うすほそな幼なじみを口説き落とすRTA   作:うすほそ娘

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第1話「はじめてのRTA」

 五歳の俺は、その時はっきりと理解した。

 

「こいつ放っておいたら死ぬ」

 

 砂場の隅で膝を抱える、線の細い女の子を見ての第一印象だった。

 

 今にして思えば、これが俺の人生最初の「死亡フラグ察知」だ。当時はRTAなんて言葉、知りもしなかったけれど。ついでに言うと、五歳児が初対面の女の子に「死ぬ」と思ったのも相当イカれている。普通は「かわいい」とか「友達になりたい」だ。どうやら俺の思考回路は、この時すでにどこかおかしかったらしい。

 

 ◆◆◆

 

 四月。引っ越し初日の幼稚園。

 

 母さんは看護師で、夜勤の多い人だった。朝方まで働いて、その足で俺を幼稚園に連れてくる。駐車場で車を降りる時、母さんは「湊、今日からここだ。友達つくれよ」と言って、欠伸を噛み殺しながら去っていった。

 

 園庭を見渡す。滑り台、ブランコ、鉄棒。どこにでもある幼稚園だ。子供たちは思い思いに走り回っていて、黄色い帽子の集団が砂場を占拠し、年長組らしき三人がブランコの取り合いで喧嘩を始めていた。

 

 そんな喧騒の中で、砂場の隅にぽつんと座る女の子を見つけた。

 

 長い髪は色素が薄く、陽の光に透けると茶色っぽく見える。肌は青白く、手首は折れそうなほど細い。周りの騒がしさが、彼女の周りだけぽっかりと空白になっていた。

 

 誰も話しかけない。誰も近づかない。

 

 女の子は膝を抱えて、ただ砂を見つめている。

 

 今ならわかる。これは「イベント発生待機状態」だ。放置すればいずれ「死亡フラグ」が立つ。そういうタイプの存在だと、五歳の俺は本能的に察知したのだ。

 

「おまえ、なにやってるの」

 

 声をかけると、女の子の肩がびくっと跳ねた。驚いた顔で俺を見上げる。茶色い目は大きいのに、光が入っていなかった。

 

「……すな、いじってる」

 

 声も細い。風が吹いたら消えそうだった。

 

「たのしいのか」

 

「……わかんない」

 

 女の子の手元には、砂の盛り上がりがあった。山らしい。でも形が崩れかけている。誰かに蹴られたような跡だ。

 

「これ、誰かに壊されたのか」

 

 女の子は答えなかった。でも俯いた顔が、そうだと語っていた。

 

 俺はしゃがみ込み、砂を一掴みした。山のてっぺんに乗せて、ぎゅっと固める。

 

「やまをつくるなら、てっぺんをとがらせたほうがいい。こっちのほうがかっこいいだろ」

 

「……かっこいい」

 

「そうだ。おまえもやれ」

 

 女の子はおそるおそる砂に触る。指は細くて白く、爪の先まで透き通るみたいな手だった。俺たちはしばらく無言で砂を積み、やがて山はさっきよりずっと高くなった。

 

「……できた」

 

 女の子が言った。声は相変わらず小さいけど、さっきより確かだ。

 

「やるじゃないか」

 

 女の子の口元が、ほんの少しだけ動く。笑ったのかどうか、まだわからない。でも少なくとも、さっきよりは生きている顔だった。

 

「おれは黒瀬湊。おまえの名前は」

 

「……しらさき、ゆき」

 

 白崎雪。

 

 俺は心の中でその名前を繰り返した。よし、「名前交換イベント」クリアだ。後の俺ならそう呼ぶだろうが、当時はただ、この細い女の子を「覚えた」という感覚だった。

 

 ◆◆◆

 

 そこに影が差した。

 

「おい、おまえ!」

 

 年長組のガキ大将が、取り巻き二人を連れて立っていた。眉が太くて声がでかい。園庭で一番幅を利かせているタイプだ。

 

「なんだ」

 

「その女、きもちわるいんだよ! いつも砂場でじっとしてて、おばけみたい!」

 

