うすほそな幼なじみを口説き落とすRTA 作:うすほそ娘
五歳の俺は、その時はっきりと理解した。
「こいつ放っておいたら死ぬ」
砂場の隅で膝を抱える、線の細い女の子を見ての第一印象だった。
今にして思えば、これが俺の人生最初の「死亡フラグ察知」だ。当時はRTAなんて言葉、知りもしなかったけれど。ついでに言うと、五歳児が初対面の女の子に「死ぬ」と思ったのも相当イカれている。普通は「かわいい」とか「友達になりたい」だ。どうやら俺の思考回路は、この時すでにどこかおかしかったらしい。
◆◆◆
四月。引っ越し初日の幼稚園。
母さんは看護師で、夜勤の多い人だった。朝方まで働いて、その足で俺を幼稚園に連れてくる。駐車場で車を降りる時、母さんは「湊、今日からここだ。友達つくれよ」と言って、欠伸を噛み殺しながら去っていった。
園庭を見渡す。滑り台、ブランコ、鉄棒。どこにでもある幼稚園だ。子供たちは思い思いに走り回っていて、黄色い帽子の集団が砂場を占拠し、年長組らしき三人がブランコの取り合いで喧嘩を始めていた。
そんな喧騒の中で、砂場の隅にぽつんと座る女の子を見つけた。
長い髪は色素が薄く、陽の光に透けると茶色っぽく見える。肌は青白く、手首は折れそうなほど細い。周りの騒がしさが、彼女の周りだけぽっかりと空白になっていた。
誰も話しかけない。誰も近づかない。
女の子は膝を抱えて、ただ砂を見つめている。
今ならわかる。これは「イベント発生待機状態」だ。放置すればいずれ「死亡フラグ」が立つ。そういうタイプの存在だと、五歳の俺は本能的に察知したのだ。
「おまえ、なにやってるの」
声をかけると、女の子の肩がびくっと跳ねた。驚いた顔で俺を見上げる。茶色い目は大きいのに、光が入っていなかった。
「……すな、いじってる」
声も細い。風が吹いたら消えそうだった。
「たのしいのか」
「……わかんない」
女の子の手元には、砂の盛り上がりがあった。山らしい。でも形が崩れかけている。誰かに蹴られたような跡だ。
「これ、誰かに壊されたのか」
女の子は答えなかった。でも俯いた顔が、そうだと語っていた。
俺はしゃがみ込み、砂を一掴みした。山のてっぺんに乗せて、ぎゅっと固める。
「やまをつくるなら、てっぺんをとがらせたほうがいい。こっちのほうがかっこいいだろ」
「……かっこいい」
「そうだ。おまえもやれ」
女の子はおそるおそる砂に触る。指は細くて白く、爪の先まで透き通るみたいな手だった。俺たちはしばらく無言で砂を積み、やがて山はさっきよりずっと高くなった。
「……できた」
女の子が言った。声は相変わらず小さいけど、さっきより確かだ。
「やるじゃないか」
女の子の口元が、ほんの少しだけ動く。笑ったのかどうか、まだわからない。でも少なくとも、さっきよりは生きている顔だった。
「おれは黒瀬湊。おまえの名前は」
「……しらさき、ゆき」
白崎雪。
俺は心の中でその名前を繰り返した。よし、「名前交換イベント」クリアだ。後の俺ならそう呼ぶだろうが、当時はただ、この細い女の子を「覚えた」という感覚だった。
◆◆◆
そこに影が差した。
「おい、おまえ!」
年長組のガキ大将が、取り巻き二人を連れて立っていた。眉が太くて声がでかい。園庭で一番幅を利かせているタイプだ。
「なんだ」
「その女、きもちわるいんだよ! いつも砂場でじっとしてて、おばけみたい!」
ガキ大将が雪を指さす。雪は俯いたまま動かない。慣れている。それが痛かった。
「で、おまえはそいつと遊んでんの? きもちわるくねえの?」
俺は立ち上がった。五歳児のわりに大きかったから、ガキ大将と視線の高さがほぼ同じになる。
「おまえ、なまえは」
「は? ケンタだけど」
「ケンタ。おぼえた」
ケンタが一歩下がる。後ろの取り巻きがざわついた。
「な、なにがおぼえた、だよ」
「おまえがやったこと。ゆきの作った砂山をけったこと。ゆきのことを『きもちわるい』と言ったこと。ぜんぶおぼえた」
