扉を閉めた後も、俺の手にはまだ金属の感触が残っていた。
閉めた。確かに閉めた。見張りの兵もいる。捕虜区画の外から見れば、何も変わっていないように見えるはずだった。でも、ロックは最後まで戻していない。整備区画の補修材ケースには、予備服と小型通信機と信号筒を入れてある。
やったことだけ並べれば、かなりまずい。いや、かなりどころじゃない。敵の指揮官を逃がす準備をした。ブライトさんにも言っていない。セイラさんにも、これ以上は関わらせないつもりだった。
艦内はまだ落ち着いていなかった。リュウさんは医療区画。フラウはそちらに付き、ララァは避難民区画で子どもたちをなだめている。通路では損傷確認と片づけが続き、壊れた照明の下で、整備員と警備担当が何度もすれ違っていた。
その混乱を、俺は使おうとしている。そう考えると、胸の奥が嫌な感じに冷えた。
「レン」
ヘルメットを抱えたまま、アムロが通路に立っている。白いガンダムの出撃後処理を終えたばかりなのか、顔に疲れが残っていた。独房に入れられて、すぐに戦闘へ戻されて、さらにラルさんと艦内でぶつかっている。休める状況ではないのは分かるが、それにしてもきつそうだった。
「どうしたの」
「こっちの台詞だよ。何か、変だぞ」
「変って?」
「あの敵指揮官のことだろ」
すぐに否定できなかった。
アムロは俺の顔を見て、少しだけ眉を寄せる。
「ソドンで会った時、あの人たちは敵だった。でも、敵みたいじゃなかった。フラウの通信機も返してくれたし、僕たちを行かせた。でも味方でもない。分からないんだ」
「うん」
「レンは、分かってるのか?」
「分かってないよ」
それは本当だった。
ラルさんを逃がす。ハモンさんと合流させる。そうすれば、原作みたいな復讐戦は起きないかもしれない。リュウさんが死なない未来に、さらに誰も死なない道を重ねられるかもしれない。
でも、それは都合のいい読みだ。
仮に全てが上手くいってラルさんが逃げた後で、もう一度ホワイトベースを攻撃する可能性はある。ハモンさんがラルさんと合流しても、怒りを収めるとは限らない。さらに未来の敵になるかもしれない。俺がやったことは、敵にもう一度動く自由を渡すことでもある。
「分かってないけど、何もしない方が悪くなる予感がする」
「それ、ブライトさんに言えるのか」
「言えないね」
「だろうな」
アムロはそう言って、視線を落とした。責めている声ではなかった。納得しているわけでもない。ただ、俺が何かをやろうとしていることを、アムロは察していた。
「僕は、彼を撃つことになるかもしれないと思ってた」
「うん」
「でも、撃たなくて済むなら、その方がいい。……たぶんね」
最後の声は小さかった。
アムロも迷っている。敵を敵として割り切らなければいけないのに、顔を知ってしまった。言葉を交わしてしまった。そうなると、撃つという行為が急に重くなる。
その時、通路の照明が一度落ちた。
すぐに非常灯へ切り替わる。艦内戦で傷んだ配線の一部が、まだ不安定なのだろう。遠くで整備員が怒鳴り、誰かが工具箱を蹴った音がした。警備担当の兵がそちらへ顔を向ける。
俺は息を止めた。
今だ。そう思ったのは、俺だけではないはずだった。
◇
捕虜区画の扉は、閉じているように見えた。
見張りの兵が二人。片方は通路の照明異常に気を取られ、もう片方は医療区画へ運ぶ物資の通過を確認していた。完全に目を離したわけではない。だが、一瞬だけ、捕虜区画そのものへの注意が薄れた。
ランバ・ラルは、その一瞬を待っていた。
内側から扉の手動解除に触れる。ロックは甘い。外から見れば閉まっている。だが、最後の噛み合わせが戻っていない。あの小僧の仕込みだと、ラルにはすぐ分かった。
「下手な真似をする」
低く呟く。
しかし、使える。
扉がわずかに開いた。見張りが振り返るより早く、ラルは外へ出た。銃は取らない。発砲音を出す必要はない。一人目の腕を取って壁へ押しつけ、息を詰まらせる。二人目が銃を構えようとした時には、ラルの膝がその腹へ入っていた。
倒すだけだ、あの子どもに不義理は働けない。
