ラルさんが去った後のホワイトベースは、妙な静けさに包まれていた。
戦闘が終わったから静かなわけではない。むしろ逆だ。艦内のあちこちで修理音が鳴り、医療区画では人が行き来し、ブリッジには報告が途切れず入っている。けれど、誰も余計なことを言わなかった。捕虜が消えた。敵指揮官が逃げた。その事実が、艦内の空気を重くしていた。
見張り二名は生きていた。気絶と打撲。命に別状はない。非常用ハッチには使用痕が残り、整備区画の補修材ケースからは予備服、小型通信機、信号筒が消えていた。ギャロップは接近してこなかった。外部監視では、ラル隊と思われる車両群はホワイトベースから離れていったらしい。
つまり、ラルさんはハモンさんと合流した。
それは狙った結果だった。狙った結果なのに、胸の奥は少しも軽くならなかった。ハモンさんが突っ込んでこなかった。ラル隊と撃ち合いにならなかった。誰も死ななかった。それはいい。そこだけはよかった。
でも、俺は捕虜を逃がした。敵指揮官を、独断で。
『レン。ブリッジへ来い』
通信越しのブライトさんの声は低かった。怒鳴っていない。だから余計にきつい。
「了解しました」
返事をして、俺は通路を歩き出した。
途中、医療区画の前を通った。扉の向こうから、フラウの声が少しだけ聞こえた。医療品の確認だろうか。ララァも近くにいた。布を運んでいるのが見えたが、俺と目が合うと、何か言いかけてやめた。何かを感じているのかもしれない。けれど、ララァは何も言わなかった。
ブリッジへ入ると、ブライトさんは艦長席の前に立っていた。ミライさんは操舵席で前を向いている。セイラさんは通信席にいるが、端末から目を離さない。アムロは少し離れたところに立っていた。カイさんとハヤトはいない。たぶん艦内復旧か、機体の確認だ。
ブライトさんの手元には、ロック操作履歴と補修材ケースの記録が表示されていた。
「捕虜区画のロックに、不自然な操作履歴があった」
「はい」
「整備区画の補修材ケースにも、誰かが触れた形跡がある。消えた物品は、予備服、小型通信機、信号筒」
「はい」
「お前か」
「そうです」
言い逃れはできない。するつもりもない。いや、したい気持ちはある。ものすごくある。でも、それをしたら本当に駄目だ。
ブライトさんは一度だけ目を閉じた。
「理由を聞く」
「今のホワイトベースに、ランバ・ラルを捕虜として保持し続ける余裕はないと判断しました」
「続けろ」
「リュウさんは重傷です。艦内も損傷しています。避難民もいます。正規の捕虜収容設備もないし、見張りの人数も足りません。この状態でランバ・ラルを抱え続ければ、隊が奪還に来る可能性がありました」
セイラさんのことは言えない。アルテイシアの名も出せない。アムロがソドンで会った印象も、説明にはならない。俺が本当は死なせたくなかったことも、釈明の主軸にしてはいけない。
使えるのは、安全面だけだ。
「奪還戦になれば、また艦内戦になります。今度はリュウさんだけでは済まないかもしれない。だから、被害を抑えるには、ラルさんを外へ出した方がましだと思いました」
「思いました、か」
ブライトさんの声が低くなる。
「その判断をするのは、お前ではない」
「はい」
「報告も許可もなく捕虜区画のロックを操作し、結果として、敵指揮官を逃がした。どれほど危険なことをしたか、分かっているのか」
「分かっています」
「本当にか」
ブライトさんの声が少しだけ荒れた。
「ランバ・ラルは敵だ。この艦へ兵を入れ、リュウを重傷に追い込んだ相手だ。次にまた敵として出てくる可能性もある。お前はそれを、独断で外へ出した」
「はい」
「ガンダムのパイロットだから、特別に許されると思ったのか?」
「思っていません」
「ならなぜ言わなかった」
答えが詰まった。
言えば止められると思ったから。止められれば、ラルさんは捕虜のままだ。ハモンさんがどう動くか分からない。ラル隊が来るかもしれない。そうなれば、また誰かが死ぬかもしれない。
でも、それをそのまま言えば、結局は「だから自分で決めました」にしかならない。
「……言えば、止められると思いました」
ブライトさんの目が鋭くなる。
「当然だ。止める」
「はい」
「止められると分かっていてやったのか」
「はい」
ブリッジが静かになった。
アムロが息を呑む気配がした。セイラさんは端末を見たままだったが、指が止まっていた。ミライさんは何も言わない。ただ、操舵席からこちらのやり取りを聞いている。