俺はケンタの目をじっと見た。睨むんじゃない。ただ、まばたきをせずに見る。
「おぼえたからな」
ケンタの顔から血の気が引いていく。子供には「覚えられる」ことが一番怖い。親や先生に叱られるより、ずっと怖い。誰かが自分のしたことを忘れずにいるという事実が、子供には重すぎるのだ。
「……行くぞ!」
ケンタは取り巻きを連れて走り去った。
俺はもう一度しゃがみ込んで、雪に向き直った。
「大丈夫だ。もう来ない」
雪は顔を上げた。茶色い目が少しだけ揺れている。
「……なんで、私のこと、かばってくれたの」
考えたことがなかった。なんで、と言われても理由がない。
「おまえが、ひとりだったから」
俺はそれだけ答えた。
雪はしばらく黙っていたけど、やがて小さくうなずいた。
「……ありがとう」
細くて、かすれていて、でもまっすぐな声だった。
振り返れば、これが最初の「好感度+3」だ。当時の俺に数値化の概念はなかったが、何かが動いたのを感じた。雪の中で、小さな歯車が回り始めたような。
◆◆◆
その日から、俺は毎日雪の隣に座った。
雪はいつも砂場の隅にいる。俺の姿を見つけると、ほんの少しだけ顔を上げる。それが「おはよう」の代わりだった。
「今日はなにを作る」
「……きのうのつづき。やま」
「また山か。たまには城にしないか」
「……しろ、わかんない」
「俺が教える」
砂を掘って、壁を作って、塔を立てる。雪は隣でじっと見ていて、時々おそるおそる手を出す。不器用で、すぐに壁を崩す。でも俺が直すと、また挑戦した。
城が完成した時、雪は言った。
「……湊くんは、すごい」
「すごくない。練習しただけだ」
「……練習すれば、できるようになる?」
「なるに決まってる」
雪は自分の手を見た。細くて、何かを掴むのも難しそうな手だ。
「……じゃあ、私も練習する」
この時、雪の中で「自分にもできるかも」という感情が芽生えたのだと思う。後に俺が「自己肯定感フラグ」と呼ぶようになるものだ。
◆◆◆
昼食の時間。
幼稚園の給食は、みんなで机をくっつけて食べる。雪は一人で端っこに座っていた。誰が決めたわけでもなく、そうなっている。
俺はトレイを持って雪の隣に移動した。
「となり、いいか」
「……うん」
雪は驚いた顔をした。誰かが隣に来ると思っていなかったらしい。
その日のメニューはシチューとパンとサラダ。雪はパンをちぎって少しだけ口に入れる。シチューにはほとんど手をつけていない。
「食わないのか」
「……おなか、あんまりすいてない」
嘘だ。手首の細さが空腹を証明している。
俺は自分のパンを半分にちぎって、雪のトレイに置いた。
「おれ、これ食いきれない。もったいないから食って」
「……でも」
「捨てることになる。もったいないだろ」
雪は「もったいない」という言葉に弱かった。家でよく言われているのか、ただの性格なのか。少し迷った後、パンを手に取る。
「……じゃあ、もらう」
「そうしろ」
雪はパンを口に入れた。一口、二口。咀嚼は遅いけど、食べている。
「……おいしい」
その声は本当に小さくて、聞き逃しそうだった。
「そうか」
俺はシチューを口に流し込みながら、心の中でメモを取った。雪は「もったいない」に弱い。パンは食べるがシチューは残す——固形物の方が好き? 「食いきれないからやる」は有効。
のちの「チャート作成」の原型だった。当時はただの「雪を観察してわかったことリスト」だけど。客観的に見て、五歳児が同級生の食事傾向をメモして「攻略対象」扱いしているのはなかなか怖い。我ながら、この頃から素養があったのだと思う。RTA走者としての、そして——多分、別の何かとしての。
◆◆◆
次の日から、俺は必ずおやつを半分残した。
クッキー、ゼリー、果物。午後のおやつの時間になると、雪は自分から俺の隣に来るようになる。まだ何も言わないけど、「くれる」とわかっているらしい。
「ほら」
「……ありがとう」
毎回、同じやりとり。でも五回目くらいから、雪は「ありがとう」の後にもう一言、付け加えるようになった。
