第65話 ベルファストの港
ベルファストが見え始めた頃には、窓の外を流れる景色がすっかり変わっていた。
乾いた大地も、砲撃で削れた鉱山地帯もない。灰色の空の下に海が広がり、その向こうに港湾施設と市街地が並んでいる。海面には輸送船や小型艇が浮かび、岸壁には倉庫とクレーンが続いていた。久しぶりに見る現代の街だった。
もちろん、戦争の影がないわけじゃない。港の一部には土嚢が積まれ、対空砲が海側へ向けられている。軍用車両が一般の車に混じって走り、建物の壁には補修した跡があった。それでも、人が普通に暮らしている場所だということは分かる。
『ベルファスト基地管制よりホワイトベース。指定航路を維持してください。入港後、第三整備区画へ誘導します』
『ホワイトベース、了解。指定航路を維持する』
ミライさんの返答に合わせて、艦の高度がゆっくり下がっていく。
着艦準備のため、俺はMSデッキにいた。黒いガンダムは固定具に収まり、整備員たちが入港後の作業手順を確認している。左腕はすでに普通に動く。予備のシールドだけは純正品ではないままだが、今すぐ戦闘になっても出せる状態には戻っていた。
「基地に入ったら、もう一度肩まわりを開けるぞ」
ハワドさんが端末を見ながら言った。
「普通に動くんじゃなかったんですか」
「動くから点検しなくていいとはならん。オデッサからここまで、機体を動かしながら直したようなもんだからな。落ち着いて確認できる時に確認する」
「正規の盾は?」
「期待するな。ここの在庫を見てからだ」
「ですよね」
ジャブローまで行けば、もう少しまともな部品が回ってくるかもしれない。ベルファストは補給拠点ではあるが、ガンダム用の部品はきっと置いてないだろう。ガンダムはただでさえ扱いが特殊だ。予備品が足りないのは、今に始まった話でもなかった。
艦が岸壁へ降りると、床を通して低い振動が伝わってきた。固定具が軋み、外では誘導員が走っている。ハッチが開いた途端、湿った空気と海の匂いがデッキへ流れ込んできた。
「うわ、潮くさ」
少し離れたところでカイさんが顔をしかめた。
「港なんだから当たり前じゃないですか」
「分かってても言いたくなるだろ。砂と油の匂いよりはマシだけどな」
ガンキャノンの点検を終えたカイさんは、開いたハッチの向こうを眺めていた。基地の作業員、その奥を走るトラック、岸壁を行き交う船員。戦闘が終わればすぐ自分の寝床へ戻っていた頃より、外の様子を気にすることが増えている。
『総員に通達。入港中も第一種警戒態勢を維持する。許可のない外出は禁止。各員は補給、整備、警戒任務の指示に従え』
ブライトさんの艦内放送が入った。
カイさんが露骨に嫌そうな顔をした。
「許可のない外出は禁止、だってよ」
「まともな飯は遠そうですね」
「まだ諦めてねえよ。基地の食堂が艦内食よりマシかもしれないだろ」
「夢の規模が小さくなってません?」
「現実を見てるって言え」
俺の場合、そもそも外出許可が出るかどうか怪しい。監視付きの扱いは続いている。基地内の移動はできても、港町を自由に歩くのは無理だろう。
補給作業が始まると、MSデッキはすぐに騒がしくなった。弾薬と推進剤、交換部品、食料、医療品。基地側から運び込まれる物資を確認し、艦内の各部署へ回していく。
ララァはフラウと一緒に医療班の搬入を手伝っていた。基地の作業員から箱を受け取り、記載された番号を確認して台車へ載せている。
「それは医務室じゃなくて倉庫だよ」
アムロが箱の表示を見て言うと、ララァは少し首を傾げた。
「同じ薬ではないのですか?」
「中身は似てるけど、予備の分だから。たぶん、すぐ使う方と分けるんだと思う」
「そうなのですね」
アムロが台車の置き場を教え、ララァが箱を運んでいく。二人とも特別なことを話しているわけじゃない。なのにどこか感動すら覚える。
「ずいぶん自然になったな、あの二人」
カイさんも同じ方向を見ていた。
「仲良くしてくれた方がいいですよ」
「何だよ、その親みたいな言い方」
「そこまでじゃないです」
「どうだかな」
カイさんは笑ってから、もう一度開いたハッチの外へ目を向けた。
基地の外周には金網があり、その先に港町の建物が見える。背の低い家や店が密集し、その間を細い道が通っていた。岸壁には軍関係者だけでなく、荷運びをする民間人の姿もある。子供らしい小さな影まで混じっていた。
街が基地のすぐ隣にある。
オデッサでは、戦場の向こうに敵の施設があるだけだった。ここでは、戦争のための基地と、そこで暮らす人たちの生活が同じ港の中に並んでいる。