 ガキ大将が雪を指さす。雪は俯いたまま動かない。慣れている。それが痛かった。

 

「で、おまえはそいつと遊んでんの? きもちわるくねえの?」

 

 俺は立ち上がった。五歳児のわりに大きかったから、ガキ大将と視線の高さがほぼ同じになる。

 

「おまえ、なまえは」

 

「は? ケンタだけど」

 

「ケンタ。おぼえた」

 

 ケンタが一歩下がる。後ろの取り巻きがざわついた。

 

「な、なにがおぼえた、だよ」

 

「おまえがやったこと。ゆきの作った砂山をけったこと。ゆきのことを『きもちわるい』と言ったこと。ぜんぶおぼえた」

 

 俺はケンタの目をじっと見た。睨むんじゃない。ただ、まばたきをせずに見る。

 

「おぼえたからな」

 

 ケンタの顔から血の気が引いていく。子供には「覚えられる」ことが一番怖い。親や先生に叱られるより、ずっと怖い。誰かが自分のしたことを忘れずにいるという事実が、子供には重すぎるのだ。

 

「……行くぞ!」

 

 ケンタは取り巻きを連れて走り去った。

 

 俺はもう一度しゃがみ込んで、雪に向き直った。

 

「大丈夫だ。もう来ない」

 

 雪は顔を上げた。茶色い目が少しだけ揺れている。

 

「……なんで、私のこと、かばってくれたの」

 

 考えたことがなかった。なんで、と言われても理由がない。

 

「おまえが、ひとりだったから」

 

 俺はそれだけ答えた。

 

 雪はしばらく黙っていたけど、やがて小さくうなずいた。

 

「……ありがとう」

 

 細くて、かすれていて、でもまっすぐな声だった。

 

 振り返れば、これが最初の「好感度+3」だ。当時の俺に数値化の概念はなかったが、何かが動いたのを感じた。雪の中で、小さな歯車が回り始めたような。

 

 ◆◆◆

 

 その日から、俺は毎日雪の隣に座った。

 

 雪はいつも砂場の隅にいる。俺の姿を見つけると、ほんの少しだけ顔を上げる。それが「おはよう」の代わりだった。

 

「今日はなにを作る」

 

「……きのうのつづき。やま」

 

「また山か。たまには城にしないか」

 

「……しろ、わかんない」

 

「俺が教える」

 

 砂を掘って、壁を作って、塔を立てる。雪は隣でじっと見ていて、時々おそるおそる手を出す。不器用で、すぐに壁を崩す。でも俺が直すと、また挑戦した。

 

 城が完成した時、雪は言った。

 

「……湊くんは、すごい」

 

「すごくない。練習しただけだ」

 

「……練習すれば、できるようになる?」

 

「なるに決まってる」

 

 雪は自分の手を見た。細くて、何かを掴むのも難しそうな手だ。

 

「……じゃあ、私も練習する」

 

 この時、雪の中で「自分にもできるかも」という感情が芽生えたのだと思う。後に俺が「自己肯定感フラグ」と呼ぶようになるものだ。

 

 ◆◆◆

 

 昼食の時間。

 

 幼稚園の給食は、みんなで机をくっつけて食べる。雪は一人で端っこに座っていた。誰が決めたわけでもなく、そうなっている。

 

 俺はトレイを持って雪の隣に移動した。

 

「となり、いいか」

 

「……うん」

 

 雪は驚いた顔をした。誰かが隣に来ると思っていなかったらしい。

 

 その日のメニューはシチューとパンとサラダ。雪はパンをちぎって少しだけ口に入れる。シチューにはほとんど手をつけていない。

 

「食わないのか」

 

「……おなか、あんまりすいてない」

 

 嘘だ。手首の細さが空腹を証明している。

 

 俺は自分のパンを半分にちぎって、雪のトレイに置いた。

 

「おれ、これ食いきれない。もったいないから食って」

 

「……でも」

 

「捨てることになる。もったいないだろ」

 

 雪は「もったいない」という言葉に弱かった。家でよく言われているのか、ただの性格なのか。少し迷った後、パンを手に取る。

 

「……じゃあ、もらう」

 