「……今日のクッキー、ちょっと甘い」
「そうか」
「……湊くんは、甘いの好き?」
「べつに」
「……私は、ちょっと苦手。でもこれは食べられる」
これが、俺と雪の最初の「雑談」だった。内容はクッキーの味。でも雪が自分から話題を振ったことが嬉しかった。
今の俺がこれを分析するなら「コミュニケーションイベント成功。好感度微増」といったところか。当時はただ、雪が少しだけ喋るようになったのを喜んでいた。
◆◆◆
六月。梅雨。
雨の日が続くと外遊びができず、室内で折り紙をしていた時、雪がぽつりと言った。
「……あめ、きらい」
「なんで」
「……かさ、わすれるから」
雪は傘をよく忘れる。いや、正確には「家に傘がない」のだと後で知る。でもこの時はまだ、そこまで把握していなかった。
放課後、予報通り雨が降った。
子供たちは迎えの親や、自分で持ってきた傘で帰っていく。雪は玄関に立って、空を見上げていた。
「傘、持ってきたか」
「……わすれた」
だよな、と思った。
俺は自分の傘を広げた。水色の子供用傘。一人分だけど、五歳児が二人ならなんとか入れる。
「入れ。一緒に帰る」
「……いいの」
「いいから入れ。濡れる」
雪は傘と俺の顔を交互に見て、それからそっと傘の中に入ってきた。
相合傘で歩く。雪は小刻みに、俺はゆっくり。歩幅が合わなくて、何度か肩がぶつかった。
「もっとこっちに来い。濡れる」
「……湊くんが濡れる」
「俺は風邪をひかない」
「……うそ」
「ほんとだ。俺の体は頑丈なんだ」
これは嘘だ。俺だって風邪を引く。でもこの場では、雪に遠慮をさせる方がまずい。
雪は半歩、近づいた。肩と肩が触れる距離。雨の音で心臓の音は聞こえないけど、雪の手が傘の柄を握る俺の手にそっと触れた。冷たい手だった。梅雨なのに、氷みたいに冷えている。
「……湊くんの手、あったかい」
「雪の手は冷たいな」
「……ずっと冷たいの。冬はもっと冷たい」
俺は雪の家を知らなかった。だからこの日、送っていくことにした。
「おまえの家、どこだ」
「……え」
「送ってく」
雪は驚いて、それから小さくうなずいた。
雪の家は、幼稚園から歩いて十分のアパートだった。二階建ての古いアパート。壁の塗装が剥げて、階段は錆びている。ポストには何も入っていなかった。
「ここ」
二階の一番奥のドアの前で、雪が立ち止まった。
「入るか」
「……散らかってる」
「いいから」
部屋の中は、驚くほど何もなかった。テーブルと椅子と布団。テレビもない。壁にカレンダーが一枚だけかかっている。
「おかあさんは、まだ仕事?」
「……うん。夜まで帰らない」
「いつも一人か」
「……うん」
俺は部屋の中を見回した。五歳児が一人で過ごすには、あまりにも寒い部屋だった。
「明日、朝迎えに来る」
「……いいの」
「当たり前だ。一緒に幼稚園に行こう」
雪の目が大きく開かれる。それから、うつむいて、小さくうなずいた。
「……うん」
その声が少しだけ震えていたのは、多分、雨のせいだけじゃない。
後で考えると、この日が「接触イベント」から「継続的関与」への移行だった。傘を貸すだけなら単発イベント。でも「明日も来る」と約束したことで、俺は雪の日常に組み込まれた。
チャートで言うなら「デイリールーティン確定」。これを逃さなかったのが、後のRTAの基礎になった。
◆◆◆
それから毎朝、俺は雪のアパートに寄った。
ドアを三回ノックする。理由は特になかったけど、三回が一番聞こえやすいと気づいたからだ。今の俺ならこれを「最適化」と呼ぶ。
雪はたいてい、もう起きている。というより、あまり眠れていない。目の下のクマが、日によって濃さを変える。
「おはよう」
「……おはよう」
「朝飯は」
「……食べてない」
「だろうな」
俺はランドセルからパンを取り出した。母さんが用意してくれる朝食のあまりだ。最初は一人分だけだったけど、事情を話すと二つになった。母さんは「友達と食べなさい」と言っただけだった。