ラルは見張りの息を確認してから、通路の奥へ動いた。軍服のままでは目立つ。補修材ケースは、整備区画へ向かう途中の壁際に置かれていた。目印などない。だが、レンの視線とあの言い方で、おおよその位置は読めている。
ケースの中には、予備服、小型通信機、信号筒。
粗い。だが、急場の仕込みとしては悪くない。
ラルは予備服を羽織り、通信機を手に取った。出力は弱い。長距離通信には向かない。ギャロップが遠ければ届かないだろう。ならば、こちらから近づく必要がある。
ラルは一度だけ、通路の向こうを振り返った。
アルテイシア様。
その名を胸の内で呼び、すぐに歩き出した。
◇
『捕虜区画で異常! 見張り二名が倒れています!』
艦内通信にその声が走った瞬間、ブリッジの空気が固まった。
俺は通路の端で、その報告を聞いた。
動いた。
安堵より先に、背筋が冷たくなった。これで完全に戻れない。俺が仕込んだ鍵をラルさんが使った。ブライトさんはまだ詳細を知らない。けれど、すぐに調べが入る。ロックの状態も、補修材ケースの中身が減っていることも、いずれ分かる。
『捕虜は?』
ブライトさんの声が通信に乗る。
『確認できません。ランバ・ラル、捕虜区画から消えています』
『各区画を封鎖しろ。武装している可能性がある。発見次第、拘束。抵抗するなら撃っても構わん』
当然の命令だった。
ブライトさんは甘くない。捕虜が逃げた。しかも敵の指揮官だ。放っておけるわけがない。
追うべきだ。ホワイトベースの乗員としては、それが正しい。けれど、俺が追えばたぶん全部が崩れる。ラルさんを追い詰めれば、艦内でまた撃ち合いになるかもしれない。リュウさんが倒れたばかりで、避難民もいるこの艦で、それだけはまずい。
足が動かなかった。
「レン」
アムロの声がした。
振り向くと、アムロがこちらを見ていた。何かを聞きたい顔をしている。けれど、すぐには踏み込んでこない。さっきまで独房にいたからか、こういう時に言葉を選ぶ顔をするようになっていた。
「追わないのか」
「追わない。……いや、追えない、かな」
「それ、いいのか」
「よくはないよ。よくはないけど、今ここで俺が追ったら、ラルさんを角に追い込むだけだ。そうなったら、また艦内で銃を向け合うことになる」
アムロは少しだけ眉を寄せた。
「でも、逃がしたら敵に戻るかもしれない」
「分かってる。そこは俺も怖い。でも、今この艦の中で撃ち合いになる方がもっと怖い。リュウさんもあの状態だし、避難民区画に流れ弾なんて行ったら洒落にならない」
「……レン、何か知ってるのか」
刺さる聞き方だった。きっと何かを感じ取ったのだろう。
俺はすぐには返せなかった。嘘を重ねるのは簡単だ。でも、アムロ相手にそれをやりすぎるのは、普通にきつい。
「全部は言えない。でも、ラルさんが誰かを盾にして逃げる人じゃないとは思ってる」
「思ってる、だけだろ」
「そう。だから避難民区画は見てほしい。もしそっちへ向かったら、止めないといけない」
アムロは一度、通路の奥を見た。
「分かった。僕は避難民区画を見る。もしラルさんがそっちに行ったら止める」
「頼む。アムロが見てくれるなら助かる」
「助かるって……君は?」
「俺はここにいる。追えばたぶん、余計に悪くする」
アムロは納得しきっていない顔だった。けれど、それでも頷いた。
「分かったよ。分からないけど、今はそうする」
「ごめん」
「謝るなら、あとでブライトさんに怒られてからにしろよ」
「それはたぶん、かなり怒られるやつだな」
「たぶんじゃないだろ」
アムロはそう言って、避難民区画へ向かって走った。
それでいい。ラルさんが避難民区画へ向かうなら、止めなければならない。誰かを盾にするような人ではないと思う。けれど、思うだけで判断してはいけない。敵は敵だ。
追わない代わりに、これ以上艦内で血が流れない方へ賭ける。
俺は整備区画側へ走った。
追うためではない。追跡班がぶつかりそうな通路を確認するためだ。かなり言い訳っぽい。自分でも分かっている。でも、完全に見ないふりをする度胸もなかった。
通路の奥で、セイラさんとすれ違った。
