LIBERDADE   作:武インパクト豊

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第三章 決行

 

 嵐が去った翌朝、空気は重く湿っていた。

 

 船倉の中はいつも以上にひどい臭いだった。吐瀉物と海水が混ざり、病人の呻き声があちこちから聞こえる。船員たちは苛立っていた。嵐で帆が破れ、積み荷の一部も濡れたらしい。

 

 奴隷たちは朝から鞭を受けた。

 

 理由などない。

 

 船員の怒りの捌け口だった。

 

 宗十郎も背を打たれた。

 

 だが、彼は声を出さなかった。

 

 手の中に隠した錆び釘の感触だけを確かめていた。

 

 釘は布切れに包み、腰の縄の内側へ差し込んである。見つかれば殺される。いや、殺されるだけならまだいい。見せしめにされ、他の者まで罰を受けるだろう。

 

 だから、軽々しく使えない。

 

 反乱とは、怒りだけで起こすものではない。

 

 宗十郎は戦場を知っていた。

 

 力で劣る者が勝つには、時を選ばねばならない。

 

 敵の油断。

 

 地形。

 

 武器。

 

 合図。

 

 仲間。

 

 そして何より、覚悟。

 

 船倉の奴隷たちには怒りがあった。

 

 だが、まだ形になっていない。

 

 逃げたい者。

 

 諦めた者。

 

 ただ生き延びたい者。

 

 死にたい者。

 

 皆の心はばらばらだった。

 

 これでは戦えない。

 

 宗十郎は、まず見ることにした。

 

 船員の数。

 

 見張りの交代。

 

 食事を運ぶ時間。

 

 甲板へ出される者の選び方。

 

 水樽の場所。

 

 武器庫の位置。

 

 鍵を持つ者。

 

 船長の顔。

 

 数日かけて、宗十郎は情報を集めた。

 

 アルンは役に立った。

 

 少年は耳がよく、記憶力もよかった。船員たちの言葉を少しずつ聞き分け、数を覚え、時間を数えた。

 

「朝、二十人。夜、少ない。酒、飲む」

 

 片言でアルンは言った。

 

「鍵、太った男。赤い布」

 

 宗十郎は頷いた。

 

 鍵持ちは船倉番のロドリゴという男だった。太っていて、右耳に金の輪をつけている。腰に鍵束を下げ、いつも酒臭い。奴隷を人と思っていない。鞭を振るう時だけ機嫌が良くなる男だった。

 

 ンガリは力があった。

 

 足枷さえ外れれば、素手でも二人は殺せるだろう。

 

 サリマは船を読めた。

 

「風、弱い。船、遅い。夜、暑い。男たち、上で寝る」

 

 彼女は言った。

 

 林福は船の構造を知っていた。

 

「この船、下に火薬ある。大砲、横。水、前。食料、後ろ。武器は船長の部屋近く」

 

 彼の言葉は訛りが強かったが、宗十郎には十分だった。

 

 ミゲルは危うい存在だった。

 

 彼は奴隷に同情している。

 

 だが、反乱に加わるとは限らない。

 

 むしろ止めるかもしれない。

 

 宗十郎は彼を見極めようとした。

 

 ある日、ミゲルが傷の手当てに来た時、宗十郎は問いかけた。

 

「この船、どこへ行く」

 

 ミゲルは周囲を見た。

 

 船員はいない。

 

 彼は小さな声で言った。

 

「ゴア」

 

「ゴア」

 

「インディア。ポルトガルの町」

 

 インディア。

 

 天竺か。

 

 宗十郎は幼い頃、僧から天竺の話を聞いたことがある。仏の教えが生まれた遠い国。そこへ、自分は奴隷として運ばれている。

 

 皮肉なものだった。

 

「その後は」

 

 ミゲルは答えなかった。

 

 宗十郎は彼の目を見た。

 

「売るのか」

 

 ミゲルは苦しそうに頷いた。

 

「男、兵。女、家。子供、使う」

 