「食え。歩きながらだと行儀悪いから、ここで食う」
「……湊くんは」
「もう食った」
嘘だけど、雪は信じた。パンをかじる雪の隣で、俺の腹が鳴らないように祈る。
これが「デイリーチャート」の始まりだった。時間の意識はまだなかったけど、やることは決まっていた。ルーティンができると、雪の小さな変化に気づきやすくなる。
「……今日、パンにレーズン入ってる」
「嫌いか」
「……ちょっと苦手。でも食べる」
「次の日はレーズンなしのにする」
「……うん」
次の日、本当にレーズンなしのパンを出したら、雪は目を丸くした。俺はちゃんと覚えていたのだ。
◆◆◆
七月。七夕。
幼稚園では短冊に願い事を書いて、笹に飾る。字が書けない子は先生に代筆してもらう。雪はまだ上手く書けなかったから、先生に書いてもらっていた。
俺は自分で書いた。
「ゆきが げんきに なりますように」
誰にも見せずに、笹の一番端に結んだ。
その日、午後になって雪の様子がおかしくなった。
顔が赤い。ぼんやりしている。お遊戯の練習中に、雪がふらついた。
「ゆき、ちょっと来い」
俺は雪の手を引いて、隅に連れていった。
「顔、赤いぞ」
「……だいじょうぶ」
「大丈夫じゃない。熱あるだろ」
手のひらを雪の額に当てた。熱い。明らかに熱がある。
「せんせい!」
俺は叫んだ。教室中が静まり返る。
「ゆきが熱です。保健室に連れてってください」
先生が飛んできた。雪の額に触れて、すぐに保健室へ連れていく。雪は担がれるようにして教室を出ていった。
俺はその後ろ姿を見送ってから、雪の短冊を探した。
一番端にある、雪の短冊。
「みんなと いっしょに あそべますように」
俺はしばらくそれを眺めていた。
「遊べますように」だ。「遊びたい」じゃない。遊べるかどうかわからないから、「遊べますように」と願う。五歳児が願うことじゃない。
俺は自分の短冊に、もう一文だけ書き足した。
「ゆきが わらえるようになりますように」
◆◆◆
熱が下がった雪を、保健室に迎えに行った。
雪はベッドに座って、ぼんやりと窓の外を見ている。俺が入っていくと、顔だけこちらに向けた。
「……湊くん」
「もう熱は下がったのか」
「……うん。今、迎えを待ってる。お母さん、仕事で来られないけど、タクシーで帰る」
雪の母親はパートで、昼間は抜けられない。知っていた。
「俺が送る。タクシー代、もったいないだろ」
「……でも、湊くんまだ幼稚園」
「もう帰りの会も終わった。一緒に帰る。立てるか」
雪はベッドから降りようとした。でもふらついた。熱は下がっても体力が戻っていない。
俺は雪の前にしゃがんだ。
「乗れ」
「……え」
「おんぶする」
雪はためらった。手を伸ばしかけて、引っ込める。何かを怖がるみたいに。
「……重い、から」
「重くない」
「……前に、お母さんに、重いって言われた」
俺は雪の手を取った。冷たい手を、自分の肩に回させる。
「俺は重くない。それに、重かったとしても、俺は降ろさない」
雪は何も言わなかった。でも、背中に回された腕に、ぎゅう、と力が入った。弱い力だった。震えていた。でも雪が自分の意思で誰かに触れたのは、これが初めてだったかもしれない。
俺は立ち上がって歩き出した。雪の体温が背中に伝わる。まだ少し熱い。
「……湊くん」
「なんだ」
「私、重くない?」
「ぜんぜん」
「……ほんと」
「重かったら途中で降ろしてる。最後まで運ぶってことは、重くないってことだ」
雪は何も言わなかった。でも背中に回された腕に、もう一度、ぎゅう、と力が入った。さっきより、少しだけ強く。
振り返れば、この瞬間が「依存フラグ初期値の観測」だ。当時の俺は、背中が少しあったかくなったと思っただけだった。
◆◆◆
アパートに着いて、雪を部屋に入れた。
布団を敷いて、横にさせる。薬は先生から預かっている。水をコップに入れて枕元に置いた。
「母親が帰るまで、いる」
「……いい。湊くんも帰らないと」
「帰らない。約束したから」
