火の匂いがした。
雨の降らぬ夜だった。雲は低く、月は墨で塗りつぶされたように見えない。だが、闇は闇のままではいられなかった。山城のあちこちから火の手が上がり、黒い空を赤く染めていた。
城下から悲鳴が聞こえる。
女の声。子の泣き声。馬のいななき。槍と槍が打ち合う乾いた音。火薬の焦げた臭い。焼けた木材の爆ぜる音。
そのすべてが、風に乗って本丸へ押し寄せていた。
伊吹宗十郎は、血のついた刀を握り直した。
二十七歳。
若すぎるとは言えぬ。だが、死ぬにはまだ早すぎる年だった。
彼の具足は泥と煤にまみれていた。左肩には矢傷があり、右の頬には敵兵の槍先が掠めた傷が赤く走っている。息を吸うたびに胸が痛んだ。いつの間に折れたのか、肋のあたりがじくじくと疼いていた。
それでも宗十郎は立っていた。
城の石段の上に。
主君の館へ続く最後の道に。
敵の足音が、下から迫ってくる。
「兄上!」
背後から声がした。
振り返ると、弟の新九郎がいた。まだ十七だった。初陣ではないが、まともな合戦を知ったとは言えない若さだ。兜の緒はほどけ、手に持った槍の穂先は欠けている。顔は白く、唇が震えていた。
「若殿は」
宗十郎は短く問うた。
新九郎は目を伏せた。
それだけでわかった。
宗十郎は一瞬だけ目を閉じた。
主家は終わった。
この城も、もう終わる。
幼い頃より仕えた家だった。父も祖父もこの家に仕えた。名のある大名ではない。大国のあいだで揺れる小さな国人領主に過ぎなかった。それでも、宗十郎にとっては世界そのものだった。
春には山桜が咲き、夏には沢の水が冷たく、秋には稲穂が金色に垂れ、冬には城の屋根が白く染まる。
そのすべてが、今、燃えていた。
「兄上、もう駄目だ。落ち延びよう。裏の獣道なら、まだ」
「母上は」
「……奥方様と共に」
新九郎の声がそこで詰まった。
宗十郎は何も言わなかった。
言えば、何かが崩れる気がした。
階下で怒号が上がった。
「いたぞ!」
敵兵が三人、石段を駆け上がってくる。
宗十郎は刀を下げたまま、静かに息を吸った。
一人目の槍が突き出される。
宗十郎は半歩だけ左へ流れた。槍の穂先が脇を抜ける。次の瞬間、彼の刀は敵の首筋に入っていた。骨に当たる重い感触。引き抜きながら体を回し、二人目の足を払う。倒れた敵の喉へ刃を落とした。
三人目が怯んだ。
宗十郎は踏み込む。
敵は刀を構えたが、遅かった。宗十郎の刃は相手の手首を裂き、そのまま胴へ吸い込まれた。
血が石段に広がる。
宗十郎は息を吐いた。
刀が重い。
人を斬るたび、魂まで削られていくようだった。
「兄上……」
「新九郎」
宗十郎は弟を見た。
「生きろ」
新九郎は目を見開いた。
「嫌だ」
「命じる」
「嫌だ!」
少年の叫びが、燃える城に響いた。
「兄上を置いてなど行けるか! 伊吹の家はもう終わりだ! ならば俺もここで」
「終わりではない」
宗十郎は言った。
自分でも驚くほど静かな声だった。
「お前が生きれば、終わりではない」
新九郎の目に涙が溜まった。
宗十郎は弟の肩を掴んだ。
「よく聞け。裏の獣道を下り、北の寺へ行け。住職に父上の名を出せ。匿ってくれる。髷を落とせ。百姓になれ。商人になれ。何でもいい。伊吹の名を捨ててもいい」
「そんなこと」
「生きろ」
宗十郎は弟の胸を拳で叩いた。
「生きることは恥ではない」
その言葉は、自分に言い聞かせているようでもあった。
新九郎は唇を噛み、血が滲むほど噛み、やがて深く頭を下げた。
「兄上」
「行け」
新九郎は走った。
一度だけ振り返った。
宗十郎は手を振らなかった。
振れば、追いかけてしまいそうだったからだ。
弟の姿が闇に消える。
宗十郎は再び石段を見下ろした。
敵兵が増えていた。
十人。
二十人。
火の光を背に、槍の穂先がぎらぎらと揺れている。
その中から、派手な陣羽織を着た男が進み出た。
「伊吹宗十郎と見た」
宗十郎は答えない。
「その腕、惜しいな。降れば命は助ける」
宗十郎は笑った。
喉の奥から、乾いた笑いが漏れた。
「命を助ける?」
「ああ。新しき主に仕えよ。今どき主家と心中するなど古いぞ」
