ミハルが家へ戻ると、ジルとミリーは毛布を一枚ずつ肩に巻いていた。古い暖房器具は止まったままで、つまみを回しても火のつく気配はない。
「姉ちゃん、港の方で大きな音がしてた」
「聞こえたよ。窓には近づかなかっただろうね」
「ちゃんと隠れてたよ」
ジルが答える横で、ミリーはミハルの持つ紙袋を見ていた。
中身は固いパンが二つと、小さな缶詰が一つだった。ミハルはパンを二人へ渡し、缶詰を棚の奥へ置く。
「姉ちゃんのは?」
「仕事先で食べたよ」
ミリーは少し疑うような顔をしたが、何も言わなかった。
朝から口にしたのは冷めた茶だけだ。それでも、三人で分ければ誰の腹も満たせない。なら、少なくとも二人には食べさせた方がいい。
濡れた上着を脱ごうとした時、扉が二度鳴った。少し間を置いて、もう一度。
ミハルは弟妹へ奥にいるよう手で示し、扉を細く開けた。外には港湾作業員の格好をした男が立っていた。
「急ぎの仕事だ」
「今日はもう終わったはずだろ」
「海へ出した部隊が戻らなかった。だが、お前が渡した係留場所と警備の交代時間は合っていた」
ミハルは扉を握る手へ力を込めた。
「戦闘に使うなんて聞いてないよ」
「情報をどう使うかは、こちらが決める」
男はそれだけ言い、上着の内側から一枚の通行証を取り出した。
「白い船が今夜、港を出る。作業員に混じって中へ入れ。目的地と進路を調べろ」
「軍艦の中に?」
「最終搬入は人手が足りていない。臨時作業員の札があれば入れる」
「出られなくなったらどうするんだい」
「そこから先は自分で考えろ」
通行証と一緒に、薄い封筒が差し出される。
ミハルは受け取らず、部屋の中を振り返った。
ジルはパンを少しずつかじり、ミリーは自分の分を半分残している。明日の食べ物も、暖房の燃料もない。
「断ったら?」
「次の仕事はない」
男の声に脅すような響きはなかった。だからこそ、答えは初めから決まっているように聞こえた。
ミハルは通行証を取った。
「夜までには戻るよ」
男ではなく、部屋の奥にいる弟妹へ向けて言った。
◇
出港を繰り上げるという放送が流れてから、ホワイトベースの周りはさらに慌ただしくなった。
攻撃で使えなくなった倉庫を避け、弾薬も食料も交換部品も同じ搬入口へ集められている。基地の作業員、警備兵、ホワイトベースのクルーが入り交じり、誰かが止まれば後ろの台車まで詰まった。
「次、七名。臨時荷役班です」
基地側の係員が声を上げる。
カイさんとハヤトが通行証を確認し、作業員を一人ずつ艦内へ通していく。俺はその近くで、ジョブと一緒に運び込まれた部品箱の封印を確認していた。基地の記録と箱の番号が一致しているか。破損していないか。急いでいても、間違った部品を積めば戦闘中に困る。
分かっている。分かっているけれど、作業員の列に女の人が混じっているのを見た時、手が止まった。作業帽の下から、赤茶色の髪が少しだけ見えている。昨日街で見かけた少女に似ていた。
ミハル・ラトキエ。ベルファストで暮らし、ホワイトベースへ潜り込む少女。
帽子で顔の半分は見えない。港で働いている人が荷物を運んでいても、何も不自然ではなかった。
「レン、こっちの箱も頼む」
ジョブに呼ばれ、俺は端末へ視線を戻した。
「あ、うん。今見る」
封印番号を読み取り、表示された数字と照らし合わせる。一箱終えてから顔を上げると、作業員の列はもう艦内へ入っていた。
さっきの少女も見えない。俺は少し迷ったあと、通行証を確認しているハヤトへ声をかけた。
「臨時作業員の札、問題なかった?」
「基地の名簿とは合ってるよ。どうかしたのか?」
「いや……人数が多いから、少し気になっただけ」
「レン、止まってないで次を見てくれ!」
整備主任の声が飛んでくる。
