LIBERDADE   作:武インパクト豊

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第四章 反乱の夜

甲板へ出た瞬間、宗十郎は雨に打たれた。

 

 冷たい雨だった。

 

 船倉の腐った熱気とは違う、天から落ちてくる水。塩と風の匂い。荒れた海の音。暗い空を裂く雷。

 

 宗十郎は一瞬だけ息を吸った。

 

 空がある。

 

 それだけで、胸の奥が震えた。

 

 だが、感傷に浸る暇はなかった。

 

「何だ!」

 

 近くの船員が叫んだ。

 

 宗十郎は踏み込んだ。

 

 雨で濡れた甲板を裸足で蹴る。手にした短剣を逆手に持ち、船員の喉へ突き入れた。温かい血が雨に混ざって散る。

 

 船員は声にならぬ声を漏らし、崩れ落ちた。

 

 ンガリが咆哮した。

 

 それは人の声というより、森の奥から響く獣の声だった。彼は奪った鎖を振り回し、近づいてきた船員の顔面を砕いた。骨の折れる音が、雷鳴に混じる。

 

 サリマは低く走った。

 

 濡れた甲板を滑るように進み、船員の足首へ錆びた刃を突き立てる。倒れたところへジャヤとバユが飛びかかり、口を塞いで押さえ込んだ。

 

 アルンは戦えない。

 

 だが、彼は叫ばなかった。震えながらも、船倉から出てくる者たちへ鍵を渡し続けた。

 

「こっち! 早く!」

 

 言葉はばらばらだった。

 

 日本語、ポルトガル語、アラビア語、マレーの言葉、知らぬアフリカの言葉。

 

 だが、恐怖と希望は同じ音を持っていた。

 

 船は混乱した。

 

 雨風の中で帆を扱っていた船員たちは、船倉から奴隷たちが溢れ出したことにすぐには気づかなかった。気づいた時には、すでに遅い者もいた。

 

 宗十郎は階段を駆け上がる。

 

 目指すは武器庫。

 

 林福の話では、船尾側、船長室の近くにある。

 

 だが、その前に四人の船員が立ちはだかった。

 

 一人は斧。

 

 一人は短銃。

 

 二人は剣。

 

 宗十郎は短銃を見た。

 

 火縄銃とは違う。片手で持つ小さな銃。だが、撃たれれば死ぬ。

 

 船員が銃口を上げる。

 

 その瞬間、サリマが横から桶を投げた。

 

 桶は船員の腕に当たり、銃声が夜空へ逸れた。

 

 火花。

 

 硝煙。

 

 宗十郎はすでに走っていた。

 

 斧が振り下ろされる。

 

 宗十郎は半身でかわし、短剣を相手の脇腹へ刺した。抜かない。そのまま体を押し込み、船員を盾にした。

 

 剣が盾となった男の背を裂く。

 

 宗十郎は死体を押し出し、相手の懐へ入った。

 

 刀なら一太刀。

 

 だが短剣では間合いが違う。

 

 彼は相手の手首を掴み、肘を折った。

 

 叫び。

 

 奪った剣を膝で押さえ、喉へ短剣を突き込む。

 

 もう一人が斬りかかる。

 

 ンガリが横から体当たりした。

 

 船員は甲板を転がり、欄干に背を打った。ンガリはその首を掴み、海へ投げた。

 

 暗い波が男を呑む。

 

「ソウジュロ!」

 

 アルンの叫び。

 

 背後。

 

 宗十郎は振り向いた。

 

 短銃の男が二発目を構えていた。

 

 間に合わない。

 

 銃声。

 

 宗十郎の肩を熱が掠めた。

 

 弾は肉を裂き、背後の帆柱へ食い込んだ。

 

 宗十郎は歯を食いしばる。

 

 痛みはある。

 

 だが、死んでいない。

 

 彼は床に落ちた斧を拾い、投げた。

 