「そして死ぬまで働く」

 

 ミゲルは黙った。

 

「お前の神は、それを許すのか」

 

 その言葉に、ミゲルの顔が歪んだ。

 

「許さない」

 

「ならばなぜ船にいる」

 

「私は……」

 

 ミゲルは十字架を握った。

 

「昔、信じた。海の向こうに行けば、人を救えると。病を治し、神の言葉を伝えると。でも、船に乗ったら、人が売られていた。止めろと言った。殴られた。港へ戻れば、私も異端として裁かれる」

 

「怖いのか」

 

「怖い」

 

 ミゲルは正直に言った。

 

「死ぬのは怖い」

 

 宗十郎は彼を見つめた。

 

 武士なら、死を恐れるなと教えられる。

 

 だが、宗十郎は今、ミゲルの恐怖を笑えなかった。

 

 死は怖い。

 

 城で死ぬ覚悟はあった。

 

 しかし、この暗い船倉で、誰にも知られず、病に腐って死ぬことは怖かった。

 

 死を恐れぬ者などいない。

 

 ただ、恐れながら何をするか。

 

 それだけだ。

 

 宗十郎は言った。

 

「俺も怖い」

 

 ミゲルが顔を上げる。

 

「だが、このままはもっと嫌だ」

 

 ミゲルは何も言わなかった。

 

 宗十郎は続けた。

 

「お前は水を配る。傷を洗う。それは弱さかもしれぬ。だが、何もしないよりは強い」

 

 ミゲルの目が揺れた。

 

「ならば、もう一つだけ強くなれ」

 

「何を」

 

「鍵の型を見せろ」

 

 ミゲルは息を呑んだ。

 

 宗十郎は静かに言った。

 

「今すぐとは言わぬ。だが、いずれ必要になる」

 

「反乱を起こす気か」

 

 ミゲルの声は震えていた。

 

 宗十郎は答えた。

 

「生きる気だ」

 

 ミゲルは長く沈黙した。

 

 船倉の奥で誰かが咳き込む。

 

 波が船腹を叩く。

 

 やがてミゲルは、小さく言った。

 

「失敗すれば、皆殺しだ」

 

「このままでも、皆死ぬ」

 

 ミゲルは目を閉じた。

 

 祈っているのかもしれない。

 

 そして、彼は懐から小さな蝋の塊を取り出した。

 

「一度だけだ」

 

 宗十郎は頷いた。

 

 その夜、ミゲルは船倉番のロドリゴに酒を飲ませた。

 

 ロドリゴはいつものように笑い、奴隷を罵り、やがて眠った。

 

 鍵束は腰にあった。

 

 ミゲルは震える手で鍵を蝋に押し当てた。

 

 一つ。

 

 二つ。

 

 三つ。

 

 足枷の鍵。

 

 手枷の鍵。

 

 船倉扉の鍵。

 

 すべてではない。

 

 だが、十分だった。

 

 蝋の型は宗十郎へ渡された。

 

 それは刀よりも重く感じられた。

 

 問題は、鍵をどう作るかだった。

 

 鉄はない。

 

 鍛冶場もない。

 

 だが、船には金属片がある。

 

 樽の輪。

 

 折れた釘。

 

 壊れた留め具。

 

 ンガリが甲板清掃に出された時、小さな金属片を足の裏に隠して持ち帰った。足は血まみれになったが、彼は笑った。

 

 林福はそれを石で削った。

 

 アルンが見張りの足音を数えた。

 

 サリマが咳で合図をした。

 

 宗十郎は錆び釘で細部を整えた。

 

 一本目の鍵は折れた。

 

 二本目は回らなかった。

 

 三本目で、アルンの手枷が外れた。

 

 小さな音だった。

 

 かちり。

 

 それだけ。

 

 だが、その音を聞いた瞬間、船倉の空気が変わった。

 

 アルンは外れた手を見つめた。

 

 泣きそうな顔だった。

 

