リボーを出て三時間ほど経った頃、アレックスの診断表示に黄色い項目が一つ増えた。
「姿勢制御系?」
固定架の横で端末を見ていた俺に、アレックスのコックピットからクリスさんの声が返ってくる。
「故障ではないわ。地上で記録した基準値から少しずれただけ」
「長時間加速の振動ですかね」
「それもあるでしょうね。給電系統を船側へ切り替えた影響も見たいから、今は消さずに残します」
アレックスは第一固定架へ立ったまま、何本ものケーブルで輸送艇へ繋がれている。外装は閉じられているが、機体そのものは眠っているわけではない。最低限の電力を受けながら、内部のセンサーと制御系はずっと自分の状態を記録していた。
俺は地上試験時の数値を呼び出し、今の表示と並べる。
「右側だけ少しずれてます」
「固定具の位置も確認して」
「固定具側は正常。機体が動いたわけじゃないですね」
「となると制御側ね」
クリスさんがコックピットから降りてきた。無重力用の手すりを掴み、俺の端末を横から覗き込む。
「姿勢制御装置が、自分で動けない状態でも補正を続けようとしているのかもしれない」
「固定されてるから、補正を入れても姿勢が変わらない。それで誤差だけが残った?」
「可能性はあります。実際に浮かせないと確定できないけど」
「結局、アムロを乗せてからですね」
輸送中に確認できることは多い。でも、固定架へ縛ったままでは分からないことも多かった。俺とクリスさんは表示を警告から保留項目へ移し、ホワイトベース到着後の確認一覧へ追加した。
「二人とも」
格納庫の入口からララァが声をかけてくる。手には飲料パックと、温められた食事の容器が三つあった。
「そろそろ食事の時間です」
「もうそんな時間?」
クリスさんが腕時計を見る。
「予定より一時間以上過ぎています」
ララァの声は穏やかだったが、端末を閉じるまで動きそうにない。
「この項目だけ終わらせたら」
「先ほどもそう言っていました」
「レン君も?」
「俺はクリスさんに付き合ってただけです」
「最初に格納庫へ来たのはレン君でしょう」
逃げ道を塞がれた。ララァは俺たちを交互に見てから、食事容器を壁際の簡易卓へ固定する。
「お二人とも同じです」
反論できない。俺たちは作業を一度止め、三人で簡易卓を囲んだ。高速輸送艇の食事はホワイトベースより種類が少ない。保存食を温めただけのものが多いし、食堂も狭い。それでも警報も出撃命令もない状態で座って食べられるだけ、かなりましだった。
「ホワイトベースも、いつもこんな感じ?」
クリスさんが容器の蓋を開けながら聞く。
「食事を忘れる人が多いという意味なら、たぶん」
「そこじゃなくて」
「冗談ですよ」
「レン君が言うと冗談に聞こえないのよね」
ララァが少し笑った。
「ホワイトベースは、もっと人が多くて賑やかです」
「軍艦なのに?」
「軍艦ですけど、軍人だけが乗っていた艦ではありませんから」
ララァは避難民や子どもたちがいたことを、細かく説明しすぎない範囲で話した。正規軍人ではなかった人間が、そのまま艦を動かしてきたこと。最初は何もできなかった人たちが、今ではそれぞれの仕事を持っていること。
クリスさんは手を止めずに聞いていた。
「ずいぶん変わった艦ね」
「かなり変わってますよ」
「レン君が普通に見えるくらい?」
「それはないと思います」
ララァの返事が早かった。
「そこは否定してくれてもよくない?」
「難しいです」
「ララァまでクリスさん側になってない?」
「私はどちらの側でもありません」
そう言いながら、ララァは楽しそうだった。クリスさんも笑っている。リボーで会ってからまだ一週間も経っていない。それでも今では、三人で黙って食事をする方が変に感じるくらいにはなっていた。
「でも、少し安心したわ」
クリスさんが言う。
「何がです?」
「アレックスを届ける先よ。命令書だけでは、どんな艦か分からなかったから」
「安心できました?」
「余計に分からなくなった気もするけど」
