ベルファストの灯が見えなくなってからしばらくして、カイは物資庫へ戻った。
扉を開けると、ミハルは置いていった水にほとんど手をつけず、箱の脇に座っていた。逃げた様子はない。だからといって、作業員だという話を信じる気にもなれなかった。
「名前は?」
「先にそっちが名乗っただろ」
「俺の名前じゃなくて、お前のだよ」
「……ミハル」
「それだけか?」
「ミハル・ラトキエ。それで満足かい」
カイは扉の横へ背を預けた。
「何のために乗り込んだんだ?」
「何度も言ってるだろ。仕事ではぐれたんだよ」
「はぐれた奴が隠れて、通行証までなくすかよ」
ミハルは答えず、上着のポケットへ手を置いた。保存食の包みが少しだけのぞいている。
「まだ食ってなかったのか」
「弟と妹に持って帰るつもりだったんだよ」
「ベルファストにいるのか?」
「二人だけで待ってる」
さっきまでより、ミハルの声が少し低くなった。
カイは通路の連絡機へ目を向けた。ブライトへ知らせれば、あとは艦内の大人たちが判断する。それが一番正しい。それでも通話ボタンには手を伸ばせなかった。
「もう海の上だ。南米の基地へ着くまで、今すぐ降ろすのは無理だぞ」
「南米?」
「向こうのドックに入るまではどうにもならねえ。それ以上は知らないし、余計なことも聞くな。ここから出る時は俺を呼べ」
「私をどうするつもりなんだい」
「それを考えてるところだ」
カイは新しい水と毛布を置き、扉を閉めた。
それから三日、ミハルは後部物資区画に潜んだ。カイが食事を運び、人の少ない時間だけ洗面所へ連れ出した。二人の会話は増えなかったが、カイは弟妹の名前を知り、ミハルはホワイトベースが南米の基地へ向かっていることを知った。
◇
ベルファストを出て三日目、ホワイトベースは大西洋上を南西へ進んでいた。
昼を少し過ぎた頃、ブリッジから救難信号を受信したという放送が入った。近くを飛んでいた漁業会社の小型飛行艇が、操縦系統の故障と燃料漏れを起こしたらしい。
俺とアムロは出撃待機を命じられ、MSデッキで機体の最終確認をしていた。
『民間登録番号は照合できました。ただし、登録情報が古いままです』
セイラさんの声が艦内回線から流れる。
『乗員は二名。片方が負傷していると言っています』
『救助する。ただし収容は後部デッキに限定しろ。武器と身元を確認するまで、艦内を自由に歩かせるな』
ブライトさんの命令に迷いはなかった。疑うべきところは疑う。それでも、本当に遭難しているかもしれない人間を海へ残すことはしない。
やがて、小型飛行艇が後部デッキへ引き込まれてきた。片方の男は腕に布を巻き、もう一人が肩を貸している。二人とも油と海水で汚れ、武器らしいものは持っていなかった。
負傷していない方の男が、周囲を一度だけ見回した。助けられた人間が出口を確かめただけにも見える。けれど、その視線は人より先に、通路や扉の位置を拾っているように感じた。
「レン」
アムロに呼ばれ、俺は黒いガンダムへ向き直った。
「ごめん。何?」
「さっきから外ばかり見てる。何か気になるのか」
「あの人たち、本当に漁師なのかなって」
「身元確認はしてるんだろ」
「してる。だから、気のせいかもしれない」
整備員が飛行艇の燃料管を交換し、負傷者は医療区画で手当てを受けた。もう一人の男も、警備のついた待機区画へ移される。
その後しばらく、何も起きなかった。
◇
物資庫の外を、誰かの足音が通り過ぎた。
少しして、離れた場所から金属を叩く音が聞こえた。二度、間を置いて、もう一度。ベルファストの連絡員が使っていた合図だった。ミハルは扉を細く開けた。通路には誰もいない。もう一度、今度は角を曲がった先から同じ音がする。
人の気配を確かめながら進むと、作業着姿の男が通路の奥で待っていた。負傷者へ付き添ってきた民間機の乗員だ。近くには警備の足音がある。長く話せる状況ではなかった
「目的地は?」
「南米の連邦軍基地。大きなドックへ入るって聞いた」
男の目が細くなる。
「この航路ならジャブローだな。搭載機は?」
「白いのと黒いのと他二機くらい。どっちも動ける」
「損傷は?」
「分からない。ベルファストでも出てた」
男は短くうなずいた。
「報酬は連絡員へ渡す」
「弟と妹に届くんだろうね」
「任務が終わればな」
ミハルは男の袖をつかんだ。
「この前の攻撃で、港の人が死んだのかい」
「知る必要はない」
男は手を振りほどき、警備員が戻る前に通路の向こうへ消えた。
ミハルが物資庫へ戻ろうとすると、その前にカイが立っていた。いつもの軽口はなく、男が消えた通路を見ている。
「今の男と何を話した」
「何も」
「嘘つけ。お前、さっきまでここにいなかっただろ」
ミハルは目をそらした。
「何を話した」
「……南米へ行くってことだけさ」
カイの表情が消えた。
「俺が喋ったことか」
「そうだよ」
「ほかには?」
「白と黒のモビルスーツが動けるって」
「誰に頼まれた」
「言えない」
カイはしばらく黙っていた。
「弟と妹のためか」
「あんたには関係ないだろ」
「敵が来れば、この船にいる全員に関係あるんだよ」
低い声だけを残し、カイは物資庫を離れた。
◇
民間の飛行艇が離艦してから間もなく、カイさんがMSデッキへ戻ってきた。
顔色が悪い。いつものように文句を言うこともなく、壁の通信機を取った。
「ブリッジ、カイだ。ブライトを出してくれ」
『俺だ。どうした』
「さっきの民間機、もう一度調べられないか」
『理由を言え』
カイさんは受話器を握ったまま、少しだけ黙った。
「進路が漏れたかもしれない。南米へ向かってることと、白と黒のモビルスーツが動けることもだ」
『なぜ分かる』
「俺が余計なことを喋った。相手のことはあとで全部話す。今は海の中を警戒してくれ」
通信の向こうが静かになる。
『カイ、この件はあとで全部報告しろ。セイラ、先ほどの民間機を再照合。ミライ、針路を変更。対潜監視を最大に上げろ』
『了解』
すぐに艦内の空気が変わった。
整備員が白いガンダムと黒い一号機の固定具を外し、カタパルト周辺から人が下がる。俺とアムロもコックピットへ向かった。
『海中に反応!』
ブリッジから鋭い声が飛ぶ。
『三つです。二つは水中用モビルスーツと思われます。もう一つは――大きい。急速接近しています!』
警報が鳴った。
黒い一号機のコックピットへ乗り込み、ハッチを閉じる。起動したモニターの向こうには、暗い海面しか見えない。
その下から、重い何かが近づいていた。