ブライトさんは拳を握った。
「君の理屈に、まったく分からない部分がないとは言わない」
その声は、怒りだけではなかった。
「今のホワイトベースに、十分な捕虜管理能力がないことは事実だ。リュウが重傷で、艦内も損傷している。奪還に来れば、被害が広がった可能性もある」
「はい」
「だが、それでも独断で捕虜を逃がしていい理由にはならない」
ブライトさんは、そこで俺をまっすぐ見た。
「君を処罰する。独房入りだ。当面、ガンダムへの搭乗も禁止する」
予想していた。
それでも、胸が沈んだ。
「了解しました」
「一号機は機体としては使える。整備班からも、通常出撃に支障なしと報告を受けている。だが、パイロットが処分中では出せない。分かるな」
「はい」
「これは感情の問題ではない。君を戦力として扱っている以上、命令違反も軍規違反も見逃せない」
それは、たぶんブライトさん自身にも刺さる言葉だった。
俺は民間人の子どもではなく、黒いガンダムのパイロットとして扱われている。だから処分される。守られるだけの子どもではなく、命令を破った戦力として裁かれる。
嫌な話だ。
でも、間違っているとは言えなかった。
「連れて行け」
ブライトさんが言うと、近くの警備担当が一歩前に出た。
俺は動く前に、セイラさんの方を見てしまった。
セイラさんは、少しだけこちらへ目を向けた。表情は整っている。けれど、完全に平静ではなかった。
「レン」
「はい」
「あなたが選んだことです。目を逸らさないことね」
「はい」
「それと」
セイラさんの声が少しだけ低くなる。
「私の名を、あなたの釈明に使わなかったことだけは、覚えておきます」
胸の奥がまた重くなった。
責められたわけではない。許されたわけでもない。ただ、刺された。
それで十分だった。
アムロは何かを言いかけて、結局言わなかった。俺と目が合う。少し前まで独房に入っていたのはアムロだった。命令違反でガンダムを持ち出したアムロ。今度は俺だ。捕虜を逃がした俺。
似ているようで、全然違う。
「レン」
アムロが小さく言った。
「正しいかは分からない。でも……死ななくてよかったとは思う」
「うん」
「でも、ブライトさんが怒るのも分かる」
「うん。俺も分かる」
それ以上は言わなかった。
警備担当に促され、俺はブリッジを出た。
◇
独房の扉が閉まる音は、思ったより重かった。
少し前までアムロが入っていた場所だ。狭い。硬い。最低限の寝台と、簡易端末と、扉の小さな確認窓。艦内の振動はここにも届く。ホワイトベースが生きて動いている音だ。いつもなら安心する音なのに、今は遠く感じた。
機体は動ける。ほぼ戻っている。右脚も左腕も、シールド保持も火器管制も、通常戦闘に使える状態だ。今出せない理由は機体じゃない。
俺が処分中だから、黒いガンダムは出せない。
自分で作った穴だった。
寝台に座ると、急に疲れが出た。艦内戦、ラルさんとの会話、鍵の仕込み、脱走、ブライトさんへの釈明。どれも終わったようで、何も終わっていない。
リュウさんは死ななかった。
でも重傷で、前線には戻れない。あの人が艦内にいるだけで何となく息ができる、みたいな空気があった。それが抜ける。ブライトさんを支える人も、アムロやカイさんたちに雑に声をかける人も、しばらく戻ってこない。
ラルさんは死ななかった。
でも、捕虜脱走という問題をホワイトベースに残した。見張りの兵も倒された。ブライトさんの指揮下で、敵指揮官が逃げた。これは消えない。
ハモンさんは来なかった。
ラルさんが生きて合流したから、たぶん来る理由がなくなった。けれど、ラル隊がこの後どう動くのかは分からない。もう一度敵として来るかもしれない。そのまま戦場から消えるかもしれない。俺には分からない。分からないものを、都合よく決めつけることはできない。
アムロは、ラルさんとハモンさんをただの敵として割り切れなくなっている。
ブライトさんの信頼は、削った。
そして俺はガンダムに乗れない。
原作がまたズレた。いや、ズラしたのは俺だ。ラルさんを死なせたくなかった。ハモンさんを死なせたくなかった。見捨てる選択肢を取れなかった。セイラさんの過去に関わる人だと分かっていたしそれを理由に退くだろうという打算もあった。
でも、それはブライトさんへの釈明にはならない。
