あの最悪な特上寿司の夜から、私の日常は音を立ててすり替わっていった。
翌朝、私がいつも通り学校へ行く準備をしていると、リビングから金属音がカチャカチャと響いている。
いつも通り、リビングに置いてあるパンを取るためにそこに行くと、スーツ姿の湊おじさんが鍵を指先で弄びながら、爽やかな、でもどこか計算された笑顔を浮かべて立っていた。
「あてらちゃん、学校まで車で送っていくよ。もう用意はできているからね」
親切な父親ぶった声。
けれど私は、その裏にある私を狭い車内に閉じ込めようとする意図を敏感に察知して、胃のあたりが重くなるのを感じた。
考えすぎかもしれないけれど、はっきり言ってどんな理由でもいいの。
この人と二人きりの密室なんて、死んでも嫌。
「いい。友達が待ってるから、歩いていく」
拒絶と嫌悪の感情を込めた呪詛のような乱暴な言い方をしてから、ローファーに足を押し込む。
早くこの家から、この男の視線から逃げ出したい。
なのに、おじさんはフッと声を立てて笑った。
低くて、品定めするような嫌な笑い声。
「へえ、友達? その友達って誰だい? もしかして……男の子?」
ピク、と私の肩が意識するよりも早く跳ねた。
「男の子なら、ちょっとまだ早いよ。あてらちゃんは僕のお姫様であり、大切な娘なんだからね。悪い虫がつかないように、パパが大切に守ってあげるよ」
頭のてっぺんから冷や水を浴びせられたような不快感が走った。
何でそこまで首を突っ込んでくるの?
昨日まで他人だったくせに、私の交友関係まで支配する権利があなたにあると思っているの?
世が世なら斬首になるわよ、それ。
沸き上がる怒りを抑えきれず、私はドアノブを掴んだまま、振り返っておじさんをキッと睨みつけた。
「……私は、貴方のことなんてパパとは認めない」
それだけを吐き捨て、私は弾かれたように家を飛び出した。
後ろでママが「ちょっと、あてら!」と金切り声をあげるのが聞こえた気がしたけれど、振り返る余裕なんてない。
どうせ、私には味方しないもん。
「おまたせ、心優ちゃん」
「あれあれ? 今日は遅刻しなかった……槍でも降ってくるのかにゃー?」
「うっさい、心優ちゃんの方がいつも遅刻してんじゃん」
「にゃははは! ネコ系の女の子を目指してる私はこれぐらいのマイペースさが魅力なのに、わかってないにゃあ」
多分ネコ系って……そういう意味じゃないと思うんだけど。
通学路のいつもの角で友達と合流すると、ようやく冷たい檻から解放されたように息がつけた。
寝癖が完全に消せていない、少しはねた髪を揺らしてふざけた語尾を多用する。
けれど憎めず、クラスでもそこそこ人気のある女の子。
そんなマイペースというか、どこか抜けている彼女、夢山心優(ゆめやまみゆう)を見ていると少しだけ嫌なことを忘れられる。
「それで、彼氏はできそうなの?」
「……にゃあ」
「おいネコ系、人の言葉を捨てたらそれはもうただのネコだぞ」
「うるさいうるさい! 昨日もどうせナンパされませんでしたよ、ベー!」
「そもそも中学生ナンパする男なんてろくなもんじゃないんだし、大人しくクラスの男子から探しなよね」
「でも……うぅ……」
他愛のないおしゃべりをしながら、並んで学校へと向かう。
いつも通りの景色、いつも通りの日常。
あのおじさんのいない世界が、どれほど愛おしいか。
けれど、その安心は校門が見えてきたところで、一瞬にして凍りついた。
ざわざわと生徒たちが行き交う校門の手前。
何気なく、本当にふと、何か嫌な予感がして後ろの道路を振り返った時だった。
遠く、通学路の曲がり角の脇に。
見覚えのある、あの男の黒い車が、エンジンをかけたまま静かに停まっているのが見えた。
フロントガラスの奥は反射してよく見えない。