「そうしろ」

 

 雪はパンを口に入れた。一口、二口。咀嚼は遅いけど、食べている。

 

「……おいしい」

 

 その声は本当に小さくて、聞き逃しそうだった。

 

「そうか」

 

 俺はシチューを口に流し込みながら、心の中でメモを取った。雪は「もったいない」に弱い。パンは食べるがシチューは残す——固形物の方が好き? 「食いきれないからやる」は有効。

 

 のちの「チャート作成」の原型だった。当時はただの「雪を観察してわかったことリスト」だけど。客観的に見て、五歳児が同級生の食事傾向をメモして「攻略対象」扱いしているのはなかなか怖い。我ながら、この頃から素養があったのだと思う。RTA走者としての、そして——多分、別の何かとしての。

 

 ◆◆◆

 

 次の日から、俺は必ずおやつを半分残した。

 

 クッキー、ゼリー、果物。午後のおやつの時間になると、雪は自分から俺の隣に来るようになる。まだ何も言わないけど、「くれる」とわかっているらしい。

 

「ほら」

 

「……ありがとう」

 

 毎回、同じやりとり。でも五回目くらいから、雪は「ありがとう」の後にもう一言、付け加えるようになった。

 

「……今日のクッキー、ちょっと甘い」

 

「そうか」

 

「……湊くんは、甘いの好き?」

 

「べつに」

 

「……私は、ちょっと苦手。でもこれは食べられる」

 

 これが、俺と雪の最初の「雑談」だった。内容はクッキーの味。でも雪が自分から話題を振ったことが嬉しかった。

 

 今の俺がこれを分析するなら「コミュニケーションイベント成功。好感度微増」といったところか。当時はただ、雪が少しだけ喋るようになったのを喜んでいた。

 

 ◆◆◆

 

 六月。梅雨。

 

 雨の日が続くと外遊びができず、室内で折り紙をしていた時、雪がぽつりと言った。

 

「……あめ、きらい」

 

「なんで」

 

「……かさ、わすれるから」

 

 雪は傘をよく忘れる。いや、正確には「家に傘がない」のだと後で知る。でもこの時はまだ、そこまで把握していなかった。

 

 放課後、予報通り雨が降った。

 

 子供たちは迎えの親や、自分で持ってきた傘で帰っていく。雪は玄関に立って、空を見上げていた。

 

「傘、持ってきたか」

 

「……わすれた」

 

 だよな、と思った。

 

 俺は自分の傘を広げた。水色の子供用傘。一人分だけど、五歳児が二人ならなんとか入れる。

 

「入れ。一緒に帰る」

 

「……いいの」

 

「いいから入れ。濡れる」

 

 雪は傘と俺の顔を交互に見て、それからそっと傘の中に入ってきた。

 

 相合傘で歩く。雪は小刻みに、俺はゆっくり。歩幅が合わなくて、何度か肩がぶつかった。

 

「もっとこっちに来い。濡れる」

 

「……湊くんが濡れる」

 

「俺は風邪をひかない」

 

「……うそ」

 

「ほんとだ。俺の体は頑丈なんだ」

 

 これは嘘だ。俺だって風邪を引く。でもこの場では、雪に遠慮をさせる方がまずい。

 

 雪は半歩、近づいた。肩と肩が触れる距離。雨の音で心臓の音は聞こえないけど、雪の手が傘の柄を握る俺の手にそっと触れた。冷たい手だった。梅雨なのに、氷みたいに冷えている。

 

「……湊くんの手、あったかい」

 

「雪の手は冷たいな」

 

「……ずっと冷たいの。冬はもっと冷たい」

 

 俺は雪の家を知らなかった。だからこの日、送っていくことにした。

 

「おまえの家、どこだ」

 

「……え」

 

「送ってく」

 

 雪は驚いて、それから小さくうなずいた。

 

 雪の家は、幼稚園から歩いて十分のアパートだった。二階建ての古いアパート。壁の塗装が剥げて、階段は錆びている。ポストには何も入っていなかった。

 

「ここ」

 

 二階の一番奥のドアの前で、雪が立ち止まった。

 