「着けばすぐ分かりますよ」
「レン君があれだけ無茶をしても戻ろうとする艦ですから」
クリスさんの声が少しだけ真面目になる。
「悪い場所ではないんでしょうね」
俺はすぐには答えなかった。ホワイトベースは安全な場所じゃない。何度も沈みかけたし、次はソロモンだ。戻ればまた戦うことになる。それでも、あそこへ帰ることを疑ったことはなかった。
「まあ、居場所ではあります」
それだけ言うと、クリスさんは小さく頷いた。
◇
移動中の五日間は、機体の診断と書類整理をしているうちに過ぎていった。アレックスの警告は増えなかった。最初に出た姿勢制御系のずれも一定値で止まり、輸送状態なら問題ないと判断された。ただし解消したわけではない。実機を固定架から外し、宇宙空間で動かさなければ確認できない。
ジム・コマンドの方は安定していた。輸送前の診断記録と大きな差はなく、護衛機として使うだけならすぐにでも出せるらしい。
十二月十八日。
俺が格納庫へ入ると、ララァが調整用シミュレーターの横で訓練データを見ていた。
「また乗るの?」
「今日は見ているだけです」
表示されているのは、前に失敗した停止操作だった。
「気になる?」
「はい。止まろうとすると、反対へ進んでしまったので」
「最初はそんなものだよ」
「レンもですか?」
「俺も最初から全部できたわけじゃないよ」
「そうなんですね」
少し意外そうな顔をされた。
「俺をなんだと思ってるの?」
「最初からできる人かと」
「ララァまでそういうこと言うのか」
準備してきたとはいえ、操縦桿を握った最初の日から今と同じだったわけじゃない。
「また時間がある時にやりましょう」
後ろからクリスさんが入ってくる。
「基礎設定なら、ホワイトベースへ移した後でも使えると思うわ」
「同じ設備はあるのでしょうか」
「シミュレーターはあるよ。それぞれの設定もあるしアレックスのも入れればたぶん使える」
「そうですか」
ララァは訓練データを個人端末へ保存した。そこで船内通信が鳴る。
『ホワイトベースからの識別信号を受信。予定航路上、距離二万八千。合流手順へ移行します』
三人とも同時に顔を上げた。
「予定より少し早いですね」
ララァが端末を閉じる。
「艦隊側が航路を寄せてくれたのかも」
俺は格納庫を出て、前方観測室へ向かった。まだ肉眼では見えない。それでも通信画面には、見慣れた識別番号が表示されていた。
ホワイトベース。
それを見ただけで肩から力が抜ける。ララァも隣で画面を見ていた。
「戻ってきましたね」
「まだ距離はあるけどね」
「それでも、もう分かります」
クリスさんは少し離れた場所で制服の襟を直している。
「緊張してます?」
「初めて入る部隊ですから、少しはね」
「ブライトさんは怖そうに見えますけど、話は通じますよ」
「その説明、安心させてるつもり?」
「一応」
「逆効果だと思います」
ララァが静かに付け加えた。
「でも、きちんと話を聞いてくださる方です」
「ララァの説明の方が安心できるわね」
「俺の立場は?」
「日頃の行いでしょう」
クリスさんが笑う。俺は言い返そうとしたが、その前にホワイトベースから通信が入った。
『こちらホワイトベース。高速輸送艇の識別を確認した。受領機体と人員の状態を報告せよ』
ブライトさんの声だった。久しぶりに聞くと、少し懐かしい。ララァが通信席へ入り、準備していた報告書を送信する。
「受領機体二機、輸送状態に異常ありません。未解決の診断項目あり。ジム・コマンドは護衛運用可能。搭乗者一五名、乗員ともに問題ありません」
『了解した。合流後、機体を順次移送する。レン少尉』
「はい」
『戻ったら直接報告しろ』
「分かりました」
短いやり取りだった。
でも、いつものブライトさんだった。
◇
十二月十九日。
高速輸送艇はホワイトベースの側面へ接舷した。連結部の固定音が船体へ響き、通路の表示が赤から緑へ変わる。先に人員が移動し、その後で二機のモビルスーツを作業用アームと曳航索で移す手順になっていた。