「ここで暮らしてる連中は、落ち着かないだろうな」
カイさんが珍しく真面目な声で言った。
「軍港ですからね。狙われない方がおかしいですし」
「分かって住んでるわけじゃない奴もいるだろ」
その言い方に、少しだけ引っかかるものがあった。
カイさんはサイド7にいた頃から、軍人になるつもりなんてなかった。今だって、正式な軍人になりたいわけじゃないだろう。それでも戦場に出て、ガンキャノンに乗っている。港町の人間を見て、自分たちとは無関係だと思えなくなっているのかもしれない。
「カイさん、基地内の物資確認に人が足りないそうです」
ハヤトが端末を持ってやってきた。
「俺が?」
「僕とカイさんが行くように言われました。食料関係です」
「ほら見ろ。まともな飯につながった」
「確認するだけですよ」
「確認中に一個くらい味見が必要かもしれねえだろ」
「必要ないと思います」
ハヤトに急かされながら、カイさんはハッチへ向かっていった。途中で俺を振り返る。
「お前も来るか?」
「許可があれば」
「じゃあ無理か」
「即答しないでくださいよ」
結局、俺には点検立ち会いが残っていた。
基地側の整備員が肩部装甲を外し、内部フレームを確認していく。損傷した部品はすでに交換されている。残っていた歪みも許容範囲内で、動作試験にも問題はなかった。
「これなら通常運用は可能ですね」
「だろうな。ただし盾の保持部は応急品だ。そこは記録に残しておいてくれ」
「ジャブローで改修予定ですか?」
「予定っていうほど話が通ってるかは知らん。行けば向こうが勝手に調べたがるだろ」
「実験機ですからね」
俺が口を挟むと、二人ともこちらを見た。
「何ですか」
「分かってるなら、もう少し丁寧に乗れ」
「普通に乗ってますよ」
「お前の普通は信用できん」
最近、そればかり言われている気がする。
点検が一段落したところで、俺はハッチ近くまで出た。基地の外へは行けないが、岸壁を見るくらいなら問題ない。潮風が強く、遠くで船の汽笛が聞こえた。
その時、物資倉庫の方からカイさんとハヤトが戻ってきた。
カイさんは片手に小さな紙袋を持っている。
「何です、それ」
「基地の食堂でもらったパン」
「味見したんですか?」
「余り物をもらっただけだ。盗んでねえぞ」
「そこまで言ってませんよ」
カイさんが紙袋から一つ取り出し、俺へ投げてくる。受け取ると、少し固いが艦内で出る保存食よりはずっとまともそうだった。
「ハヤトは?」
「僕はちゃんと許可を取った分だけです」
「俺も取ったっての」
二人の後ろで、基地の作業員たちが荷物を運んでいる。そのさらに向こう、金網に近い場所を一人の少女が歩いていた。
古い上着に、使い込んだ鞄。軍人でも基地職員でもない。手には小さな包みを抱えている。少女は物資搬入口を横目で見ながら通り過ぎようとして、一度だけホワイトベースの方を見た。
見覚えがあった。写真で見たわけでも、実際に会ったわけでもない。それでも、顔を見た瞬間に名前が浮かんだ。
ミハル
少女の後ろから、小さな男の子が走ってくる。
「ミハル姉ちゃん、待ってよ!」
呼ばれた少女が振り向き、慌てて男の子の肩を抱いた。もう一人、小さな女の子も少し遅れて追いつく。ミハルは二人に何か言って、持っていた包みを渡した。
弟と妹。
やっぱり、いる。
カイさんも三人に気づいたらしい。紙袋を持ったまま、少しだけそちらを見ていた。
「近所の子供か?」
ハヤトが言う。
「さあな」
カイさんはそう答えたが、すぐには視線を戻さなかった。
ミハルは弟妹を連れて、そのまま街の方へ歩いていく。基地へ近づいてくるわけでもない。誰かと連絡を取る様子もない。今のところは、港の近くで暮らしている少女にしか見えなかった。
原作を知っているからといって、この場で何かできるわけじゃない。
まだ何も起きていないし、ミハルがこちらを探っているとも限らない。弟妹を連れて歩いているだけの相手を捕まえて、スパイかもしれないと言うつもりもなかった。
「レン、どうした?」
カイさんがこちらを見る。
「いえ。子供だけで歩いてるの、危ないなと思って」
「この辺じゃ珍しくもねえんじゃないか」
「そうかもしれませんね」
ミハルがいることは分かった。原作と同じ場所に、少なくとも同じ名前の少女がいる。そこから先まで同じかどうかは、まだ分からない。
俺はパンを一口かじりながら、三人が街の角を曲がるまで見送った。
ベルファストにはまだ着いたばかりだ。