LIBERDADE   作:武インパクト豊

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第五章 奪った船

 

 

 

 夜が明けると、海は灰色だった。

 

 雨雲は遠ざかり、空の一部に薄い青が見え始めている。だが、甲板の上に広がる光景は、朝の清らかさとは程遠かった。

 

 死体が転がっていた。

 

 船員。

 

 奴隷。

 

 名を知る者。

 

 名を知らぬ者。

 

 血は雨に薄まり、甲板の溝を伝って海へ流れていた。折れた剣、空になった短銃、切れた鎖、破れた帆布。夜の反乱の痕跡が、船全体に刻まれている。

 

 宗十郎は眠らなかった。

 

 眠れば崩れる気がした。

 

 体中が痛む。肩の銃創、脇腹の裂傷、古い矢傷、鞭の跡。どれもが熱を持っていた。だが、倒れるわけにはいかない。

 

 船を奪うことと、船を生かすことは違う。

 

 彼らはまだ、海の上で死にかけていた。

 

「水樽を確認しろ」

 

 宗十郎は言った。

 

 言葉が通じる者は少ない。

 

 だから、彼は身振りで示し、林福が中国語と片言のポルトガル語で伝え、ユースフが別の言葉で叫び、サリマがマレーの言葉で補った。

 

 命令は波紋のように広がっていった。

 

 不思議なものだった。

 

 昨夜まで彼らは、互いの言葉もろくに知らぬ奴隷だった。

 

 今は一隻の船を動かすため、必死に声をつないでいる。

 

 林福が船倉から上がってきた。

 

「水、少ない。食料、ある。でも腐り始め」

 

 ユースフも続く。

 

「帆が一枚破れている。舵は無事。だが、この船を動かせる者が足りない」

 

 宗十郎は縛られた船長を見た。

 

 船長は船尾の柱に縛りつけられていた。顔は腫れ、手は潰れている。それでも目だけは憎悪に燃えていた。

 

 ミゲルが通訳する。

 

「船長は協力しないと言っている」

 

「ならば、協力する理由を与える」

 

 宗十郎は船長の前に立った。

 

 剣は抜かない。

 

 ただ見下ろした。

 

「この船が沈めば、お前も死ぬ」

 

 ミゲルが訳す。

 

 船長は笑った。

 

 血の混じった唾を吐き、何か言う。

 

 ミゲルの顔が歪んだ。

 

「何と言った」

 

「奴隷と生きるくらいなら死ぬ、と」

 

 ンガリが一歩出た。

 

 宗十郎は手で制した。

 

「なら死ね」

 

 彼は船長の縄を解かせた。

 

 周囲がざわめく。

 

 宗十郎は船長の襟を掴み、欄干まで引きずった。

 

 船長の顔色が変わる。

 

 海は荒れていた。

 

 落ちれば助からない。

 

 宗十郎は静かに言った。

 

「海に捨てる」

 

 ミゲルが青ざめる。

 

「待て、宗十郎」

 

「訳せ」

 

 ミゲルは震えながら訳した。

 

 船長は初めて黙った。

 

 宗十郎は彼の体を欄干の外へ半分押し出した。

 

 船長が叫ぶ。

 

 宗十郎には意味がわからない。

 

 ミゲルが言った。

 

「待て、と。助けろ、と」

 

「船を動かすか」

 

 船長は荒い息を吐きながら頷いた。

 

 宗十郎は彼を甲板へ放り戻した。

 

「裏切れば、次は落とす!」

 

 ミゲルが訳す。

 

 船長は宗十郎を睨んだ。

 

 宗十郎も見返した。

 

 そこに慈悲はなかった。

 

 だが、無意味な殺意もなかった。

 

 宗十郎はこの船に乗る全員を生かさねばならない。

 

 そのためなら、敵の命も道具にする。

 

 それが今の彼の戦だった。

 

 死者は海へ送られた。

 

 本当なら、それぞれの土地の作法があるのだろう。

 

 念仏。

 

 祈り。

 

 歌。

 

 沈黙。

 

 だが、彼らは互いの神を知らない。

 

 だから、皆がそれぞれの言葉で祈った。

 

 日本人の捕虜たちは手を合わせた。

 

 ミゲルは十字を切った。

 

 ユースフは額を甲板につけ、静かに祈った。

 

 ンガリは胸を叩き、低い歌を歌った。

 

 サリマは海へ花の代わりに布切れを流した。

 

 宗十郎は最後に、反乱で死んだ少年の体を抱えた。

 

 名は知らない。

 

 船倉で何度か水を分けた子だった。

 

 軽かった。

 

 あまりにも軽かった。

 

 宗十郎はその体を海へ渡した。

 

 波が受け取る。

 

 少年はすぐに見えなくなった。

 

 宗十郎は手を合わせなかった。

 

 祈れば、許しを乞うような気がした。

 

 彼は許されたいのではない。

 

 忘れたくなかった。

 

 死んだ者たちの重みを、背負って進みたかった。

 

「宗十郎」

 

 ミゲルが隣に立った。

 

「お前は祈らないのか」

 

「祈って戻る命なら、いくらでも祈る」

 

 ミゲルは黙った。

 

 宗十郎は水平線を見た。

 

「戻らぬなら、覚えておく」

 

 ミゲルは静かに頷いた。

 

 

 

 

 

 船の名は、サンタ・クララ号といった。

 

 ポルトガルの女聖人の名らしい。

 

 宗十郎には意味がなかった。

 

 奴隷を運ぶ船に聖なる名がついている。

 

 そのことが、ひどく歪に思えた。

 

 船内の確認が進むにつれ、彼らはこの船の正体を知った。

 

 積み荷は人だけではなかった。

 

 銀。

 