「入るか」

 

「……散らかってる」

 

「いいから」

 

 部屋の中は、驚くほど何もなかった。テーブルと椅子と布団。テレビもない。壁にカレンダーが一枚だけかかっている。

 

「おかあさんは、まだ仕事?」

 

「……うん。夜まで帰らない」

 

「いつも一人か」

 

「……うん」

 

 俺は部屋の中を見回した。五歳児が一人で過ごすには、あまりにも寒い部屋だった。

 

「明日、朝迎えに来る」

 

「……いいの」

 

「当たり前だ。一緒に幼稚園に行こう」

 

 雪の目が大きく開かれる。それから、うつむいて、小さくうなずいた。

 

「……うん」

 

 その声が少しだけ震えていたのは、多分、雨のせいだけじゃない。

 

 後で考えると、この日が「接触イベント」から「継続的関与」への移行だった。傘を貸すだけなら単発イベント。でも「明日も来る」と約束したことで、俺は雪の日常に組み込まれた。

 

 チャートで言うなら「デイリールーティン確定」。これを逃さなかったのが、後のRTAの基礎になった。

 

 ◆◆◆

 

 それから毎朝、俺は雪のアパートに寄った。

 

 ドアを三回ノックする。理由は特になかったけど、三回が一番聞こえやすいと気づいたからだ。今の俺ならこれを「最適化」と呼ぶ。

 

 雪はたいてい、もう起きている。というより、あまり眠れていない。目の下のクマが、日によって濃さを変える。

 

「おはよう」

 

「……おはよう」

 

「朝飯は」

 

「……食べてない」

 

「だろうな」

 

 俺はランドセルからパンを取り出した。母さんが用意してくれる朝食のあまりだ。最初は一人分だけだったけど、事情を話すと二つになった。母さんは「友達と食べなさい」と言っただけだった。

 

「食え。歩きながらだと行儀悪いから、ここで食う」

 

「……湊くんは」

 

「もう食った」

 

 嘘だけど、雪は信じた。パンをかじる雪の隣で、俺の腹が鳴らないように祈る。

 

 これが「デイリーチャート」の始まりだった。時間の意識はまだなかったけど、やることは決まっていた。ルーティンができると、雪の小さな変化に気づきやすくなる。

 

「……今日、パンにレーズン入ってる」

 

「嫌いか」

 

「……ちょっと苦手。でも食べる」

 

「次の日はレーズンなしのにする」

 

「……うん」

 

 次の日、本当にレーズンなしのパンを出したら、雪は目を丸くした。俺はちゃんと覚えていたのだ。

 

 ◆◆◆

 

 七月。七夕。

 

 幼稚園では短冊に願い事を書いて、笹に飾る。字が書けない子は先生に代筆してもらう。雪はまだ上手く書けなかったから、先生に書いてもらっていた。

 

 俺は自分で書いた。

 

「ゆきが げんきに なりますように」

 

 誰にも見せずに、笹の一番端に結んだ。

 

 その日、午後になって雪の様子がおかしくなった。

 

 顔が赤い。ぼんやりしている。お遊戯の練習中に、雪がふらついた。

 

「ゆき、ちょっと来い」

 

 俺は雪の手を引いて、隅に連れていった。

 

「顔、赤いぞ」

 

「……だいじょうぶ」

 

「大丈夫じゃない。熱あるだろ」

 

 手のひらを雪の額に当てた。熱い。明らかに熱がある。

 

「せんせい!」

 

 俺は叫んだ。教室中が静まり返る。

 

「ゆきが熱です。保健室に連れてってください」

 

 先生が飛んできた。雪の額に触れて、すぐに保健室へ連れていく。雪は担がれるようにして教室を出ていった。

 

 俺はその後ろ姿を見送ってから、雪の短冊を探した。

 

 一番端にある、雪の短冊。

 

「みんなと いっしょに あそべますように」

 

 俺はしばらくそれを眺めていた。

 

「遊べますように」だ。「遊びたい」じゃない。遊べるかどうかわからないから、「遊べますように」と願う。五歳児が願うことじゃない。

 

