甲板へ出た瞬間、宗十郎は雨に打たれた。
冷たい雨だった。
船倉の腐った熱気とは違う、天から落ちてくる水。塩と風の匂い。荒れた海の音。暗い空を裂く雷。
宗十郎は一瞬だけ息を吸った。
空がある。
それだけで、胸の奥が震えた。
だが、感傷に浸る暇はなかった。
「何だ!」
近くの船員が叫んだ。
宗十郎は踏み込んだ。
雨で濡れた甲板を裸足で蹴る。手にした短剣を逆手に持ち、船員の喉へ突き入れた。温かい血が雨に混ざって散る。
船員は声にならぬ声を漏らし、崩れ落ちた。
ンガリが咆哮した。
それは人の声というより、森の奥から響く獣の声だった。彼は奪った鎖を振り回し、近づいてきた船員の顔面を砕いた。骨の折れる音が、雷鳴に混じる。
サリマは低く走った。
濡れた甲板を滑るように進み、船員の足首へ錆びた刃を突き立てる。倒れたところへジャヤとバユが飛びかかり、口を塞いで押さえ込んだ。
アルンは戦えない。
だが、彼は叫ばなかった。震えながらも、船倉から出てくる者たちへ鍵を渡し続けた。
「こっち! 早く!」
言葉はばらばらだった。
日本語、ポルトガル語、アラビア語、マレーの言葉、知らぬアフリカの言葉。
だが、恐怖と希望は同じ音を持っていた。
船は混乱した。
雨風の中で帆を扱っていた船員たちは、船倉から奴隷たちが溢れ出したことにすぐには気づかなかった。気づいた時には、すでに遅い者もいた。
宗十郎は階段を駆け上がる。
目指すは武器庫。
林福の話では、船尾側、船長室の近くにある。
だが、その前に四人の船員が立ちはだかった。
一人は斧。
一人は短銃。
二人は剣。
宗十郎は短銃を見た。
火縄銃とは違う。片手で持つ小さな銃。だが、撃たれれば死ぬ。
船員が銃口を上げる。
その瞬間、サリマが横から桶を投げた。
桶は船員の腕に当たり、銃声が夜空へ逸れた。
火花。
硝煙。
宗十郎はすでに走っていた。
斧が振り下ろされる。
宗十郎は半身でかわし、短剣を相手の脇腹へ刺した。抜かない。そのまま体を押し込み、船員を盾にした。
剣が盾となった男の背を裂く。
宗十郎は死体を押し出し、相手の懐へ入った。
刀なら一太刀。
だが短剣では間合いが違う。
彼は相手の手首を掴み、肘を折った。
叫び。
奪った剣を膝で押さえ、喉へ短剣を突き込む。
もう一人が斬りかかる。
ンガリが横から体当たりした。
船員は甲板を転がり、欄干に背を打った。ンガリはその首を掴み、海へ投げた。
暗い波が男を呑む。
「ソウジュロ!」
アルンの叫び。
背後。
宗十郎は振り向いた。
短銃の男が二発目を構えていた。
間に合わない。
銃声。
宗十郎の肩を熱が掠めた。
弾は肉を裂き、背後の帆柱へ食い込んだ。
宗十郎は歯を食いしばる。
痛みはある。
だが、死んでいない。
彼は床に落ちた斧を拾い、投げた。
斧は回転しながら飛び、短銃の男の胸に叩き込まれた。
男は仰向けに倒れる。
宗十郎は息を吐いた。
雨が血を洗う。
だが、甲板には次々と敵が現れた。
船員は多い。
奴隷はさらに多い。
しかし奴隷たちに武器は少ない。鎖、木片、奪った短剣、折れた櫂。怒りだけでは、剣と銃には勝てない。
武器庫を開けねばならない。
宗十郎は走った。
船尾へ。
その時、ミゲルが現れた。
白い顔で、雨に濡れ、両手を広げている。
「やめろ!」
彼はポルトガル語で叫び、それから宗十郎に向かって日本語まじりに言った。
「火薬! 撃つな! 船、沈む!」
「どけ」
「船長、生かす。船、動かす。殺しすぎるな!」
宗十郎は彼を睨んだ。
「今さら止めるのか」
「違う!」
ミゲルは震えながら首を振った。
「助ける。だから、聞け!」
彼は懐から鍵を取り出した。
武器庫の鍵だった。
宗十郎は一瞬だけ目を見開いた。
ミゲルは言った。
「ロドリゴの鍵では開かない。これがいる」
「なぜ持っている」
「盗んだ」
ミゲルの手は震えていた。
だが、その目は逃げていなかった。
宗十郎は鍵を受け取った。
「お前はもう戻れぬぞ」
ミゲルは苦しげに笑った。
「知っている」
宗十郎は頷いた。
「なら、来い」
武器庫の扉へ向かう。
ミゲルが鍵を差す。
一度目、手が震えて入らない。
宗十郎は彼の手を掴んだ。