「すみません。今やります」
俺は部品箱へ向き直った。その後も何度か搬入口を見たが、赤茶色の髪は見つからなかった。
夕方には民間作業員の退艦が始まった。基地側の係員が班ごとに人数を確認し、ハヤトが通行証の処理を照合している。
「全員、降りた?」
「記録ではね。臨時班も人数は合ってる」
ハヤトの返事を聞いても、引っかかりは消えなかった。見間違いだったのかもしれない。
昨日の少女は、もう街へ戻っているのかもしれない。そう思おうとしたところで、出港配置を命じる放送が流れた。
俺には、確かめる方法がなかった。
◇
ミハルは空になった食料箱の陰で、人が通り過ぎるのを待っていた。
荷物を保管区画へ置いたあと、他の作業員が次の搬入へ戻る隙に列を外れた。通行証は指示された場所へ置いてきた。あとは見つからずに、船の行き先を調べなければならない。
そう考えていたのに、艦内は似たような通路ばかりだった。
壁の番号を見ても意味が分からない。人の声がすれば反対側へ曲がり、扉が開けば箱の間へ隠れる。そのうち、どちらが搬入口なのかも分からなくなった。
「おい。そこで何してる」
背後から声をかけられ、ミハルは息を止めた。振り向くと、少年が通路に立っていた。制服を着てることからこの船の乗員らしい。
「荷物を運んでたら、班とはぐれたんだよ」
「はぐれた人間が、箱の裏に隠れるのか?」
「道を聞こうと思ってたところさ」
「ずいぶん苦しいな」
少年は近づきすぎず、ミハルの手元を見た。
「通行証は?」
「荷物と一緒に置いてきた」
「都合よくなくすんだな」
「だったら出口まで連れていってくれればいいだろ」
「言われなくても、そのつもりだよ。ついてこい」
少年は疑っていたが、その場で騒ぎ立てることはしなかった。ミハルは少し迷い、あとに続いた。ここで逆らえば、かえって怪しまれる。
二人が通路を戻り始めた時、隔壁の閉鎖を知らせる警報が鳴った。
『民間作業員の退艦を終了する。各区画、出港配置へ移行せよ』
「まだ外へ出られるんだろ?」
「さあな。間に合えばな」
少年は足を速めた。けれど、搬入口へ続く通路の手前で隔壁が閉まり始めた。向こう側からクルーが声を上げる。
「カイ、何をしてる! 後部区画を閉鎖するぞ!」
「待て、まだ一人――」
「基地側から退艦完了が来てる! お前も持ち場へ戻れ!」
金属の扉が降り、通路を塞いだ。カイと呼ばれた少年は、閉じた隔壁を見て舌打ちした。
「本当に作業員なら、面倒なことになったな」
「私のせいじゃないよ」
「隠れてた奴がよく言うぜ」
カイは近くの小さな物資庫を開け、中を確認した。
「ここにいろ。勝手に歩き回るなよ」
「閉じ込める気かい」
「出港したら事情を聞く。変なことをしたら、今度こそ警備を呼ぶ」
ミハルが黙っていると、カイは腰の袋から水の容器と保存食を一つ取り出し、棚へ置いた。
「腹が鳴ってるぞ」
「聞き間違いさ」
「そういうことにしといてやるよ」
カイは扉を閉めかけ、もう一度ミハルを見た。
「俺が戻るまで動くなよ」
「分かったよ」
足音が遠ざかってから、ミハルは保存食を手に取った。包みの中には固いビスケットが二枚入っている。一枚を口へ入れ、もう一枚は上着のポケットへしまった。持って帰れる保証など、もうどこにもなかった。
やがて床の下から低い振動が伝わり、積み上げられた箱が細かく揺れ始めた。遠くで係留設備の外れる音がする。
ホワイトベースが港を離れていく。
ミハルは上着の内側に隠した小さな紙片へ触れた。
目的地と進路。それを調べなければ、残りの金は手に入らない。
扉の向こうから聞こえていた港の音は、もう消えていた。ミハルは残したビスケットをポケットの奥へ押し込み、膝を抱えた。
手ぶらでは帰れなかった。