「そうか」
宗十郎は刀を構えた。
「ならば古い侍の斬り方を見ていけ…!」
敵の顔が歪んだ。
「殺せ!」
槍が押し寄せる。
宗十郎は踏み込んだ。
最初の槍を弾き、二本目を避け、三本目を左腕で受けた。刃が肉を裂く。痛みは遅れて来た。その前に敵の喉を斬った。
石段は狭い。
数で勝る敵も、一度にかかれるのは三人まで。
宗十郎はそこに賭けた。
斬る。
突く。
かわす。
押す。
蹴落とす。
敵兵が石段を転げ落ち、下の兵を巻き込んだ。
宗十郎の足元は血で滑った。刀は刃こぼれし、手の内は痺れていた。左腕はほとんど上がらない。肩の矢傷から血が流れ続けている。
それでも彼は倒れなかった。
倒れれば、すべてが終わる。
弟が逃げる時間を稼ぐ。
ただそれだけが、彼を立たせていた。
何人斬ったか、もうわからない。
やがて敵は正面から来なくなった。
宗十郎の背後で、瓦の落ちる音がした。
振り向く。
遅かった。
横手の塀を越えた敵兵が、火縄銃を構えていた。
轟音。
胸に衝撃が走った。
世界が揺れた。
宗十郎は膝をついた。
痛みはなかった。ただ、息ができなかった。
火縄銃の弾は胴を貫かなかった。具足に弾かれたのだろう。だが衝撃で意識が飛びかけた。
その隙に、槍の柄が首筋を打った。
視界が白く弾ける。
倒れる寸前、宗十郎は見た。
燃える城。
赤い空。
落ちていく旗。
主家の家紋が、炎に呑まれていく。
彼は土に頬をつけた。
敵兵の足が周囲を囲む。
「生きているぞ」
「殺すな。こいつは値がつく」
「侍崩れは南蛮人が欲しがる」
声が遠い。
南蛮人。
値がつく。
その意味を考えるより早く、闇が彼を呑み込んだ。
目を覚ましたとき、宗十郎は縛られていた。
両手は背中で縄を打たれ、足首にも縄があった。口の中は乾き、舌が上顎に張りついている。頭が割れるように痛い。
彼は土間の上に転がされていた。
周囲には他にも人がいた。
足軽。百姓。女。子供。老人。
皆、同じように縄を打たれている。
すすり泣く声がした。
誰かが水を求めている。
誰かが母を呼んでいる。
宗十郎は上体を起こそうとした。だが、背中に激痛が走り、うめき声が漏れた。
「動くな」
近くで声がした。
見ると、同じく縛られた老足軽がいた。顔半分が腫れ上がっている。
「あんた、伊吹様のところの侍だろう」
「ここは」
「城下の米蔵だ。捕まった者を集めている」
「何人いる」
「知らん。百は超えている」
宗十郎は歯を食いしばった。
「処刑か」
老足軽は首を振った。
「女と子供は売られる。男も若ければ売られる。年寄りは……たぶん殺される」
「どこへ」
「知らん。ただ、南蛮船だと聞いた」
宗十郎は黙った。
南蛮船。
それがどこへ行くのか、彼は知らなかった。
だが、噂は聞いたことがある。
九州の港には異国の船が来る。鉄砲、火薬、絹、薬、硝子。見たこともない品々を積んでくる。その代わりに銀や刀、漆器、そして人を持ち帰ると。
人。
人が品として売られる。
宗十郎は奥歯を噛んだ。
己が戦に負けたことは受け入れられる。
首を取られることも覚悟していた。
だが、売られるとは何だ。
侍として死ぬことすら許されぬのか。
土間の入口が開いた。
光が差し込む。
敵兵が数人入ってきた。後ろに商人らしき男がいる。丸い腹をした中年で、指には大きな指輪をはめていた。
商人は捕虜たちを品定めするように見回した。
「若い女は別にしろ。子供もだ。男は傷が浅い者を選べ」
敵兵が捕虜を引きずり始めた。
泣き声が上がる。
「いやだ!」
「母ちゃん!」
「離して!」
宗十郎は立ち上がろうとした。
縄が食い込む。
隣の老足軽が慌てて囁いた。
「やめろ。今は無理だ」
だが、宗十郎の体は勝手に動いていた。
幼い女の子が、母親から引き剥がされている。母親は必死に子を抱えようとするが、兵に顔を殴られた。
宗十郎は膝でにじり寄った。
兵が気づいた。
「何だ、貴様」
宗十郎は体当たりした。
縛られたままの無様な突進だった。だが、鍛えた身体の重みは十分だった。兵は倒れ、女の子が床に転がる。