「レン」
呼び止められて、足が止まる。
セイラさんの顔は白かった。だが、取り乱してはいない。通信席から離れているのは、ブライトさんの指示か、それとも自分で確認に来たのか分からない。
「あなた、何をしたの」
声は低かった。
「何も、とは言えません」
「そう」
セイラさんは、それだけで察したようだった。
「私は手伝っていません」
「はい」
「けれど、止めることもできなかった」
「セイラさんの責任じゃないです」
「それを決めるのはあなたではなくてよ」
返す言葉がなかった。
セイラさんは一瞬だけ目を閉じ、すぐに開いた。
「避難民区画には行かせないわ。あなたは、自分が選んだことから目を逸らさないことね」
「はい」
セイラさんはそれ以上言わず、通路の反対側へ向かった。
胸が痛かった。
俺はセイラさんを関係ないことにするつもりだった。でも、あの部屋で話を聞いた時点で、完全に無関係ではいられない。俺が勝手にやった。それは事実だ。けれど、巻き込んでいないとは言い切れなかった。
◇
ギャロップの中で、ハモンは立ったまま待っていた。
ラルが戻らない。白い艦へ踏み込んだ兵の一部は戻ったが、肝心のラルはいない。戻った者たちは、隊長が艦内に残ったところまでしか見ていないと言った。明確な戦死確認はない。だが、生還の確認もない。
兵たちの空気は重かった。
マ・クベからの救援はない。補給も薄い。弾薬も燃料も、もう余裕はない。ラルが戻らないなら、木馬へ向かうしかない。そう考える者もいた。だが、ハモンはまだ命じなかった。
感情だけで動けば、残った兵を死なせる。
それをラルは望まない。
そう分かっていても、何もしないまま待つには、時間が重すぎた。
「ハモン様」
通信担当が振り返る。
「微弱信号です。うちの識別符号に近いものが出ています。ただ、出力が弱すぎます」
「位置は」
「木馬から離れつつあります。整備用か、携帯型の通信機と思われます」
ハモンの表情が変わった。
「回収車を出して。ギャロップは前に出しすぎない。木馬へ突っ込む必要はありません」
「攻撃は」
「しません。まだよ」
その声で、兵たちは動いた。
ハモンは通信機へ手を伸ばした。
「聞こえる? ランバ・ラル」
ノイズが返る。
しばらくして、低い声が混じった。
『ハモンか』
ハモンは目を閉じた。
ほんの一瞬だけだった。
「生きていたのね」
『ああ。負けたがな』
「笑えない冗談です」
『私もそう思う』
通信の向こうの声は、弱くはなかった。疲労はある。負傷もしているだろう。だが、生きている。ラルは生きて、自分の足で戻ろうとしている。
「木馬へ向かいますか」
『いや。退く』
ラルの答えは早かった。
『私は捕らえられ、戦力も減った。マ・クベの補給も期待もできん。ここで意地を張れば
残った者まで失う』
「あなたを捕らえた艦を、そのままに?」
『許したわけではない。だが、今叩く理由は消えた』
「ランバ・ラルらしくないわ」
『私らしいかどうかは、後でお前が決めればいい。今は兵をまとめろ。無駄死にはさせるな』
ハモンは少しだけ息を吐いた。
「了解しました。回収します」
『すまんな』
「謝るなら、戻ってからにしてください」
通信が切れた。
ハモンはすぐに顔を上げる。
「回収車を急がせて。ギャロップは反転準備。残存兵を拾い次第、戦域を離れます」
「木馬は」
「追わない。けれど、忘れもしません」
◇
ラルさんが艦外へ出たという報告が入った時、俺は整備区画の隅にいた。
非常用ハッチの一つが開いていた。完全にこじ開けたのではない。内側の手動解除を使った形跡がある。そこから外へ出たのだろう。砂の匂いが通路に入り込んでいた。
『外部で小型車両の反応。距離、離れていきます』
『追撃は』
『敵大型車両、後退しています。こちらへ接近する動きはありません』
通信越しに、ブリッジの緊張が少しだけ変わった。
攻撃は来ない。
ラルさんはきっとハモンさんと合流した。
たぶん、そういうことだ。
俺は壁に手をついた。安心した、とは言えなかった。撃ち合いにならなかった。誰も死なずに済んだ。そこだけは、間違いなくよかった。