 俺は自分の短冊に、もう一文だけ書き足した。

 

「ゆきが わらえるようになりますように」

 

 ◆◆◆

 

 熱が下がった雪を、保健室に迎えに行った。

 

 雪はベッドに座って、ぼんやりと窓の外を見ている。俺が入っていくと、顔だけこちらに向けた。

 

「……湊くん」

 

「もう熱は下がったのか」

 

「……うん。今、迎えを待ってる。お母さん、仕事で来られないけど、タクシーで帰る」

 

 雪の母親はパートで、昼間は抜けられない。知っていた。

 

「俺が送る。タクシー代、もったいないだろ」

 

「……でも、湊くんまだ幼稚園」

 

「もう帰りの会も終わった。一緒に帰る。立てるか」

 

 雪はベッドから降りようとした。でもふらついた。熱は下がっても体力が戻っていない。

 

 俺は雪の前にしゃがんだ。

 

「乗れ」

 

「……え」

 

「おんぶする」

 

 雪はためらった。手を伸ばしかけて、引っ込める。何かを怖がるみたいに。

 

「……重い、から」

 

「重くない」

 

「……前に、お母さんに、重いって言われた」

 

 俺は雪の手を取った。冷たい手を、自分の肩に回させる。

 

「俺は重くない。それに、重かったとしても、俺は降ろさない」

 

 雪は何も言わなかった。でも、背中に回された腕に、ぎゅう、と力が入った。弱い力だった。震えていた。でも雪が自分の意思で誰かに触れたのは、これが初めてだったかもしれない。

 

 俺は立ち上がって歩き出した。雪の体温が背中に伝わる。まだ少し熱い。

 

「……湊くん」

 

「なんだ」

 

「私、重くない?」

 

「ぜんぜん」

 

「……ほんと」

 

「重かったら途中で降ろしてる。最後まで運ぶってことは、重くないってことだ」

 

 雪は何も言わなかった。でも背中に回された腕に、もう一度、ぎゅう、と力が入った。さっきより、少しだけ強く。

 

 振り返れば、この瞬間が「依存フラグ初期値の観測」だ。当時の俺は、背中が少しあったかくなったと思っただけだった。

 

 ◆◆◆

 

 アパートに着いて、雪を部屋に入れた。

 

 布団を敷いて、横にさせる。薬は先生から預かっている。水をコップに入れて枕元に置いた。

 

「母親が帰るまで、いる」

 

「……いい。湊くんも帰らないと」

 

「帰らない。約束したから」

 

 雪は布団の中で目を閉じかけて、また開けた。

 

「……約束?」

 

「明日も迎えに来る。だから今日はちゃんと寝ろ。治らなかったら、来られない」

 

「……治る」

 

 雪は目を閉じた。今度は開かなかった。

 

 俺は部屋の隅に座って、雪が眠るのを待った。規則正しい呼吸が聞こえてくる。熱のせいで少し速いけど、安定している。

 

 どのくらい経ったか。

 

 玄関の鍵が開く音がして、雪の母親が帰ってきた。疲れ切った顔の女性だった。雪に似ているけど、目はもっと暗い。

 

「あら……湊くん?」

 

「ゆきが熱を出したので、送ってきました。今、寝てます」

 

 雪の母親は何度も頭を下げた。申し訳なさそうな、ありがたそうな、複雑な顔だった。

 

「いつもすみません。雪がいつも湊くんにお世話になって」

 

「世話じゃないです」

 

「でも」

 

「守ってるだけです」

 

 雪の母親は驚いた顔をした。それから、少しだけ笑った。

 

「雪を、よろしくね」

 

「はい」

 

 俺は立ち上がった。

 

「それと、あの」

 

「なに」

 

「雪に、朝ごはんを用意してもらえますか。パンでいいので。お金がかかるなら、俺が持ってきます」

 

 雪の母親はまた驚いた顔をした。でも今度は、笑わなかった。

 

「……わかった。約束する」

 

「お願いします」

 

 俺はアパートを出て、一人で家に帰った。雨がまた降り始めていたけど、傘は雪の家に置いてきた。明日、取りに来ればいい。

 

