LIBERDADE   作:武インパクト豊

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第二章 南蛮船

 

 

 

 港に着いたのは、城が落ちてから十日ほど後だった。

 

 宗十郎はその日を生涯忘れなかった。

 

 海を初めて見た日ではない。

 

 幼い頃、父に連れられて海辺の村へ行ったことがある。塩の匂い。白い波。漁師たちの声。干された網。焼いた魚の香ばしさ。海とは、豊かさの象徴だった。

 

 だが、その日見た海は違った。

 

 港は人で溢れていた。

 

 商人、僧、足軽、荷運び、異国人。

 

 見たこともない服を着た者たちが歩いている。肌の色の違う者。髭を伸ばした者。鼻の高い者。黒い帽子をかぶった者。十字の飾りを胸に下げた者。

 

 彼らは大声で喋っていた。

 

 宗十郎にはまるで意味がわからない。

 

 港には巨大な船があった。

 

 山のようだった。

 

 和船とはまるで違う。腹が丸く、帆柱は高く、幾枚もの帆が畳まれている。黒い船体には砲門が並び、まるで海に浮かぶ城のようだった。

 

 捕虜たちの列がざわめいた。

 

「あれに乗せられるのか」

 

「嫌だ」

 

「どこへ行くんだ」

 

「助けて」

 

 兵が怒鳴る。

 

「黙れ!」

 

 鞭が鳴った。

 

 その音に、子供が泣き出す。

 

 宗十郎は船を睨んだ。

 

 船の横腹に、見知らぬ文字が描かれている。

 

 読み方はわからない。

 

 ただ、その文字が自分たちを呑み込む口のように見えた。

 

 捕虜たちは港の端にある倉へ押し込まれた。

 

 そこには、すでに多くの人間がいた。

 

 日本人だけではない。

 

 肌の黒い男たちがいた。

 

 褐色の肌をした女たちがいた。

 

 髪を布で巻いた老人がいた。

 

 言葉は通じない。

 

 だが、目は同じだった。

 

 怯え。

 

 怒り。

 

 諦め。

 

 飢え。

 

 宗十郎はそこで初めて知った。

 

 自分たちだけではないのだ。

 

 この世には、これほど多くの人間が、縄を打たれ、売られ、運ばれている。

 

 倉の中は臭かった。

 

 汗、血、糞尿、腐った藁、海水、薬草、死にかけた者の息。

 

 すべてが混ざり、喉に貼りつく。

 

 宗十郎は壁際に座らされた。

 

 隣には、背の高い黒い肌の男がいた。

 

 宗十郎より頭ひとつ大きい。肩幅は熊のようで、腕には古い傷跡がいくつもある。首には鉄の輪がはめられていた。

 

 男は宗十郎を見た。

 

 宗十郎も見返した。

 

 互いに言葉はない。

 

 しばらくして、男は自分の胸を叩いた。

 

「ンガリ」

 

 宗十郎は眉を寄せた。

 

 男はもう一度言った。

 

「ンガリ」

 

 名だと気づいた。

 

 宗十郎は自分の胸を叩いた。

 

「宗十郎」

 

「ソウ……ジュロ」

 

 男はたどたどしく繰り返した。

 

 宗十郎は頷いた。

 

 男は少し笑った。

 

 その笑みが、ひどく人間らしかった。

 

 こんな場所で、こんな状況で、名を交わす。

 

 それだけで、かすかに救われる気がした。

 

 夜、倉の扉が開いた。

 

 異国人が入ってきた。

 

 肌は白く、髭が濃い。黒い服を着て、腰には細い剣を下げている。背後には通訳らしき日本人がいた。

 

 白人の男は捕虜たちを見回し、何かを言った。

 

 通訳が声を張る。

 

「これより船に乗せる。逆らう者は殺す。病の者、歩けぬ者も殺す。従えば飯は与える」

 

 捕虜たちが騒ぐ。

 

 白人の男は顔色ひとつ変えない。

 

 通訳は続けた。

 

「お前たちは新しい主人に仕える。よく働けば生きられる。逃げれば死ぬ」

 

 宗十郎は通訳を睨んだ。

 

 通訳の男は目を逸らした。

 

 同じ国の言葉を話す者が、同じ国の者を売る。

 

 戦場で敵に斬られるよりも、そのことのほうが宗十郎には堪えた。

 

