夜が明けると、海は灰色だった。
雨雲は遠ざかり、空の一部に薄い青が見え始めている。だが、甲板の上に広がる光景は、朝の清らかさとは程遠かった。
死体が転がっていた。
船員。
奴隷。
名を知る者。
名を知らぬ者。
血は雨に薄まり、甲板の溝を伝って海へ流れていた。折れた剣、空になった短銃、切れた鎖、破れた帆布。夜の反乱の痕跡が、船全体に刻まれている。
宗十郎は眠らなかった。
眠れば崩れる気がした。
体中が痛む。肩の銃創、脇腹の裂傷、古い矢傷、鞭の跡。どれもが熱を持っていた。だが、倒れるわけにはいかない。
船を奪うことと、船を生かすことは違う。
彼らはまだ、海の上で死にかけていた。
「水樽を確認しろ」
宗十郎は言った。
言葉が通じる者は少ない。
だから、彼は身振りで示し、林福が中国語と片言のポルトガル語で伝え、ユースフが別の言葉で叫び、サリマがマレーの言葉で補った。
命令は波紋のように広がっていった。
不思議なものだった。
昨夜まで彼らは、互いの言葉もろくに知らぬ奴隷だった。
今は一隻の船を動かすため、必死に声をつないでいる。
林福が船倉から上がってきた。
「水、少ない。食料、ある。でも腐り始め」
ユースフも続く。
「帆が一枚破れている。舵は無事。だが、この船を動かせる者が足りない」
宗十郎は縛られた船長を見た。
船長は船尾の柱に縛りつけられていた。顔は腫れ、手は潰れている。それでも目だけは憎悪に燃えていた。
ミゲルが通訳する。
「船長は協力しないと言っている」
「ならば、協力する理由を与える」
宗十郎は船長の前に立った。
剣は抜かない。
ただ見下ろした。
「この船が沈めば、お前も死ぬ」
ミゲルが訳す。
船長は笑った。
血の混じった唾を吐き、何か言う。
ミゲルの顔が歪んだ。
「何と言った」
「奴隷と生きるくらいなら死ぬ、と」
ンガリが一歩出た。
宗十郎は手で制した。
「なら死ね」
彼は船長の縄を解かせた。
周囲がざわめく。
宗十郎は船長の襟を掴み、欄干まで引きずった。
船長の顔色が変わる。
海は荒れていた。
落ちれば助からない。
宗十郎は静かに言った。
「海に捨てる」
ミゲルが青ざめる。
「待て、宗十郎」
「訳せ」
ミゲルは震えながら訳した。
船長は初めて黙った。
宗十郎は彼の体を欄干の外へ半分押し出した。
船長が叫ぶ。
宗十郎には意味がわからない。
ミゲルが言った。
「待て、と。助けろ、と」
「船を動かすか」
船長は荒い息を吐きながら頷いた。
宗十郎は彼を甲板へ放り戻した。
「裏切れば、次は落とす!」
ミゲルが訳す。
船長は宗十郎を睨んだ。
宗十郎も見返した。
そこに慈悲はなかった。
だが、無意味な殺意もなかった。
宗十郎はこの船に乗る全員を生かさねばならない。
そのためなら、敵の命も道具にする。
それが今の彼の戦だった。
死者は海へ送られた。
本当なら、それぞれの土地の作法があるのだろう。
念仏。
祈り。
歌。
沈黙。
だが、彼らは互いの神を知らない。
だから、皆がそれぞれの言葉で祈った。
日本人の捕虜たちは手を合わせた。
ミゲルは十字を切った。
ユースフは額を甲板につけ、静かに祈った。
ンガリは胸を叩き、低い歌を歌った。
サリマは海へ花の代わりに布切れを流した。
宗十郎は最後に、反乱で死んだ少年の体を抱えた。
名は知らない。
船倉で何度か水を分けた子だった。
軽かった。
あまりにも軽かった。
宗十郎はその体を海へ渡した。
波が受け取る。
少年はすぐに見えなくなった。
宗十郎は手を合わせなかった。
祈れば、許しを乞うような気がした。
彼は許されたいのではない。
忘れたくなかった。
死んだ者たちの重みを、背負って進みたかった。
「宗十郎」
ミゲルが隣に立った。
「お前は祈らないのか」
「祈って戻る命なら、いくらでも祈る」
ミゲルは黙った。
宗十郎は水平線を見た。
「戻らぬなら、覚えておく」
ミゲルは静かに頷いた。
船の名は、サンタ・クララ号といった。
ポルトガルの女聖人の名らしい。
宗十郎には意味がなかった。
奴隷を運ぶ船に聖なる名がついている。
そのことが、ひどく歪に思えた。
船内の確認が進むにつれ、彼らはこの船の正体を知った。
積み荷は人だけではなかった。
銀。
香辛料。
絹。
火薬。
鉄砲。
硝子玉。
そして、売買の記録。
林福とミゲルが帳簿を読んだ。
