ホワイトベースの中には、まだ前の戦闘の匂いが残っていた。焦げた配線の匂い。油と砂の匂い。捕虜区画の扉を仮補修する工具の音。通信室では、コズンが触った端末の記録を洗い直している。どこまで情報が漏れたのか、正確なところはまだ分からない。ただ、白いガンダムと黒いガンダム、ガンタンク、ガンキャノン。そのあたりが知られたと考えるべきだった。
MSデッキでは、ガンタンクの外装が開かれていた。砂を噛んだ履帯まわりを整備員が確認し、ハヤトは端末を抱えたまま黙って立っている。ガンキャノンは腕部の絡まれた跡を見られていた。カイさんはその近くで、ヘルメットを片手に持ったまま、珍しくすぐには文句を言わなかった。白いガンダムは、いつも通り整備架に固定されている。
アムロはその足元にいた。端末を見ている。だが、画面を読んでいるようには見えなかった。目は開いているのに、意識だけが少し遠くに置かれているようだった。
「アムロ」
フラウが声をかけた。アムロは少し遅れて顔を上げる。
「何?」
「何、じゃないわよ。ずっと呼んでたのに。大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。疲れてるだけだ」
「それ、大丈夫って言わないわ」
フラウの声には、怒りより先に心配があった。アムロもそれは分かっているはずだ。だが、返事は短かった。
「放っておいてくれよ」
「放っておけないから言ってるの。アムロ、昨日から変よ。ブライトさんに叱られたからって、それだけじゃないでしょう」
「じゃあ何だって言うんだよ」
アムロの声が少し尖った。フラウが言葉に詰まる。俺も近くにいたが、口を挟めなかった。ここで何を言っても、アムロには届かない。たぶん、俺が言えば余計にこじれる気がした。
アムロは端末を閉じた。
「ごめん。少し一人にしてくれ」
「アムロ」
「大丈夫だって言ってるだろ」
それだけ言って、アムロはMSデッキを出ていった。フラウは追おうとして、足を止める。それから俺を見た。
「レン、アムロ、何かあったの?」
ブライトさんとミライさんの会話を、アムロはたぶん聞いてしまった。だが、それをそのまま言っていいのか分からなかった。俺が黙ると、フラウは顔を曇らせる。
「……何かあったのね」
「たぶん。でも、俺から言える話じゃない」
「そう」
フラウは小さく息を吸った。
「そういう時、アムロは一人で変なことを考えるのよ」
その言い方は、昔からアムロを知っている人間のものだった。
◇
白いガンダムの起動警報が鳴ったのは、それからしばらく後だった。最初は整備員の確認ミスかと思った。いや、そうであってほしかった。だが、表示はすぐに変わる。メイン動力起動。コックピット閉鎖。発進シークエンス移行。
「白いガンダム、起動しています!」
整備員の声が跳ねた。
「パイロットは」
「アムロです。ですが、発進許可が出ていません!」
俺は走った。整備架の上で、白いガンダムが動いていた。まだ外装の点検中だった整備員が慌てて退く。白い機体の目が光り、固定具が順番に外れていく。
「アムロ、何をしてる!」
ブライトさんの声が通信に乗った。
『出ます』
「許可していない。機体を止めろ。アムロ、聞こえているのか」
『聞こえてます』
「なら止めろ。これは命令だ」
返事はなかった。白いガンダムがカタパルトへ移動する。止められるタイミングは、もうほとんど残っていなかった。整備員が止めようとしても、動き出したガンダムを人間の手で止められるわけがない。
「アムロ!」
俺は叫んだ。通信が一瞬だけ開く。
『レンには、黒いガンダムがあるだろ』
それだけだった。
白いガンダムが発進した。格納庫の空気が抜けたように静かになる。整備員たちは数秒、誰も動けなかった。フラウが青ざめた顔でカタパルトの方を見ている。
「……アムロが、ガンダムで」
カイさんが乾いた声で言った。
「いや、笑えねえぞ。ガンダム持って出ていくって、どんな冗談だよ」
誰も笑わなかった。
◇
ブリッジは怒鳴り声と警報で埋まっていた。
「現在位置は」
「白いガンダム、低空で離脱。進路、北西方向。速度上がっています」
「呼び戻せ」
「応答ありません。呼びかけには反応していません」
ブライトさんは拳を握りしめていた。
「脱走だぞ、これは。軍規以前の問題だ。機密機体を持ち出して、単独で離脱するなど」
言葉は怒りだった。だが、その下に別のものが混ざっているのが分かった。昨日の会話。アムロが聞いていたかもしれない言葉。ガンダムから離す、という話。
ミライさんは操舵席から静かに表示を見ていた。
「追跡するなら、今しかありません」
「追える機体は」