けれど、あの暗がりの向こうから、じっと私を見つめるねっとりとした視線だけが、まっすぐに突き刺さってくるのがわかった。
送っていくのを断られたのに、わざわざ後ろをストーキングしてついてきていたのだ。
心臓が、ドクンと嫌な音を立てる。
初夏の朝の空気の中で、私だけが、底知れない寒さに震えている。
「早くいこ」
「え、あてらちゃん!? 早い、早いにゃあ!」
その日の朝の全校集会で、私の淡い希望は粉々に打ち砕かれた。
「今月から新しく赴任された、数学の先生です」
校長先生に呼び込まれて、教壇に上がってきた男の姿を見た瞬間、私は自分の目を疑った。
何度か目をこすり、頬をつねってみる。
心臓が跳ね上がり、冷や汗が背中を伝っていく。
仕立ての良いスーツ。
爽やかな髪型。
そこに立っていたのは、紛れもなく、今朝私を車でストーキングしていた湊おじさんだった。
おじさんは、眩しいほどの笑顔を全校生徒に向けた。
その完璧な爽やかイケメン教師の仮面に、女子生徒たちから一斉に「かっこいい……!」「ヤバい」と黄色い歓声が上がる。
「今日からみんなに数学を教える神目湊です。趣味は車とゲームとスポーツで……あ、最近発売したあの新作も買ってみたんだけど、これが面白くてね、昨日も夜遅くまで……」
「ごほん! えー、先生はこのようにユーモアのある明るい人ですから、みなさんもわからないことはどんどん聞いていって下さいね」
「あはは……あー、やっちゃったなぁ」
笑いながら頭をポリポリとかくその姿に男子たちも親しみやすそうな先生だと勘違いし、一瞬で引き込まれていく。
休み時間になると、おじさんはあっという間にうちのクラスの生徒たちに囲まれた。
おじさんは器用に冗談を飛ばして男子たちの笑いを誘い、女子たちからの質問に優しく答えている。
誰もが新しい人気教師に夢中だった。
けれど、私にはその全てが、吐き気がするほど嘘っぽく見えて仕方がなかった。
あんなの、全部演技だ。
昨日、ママの目の前で私に間接キスを仕掛けて、ニヤニヤ笑っていたあの生温かい化物と同じ人間だなんて、誰も気づいていない。
輪に入らず、自分の席で凍りついている私に気づくと、おじさんは周囲の生徒たちに「ちょっとごめんね」と言って、私の席へと近づいてきた。
クラスメイトたちの視線が、一斉に私に集まる。
「あてらちゃん」
「……何、先生」
私が精一杯の拒絶を込めて先生と呼ぶと、おじさんは困ったように眉を下げ、いかにも“不器用だけど必死な父親”という顔を作ってみせた。
「……今朝はごめんね。僕は、ただ一緒に学校に行こうと思っていただけなんだ。でも、急にやってきた『新しい父親』はどう接したらいいのか、僕も分からなくて空回りしちゃったんだ。嫌な思いをさせて悪かったよ」
周囲の女子たちが「えっ、あてらの新しいお父さんなの!?」とざわめき立ち、すぐに「超優しそうじゃん!」「あてら、あんなイケメンなパパができて羨ましい!」と口々に言い始めた。
違う。
騙されないで。
この男は今朝、私の友達関係を男か女か執拗に聞いてきて、断られたのに車でストーキングしてきたんだよ。
そう叫びたかったけれど。
「早くあてらちゃんと『本当の家族』になれるように、パパ、学校でも家でも頑張るからね」
おじさんは、周りの生徒には見えない角度で、私にだけあの夜と同じ――ねっとりとした、歪んだ瞳を向けて微笑んだ。
そのせいで、浮かび上がった言葉が消えていく。
文字どおり、頭が真っ白になったわ。
周りのみんなは「いいパパだなあ」なんてあのおじさんを絶賛している。
誰も私の味方はいない。
私の言葉なんて、きっと誰も信じてくれない。
学校という私の聖域は、完全にあの男の手によって、逃げ場のない檻へと作り変えられてしまった。