「震えてもよい。開けろ」
ミゲルは息を吸い、鍵を回した。
扉が開く。
中には剣、短銃、火薬、槍、斧、弾薬が並んでいた。
宗十郎は叫んだ。
「武器だ!」
その言葉を理解した者は少ない。
だが、開かれた武器庫を見れば十分だった。
奴隷たちが群がる。
ンガリが斧を取る。
サリマが短剣を二本取る。
ユースフが剣と短銃を取り、扱える者へ配る。
権蔵は槍を手にした。
その瞬間、片目の足軽は泣きそうな顔で笑った。
「やはり槍はいい」
宗十郎は一本の剣を取った。
南蛮の剣。
刀とは違う。
重心も、反りも、手の内も違う。
だが、刃だ。
宗十郎は構えた。
次に甲板へ戻った時、戦は変わった。
鎖を打たれる側だった者たちが、剣を持った。
鞭を受ける側だった者たちが、斧を振るった。
船員たちの顔に初めて恐怖が浮かんだ。
「押せ!」
権蔵が叫ぶ。
日本人の捕虜たちが槍を並べる。
ンガリが中央を割る。
サリマたちは影のように側面を突く。
ユースフは帆綱を切り、船員たちの動きを乱す。
林福は船の傾きを読み、危険な場所を避けるよう叫ぶ。
宗十郎は前へ出た。
敵の剣を弾く。
突きをかわす。
南蛮剣の使い方はまだ粗い。
だが、戦場で磨かれた足捌きと間合いは失われていない。
彼は斬るというより、倒した。
腕を裂き、膝を砕き、喉を突く。
敵が倒れるたび、奴隷たちの声が大きくなる。
それは勝鬨ではない。
泣き声にも似た叫びだった。
奪われ続けた者が、初めて奪い返す声。
船尾から、鋭い声が響いた。
船長だった。
灰色の髭を持つ男。長い外套を羽織り、片手に剣、もう片手に短銃を持っている。
彼の周囲には精鋭らしき船員が七人。
宗十郎は直感した。
あれを倒せば終わる。
だが、殺してはならない。
航海を知る者が必要だ。
宗十郎はンガリを見た。
ンガリの目は血走っていた。
「生かす」
宗十郎は言った。
ンガリは唸った。
「生かす」
宗十郎はもう一度言った。
「今は」
ンガリは斧を握り締め、頷いた。
宗十郎たちは船尾へ進んだ。
船長の短銃が火を噴く。
権蔵の隣にいた男が倒れた。
胸から血を流し、雨の中で痙攣する。
宗十郎は足を止めなかった。
船長が剣を構える。
さすがに強い。
ただの商船長ではない。海で戦ってきた男の剣だった。
宗十郎の一撃を受け流し、逆に突きを返す。
刃が宗十郎の脇腹を掠めた。
熱い痛み。
船長は何か叫んだ。
宗十郎には意味がわからない。
だが、その目の中にあるものはわかった。
蔑み。
怒り。
そして恐怖。
宗十郎は低く踏み込んだ。
刀ではない。
だから、刀の戦いを捨てた。
相手の剣を自分の剣で絡め、手首ごと押さえる。体を密着させ、額で相手の鼻を打った。
船長がよろめく。
宗十郎は膝を腹へ入れ、剣を叩き落とした。
船長が短銃へ手を伸ばす。
その手を、サリマの短剣が貫いた。
船長が叫ぶ。
ンガリが斧を振り上げた。
「待て!」
宗十郎が叫ぶ。
斧は船長の首のすぐ横で止まった。
ンガリの腕が震えていた。
殺したい。
当然だ。
宗十郎も殺したかった。
だが、彼は船長の髪を掴み、甲板へ押し倒した。
「生かせ」
ミゲルが駆け寄り、船長にポルトガル語で何か叫んだ。
船長は血まみれの顔で唾を吐いた。
その瞬間、ンガリが船長の左手を踏み砕いた。
骨の潰れる音。
船長の悲鳴。
宗十郎は止めなかった。
殺してはいない。
それで十分だった。
やがて、抵抗は終わった。
船員の半数は死に、残りは縛られた。
奴隷たちは甲板に立っていた。
雨は弱まっていた。
夜明け前の空が、東の果てでわずかに白み始めている。
宗十郎は周囲を見た。
血。
雨。
折れた帆綱。
倒れた者たち。
泣きながら抱き合う者。
呆然と空を見る者。
甲板に膝をつき、見知らぬ神に祈る者。
ンガリは空へ向かって叫んだ。
サリマは泣いていた。
アルンは外れた手枷を抱きしめていた。
ミゲルは震える手で十字を切っていた。
宗十郎は剣を下ろした。
勝った。
だが、その言葉はあまりに小さかった。
彼らは船を奪った。
地獄の底から這い上がった。
しかし、ここは海の上だった。
陸は見えない。
故郷も見えない。
自由とは、まだ遠い水平線の向こうにあるものだった。