 列が動く。

 

 捕虜たちは鎖につながれ、倉から出された。

 

 夜の港には松明が並んでいた。

 

 南蛮船が闇に浮かんでいる。

 

 波が船腹を叩く。

 

 ぎい、ぎい、と木が軋む。

 

 船へ渡る板がかけられていた。

 

 その板を、一人ずつ渡らされる。

 

 女が泣き叫び、海へ飛び込もうとした。

 

 兵が髪を掴んで引き戻し、殴った。

 

 宗十郎の前にいた老人は、足が震えて進めなかった。

 

 異国の船員が苛立った声を上げ、老人を突き飛ばした。

 

 老人は板から落ちた。

 

 鈍い音。

 

 船と岸壁の間に体が挟まった。

 

 悲鳴は一瞬で消えた。

 

 誰も助けなかった。

 

 列は進む。

 

 宗十郎は拳を握った。

 

 爪が掌に食い込む。

 

 怒りで目の前が赤く染まる。

 

 だが、何もできない。

 

 刀はない。

 

 縄と鎖がある。

 

 敵は多い。

 

 海は深い。

 

 船に乗った瞬間、宗十郎は知った。

 

 ここは城よりも狭い牢だ。

 

 そして、この牢は海を渡る。

 

 彼らは船倉へ押し込まれた。

 

 暗い。

 

 低い。

 

 臭い。

 

 人が横になるだけの板が何段にも組まれている。そこに鎖で繋がれた者たちが詰め込まれていた。身動きもできないほど狭い。

 

 宗十郎の足首に鉄枷がはめられた。

 

 冷たい鉄が皮膚に触れる。

 

 鎖が床の輪に通される。

 

 逃げ場はない。

 

 船倉の扉が閉じられた。

 

 闇。

 

 誰かが泣く。

 

 誰かが祈る。

 

 誰かが叫ぶ。

 

 誰かが嘔吐する。

 

 宗十郎は目を閉じた。

 

 揺れが始まった。

 

 船が動く。

 

 港を離れる。

 

 国を離れる。

 

 彼の知る世界が、遠ざかっていく。

 

 その時、隣から低い声がした。

 

「ソウジュロ」

 

 ンガリだった。

 

 暗闇の中、彼の目だけがかすかに見えた。

 

 宗十郎は答えた。

 

「ンガリ」

 

 ンガリは鎖を持ち上げた。

 

 鉄が鳴る。

 

 そして、自分の胸を叩いた。

 

 次に宗十郎の胸を指した。

 

 最後に、鎖を睨んだ。

 

 言葉は通じない。

 

 それでも意味は伝わった。

 

 お前も俺も、同じだ。

 

 宗十郎はゆっくり頷いた。

 

 船倉の闇の中で、最初の絆が生まれた。

 

 海は地獄だった。

 

 陸の牢なら、まだ土を踏める。

 

 空も見える。

 

 夜には虫の声がする。

 

 だが船倉には何もない。

 

 狭い板の上に寝かされ、鎖で繋がれ、排泄もその場でさせられる。食事は日に二度。腐りかけた豆、硬いパン、水とも泥ともつかぬ液体。病人が出ても手当てはない。死ねば鎖を外され、海へ捨てられる。

 

 最初の死者は、出航から三日目に出た。

 

 若い女だった。

 

 熱に浮かされ、母を呼びながら死んだ。

 

 船員が来て、足首の枷を外し、髪を掴んで引きずっていった。

 

 甲板から水音がした。

 

 それだけだった。

 

 名も知らぬ女の生は、波に呑まれて終わった。

 

 宗十郎はその音を聞いた。

 

 そして、忘れないと誓った。

 

 五日目、子供が死んだ。

 

 七日目、老人が死んだ。

 

 九日目、病が広がった。

 

 船倉の中では、言葉の違う者たちが互いの死を見つめていた。

 

 誰も何もできなかった。

 

 だが、人間は地獄の中でも人間であろうとする。

 

 褐色の肌をした女が、泣く子に歌を歌った。

 

 髭の老人が、見知らぬ神に祈りを捧げた。

 

 ンガリは自分の水を、熱を出した少年へ分けた。

 

 宗十郎は、弱った者の体を支え、食べ物を噛み砕いて子供に与えた。

 

 船員に見つかれば鞭を打たれた。

 