 ◆◆◆

 

 九月。運動会の練習が始まった。

 

 雪はかけっこが苦手だった。走るフォームも、スタートの反応も、他の子よりずっと遅い。でも「休みたい」とは言わなかった。

 

「やすまなくて平気か」

 

「……私だけ休んだら、みんなに迷惑かける」

 

「迷惑じゃないだろ」

 

「……わかんない。でも、休みたくない」

 

 雪はこういうところだけ頑固だった。自分が損をしても、他人に迷惑をかけるのを嫌う。

 

 かけっこの練習で、雪は転んだ。園庭の砂利道で、膝を擦りむいた。血がにじんでいる。

 

 先生が駆け寄ろうとするより先に、俺は雪の前に立っていた。

 

「見せろ」

 

「……だいじょうぶ」

 

「見せろ」

 

 雪は観念して膝を見せた。擦り傷。深くはないけど、広範囲に皮がむけている。

 

「保健室に行くぞ。立てるか」

 

「……ひとりで行ける」

 

「俺が連れてく」

 

 俺はもう一度しゃがんだ。雪は今度は素直に背中に乗った。あの雨の日から、おんぶは俺たちの「通常手段」になっていた。

 

 保健室への廊下で、雪が言った。

 

「……湊くん、いつも助けてくれる」

 

「当たり前だ」

 

「……当たり前じゃないよ」

 

 雪の声が、少しだけ震えていた。

 

「うちのお母さんも、お父さんも、誰も助けてくれなかった。湊くんだけだ」

 

 雪の家の事情は、少しずつわかってきていた。父親は単身赴任でほとんど家にいない。母親は仕事で夜遅い。土日も雪は一人で過ごしている。

 

「じゃあ、俺が助ける」

 

「……ずっと?」

 

「ずっとだ」

 

 雪は何も言わなかった。その代わり、背中に回した腕に、またぎゅう、と力を込めた。さっきと同じ、いや、それよりも少しだけ強い力。

 

 ◆◆◆

 

 十月。お遊戯会の練習。

 

 演目は「おおきなかぶ」。雪の役は「おばあさん」で、台詞は「うんとこしょ、どっこいしょ」だけ。

 

 でも雪はその短い台詞さえ、うまく言えなかった。

 

「……声が小さくて、聞こえないって先生に言われた」

 

「練習しよう」

 

 俺は床に座って、かぶの役になった。動かないかぶ。雪は俺の腕を引っ張って、「うんとこしょ、どっこいしょ」と言う。

 

「声が小さい。もっと大きくだ」

 

「……うんとこしょ、どっこいしょ」

 

「まだ小さい。雪は声が細いんだから、意識して出さないと聞こえないぞ」

 

「うんとこしょ、どっこいしょ!」

 

 雪の声が初めて教室に響いた。他の子供たちがびっくりしてこっちを見る。雪は真っ赤になって俯いた。

 

「そうだ。それでいい」

 

「……はずかしい」

 

「本番で一回できればいい。練習で恥をかいても問題ない」

 

 これは俺の本音だった。父親が遺したゲームの攻略本に、似たようなことが書いてあったのだ。「本番で一発当てるために、練習で失敗を重ねる」——当時は意味がわからなかったけど、今ならわかる。RTAでも、練習で無駄なルートを捨てて、本番の最短を走る。同じことだ。

 

 雪はうなずいた。それから、もう一度「うんとこしょ、どっこいしょ」と小声で練習を始める。

 

 ◆◆◆

 

 十一月。俺の誕生日。

 

 六歳になる。幼稚園の誕生日会で、みんなの前で「おめでとう」と言われた。恥ずかしかったけど、悪い気はしなかった。

 

 その日、雪が俺に折り紙を差し出した。

 

「……これ」

 

「なんだ」

 

「たんじょうびのプレゼント」

 

 折り紙で作った人形。二つ並んでいる。色は水色と白。大きさが違う。水色が大きくて、白が小さい。

 

「これ、俺と雪か」

 

「……うん。こっちが湊くんで、こっちが私」

 