 斧は回転しながら飛び、短銃の男の胸に叩き込まれた。

 

 男は仰向けに倒れる。

 

 宗十郎は息を吐いた。

 

 雨が血を洗う。

 

 だが、甲板には次々と敵が現れた。

 

 船員は多い。

 

 奴隷はさらに多い。

 

 しかし奴隷たちに武器は少ない。鎖、木片、奪った短剣、折れた櫂。怒りだけでは、剣と銃には勝てない。

 

 武器庫を開けねばならない。

 

 宗十郎は走った。

 

 船尾へ。

 

 その時、ミゲルが現れた。

 

 白い顔で、雨に濡れ、両手を広げている。

 

「やめろ!」

 

 彼はポルトガル語で叫び、それから宗十郎に向かって日本語まじりに言った。

 

「火薬! 撃つな! 船、沈む!」

 

「どけ」

 

「船長、生かす。船、動かす。殺しすぎるな!」

 

 宗十郎は彼を睨んだ。

 

「今さら止めるのか」

 

「違う!」

 

 ミゲルは震えながら首を振った。

 

「助ける。だから、聞け!」

 

 彼は懐から鍵を取り出した。

 

 武器庫の鍵だった。

 

 宗十郎は一瞬だけ目を見開いた。

 

 ミゲルは言った。

 

「ロドリゴの鍵では開かない。これがいる」

 

「なぜ持っている」

 

「盗んだ」

 

 ミゲルの手は震えていた。

 

 だが、その目は逃げていなかった。

 

 宗十郎は鍵を受け取った。

 

「お前はもう戻れぬぞ」

 

 ミゲルは苦しげに笑った。

 

「知っている」

 

 宗十郎は頷いた。

 

「なら、来い」

 

 武器庫の扉へ向かう。

 

 ミゲルが鍵を差す。

 

 一度目、手が震えて入らない。

 

 宗十郎は彼の手を掴んだ。

 

「震えてもよい。開けろ」

 

 ミゲルは息を吸い、鍵を回した。

 

 扉が開く。

 

 中には剣、短銃、火薬、槍、斧、弾薬が並んでいた。

 

 宗十郎は叫んだ。

 

「武器だ!」

 

 その言葉を理解した者は少ない。

 

 だが、開かれた武器庫を見れば十分だった。

 

 奴隷たちが群がる。

 

 ンガリが斧を取る。

 

 サリマが短剣を二本取る。

 

 ユースフが剣と短銃を取り、扱える者へ配る。

 

 権蔵は槍を手にした。

 

 その瞬間、片目の足軽は泣きそうな顔で笑った。

 

「やはり槍はいい」

 

 宗十郎は一本の剣を取った。

 

 南蛮の剣。

 

 刀とは違う。

 

 重心も、反りも、手の内も違う。

 

 だが、刃だ。

 

 宗十郎は構えた。

 

 次に甲板へ戻った時、戦は変わった。

 

 鎖を打たれる側だった者たちが、剣を持った。

 

 鞭を受ける側だった者たちが、斧を振るった。

 

 船員たちの顔に初めて恐怖が浮かんだ。

 

「押せ!」

 

 権蔵が叫ぶ。

 

 日本人の捕虜たちが槍を並べる。

 

 ンガリが中央を割る。

 

 サリマたちは影のように側面を突く。

 

 ユースフは帆綱を切り、船員たちの動きを乱す。

 

 林福は船の傾きを読み、危険な場所を避けるよう叫ぶ。

 

 宗十郎は前へ出た。

 

 敵の剣を弾く。

 

 突きをかわす。

 

 南蛮剣の使い方はまだ粗い。

 

 だが、戦場で磨かれた足捌きと間合いは失われていない。

 

 彼は斬るというより、倒した。

 

 腕を裂き、膝を砕き、喉を突く。

 

 敵が倒れるたび、奴隷たちの声が大きくなる。

 

 それは勝鬨ではない。

 