 宗十郎はすぐに枷を戻すよう命じた。

 

「まだだ」

 

 アルンは頷いた。

 

 自由は、隠さねばならない。

 

 早すぎる自由は、死を呼ぶ。

 

 それから数日、彼らは少しずつ鍵を試した。

 

 全員は無理だ。

 

 枷の形は違う。

 

 鍵が合わぬものもある。

 

 だが、十数人の枷は外せるようになった。

 

 十数人。

 

 少ない。

 

 だが、戦の始まりには十分だった。

 

 宗十郎は戦える者を選んだ。

 

 ンガリ。

 

 サリマ。

 

 アルン。

 

 林福は戦えないが、船を知る。

 

 東南の島から来た兄弟、ジャヤとバユ。小柄だが素早い。

 

 アラブの水夫だった男、ユースフ。彼は帆の扱いを知っていた。

 

 日本人の足軽、権蔵。右目を失っているが、槍働きはできる。

 

 他にも、名を知らぬ者たち。

 

 宗十郎は彼らに戦い方を教えた。

 

 刀はない。

 

 槍もない。

 

 だが、体はある。

 

 鎖はある。

 

 木片はある。

 

 骨はある。

 

 人は、何も持たずとも戦える。

 

 彼は狭い船倉で、音を立てずに動く方法を教えた。

 

 喉を押さえる。

 

 膝を砕く。

 

 目を突く。

 

 手首を捻る。

 

 相手の力に逆らわず、流して倒す。

 

 ンガリは力で覚えた。

 

 サリマは速さで覚えた。

 

 アルンは頭で覚えた。

 

 権蔵は笑った。

 

「お侍様、まるで忍びの稽古ですな」

 

 宗十郎は首を振った。

 

「侍ではない」

 

「では何と」

 

 宗十郎は答えられなかった。

 

 伊吹宗十郎。

 

 その名はまだある。

 

 だが、伊吹家はない。

 

 侍でもない。

 

 奴隷でも終わりたくない。

 

 では、自分は何者か。

 

 その答えはまだ見えなかった。

 

 権蔵は片目で彼を見て、にやりとした。

 

「なら、宗十郎殿で」

 

「好きにしろ」

 

「へい」

 

 そのやり取りを見て、ンガリが不思議そうに笑った。

 

 船倉に、ほんのわずか笑いが生まれた。

 

 宗十郎はその笑いを聞きながら思った。

 

 人は鎖に繋がれても笑える。

 

 ならば、まだ負けていない。

 

 反乱の日は、サリマが決めた。

 

「三日後、風、変わる」

 

 彼女は船底に耳を当てるようにして言った。

 

「空、重い。雨来る。夜、船、忙しい」

 

 嵐ほどではない。

 

 だが、雨と風で甲板は混乱する。

 

 見張りも減る。

 

 船員は帆に気を取られる。

 

 好機だった。

 

 林福も頷いた。

 

「このあたり、海流強い。夜に舵を失えば、船は流される。船長は上に出る」

 

 ユースフは言った。

 

「武器庫まで行ければ勝てる。だが、そこまでが難しい」

 

 宗十郎は船倉の床に、釘で図を描いた。

 

 扉。

 

 階段。

 

 甲板。

 

 武器庫。

 

 船長室。

 

 火薬庫。

 

 水樽。

 

「最初に鍵持ちを殺す」

 

 彼は言った。

 

「次に扉を開ける。戦える者を出す。甲板へ上がり、武器を奪う。船長を生かして捕らえる。航海を知る者が必要だ」

 

 ンガリが首を振った。

 

「船長、殺す」

 

 彼の目には憎しみが燃えていた。

 

 宗十郎は静かに見返した。

 

「殺したいなら後で殺せ。だが、今は船を動かす知恵がいる」

 

 ンガリは歯を食いしばった。

 

 拳が震える。

 

 やがて、彼は頷いた。

 

「後で」

 

「後で」

 

 宗十郎も頷いた。

 

