白いガンダムは、まだ戻らなかった。
ホワイトベースのMSデッキには、黒いガンダムが固定されている。整備架から外せばすぐにでも出られる状態だ。オーバーホール以降、右脚も左腕も火器管制も、以前のような常時不安を抱えているわけではない。機体だけを見れば、俺は出られる。出て、アムロを追える。だが、出られない。
白いガンダムはアムロごと外にいる。ラル隊がこちらの位置を掴み直している可能性も高い。そんな状態で、黒いガンダムまで艦から離すわけにはいかなかった。理屈は分かる。分かるから、余計に腹が立つ。
「1号機は待機だ。レン、勝手に出るな」
ブライトさんの声は硬かった。怒鳴ってはいない。けれど、怒りを押さえているのが分かる声だった。アムロへの怒り。自分への怒り。白いガンダムを失った艦を預かる責任。全部を押し込めて、命令の形にしている。
「分かってます。敵が来た時、艦を空にするわけにはいきません」
「ならいい。分かっているなら、そこで待て」
でも、今の俺にはかなり重かった。黒いガンダムは動ける。俺も動ける。なのに待つしかない。前世で見た流れなら止められたかもと思わなくもない、流れ通りならアムロはこの後も無事に戻るはずだ。だが、この世界はもう何度もズレている。ガルマは死ななかった。ララァはホワイトベースにいる。ラル隊も既に若干ずれている、前世で見た流れに似ているだけで、全部が同じとは限らない。
古い地図は、今もただの古い地図だ。そう整理したばかりなのに、こういう時だけすがりたくなる。情けない話だが、本音としてはそうだった。
ブリッジでは、ミライさんが通信の時間を確認していた。
「フラウの定時連絡まで、あと三分です」
「通信範囲は」
「まだ届くはずです。ただ、地形で途切れる可能性があります。砂地と岩場が多いですから」
セイラさんは通信席で回線を絞っている。セイラさん自身も処罰明けで、まだ完全に空気が戻ったわけではない。けれど、今は通信士の顔をしていた。余計なことを言わず、必要な音だけを拾う顔だ。
リュウさんは壁際に立ち、腕を組んでいた。傷は軽くないはずなのに、本人はいつものようにそこにいる。
「ブライト、フラウに怒鳴るなよ。あの子は命令違反をしたくて出たんじゃねえ。アムロを一人にしたくなかっただけだ」
「分かっている。だが、危険な位置まで出るなら戻させる」
「戻れって言われて戻れるなら、最初から出てねえよ。言い方は考えろ」
ブライトさんは何か言い返しかけて、やめた。
カイさんがデッキ脇の端末から顔を上げる。
「白いガンダムなしで、黒いのまで留守にしたら、そりゃこっちも丸裸ってやつだ。分かっちゃいるけど、待ってるだけってのも性に合わないねえ」
「カイさんは、待ってる方が好きそうに見えますけど」
「それは安全な場所で待てる時の話だよ。敵が来るかもしれません、味方のガンダムは家出中です、探しに行った女の子は戻ってません。これで落ち着けるほど俺は図太くない」
軽口の形をしているが、声は軽くなかった。
ハヤトは少し離れた場所で黙っていた。ガンタンクの横に立ち、床を見ている。前の戦闘で、自分が守った場所に意味があったと少し受け止めたはずだ。それでも、アムロがガンタンクで出て失敗し、その後白いガンダムで脱走した流れは、ハヤトにも刺さっているのだろう。
「ハヤト」
俺が声をかけると、ハヤトは小さく顔を上げた。
「僕がもっとちゃんと乗れてたら、アムロがあんなふうに思わなかったのかな」
「それは違うと思うよ」
「でも、ガンタンクで出たのはアムロだ。僕の機体なのに、僕じゃなくて」
「機体のせいでも、ハヤトのせいでもないよ。アムロはたぶん、自分が必要だって証明したかったんだと思う。白いガンダムじゃなくてもやれるって。いや、俺が言えたことじゃないけど」