 香辛料。

 

 絹。

 

 火薬。

 

 鉄砲。

 

 硝子玉。

 

 そして、売買の記録。

 

 林福とミゲルが帳簿を読んだ。

 

 そこには人の名ではなく、数が書かれていた。

 

 男、三十四。

 

 女、二十一。

 

 子供、十六。

 

 黒人、十二。

 

 インド人、九。

 

 日本人、二十八。

 

 その他。

 

 その他。

 

 その他。

 

 宗十郎は帳簿を見つめた。

 

「その他とは何だ」

 

 ミゲルは答えられなかった。

 

 宗十郎は帳簿を閉じた。

 

 人を数にする紙。

 

 人を値にする墨。

 

 彼はそれを破り捨てようとした。

 

 だが、林福が止めた。

 

「待て。これは証になる。どこの港、誰が売った、誰が買う。書いてある」

 

「証にしてどうする」

 

「知ることは武器だ」

 

 林福の目は静かだった。

 

「この世界で、剣だけでは勝てない」

 

 宗十郎は帳簿を見た。

 

 そこには知らぬ地名が並んでいた。

 

 マカオ。

 

 マラッカ。

 

 ゴア。

 

 モザンビーク。

 

 リスボン。

 

 バイーア。

 

 世界は広い。

 

 そして、その広い世界のあちこちに、人を売る道が伸びている。

 

 宗十郎は初めて、自分たちを縛っていたものの巨大さを知った。

 

 城を焼いた敵だけではない。

 

 港の商人だけではない。

 

 この船の船員だけではない。

 

 海そのものに、鎖が張り巡らされている。

 

 彼は拳を握った。

 

 一本の縄を断つだけでは足りない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 数日後、彼らは初めて会議を開いた。

 

 会議といっても、立派なものではない。

 

 船尾の甲板に輪を作り、座れる者が座り、立てない者は横になった。言葉が違うため、何を決めるにも時間がかかった。

 

 議題はひとつ。

 

 どこへ行くか。

 

 日本へ戻る。

 

 最初にそう言ったのは権蔵だった。

 

「この船なら戻れるんじゃねえですか。九州でも琉球でもいい。陸へ着けば、あとは何とか」

 

 日本人の何人かが頷いた。

 

 宗十郎も、その言葉に胸が揺れた。

 

 戻る。

 

 新九郎が生きているかもしれない。

 

 母の墓を作れるかもしれない。

 

 伊吹家の跡地に行けるかもしれない。

 

 だが、ユースフが首を振った。

 

「戻るには風と海流がいる。船長は嘘をつくかもしれない。それに、近くの港はポルトガルの船が多い。戻れば捕まる」

 

 林福も言った。

 

「日本へ戻っても、誰が守る? お前たちは売られた。売った者がいる。戻ればまた売られるか、口封じに殺される」

 

 権蔵が怒鳴った。

 

「じゃあどうしろってんだ!」

 

 林福は黙った。

 

 ンガリが言った。

 

「俺、帰る。村へ」

 

 ミゲルが苦しそうに訳した。

 

 ンガリの故郷はアフリカ東岸。

 

 この船の航路によっては近づけるかもしれない。

 

 だが、彼の村が残っている保証はない。

 

 サリマは海を見ていた。

 

「私は島へ帰りたい。でも、帰ったらまた捕まるかもしれない」

 

 アルンは小さく言った。

 

「僕、家、ない」

 

 その言葉で、場が静まった。

 

 家がある者。

 

 家を失った者。

 

 帰りたい者。

 

 帰る場所がない者。

 

 そして、帰れば危険な者。

 

 自由になったはずなのに、彼らには行き先がなかった。

 

 宗十郎は黙って聞いていた。

 

 皆の視線が、やがて彼に集まる。

 

 なぜ自分を見る。

 

 宗十郎はそう思った。

 

 彼は船長ではない。

 

 主君でもない。

 

 侍ですらない。

 

 だが、反乱の夜、彼が先頭に立った。

 

 だから皆は、次の言葉を待っていた。

 

 宗十郎はゆっくり口を開いた。

 

「帰れる者は帰す」

 

 ミゲルが訳す。

 

 林福が別の言葉にする。

 

 ユースフがまた別の言葉で伝える。

 

「だが、この船を今すぐどこかの港へ入れれば、また捕まる。まず安全な島を探す。水と食料を得る。船を直す。そこから、それぞれの故郷へ帰る道を探す」

 

 権蔵が問う。

 

「宗十郎殿は?」

 

 宗十郎は答えに詰まった。

 

 日本へ帰りたい。

 

 その気持ちはある。

 

 だが、帰って何になる。

 

 主君は死に、家は焼け、侍としての身分も失った。

 

 そして何より、この船にはまだ多くの者がいる。

 

 反乱の首謀者である彼だけが帰るわけにはいかなかった。

 

「俺は」

 

 彼は水平線を見た。

 

「この船の最後の一人が行く場所を見つけるまで、降りぬ」

 

 沈黙。

 

 やがて、ンガリが胸を叩いた。

 

「ソウジュロ。俺も」

 

 サリマが頷いた。

 

「私も。海を知る者がいる」

 

 ユースフが笑った。

 

「帆を扱える者も必要だ」

 

 林福はため息をついた。

 

「年寄りを働かせるな。だが、仕方ない」

 

 アルンが小さく手を上げた。

 

「僕、数える」

 

 ミゲルは十字架を握りしめた。

 

「私は……もう国へは戻れない。なら、行く」

 

 その時、彼らはまだ海賊ではなかった。

 

 旗もない。

 

 名もない。

 

 目的も定まらない。

 

 ただ、奪った船の上で、もう二度と鎖に戻らないと決めた者たちだった。

 

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