次の瞬間、宗十郎の背に棒が叩き込まれた。
一度。
二度。
三度。
息が詰まる。
それでも彼は女の子の前に身を置いた。
商人が近づいてきた。
宗十郎を見下ろす。
「ほう。こいつか。城で暴れた侍というのは」
敵兵が言った。
「はい。十人以上斬りました」
「傷は?」
「肩と腕。胴は無事です」
商人は宗十郎の顎を足で上げた。
「目がいい」
宗十郎は商人を睨んだ。
商人は笑った。
「よい値がつくぞ。こういう獣は、海の向こうで喜ばれる」
宗十郎は唾を吐いた。
商人の足袋に血の混じった唾がかかる。
場が凍った。
商人の顔から笑みが消えた。
「歯を折るな。値が下がる」
そう言って、商人は宗十郎の腹を蹴った。
何度も。
宗十郎は体を丸めた。
女の子の泣き声が耳に残った。
遠くで誰かが叫んでいた。
だが、やがてすべてがぼやけていった。
彼らは歩かされた。
山を越え、川を渡り、焼け跡から遠ざかっていく。
縄で数珠つなぎにされ、十人ずつの列にされた。逃げようとした者はその場で斬られた。歩けなくなった老人は道端に捨てられた。泣く子を抱えた母親は、兵に急かされながら足を引きずった。
宗十郎は列の中ほどにいた。
手は前で縛られている。逃げられぬよう、首にも縄がかけられていた。少しでも遅れれば首が締まる。
左腕の傷は膿み始めていた。
熱がある。
視界が揺れる。
それでも彼は歩いた。
歩きながら、周囲を見た。
兵の数。
道の幅。
森の深さ。
水場の位置。
逃げる機会を探していた。
だが、捕虜には女と子供が多すぎた。逃げれば何人かは助かるかもしれない。しかし大半は斬られる。宗十郎ひとりなら縄を解く機会もあったかもしれない。だが、彼は動けなかった。
そのことが、何より苦しかった。
ある夕暮れ、彼らは川辺で休まされた。
兵たちは焚き火を囲み、酒を飲んでいる。捕虜には乾いた粟飯が少し配られた。水は濁った川の水だけだった。
宗十郎は粟飯を口に入れたが、喉を通らなかった。
隣に座る少年が、じっと彼の手元を見ていた。
十歳ほどだろうか。頬がこけ、唇が切れている。
「食え」
宗十郎は粟飯を差し出した。
少年は首を振った。
「腹が減っているだろう」
「母ちゃんに」
少年は少し離れた場所を見た。
そこには、疲れ切った女が横たわっていた。おそらく少年の母だ。熱があるのか、顔が赤い。
宗十郎は黙って立ち上がろうとした。
縄が鳴る。
見張りが睨む。
「座っていろ」
宗十郎は見張りを見返した。
「水をやるだけだ」
「駄目だ」
「死ぬぞ」
「死ねば荷が減る」
宗十郎の中で、何かが冷たくなった。
怒りではない。
もっと深く、もっと静かなものだった。
彼は座り直し、自分の椀に川水を汲んだ。そして縄が許す範囲で少年へ渡した。
「母に飲ませろ」
少年は震える手で椀を受け取った。
「お侍様、ありがとう」
「侍ではない」
宗十郎は言った。
少年が不思議そうに見る。
宗十郎は燃える城を思い出した。
主君は死んだ。
家は滅んだ。
刀は奪われた。
名も、禄も、居場所もない。
「もう、侍ではない」
その言葉は、彼自身の胸を深く斬った。
夜が更けた。
捕虜たちは眠った。
眠ったというより、気絶するように倒れた。
宗十郎は眠れなかった。
川の音を聞きながら、空を見上げる。
雲の切れ間に星があった。
その星は、城で見た星と同じはずだった。
だが、なぜか異国のものに見えた。
自分はどこへ連れて行かれるのか。
海の向こうとは、どこなのか。
弟は逃げられたのか。
母は本当に死んだのか。
考えても答えは出ない。
ただ、ひとつだけはっきりしていた。
このままでは終われない。
宗十郎は縄の食い込む手首を見た。
血が滲んでいる。
縄。
この細い麻の束が、彼の命を支配している。
城を守った刀より、主君の命より、武士の誇りより、今はこの縄のほうが強い。
宗十郎はゆっくりと拳を握った。
いつか断つ。
この縄を。
己のものだけではない。
人を物のように縛る、すべての縄を。
その誓いは、まだ言葉にならなかった。
ただ胸の奥で、小さな火のように燃え始めていた。