最後は少し濁った。アムロの中に、俺の存在が刺さっているのは分かっていた。黒いガンダムがある。レンがいる。なら、自分は降ろされるのか。自分がいなくても艦は戦えるのか。そう思ったとしても不思議ではない。アムロは単純にわがままを言っているだけではない。でも、脱走は正当化できない。その両方が、今のホワイトベースを重くしていた。
通信が鳴った。
「フラウからです」
セイラさんの声に、ブリッジの空気が一気に固まった。
『こちらフラウ・ボゥです。聞こえますか。ホワイトベース、聞こえますか』
「聞こえているわ。フラウ、状況を報告して」
ミライさんが前へ出る。
『アムロを見つけました。白いガンダムも一緒です。機体は動けるみたいです。でも、アムロは戻らないって……戻れないって言ってます』
ブライトさんの眉が動いた。
「フラウ、現在位置は」
『岩場を抜けた先です。小型車両で追える距離です。でも、アムロはまた移動しました。何か見つけたみたいで、自分で確かめるって』
「追いすぎるな。接触できたなら、一度戻れ」
『でも、このままだとアムロが』
「フラウ」
ミライさんの声が、ブライトさんより先に入った。
「アムロを連れ戻したい気持ちは分かるわ。でも、あなたまで戻れなくなったら、アムロはもっと戻りにくくなる。距離を取って。定時連絡は続けて。無理に近づかないで」
通信の向こうで、フラウが息を呑む気配がした。
『……分かりました。でも、もう少しだけ追います。見失ったら戻れなくなるから』
「フラウ」
『ごめんなさい。ちゃんと連絡します』
回線が切れた。
ブリッジに、誰もすぐには声を出せなかった。
医療区画の方へ水を取りに行くと、入口でララァが包帯の箱を抱えていた。白い布の束が、細い腕に少し大きく見える。
「それ、こっちへお願いできる?」
医療班の女性が声をかけると、ララァは小さく頷いた。
「はい」
彼女は急がない。けれど、遅くもない。医療品の棚へ歩き、指定された場所へ箱を置く。避難民の子どもが不安そうに椅子の端で膝を抱えていると、ララァは水のパックを一つ持って、その隣に腰を下ろした。
「飲む?」
子どもは少し迷ってから受け取った。
ただ、そこにいて、手が空いた場所へ静かに入っている。ブライトさんは少し前にこう言っていた。
「医療区画と避難民区画の手伝いまでだ。通信室とMSデッキには近づけるな」
ララァは、その時も今と同じように短く答えた。
「分かりました」
彼女は保護された少女で、ジオンともシャアともつながっていない。けれど、ホワイトベースの全員がそれをすぐ受け入れられるわけではない。だからこそ、こういう小さな作業の方がいいのだと思う。包帯を運び、水を渡す。それでも、何もしないよりずっといい。
「レン」
ララァがこちらを見た。
「アムロのこと?」
「うん。俺が行ければ早いんだけど」
「行けないのね」
「艦を空けられない。白いガンダムもいないし、敵が来るかもしれないから」
ララァは何かを探すように俺を見たが、すぐに目を伏せた。
「待つのは、難しいわ」
「本当にね」
それ以上は言わなかった。ララァも言わなかった。
◇
アムロは、フラウの声を振り切った。
戻れと言われることは分かっていた。戻れば、独房か処罰か、少なくともガンダムから降ろされる。ブライトはきっとそうする。ミライも止めないかもしれない。リュウは何か言うだろう。レンは、困った顔で理屈を並べるかもしれない。
それが嫌だった。
自分がいなければ駄目だと、証明したかった。白いガンダムは動いた。自分の入力に応えた。なのに、艦の中では自分を降ろす話が出る。レンだっている。黒いガンダムだってある。なら、自分は何なのか。答えが欲しかった。
砂の向こうに、ジオンの施設らしきものが見えた。採掘設備。車両。偽装されたアンテナ。見つけた瞬間、アムロはそれを重要な基地だと思った。いや、思いたかった。
ここを叩けば、ホワイトベースに必要なことをしたと言える。
白いガンダムが砂を蹴った。施設の守備隊は混乱した。予想外の方向から現れた白いMSに、迎撃のタイミングが遅れる。アムロは撃ち、避け、設備を破壊した。ビームが砂を焼き、車両が横転する。