接続通路の扉が開く。向こう側に立っていたのはブライトさんとミライさん、それにアムロだった。
「帰還しました」
俺が言うと、ブライトさんは一度だけ頷いた。
「任務ご苦労だった。詳しい報告は後で聞く」
「はい」
ミライさんがララァを見る。
「お帰りなさい。無事でよかったわ」
「ただいま戻りました」
ララァの表情が少し緩んだ。アムロは俺の前まで来て、しばらく顔を見た。
「遅かったね」
「予定どおりだよ」
「分かってるよ」
それだけで十分だった。クリスさんが通路へ入る。
「地球連邦軍中尉、クリスチーナ・マッケンジーです。アレックスの試験、調整担当として合流します」
「ホワイトベース艦長、ブライト・ノア中尉だ」
ブライトさんが答える。
「機体の現状は報告書で確認した。到着直後の使用はできないと考えていいのか?」
「はい。輸送自体に問題はありませんが、宇宙用姿勢制御と火器管制の確認が残っています。何より、搭乗予定者本人の操作を使った最終調整が必要です」
クリスさんの視線がアムロへ向く。
「アムロ・レイ曹長ですね?」
「はい」
「あなたの最新ログは確認しました。少し聞きたいことがあります」
「僕も、機体を見てから質問していいですか?」
「もちろん。ただし今日は見るだけです」
アムロの眉がわずかに動いた。
「まだ乗れないんですか?」
「乗ることはできます。でも、乗っていい状態かは別です」
「……分かりました」
不満がないわけではなさそうだった。それでも理由を聞かずに反発することはない。俺たちは格納庫へ移動した。高速輸送艇の第一固定架から、アレックスがゆっくりと引き出される。白と青の機体が作業灯に照らされ、ホワイトベースの格納庫へ入ってきた。
アムロが無言で見上げる。
「これが、僕のために?」
「そうらしいよ」
「レンは乗ってないんだよな?」
「乗ってない。シミュレーターで少し動かしただけ」
アムロはアレックスの肩、脚部、バックパックへ順に目を向けた。
「二号機より姿勢制御が細かそうだね。スラスターも多い……でも、これだけ増やしたら補正が重ならないか?」
「そこが残ってる問題の一つです」
クリスさんが答える。
「あなたの入力は次の動作へ入るのが早い。機体側の補正とぶつかる可能性があります」
「僕のログを入れても?」
「ログだけでは足りません。あなた本人が何を見て、どこで次の操作へ移るかまでは記録し切れないから」
アムロは少し考えた後、頷いた。
「二号機と比較すればいいですか?」
「ええ。まず二号機で基準を取り、その後でアレックスのシミュレーターへ入ってもらいます」
話が早い。アムロの目はもう機体の細部へ向いていた。新型を見て喜んでいないわけじゃない。ただ、そのすぐ隣には白い二号機がある。ここまで一緒に戦ってきた機体を、アレックスが届いたからといって簡単に捨てられるはずもない。
第二固定架からはジム・コマンドが移され、別の整備区画へ運ばれていく。
「中尉はあちらへ?」
ブライトさんが尋ねる。
「必要なら搭乗します。アレックスの調整中、補充戦力として使えるようにしておきたいので」
「分かった。整備班と調整してくれ」
機体の移送が終わる頃には、格納庫は前よりずっと狭くなっていた。
黒い一号機。白い二号機。そして青と白のアレックス。
三機が同じ場所へ並んでいる。俺はアレックスから離れ、一号機の前へ向かった。
外装に新しい傷はない。俺がいない間に整備された部分も、きちんと元へ戻されている。黒い装甲へ手を触れる。冷たい感触が手袋越しに伝わった。
「ただいま」
後ろでは、アムロとクリスさんがアレックスの診断画面を開いていた。ララァは受領書類を整備班へ渡し、ブライトさんとミライさんへ輸送中の記録を説明している。
新しい機体が届き、新しい人が増えた。それでも俺が戻る場所は変わらない。
白い艦の格納庫で、黒い一号機は出発した時と同じように俺を待っていた。