 泣き声にも似た叫びだった。

 

 奪われ続けた者が、初めて奪い返す声。

 

 船尾から、鋭い声が響いた。

 

 船長だった。

 

 灰色の髭を持つ男。長い外套を羽織り、片手に剣、もう片手に短銃を持っている。

 

 彼の周囲には精鋭らしき船員が七人。

 

 宗十郎は直感した。

 

 あれを倒せば終わる。

 

 だが、殺してはならない。

 

 航海を知る者が必要だ。

 

 宗十郎はンガリを見た。

 

 ンガリの目は血走っていた。

 

「生かす」

 

 宗十郎は言った。

 

 ンガリは唸った。

 

「生かす」

 

 宗十郎はもう一度言った。

 

「今は」

 

 ンガリは斧を握り締め、頷いた。

 

 宗十郎たちは船尾へ進んだ。

 

 船長の短銃が火を噴く。

 

 権蔵の隣にいた男が倒れた。

 

 胸から血を流し、雨の中で痙攣する。

 

 宗十郎は足を止めなかった。

 

 船長が剣を構える。

 

 さすがに強い。

 

 ただの商船長ではない。海で戦ってきた男の剣だった。

 

 宗十郎の一撃を受け流し、逆に突きを返す。

 

 刃が宗十郎の脇腹を掠めた。

 

 熱い痛み。

 

 船長は何か叫んだ。

 

 宗十郎には意味がわからない。

 

 だが、その目の中にあるものはわかった。

 

 蔑み。

 

 怒り。

 

 そして恐怖。

 

 宗十郎は低く踏み込んだ。

 

 刀ではない。

 

 だから、刀の戦いを捨てた。

 

 相手の剣を自分の剣で絡め、手首ごと押さえる。体を密着させ、額で相手の鼻を打った。

 

 船長がよろめく。

 

 宗十郎は膝を腹へ入れ、剣を叩き落とした。

 

 船長が短銃へ手を伸ばす。

 

 その手を、サリマの短剣が貫いた。

 

 船長が叫ぶ。

 

 ンガリが斧を振り上げた。

 

「待て!」

 

 宗十郎が叫ぶ。

 

 斧は船長の首のすぐ横で止まった。

 

 ンガリの腕が震えていた。

 

 殺したい。

 

 当然だ。

 

 宗十郎も殺したかった。

 

 だが、彼は船長の髪を掴み、甲板へ押し倒した。

 

「生かせ」

 

 ミゲルが駆け寄り、船長にポルトガル語で何か叫んだ。

 

 船長は血まみれの顔で唾を吐いた。

 

 その瞬間、ンガリが船長の左手を踏み砕いた。

 

 骨の潰れる音。

 

 船長の悲鳴。

 

 宗十郎は止めなかった。

 

 殺してはいない。

 

 それで十分だった。

 

 やがて、抵抗は終わった。

 

 船員の半数は死に、残りは縛られた。

 

 奴隷たちは甲板に立っていた。

 

 雨は弱まっていた。

 

 夜明け前の空が、東の果てでわずかに白み始めている。

 

 宗十郎は周囲を見た。

 

 血。

 

 雨。

 

 折れた帆綱。

 

 倒れた者たち。

 

 泣きながら抱き合う者。

 

 呆然と空を見る者。

 

 甲板に膝をつき、見知らぬ神に祈る者。

 

 ンガリは空へ向かって叫んだ。

 

 サリマは泣いていた。

 

 アルンは外れた手枷を抱きしめていた。

 

 ミゲルは震える手で十字を切っていた。

 

 宗十郎は剣を下ろした。

 

 勝った。

 

 だが、その言葉はあまりに小さかった。

 

 彼らは船を奪った。

 

 地獄の底から這い上がった。

 

 しかし、ここは海の上だった。

 

 陸は見えない。

 

 故郷も見えない。

 

 自由とは、まだ遠い水平線の向こうにあるものだった。

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