だが、そこはアムロが思ったほど単純な場所ではなかった。
通信の奥で、ジオンの指揮系統が動く。マ・クベの冷えた声が状況を測り、キシリアの命令が重く降りる。鉱山基地はただの基地ではない。だが、アムロ一人が見て、戦場全体の意味を読めるものでもなかった。
やがて、奇妙な機体が砂の上に影を落とした。丸く、重く、浮いている。アッザム。白いガンダムは、その異様な敵に捕まった。熱と電撃が装甲を叩き、コックピット内に警告が走る。アムロは歯を食いしばり、機体の反応を拾い、脱出口を探した。勝つためというより、抜け出すために動いた。白いガンダムは壊れなかった。最後には敵を退けた。
勝った。
そう言えなくもなかった。でも、アムロには分からなかった。自分が壊したものが、戦局にどれだけ意味を持つのか。叩いた施設が本当に重要だったのか。敵が何を守り、何を捨てたのか。自分はホワイトベースを助けたのか、それともただ敵を刺激しただけなのか。
白いガンダムの足元で、砂だけが熱を持っていた。
アムロは街へ向かった。
◇
次のフラウの定時連絡は、少し遅れた。
『こちらフラウです。アムロを見失いました。でも、近くに街があります。たぶん、そこへ向かったんだと思います』
「フラウ、街には入らないで。外で待機して」
ミライさんの声が強くなる。
『分かっています。でも、車両が目立つので、少し離れた場所に隠します。通信は続けます』
その後ろで、砂を踏む音が混じっていた。風の音も強い。通信状態は悪い。
「フラウ、今すぐ戻れとは言わない。ただし、アムロを見つけても一人で連れ戻そうとするな。いいな」
ブライトさんが言う。
『はい』
返事はした。けれど、フラウの声には迷いが残っていた。
俺は端末の通信波形を見ていた。何もできないくせに、波形だけを見ている。意味があるのかどうかも分からない。でも目を離せなかった。
◇
ソドンの街は、砂と熱に削られたような場所だった。
白いガンダムを街から離れた岩場の陰に隠し、アムロは一人で通りへ入った。軍の施設ではない。だが、完全な民間の街とも言い切れない。ジオンの車両が通り、兵士の姿もある。店は開いているが、誰も余計なものを見ないようにしていた。
それでも腹は減っていた。喉も渇いていた。鉱山基地を攻撃し、得体の知れないモビルアーマーと戦い、砂漠を歩いた後だ。自分が正しいことをしたのかどうかも分からないまま、体だけは食べ物を求めている。
小さな食堂に入り、アムロは壁際の席に座った。出された食事は粗末だった。パンは固く、スープも薄い。けれど、今のアムロにはそれでも十分だった。ホワイトベースの食事を思い出しかけて、すぐに追い払う。戻らないと決めたのは自分だ。戻れば、ガンダムから降ろされるかもしれない。必要ないと言われるかもしれない。
だからこそ、自分が白いガンダムで何かをしなければならない。そう思って出てきたはずなのに、鉱山基地を叩いた後に残ったのは、勝ったという実感ではなかった。自分が見ていたものが、戦場の全部ではなかったという嫌な感覚だけが残っている。
アムロは食事を続けながら、店の入口へ視線をやった。
外で車両の止まる音がした。次の瞬間、店内の空気が変わった。先に入ってきたのはジオン兵だった。砂を払う者、席を探す者、店の者に声をかける者。乱暴ではない。だが、武器を持った兵士たちが入ってきたことで、店の中にあった緩い空気が一段低く沈んだ。
アムロは手を止めた。
ジオンだ。
立てば目立つ。逃げようとしても、入口には兵がいる。自分は軍服ではない。今のところ、ただの若い客に見えているはずだ。そう自分に言い聞かせながら、アムロは視線を落とした。
遅れて、ひときわ大柄な男が入ってきた。青い軍服。太い体。だが、ただ大きいだけではない。兵たちが自然に道を空ける。声を荒げなくても、そこにいるだけで場の中心になる。そういう男だった。