 それでも、誰かが誰かを助けた。

 

 そのことだけが、船倉の闇の中で消えない灯だった。

 

 ある日、船倉へ新しい男が降りてきた。

 

 奴隷ではない。

 

 船員でもない。

 

 腰に短剣を下げ、首から十字架を提げていた。白人だったが、他の船員より若く、顔には疲労が刻まれていた。手には水桶を持っている。

 

 通訳はいない。

 

 男は何かを言いながら、水を配り始めた。

 

 船員たちのように怒鳴らない。

 

 鞭も持っていない。

 

 宗十郎の前に来ると、男は膝をつき、水を差し出した。

 

 宗十郎は警戒した。

 

 男は自分の胸に手を当てた。

 

「ミゲル」

 

 名だ。

 

 宗十郎は少し迷い、答えた。

 

「宗十郎」

 

「ソウ……ジュロ」

 

 ミゲルは微笑んだ。

 

 それから、宗十郎の肩の傷を見た。

 

 眉をひそめる。

 

 布を取り出し、薬草の匂いのする軟膏を塗ろうとした。

 

 宗十郎は反射的に身を引いた。

 

 ミゲルは両手を上げた。

 

 敵意はない、という仕草だった。

 

 ンガリが低く唸る。

 

 ミゲルは怯えながらも逃げなかった。

 

 宗十郎はしばらく彼を見た。

 

 やがて、肩を差し出した。

 

 軟膏が傷に触れる。

 

 染みた。

 

 宗十郎は顔を歪めた。

 

 ミゲルは小さく謝るように言い、手早く布を巻いた。

 

 その手つきは慣れていた。

 

 医者か。

 

 いや、僧か。

 

 宗十郎にはわからない。

 

 ミゲルは去り際、宗十郎に小さな木片を渡した。

 

 十字の形をしている。

 

 宗十郎は受け取らなかった。

 

 ミゲルは困ったように笑い、自分の胸に当てて祈る仕草をした。

 

 宗十郎は首を振った。

 

 自分の神も仏も、燃える城と共に遠くなった。

 

 今さら異国の神にすがる気はなかった。

 

 ミゲルは無理に渡さず、木片を懐へ戻した。

 

 そして、片言で言った。

 

「ヴィーダ」

 

 宗十郎は眉を寄せる。

 

 ミゲルは宗十郎の胸を指し、また言った。

 

「ヴィーダ」

 

 意味はわからない。

 

 だが、後に宗十郎は知る。

 

 それは、命、という意味だった。

 

 船は南へ進んだ。

 

 どのくらいの日が経ったのか、船倉ではわからない。

 

 光はわずかな隙間からしか入らない。昼と夜は、食事の間隔で知るしかない。海が荒れれば全員が吐き、凪げば熱気と臭気で息が詰まる。

 

 宗十郎は少しずつ言葉を覚え始めた。

 

 水。

 

 飯。

 

 痛い。

 

 死。

 

 待て。

 

 やめろ。

 

 名。

 

 ンガリはアフリカ東岸の出身らしかった。正確な地名は宗十郎には聞き取れなかった。ただ、彼は元々戦士だった。村を襲われ、家族を殺され、売られた。

 

 彼には妻と娘がいた。

 

 そのことを話す時、ンガリはいつも天井を見た。

 

 涙は流さない。

 

 だが、彼の拳は震えていた。

 

 宗十郎も、城のことを話した。

 

 ンガリは言葉をほとんど理解できなかっただろう。

 

 それでも聞いていた。

 

 燃える城。

 

 弟。

 

 母。

 

 主君。

 

 失ったもの。

 

 言葉は違っても、喪失の形は似ていた。

 

 船倉には他にも多くの者がいた。

 

 インドから連れてこられた少年、アルン。

 

 彼は細く、目が大きく、数字に強かった。船員たちの会話を聞き、航海の日数や食料の量を密かに数えていた。

 

 マレーの女、サリマ。

 

 彼女は海を知っていた。父が漁師だったという。波の音と船の傾きで、天候の変化を言い当てた。

 

 中国人の老人、林福。

 

 彼はかつて商船に乗っていた。南の海、香料の島、明の港、琉球、マラッカ。彼の話す世界は、宗十郎の知る地図を遥かに超えていた。

 

 そして、ミゲル。

 

 彼は奴隷ではなかったが、船員でもないようだった。

 