 折り目は乱れていた。何度もやり直した跡がある。時間をかけて作ったのがわかる。

 

「ありがとう。大事にする」

 

「……ほんと?」

 

「当たり前だ」

 

 雪の口元が、はっきりと動いた。今度は間違いなく、笑顔だった。

 

 初めて見る、雪のちゃんとした笑顔。

 

 俺はその時、胸のあたりが温かくなるのを感じた。これが何かはわからない。でも、この笑顔をもっと見たいと思った。

 

 今の俺はこの瞬間を「好感度+5のクリティカル」と記録する。でも数値では測れない何かが、確かに動いた瞬間だった。

 

 ◆◆◆

 

 十二月。クリスマス。

 

 母さんが雪を家に呼んだ。ケーキを買って、チキンを焼いて、ささやかなクリスマス会をした。

 

 雪は緊張していたけど、ケーキを一口食べて、目を丸くする。

 

「……おいしい」

 

「だろ。母さんのケーキはうまいんだ」

 

「……湊くんは、いいな」

 

「なにが」

 

「……お母さんが、いて」

 

 俺はフォークを止めた。雪の母親は、仕事でクリスマスもいないらしい。

 

「雪も、うちに来ればいい。母さんは雪が来ると喜ぶ」

 

「……いいの」

 

「いいに決まってる」

 

 雪はうつむいて、それからケーキをもう一口食べた。

 

「……来年も、来たい」

 

「当たり前だ」

 

 これが俺たちの最初の「来年の約束」だった。

 

 ◆◆◆

 

 一月。雪が休んだ。

 

 朝、アパートに行くと、雪は布団の中で咳き込んでいた。熱はないけど、明らかに体調が悪い。

 

「今日は休め」

 

「……でも」

 

「休め。俺も遅刻する。休んだ方が効率的だ」

 

 雪は「効率的」の意味がわからなかったらしい。でも俺が一緒にいるならいいかと思ったのか、うなずいた。

 

 俺は幼稚園に電話をかけて、雪が休むことを伝えた。自分の分も休みますと言ったら、母さんは「好きにしろ」と言った。

 

 一日中、雪の部屋で過ごした。

 

 折り紙を折った。絵本を読んだ。昼には近くのコンビニで買ったおにぎりを食べた。

 

「……湊くん、楽しい?」

 

「なにが」

 

「……私といて」

 

「楽しいに決まってる」

 

 俺は即答した。雪はまた、ぎゅう、と俺の袖を掴んだ。

 

 この時の雪の顔を、俺はよく覚えている。嬉しそうで、でも少しだけ怖かった。何かが決定的に変わり始めている顔だった。

 

 ◆◆◆

 

 二月。節分。

 

 幼稚園で豆まきをした。鬼のお面をかぶった先生に、みんなで豆を投げる。

 

「鬼は外、福は内」

 

 雪は小さな声で言いながら、豆をぽんぽん投げていた。

 

「ゆきは鬼を信じてるか」

 

「……わかんない。でも、鬼は嫌い」

 

「そうか」

 

「……鬼は外、福は内。湊くんのところにも、福が来ますように」

 

「俺じゃなくて、雪のところだ」

 

「……湊くんが福じゃなかったら、私のところにも来ない」

 

 雪はたまに、こういう不思議なことを言う。五歳児とは思えない、妙に核心をつくようなことを。

 

 俺は言葉に詰まった。でも悪い気はしなかった。

 

 ◆◆◆

 

 三月。卒園式。

 

 幼稚園が終わる。四月からは小学生だ。

 

 雪は白いワンピースを着ていた。俺の母さんが「卒園式にはこれがいい」と買ってくれたものだ。雪の母親は来ていなかった。仕事を休めなかったらしい。

 

 代わりに俺の母さんが、雪の写真をたくさん撮っていた。

 

「雪ちゃん、笑って!」

 

 雪は緊張した顔でカメラを見た。一枚、二枚。三枚目で、少しだけ口元が緩んだ。

 

 式が終わって、園庭で雪が俺を呼んだ。

 

「湊くん」

 

「なんだ」

 

「……小学校でも、一緒にいてくれる?」

 