俺がしたことは、軍務上は完全にアウトだ。
助けたつもりでも、艦に問題を残した。誰も死ななかったからよかった、で済ませたら駄目だ。そういう線を自分で越えた。
正しかったかどうかは、まだ分からない。
◇
医療区画では、リュウが横になっていた。
意識はある。だが、顔色は悪い。肩から胸にかけて処置具が固定され、体を起こそうとしただけで医療班に止められる状態だった。本人は不満そうに眉を寄せたが、言い返す声にも力がない。
「ちょっとくらい、ブリッジに顔出しても」
「駄目です」
フラウが即座に言った。
「リュウさん、今それをやったら本当に怒ります」
「フラウに怒られるのは怖えな」
「冗談を言ってる場合じゃありません」
フラウの顔がすぐに曇る。近くで水の容器を運んでいたララァが、何も言わずに布を差し出した。フラウはそれを受け取り、小さく頷く。
「レンは?」
フラウは少しだけ言葉に詰まる。
「独房です」
「そうか」
「リュウさん、知ってたんですか」
「何をだよ」
「レンが、敵を逃がすようなことをするって」
「知るわけねえだろ。知ってたら止めたか、殴ったか、どっちかだ」
リュウは目を閉じた。
「でも、あいつらしいとは思う。悪い意味でも、いい意味でもな」
それ以上は言わなかった。
言う体力がないのかもしれない。あるいは、言っても仕方がないと分かっていたのかもしれない。
◇
ブリッジでは、レン不在のまま状況整理が続いていた。
「一号機は出撃可能状態です。ただし、パイロットが」
整備班からの報告を受け、ミライが静かに確認する。
「予備パイロットでは動かせませんか」
「起動確認程度なら可能です。戦闘運用はたぶん無理です。一号機はレンの入力癖に合わせた調整が多い。普通に動かすだけならともかく、戦闘では危険です」
ブライトは短く息を吐いた。
「つまり、黒いガンダムはあるが使えない」
「はい」
ミライは責めるようには言わなかった。ただ事実を置いた。その事実が重かった。
カイが端末を覗き込み、苦い顔をする。
「なんだよそれ。機体はあるのに、乗り手が独房。うちの戦力表、いつ見ても冗談がきついぜ」
「カイさん」
ハヤトが小さくたしなめる。
「冗談にしないとやってられないっての。リュウさんは寝てる。レンは独房。一号機はお預け。次に敵が来たら、また俺たちで穴埋めかよ」
「それでもやるしかないだろ」
ハヤトの声は硬かった。
「艦の近くを守るのは、僕たちの仕事だ」
カイは少しだけハヤトを見て、それから肩をすくめた。
「真面目になりやがって」
「カイさんも逃げないじゃないですか」
「逃げ場がねえだけだよ」
その言葉に、誰も笑わなかった。
セイラが通信席で手を止める。
「連邦系の断片通信を拾いました。補給部隊の識別信号です」
ブライトが顔を上げる。
「位置は」
「まだ不安定です。ですが、こちらの進路上に近い。通信符号は以前の補給隊と一致します」
「マチルダ隊か」
「可能性は高いです」
ミライが進路表示を開く。
「このまま進めば、接触可能な地点があります。ただし、艦の損傷とリュウの状態を考えると、長時間停止は避けたいところです」
「分かっている」
ブライトは表示を見つめた。
補給は必要だ。水も医療品も弾薬も、修理部品もいる。リュウの処置にも物資が必要になる。ラル隊が退いたからといって、安全になったわけではない。むしろ、次の戦場へ進むために補給を受けなければならない。
だが、黒いガンダムは出せない。
「進路を調整する。マチルダ隊との接触を優先。ただし警戒を強めろ」
「了解しました」
セイラが通信を返す。
「アムロには待機を命じる。白いガンダムを中心に防衛陣を組む」
ブライトの声は硬かった。
リュウはいない。レンもいない。黒いガンダムはあるが出せない。だから白いガンダムを中心にするしかない。
ホワイトベースは、そうやって次へ進むしかなかった。
◇
独房の中で、俺は艦内放送を聞いていた。
『全員、警戒態勢を維持。進路修正。補給部隊との接触可能性あり。各区画は受領準備を進めろ』
補給部隊。
マチルダさんだろうか。
ホワイトベースの振動が、独房の床から伝わってきた。艦は進む。俺が独房にいようが、リュウさんが医療区画にいようが、セイラさんが名前を抱えたままだろうが、アムロが迷っていようが、進むしかない。
俺は閉じた扉を見た。
逃がした代償は、思ったよりずっと重かった。