ブライトさんの視線が俺へ向く。黒いガンダムなら追える。追えない距離ではない。アムロの進路が読めれば、接触もできるかもしれない。だが、ホワイトベースは今、白いガンダムを失ったばかりだ。コズンに情報も漏れている。ラル隊が近くにいる可能性もある。この状態で黒いガンダムまで艦から離せば、残るのはガンキャノンとガンタンクだけになる。
ブライトさんは歯を食いしばった。
「レン、黒いガンダムは艦から離すな」
「……了解」
追いたい。だが、命令は正しい。白いガンダムが消えた今、黒いガンダムまで外へ出すわけにはいかなかった。分かっている。分かっているのに、胸の奥がざらついた。
リュウさんがブライトさんの横へ来た。
「ブライト、怒るのは後だ。今は艦の周りを固めろ。あいつを責める言葉は山ほどあるだろうが、言葉だけじゃ戻らねえ」
「分かっている」
「分かってる顔じゃねえぞ」
ブライトさんは言い返しかけて、やめた。ミライさんが小さく言う。
「私たちの話を、聞いていたのかもしれません」
「……ああ」
「でも、あれはアムロを切り捨てる話ではありませんでした」
「分かっている。だが、あいつがそう受け取ったなら、こちらの言い方も間違えた」
ブライトさんの声が低くなる。怒りだけではなくなっていた。
◇
艦内の空気は変わった。
白いガンダムがいない。それは、単に機体が一機減ったという話ではなかった。ホワイトベースはこれまで何度も危ない場面を白いガンダムに救われてきた。アムロの反応と判断に助けられてきた。黒いガンダムがある。ガンキャノンもガンタンクもある。それでも、白いガンダムが抜けた穴は別物だった。
ハヤトはガンタンクの前で、ずっと黙っていた。
「ハヤト」
声をかけると、彼は少し肩を揺らした。
「僕、止められなかった」
「昨日のことか」
「うん。アムロがガンタンクで出るって言った時、変だと思った。でも、止められなかった。今日も、何かあるって分かってたら……いや、分かるわけないか」
ハヤトは自分で言って、苦く笑った。
「僕は、いつも後から思うんだ。あの時こう言えばよかったって」
「それは俺も同じだよ」
「レンでも?」
「俺でもってなんだよ」
ハヤトは少しだけ顔を上げた。その近くで、カイさんが壁に背を預けていた。
「ったく、こっちはガンダムが二機あるから何とかなると思われてんのかね。白いのが勝手に出ていって、黒いのは艦から離せない。残る俺たちは穴埋めかよ」
「カイさん」
「分かってるよ。文句だよ、文句。言わないとやってられないんだよ」
カイさんはヘルメットを軽く持ち上げた。
「でもまあ、あいつがいないと困るのは本当だ。腹立つくらいにな」
それ以上は言わなかった。
◇
フラウが小型車両の準備をしているのを見つけた時、俺は嫌な予感がした。
「フラウ、何してるんだ」
「アムロを探しに行く」
即答だった。
「一人で行く気か」
「一人じゃないわ。通信機も持つし、地図も確認した。危ない場所へ行くつもりはない」
「それでも危ない」
「じゃあ、ここで待っていればアムロは戻ってくるの?」
言葉に詰まった。戻るかもしれない。戻らないかもしれない。アムロは今、白いガンダムに乗っている。普通の少年ではない。だが、フラウにとっては、それでも昔から知っているアムロなのだ。
「アムロは一人なの」
フラウの声が震えた。
「ブライトさんたちは軍のことを考えないといけない。レンは艦を守らないといけない。リュウさんもミライさんも、みんなここから動けない。でも、アムロは一人で出ていったのよ。誰かが呼ばなきゃ、あの子、戻り方まで分からなくなる」
「フラウ」
「分かってる。無茶はしない。近づきすぎない。通信も切らない。でも、探しに行く」
止めるべきだった。止めなければならないとも思った。だが、完全に止める言葉が出てこなかった。
リュウさんが後ろから来て、俺の肩に手を置いた。
「フラウ、通信は開けておけ。定時連絡を外したら、すぐ戻れ。敵影を見たら追うな。アムロを見つけても、無理に連れてこようとするな」
「はい」
「約束しろ。お前まで戻らなかったら、アムロは余計に戻りにくくなる」
フラウは唇を噛んで、頷いた。ミライさんが通信機と小型の救急パックを渡す。
「無理はしないで。声をかけるだけでいいの。連れて帰ることを急がないで」
「分かりました」
ブライトさんは少し離れた場所でそれを見ていた。許可したわけではない。だが、止めきれないことも分かっている顔だった。フラウが小型車両に乗り込む。俺は黒いガンダムの足元から、それを見送った。
白いガンダムは消えた。アムロもいない。黒いガンダムはここにある。手を伸ばせば、すぐにでも乗れる。それでも、ホワイトベースの中に空いた穴は、少しも埋まらなかった。