 雪の手が、俺の袖を掴んだ。ぎゅう、と。五歳児とは思えない力だった。いや、もう六歳か。離すまいとするみたいに、指が袖に食い込んでいた。

 

「当たり前だろ」

 

 俺は雪の手を握り返した。

 

「小学校でも、中学校でも、ずっと一緒だ。約束する」

 

 雪の目に涙が浮かんだ。でも泣かなかった。代わりに、笑った。今までで一番はっきりとした、笑顔。

 

「……絶対?」

 

「絶対だ」

 

 雪は俺の手を握ったまま、何度もうなずいた。

 

 ◆◆◆

 

 卒園アルバム用の集合写真が終わった後、先生が「好きな子と一緒に写っていいよ」と言った。

 

 何人かの子が照れながら動く。隣のクラスの女の子が、別の男の子の隣に立った。黄色い声が飛んだ。

 

 雪は迷わず俺の隣に来た。

 

「……湊くんがいい」

 

 即答だった。顔は俯いていて、耳が真っ赤だ。

 

「そうか」

 

 俺はそれだけ答えた。何が「そうか」なのか、自分でもよくわかっていない。

 

 カメラがパシャリと鳴る。

 

 後日、現像された写真を見た母さんが「あら、湊、彼女できたの?」と笑った。俺は「違う」と否定したが、写真の中の雪は、確かに他の誰より俺の近くに立っていた。

 

 今なら言える。これは完全にフラグだ。当時の俺は、フラグの意味すら知らなかったけれど。

 

 ◆◆◆

 

 卒園アルバムには、俺と雪が一緒に写った写真がもう一枚ある。母さんが撮ったやつだ。雪は少しだけ笑っていて、俺は真顔だった。

 

 これが、俺の「白崎雪攻略RTA」の始まりだった。

 

 もっとも、攻略もRTAもまだ知らない。知っているのは「雪を守る」ということだけ。

 

 傍から見れば、六歳児が「雪を守る」と決めて、十二年後に「食べられる」ことになるのだから、人生とはわからないものである。

 

 ──いや、この言い方は語弊があるな。今のは忘れてほしい。

 

 それで十分だった。

 

 ◆◆◆

 

 春が来る。

 

 小学校という新しいフィールドが、俺たちを待っている。

 

 雪の家庭は、これから本格的に崩れ始める。父親の蒸発、借金、母親の失踪。雪は追い詰められていく。でもこの時の俺は、まだそれを知らなかった。

 

 知っていたのは、雪を守らなければいけないということだけ。

 

 すべては、これからだ。

 

 





| 項目 | 現在値 | 前回比 |
|------|--------|--------|
| 白崎雪 好 感 度 | 15/100 | +15(初期値0) |
| 白崎雪 依 存 度 | 12/100 | +12(初期値0) |
| 白崎雪 ヤンデレ度 | 1/100 | +1(初期値0 |



変動履歴(主要イベントのみ)
- 砂山修復+ケンタ撃退:好感度+3(初の死亡フラグ回避)
- 給食隣接+おやつ提供(累積):好感度+4(日常イベントボーナス)
- 雨の相合傘+初めての「ありがとう」:好感度+2、依存度+3
- 発熱+おんぶ+看病(「降ろさない」発言):好感度+1、依存度+4
- 折り紙プレゼント:好感度+3
- 卒園式の約束+写真撮影:好感度+2、依存度+5、ヤンデレ度+1
 


湊の現在の認識(17歳による回想)
「当時の俺は好感度を数値化していなかったが、雪が少しずつ心を開いているのは感じていた。まだ15——と思うか? 初期値ゼロからの15だ。上々の滑り出しだった」



【読者への注釈】
- 主人公は依存度・ヤンデレ度の概念を認識していません。これらは読者だけが見られるメタ情報です。
- ヤンデレ度「1」は「のちの闇を予感させる微かな片鱗」を表します。卒園式の「絶対?」の言い方、袖を離さない仕草、「湊くんがいい」の即答など、後に開花する素養がすでに現れています。
- 次回から依存度・ヤンデレ度は少しずつ上昇していきます。
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