そこには人の名ではなく、数が書かれていた。
男、三十四。
女、二十一。
子供、十六。
黒人、十二。
インド人、九。
日本人、二十八。
その他。
その他。
その他。
宗十郎は帳簿を見つめた。
「その他とは何だ」
ミゲルは答えられなかった。
宗十郎は帳簿を閉じた。
人を数にする紙。
人を値にする墨。
彼はそれを破り捨てようとした。
だが、林福が止めた。
「待て。これは証になる。どこの港、誰が売った、誰が買う。書いてある」
「証にしてどうする」
「知ることは武器だ」
林福の目は静かだった。
「この世界で、剣だけでは勝てない」
宗十郎は帳簿を見た。
そこには知らぬ地名が並んでいた。
マカオ。
マラッカ。
ゴア。
モザンビーク。
リスボン。
バイーア。
世界は広い。
そして、その広い世界のあちこちに、人を売る道が伸びている。
宗十郎は初めて、自分たちを縛っていたものの巨大さを知った。
城を焼いた敵だけではない。
港の商人だけではない。
この船の船員だけではない。
海そのものに、鎖が張り巡らされている。
彼は拳を握った。
一本の縄を断つだけでは足りない。
数日後、彼らは初めて会議を開いた。
会議といっても、立派なものではない。
船尾の甲板に輪を作り、座れる者が座り、立てない者は横になった。言葉が違うため、何を決めるにも時間がかかった。
議題はひとつ。
どこへ行くか。
日本へ戻る。
最初にそう言ったのは権蔵だった。
「この船なら戻れるんじゃねえですか。九州でも琉球でもいい。陸へ着けば、あとは何とか」
日本人の何人かが頷いた。
宗十郎も、その言葉に胸が揺れた。
戻る。
新九郎が生きているかもしれない。
母の墓を作れるかもしれない。
伊吹家の跡地に行けるかもしれない。
だが、ユースフが首を振った。
「戻るには風と海流がいる。船長は嘘をつくかもしれない。それに、近くの港はポルトガルの船が多い。戻れば捕まる」
林福も言った。
「日本へ戻っても、誰が守る? お前たちは売られた。売った者がいる。戻ればまた売られるか、口封じに殺される」
権蔵が怒鳴った。
「じゃあどうしろってんだ!」
林福は黙った。
ンガリが言った。
「俺、帰る。村へ」
ミゲルが苦しそうに訳した。
ンガリの故郷はアフリカ東岸。
この船の航路によっては近づけるかもしれない。
だが、彼の村が残っている保証はない。
サリマは海を見ていた。
「私は島へ帰りたい。でも、帰ったらまた捕まるかもしれない」
アルンは小さく言った。
「僕、家、ない」
その言葉で、場が静まった。
家がある者。
家を失った者。
帰りたい者。
帰る場所がない者。
そして、帰れば危険な者。
自由になったはずなのに、彼らには行き先がなかった。
宗十郎は黙って聞いていた。
皆の視線が、やがて彼に集まる。
なぜ自分を見る。
宗十郎はそう思った。
彼は船長ではない。
主君でもない。
侍ですらない。
だが、反乱の夜、彼が先頭に立った。
だから皆は、次の言葉を待っていた。
宗十郎はゆっくり口を開いた。
「帰れる者は帰す」
ミゲルが訳す。
林福が別の言葉にする。
ユースフがまた別の言葉で伝える。
「だが、この船を今すぐどこかの港へ入れれば、また捕まる。まず安全な島を探す。水と食料を得る。船を直す。そこから、それぞれの故郷へ帰る道を探す」
権蔵が問う。
「宗十郎殿は?」
宗十郎は答えに詰まった。
日本へ帰りたい。
その気持ちはある。
だが、帰って何になる。
主君は死に、家は焼け、侍としての身分も失った。
そして何より、この船にはまだ多くの者がいる。
反乱の首謀者である彼だけが帰るわけにはいかなかった。
「俺は」
彼は水平線を見た。
「この船の最後の一人が行く場所を見つけるまで、降りぬ」
沈黙。
やがて、ンガリが胸を叩いた。
「ソウジュロ。俺も」
サリマが頷いた。
「私も。海を知る者がいる」
ユースフが笑った。
「帆を扱える者も必要だ」
林福はため息をついた。
「年寄りを働かせるな。だが、仕方ない」
アルンが小さく手を上げた。
「僕、数える」
ミゲルは十字架を握りしめた。
「私は……もう国へは戻れない。なら、行く」
その時、彼らはまだ海賊ではなかった。
旗もない。
名もない。
目的も定まらない。
ただ、奪った船の上で、もう二度と鎖に戻らないと決めた者たちだった。