でも、そのために俺は捕虜を逃がした。
敵指揮官を逃がした。
ホワイトベースの中に、大きな問題を残した。
◇
砂煙の向こうで、ラルは回収車に乗り込んだ。
ハモンが手を伸ばす。ラルはその手を取り、車内へ入った。抱き合う時間は短かった。互いに生きていることを確かめるには、それで足りた。
「負傷は」
「大したことはない」
「そういう時は、大抵大したことがあります」
「後で診てもらう」
ハモンはラルを見た。整備員用の予備服。簡易通信機。汚れた袖。白い艦の中から逃げてきた男の姿だった。それでも、ランバ・ラルだった。
「あなたを逃がしたのは?」
「一人の少年だよ」
「信用できるのですか」
「できん」
ラルは即答した。
「だが、借りはできた」
「木馬を見逃す理由にはなりません」
「その通りだ。だが、今ここで仕掛ける理由にもならん」
ハモンは少しだけ黙った。
「マ・クベは、助ける気がなかったものね」
「最初から薄かった。だが、これではっきりした」
「では」
「退く。生き残った兵をまとめる。ザビ家の戦争に殉じるには、我々は切り捨てられすぎた」
その言葉に、ハモンはうなずいた。
「分かりました」
回収車がギャロップへ戻る。ギャロップはそのまま向きを変え、ホワイトベースから離れていった。
ラルは遠ざかる白い艦を見た。
「アルテイシア様……」
小さく呟く。
ハモンは聞こえていたが、何も聞かなかった。ただ、ラルの視線の先を見ていた。
「生きておられた。ならば、まだ死ねんな」
「ええ。あなたも、まだ死んではいけません」
「ああ」
ギャロップは砂煙の向こうへ消えていった。
◇
ホワイトベースでは、ラル脱走の報告が正式に上がった。
見張り二名は命に別状なし。武器は奪われていない。整備区画の予備服、小型通信機、信号筒が一部消えている。非常用ハッチが開かれ、外部に小型車両の反応。敵大型車両は接近せず、戦域から離脱。
結果だけ見れば、被害は少ない。
でも、問題はそこではなかった。
「レン」
ブリッジに呼ばれた俺は、ブライトさんの前に立った。
ブライトさんは怒鳴らなかった。怒鳴らない方が怖い顔だった。ミライさんは操舵席で前を向いている。セイラさんは通信席に座っていたが、こちらを見ない。アムロは少し離れた場所に立っている。
「捕虜区画のロックに不自然な操作履歴があった。整備区画の補修材ケースにも、誰かが触れた形跡がある」
「はい」
「お前か」
「はい」
ブリッジの空気が止まった。
分かっていた。言い逃れはできない。するつもりもなかった。いや、したい気持ちはある。かなりある。でも、それをやったら本当に駄目だ。
「理由を聞くのは後だ」
ブライトさんは低く言った。
「今は艦の復旧とリュウの処置が先だ。だが、これは重大な軍規違反だ。分かっているな」
「分かっています」
「分かっていてやったのか」
「はい」
ブライトさんの拳が震えていた。
殴られても文句は言えないと思った。実際、殴られなかっただけましだったのかもしれない。
「持ち場へ戻れ。後で必ず話を聞く」
「はい」
俺は頭を下げた。
ブリッジを出る前に、アムロと目が合った。アムロは何も言わなかった。責める顔でも、許す顔でもない。ただ、複雑そうだった。たぶん、それが一番正しい反応だと思う。
通路へ出ると、医療区画から通信が入った。
『リュウ曹長、容体はひとまず安定。ただし、前線復帰は無理です』
その報告を聞いて、俺は少しだけ息を吐いた。
リュウさんは生きている。
ラルさんも生きている。
ハモンさんも、ラル隊も撤退した。
誰も死ななかった。少なくとも、今回は。
それでも助かった、とは簡単に思えなかった。俺はこの艦の規則を破った。ブライトさんの信頼を削った。セイラさんを完全には無関係でいられない場所に立たせた。アムロにも余計なものを見せた。
ただ、死なせたくなかった人たちを、どうにか戦場の外へ押し出しただけだ。
閉じなかった鍵の重さを、俺はまだ手の中に感じていた。
ランバ・ラル編とりあえず終了です
ちょっと会話が多くて読みにくいかもしれなかったです申し訳ない