の探しているものに関わる何かを知っているのなら、いつか聞かせてもらうわ」

 

「……言える時が来たら」

 

「今は言えないのね」

 

「はい」

 

「そう」

 

 短い返事だった。

 

 納得したわけではない。諦めたわけでもない。ただ、今日はここまでだと線を引いた。それが分かる声だった。

 

 セイラさんは通路の先へ歩き出す。数歩進んでから、少しだけ立ち止まった。

 

「私は、確証のないことに飛びつくほど愚かではないつもりよ」

 

「はい」

 

「でも、確かめられる機会が来た時に、何もしないと言えるほど強くもないわ」

 

 そう言って、セイラさんはブリッジへ戻っていった。

 

 俺はその背中を見送った。止められたとは思えなかった。むしろ、形がはっきりしてしまった気がする。彼女の中にはもう、確かめたい名前がある。

 

 赤い彗星。

 

 シャア・アズナブル。

 

 そして、その奥にいるかもしれない兄の影。

 

 俺は通路の壁に背を預け、短く息を吐いた。次にジオン兵と接触する時、何かが起きる。その予感だけは、嫌なくらいはっきりしていた。

 

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