隣には、落ち着いた雰囲気の女性がいた。女性は店内を一度見回し、アムロの席で視線を止めた。疲れた若い客。砂をかぶり、食事を前にしているのに、周囲を警戒している少年。そこまでを、彼女は短い間に見て取ったようだった。
「何もないのね。出来るものを十六人分お願い」
女性が店の者へ言った。大柄な男が、少しだけ眉を上げる。
「十六人分か。ハモン、一人多いぞ」
「ええ。あの少年にも」
「あんな子が欲しいのか?」
アムロは思わず顔を上げてしまった。ハモンと呼ばれた女性が、こちらを見ている。優しく笑っているわけではない。哀れんでいるだけでもない。ただ、興味を持ったような目だった。
「いりません」
アムロは反射的に言った。
ハモンは少しも慌てなかった。
「遠慮しなくていいのよ」
「遠慮じゃありません。恵んでもらう理由がありません」
店内の兵の何人かがこちらを見た。アムロは、自分の声が思ったより硬かったことに気づいた。だが、言ってしまったものは戻せない。ジオン兵に囲まれた場所で、ジオンの女性から食事を出される。そんなものを素直に受け取れるわけがなかった。
ハモンは、少しだけ笑った。
「私があなたを気に入ったから。それでは理由にならないかしら」
アムロは答えられなかった。
大柄な男が声を立てて笑った。馬鹿にした笑いではない。むしろ、面白いものを見つけたような笑いだった。
「理由がなければ受け取らんか。若いのに、なかなか骨がある」
アムロは男を見た。相手はジオンの軍人だ。敵だ。そう分かっているのに、目を逸らすのが悔しかった。男の視線には、こちらを威圧して潰そうとする感じがない。子どもと見ているのに、ただの子ども扱いでもない。
「僕は、施しを受けるほど困っていません」
「そう言えるうちは大したものだ。砂漠で腹を空かせても、意地は残っているわけだ」
「あなたには関係ないでしょう」
「確かに、今は関係ない」
男は愉快そうに言い、近くの席に腰を下ろした。周囲の兵たちは、彼が座っただけで少し落ち着く。命令がなくても、皆がこの男を中心に動いている。
アムロは、その様子を見てしまった。ブライトとは違う。リュウとも違う。レンとも違う。命令で張り詰めているのではなく、部下に支えられ、部下を抱えている大人の重さがあった。
ハモンは、運ばれてきた食事の一つをアムロの卓へ置かせた。
「食べるかどうかは、あなたが決めればいいわ」
「……」
「ただ、食べられる時に食べておかないと、後で困ることもあるものよ」
アムロは皿を見た。腹は減っている。喉も渇いている。それを自分で分かっているから、余計に悔しかった。目の前の敵かもしれない大人たちに、自分の疲れを見抜かれている。それでも、皿を突き返すことはできなかった。
大柄な男は、そんなアムロを見ていた。名乗らない。問い詰めない。ただ、アムロの意地と警戒を面白がるように見ている。その目が、妙に残った。
この人は、何者なのか。
アムロがそう思った時、店の外で声が上がった。
「止まれ。何をしている」
アムロの肩が跳ねた。聞き慣れた声が、外のざわめきに混じった。
「離してください。私は、ただ人を探しているだけです」
フラウだった。
兵士の声が近づく。
「隊長、街の外れで怪しい娘を見つけました。通信機を持っています」
店内の空気が一瞬で硬くなった。アムロは椅子を引いた。立ち上がりかけた体を、ぎりぎりで止める。ここで動けば、自分とフラウの関係を示すことになる。だが、動かなければフラウが連れてこられる。
男の目が、アムロを見た。ハモンも、外から連れてこられる少女とアムロの顔を見比べた。
フラウが店内へ押し出される。彼女はアムロを見つけた。
声を出しかけて、止めた。
その沈黙だけで、十分だった。
アムロは、自分が一人で飛び出したことの意味を、その時になってようやく理解した。自分だけが戻れないのではない。フラウまで、戻れない場所へ近づけてしまった。