 時折船倉に降りてきて、水や薬を配った。船員たちは彼を馬鹿にし、時に殴った。だが、彼はやめなかった。

 

 ある夜、宗十郎はミゲルに問うた。

 

 言葉はまだ足りない。

 

 それでも、身振りと片言で聞いた。

 

「なぜ、助ける」

 

 ミゲルは少し黙った。

 

 そして、自分の十字架を握った。

 

「デウス」

 

 神。

 

 宗十郎はその言葉を覚えていた。

 

 ミゲルは続けた。

 

「人、売る。悪い」

 

 たどたどしい言葉だった。

 

「でも、お前、同じ船」

 

 宗十郎が言うと、ミゲルは顔を伏せた。

 

「私、弱い」

 

 その言葉だけは、宗十郎にもはっきりわかった。

 

 私には止められない。

 

 だから、せめて水を配る。

 

 せめて傷を洗う。

 

 せめて死ぬ者の手を握る。

 

 宗十郎はミゲルを軽蔑しようとした。

 

 だが、できなかった。

 

 何もできないのは、自分も同じだった。

 

 刀がない。

 

 自由がない。

 

 力がない。

 

 武士であった自分も、今は鎖に繋がれた一人に過ぎない。

 

 その事実が、宗十郎の誇りを静かに削っていった。

 

 ある嵐の夜だった。

 

 船が激しく揺れた。

 

 船倉では悲鳴が上がり、人々が板に叩きつけられた。水が隙間から流れ込み、足元を濡らした。上では船員たちが怒鳴り、帆を畳む音がした。

 

 雷鳴。

 

 闇が白く裂ける。

 

 その一瞬、宗十郎は見た。

 

 床に固定された鎖の輪。

 

 そこに打ち込まれた鉄釘のひとつが、揺れでわずかに浮いている。

 

 宗十郎の目が細くなった。

 

 鎖は絶対ではない。

 

 船も絶対ではない。

 

 鉄も、木も、人の手で作られたものだ。

 

 ならば壊せる。

 

 彼はンガリを見た。

 

 ンガリも気づいていた。

 

 二人は言葉を交わさなかった。

 

 嵐が船を揺らすたび、鎖が引かれ、鉄釘が軋む。

 

 宗十郎は心の中で数えた。

 

 一。

 

 二。

 

 三。

 

 波の周期。

 

 船の傾き。

 

 木材の悲鳴。

 

 ここだ。

 

 宗十郎は全身の力で鎖を引いた。

 

 ンガリも同時に引いた。

 

 鉄が鳴る。

 

 釘が少し浮く。

 

 だが、外れない。

 

 周囲の奴隷たちが気づいた。

 

 アルンが目を見開く。

 

 サリマが息を呑む。

 

 宗十郎は唇に指を当てた。

 

 黙れ。

 

 まだだ。

 

 船員が降りてくる気配はない。

 

 嵐がすべての音を呑み込んでいる。

 

 もう一度。

 

 波が船腹を叩く。

 

 宗十郎とンガリは鎖を引いた。

 

 今度はアルンも加わった。

 

 細い腕で必死に引く。

 

 林福も震える手で鎖を掴む。

 

 サリマも加わる。

 

 鉄が軋む。

 

 木が割れる。

 

 釘が抜けた。

 

 音は嵐に消えた。

 

 宗十郎の足元の鎖が、床から自由になった。

 

 完全な自由ではない。

 

 足枷は残っている。

 

 手も縛られている。

 

 だが、床には繋がれていない。

 

 宗十郎は息を止めた。

 

 これが始まりだった。

 

 ほんの小さな変化。

 

 だが、地獄の底で見つけた最初の裂け目だった。

 

 彼は抜けた釘を手に取った。

 

 錆びた鉄釘。

 

 短く、歪んでいる。

 

 だが、尖っている。

 

 宗十郎はそれを握りしめた。

 

 刀ではない。

 

 槍でもない。

 

 だが、武器だった。

 

 彼は暗闇の中で、低く言った。

 

「まだ死なぬ」

 

 ンガリが胸を叩いた。

 

 サリマが頷いた。

 

 アルンの目に、初めて怯え以外の光が宿った。

 

 船は嵐の海を進む。

 

 誰も知らなかった。

 

 この夜、船倉の底で、まだ名もなき反乱の火種が生まれたことを。

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