 反乱とは、復讐では足りない。

 

 生きるための戦でなければならない。

 

 だが、その夜、宗十郎は眠れなかった。

 

 彼の心にも、復讐はあった。

 

 城を焼いた者。

 

 家族を奪った者。

 

 自分たちを売った者。

 

 鞭を振るった者。

 

 海に死者を捨てた者。

 

 皆、斬りたかった。

 

 刀があれば、迷わず斬っただろう。

 

 だが、刀なき今、彼は別の刃を持たねばならなかった。

 

 怒りを研ぐ。

 

 だが、怒りに呑まれない。

 

 それが、刀なき武士の戦だった。

 

 決行の夜。

 

 雨が降った。

 

 細い雨だった。

 

 だが、風は強い。

 

 船が傾き、帆綱が軋み、甲板では船員たちが怒鳴っている。

 

 船倉の扉が開いた。

 

 ロドリゴが降りてくる。

 

 片手に桶。

 

 片手に鞭。

 

 酒臭い息。

 

「飯だ、犬ども」

 

 彼は笑いながら桶を蹴った。

 

 豆の煮汁が床にこぼれる。

 

 奴隷たちが身を縮める。

 

 ロドリゴは満足そうに鞭を鳴らした。

 

 その背後に、もう一人の船員がいた。

 

 予定外だった。

 

 宗十郎は目だけでアルンを見る。

 

 アルンの顔が青ざめる。

 

 ロドリゴ一人なら、すぐに殺せる。

 

 二人なら音が出る。

 

 だが、もう戻れない。

 

 ロドリゴが宗十郎の前に来た。

 

「お前、まだ生きているのか」

 

 彼は宗十郎の髪を掴んだ。

 

 異国の言葉で何か罵る。

 

 意味はわからない。

 

 だが、侮辱であることはわかった。

 

 宗十郎は俯いたままだった。

 

 ロドリゴが笑う。

 

 その瞬間、宗十郎の手枷が外れた。

 

 彼は隠していた鎖を両手で掴み、ロドリゴの首に巻きつけた。

 

 息を吸う間も与えない。

 

 背後の船員が叫ぼうとした。

 

 ンガリが飛びかかった。

 

 巨体が船員を壁に叩きつける。

 

 鈍い音。

 

 サリマが船員の口を塞ぎ、ジャヤが腹に錆びた釘を突き立てた。

 

 ロドリゴは暴れた。

 

 宗十郎は背後から鎖を締め上げる。

 

 ロドリゴの爪が宗十郎の腕を裂く。

 

 泡が口から吹き出す。

 

 目が飛び出す。

 

 宗十郎は締め続けた。

 

 やがて、ロドリゴの体から力が抜けた。

 

 船倉に沈黙が落ちる。

 

 最初の敵が死んだ。

 

 宗十郎は鍵束を奪った。

 

 手が震えている。

 

 恐怖か。

 

 怒りか。

 

 わからない。

 

 だが、彼は立ち上がった。

 

「外せ」

 

 鍵が回る。

 

 枷が外れる。

 

 一人。

 

 二人。

 

 三人。

 

 鎖から解かれた者たちが立ち上がる。

 

 彼らの目は、もう奴隷の目ではなかった。

 

 宗十郎はロドリゴの腰から短剣を抜いた。

 

 刃は短い。

 

 だが、久しぶりに手にする刃だった。

 

 彼はその重みを感じた。

 

 刀ではない。

 

 それでも、十分だ。

 

 船倉の扉の向こうで、雷が鳴った。

 

 宗十郎は言った。

 

「行くぞ」

 

 誰もその言葉を完全には理解しなかった。

 

 だが、意味は伝わった。

 

 生きるために。

 

 奪われた尊厳を取り戻すために。

 

 まだ見ぬ自由のために。

 

 彼らは船倉から這い上がった。

 

 雨の甲板へ。

 

 嵐の海へ。

 

 反乱の夜が始まった。

 

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