雪は布団の中で目を閉じかけて、また開けた。
「……約束?」
「明日も迎えに来る。だから今日はちゃんと寝ろ。治らなかったら、来られない」
「……治る」
雪は目を閉じた。今度は開かなかった。
俺は部屋の隅に座って、雪が眠るのを待った。規則正しい呼吸が聞こえてくる。熱のせいで少し速いけど、安定している。
どのくらい経ったか。
玄関の鍵が開く音がして、雪の母親が帰ってきた。疲れ切った顔の女性だった。雪に似ているけど、目はもっと暗い。
「あら……湊くん?」
「ゆきが熱を出したので、送ってきました。今、寝てます」
雪の母親は何度も頭を下げた。申し訳なさそうな、ありがたそうな、複雑な顔だった。
「いつもすみません。雪がいつも湊くんにお世話になって」
「世話じゃないです」
「でも」
「守ってるだけです」
雪の母親は驚いた顔をした。それから、少しだけ笑った。
「雪を、よろしくね」
「はい」
俺は立ち上がった。
「それと、あの」
「なに」
「雪に、朝ごはんを用意してもらえますか。パンでいいので。お金がかかるなら、俺が持ってきます」
雪の母親はまた驚いた顔をした。でも今度は、笑わなかった。
「……わかった。約束する」
「お願いします」
俺はアパートを出て、一人で家に帰った。雨がまた降り始めていたけど、傘は雪の家に置いてきた。明日、取りに来ればいい。
◆◆◆
九月。運動会の練習が始まった。
雪はかけっこが苦手だった。走るフォームも、スタートの反応も、他の子よりずっと遅い。でも「休みたい」とは言わなかった。
「やすまなくて平気か」
「……私だけ休んだら、みんなに迷惑かける」
「迷惑じゃないだろ」
「……わかんない。でも、休みたくない」
雪はこういうところだけ頑固だった。自分が損をしても、他人に迷惑をかけるのを嫌う。
かけっこの練習で、雪は転んだ。園庭の砂利道で、膝を擦りむいた。血がにじんでいる。
先生が駆け寄ろうとするより先に、俺は雪の前に立っていた。
「見せろ」
「……だいじょうぶ」
「見せろ」
雪は観念して膝を見せた。擦り傷。深くはないけど、広範囲に皮がむけている。
「保健室に行くぞ。立てるか」
「……ひとりで行ける」
「俺が連れてく」
俺はもう一度しゃがんだ。雪は今度は素直に背中に乗った。あの雨の日から、おんぶは俺たちの「通常手段」になっていた。
保健室への廊下で、雪が言った。
「……湊くん、いつも助けてくれる」
「当たり前だ」
「……当たり前じゃないよ」
雪の声が、少しだけ震えていた。
「うちのお母さんも、お父さんも、誰も助けてくれなかった。湊くんだけだ」
雪の家の事情は、少しずつわかってきていた。父親は単身赴任でほとんど家にいない。母親は仕事で夜遅い。土日も雪は一人で過ごしている。
「じゃあ、俺が助ける」
「……ずっと?」
「ずっとだ」
雪は何も言わなかった。その代わり、背中に回した腕に、またぎゅう、と力を込めた。さっきと同じ、いや、それよりも少しだけ強い力。
◆◆◆
十月。お遊戯会の練習。
演目は「おおきなかぶ」。雪の役は「おばあさん」で、台詞は「うんとこしょ、どっこいしょ」だけ。
でも雪はその短い台詞さえ、うまく言えなかった。
「……声が小さくて、聞こえないって先生に言われた」
「練習しよう」
俺は床に座って、かぶの役になった。動かないかぶ。雪は俺の腕を引っ張って、「うんとこしょ、どっこいしょ」と言う。
「声が小さい。もっと大きくだ」
「……うんとこしょ、どっこいしょ」
「まだ小さい。雪は声が細いんだから、意識して出さないと聞こえないぞ」
「うんとこしょ、どっこいしょ!」
雪の声が初めて教室に響いた。他の子供たちがびっくりしてこっちを見る。雪は真っ赤になって俯いた。
「そうだ。それでいい」
「……はずかしい」
「本番で一回できればいい。練習で恥をかいても問題ない」
これは俺の本音だった。父親が遺したゲームの攻略本に、似たようなことが書いてあったのだ。「本番で一発当てるために、練習で失敗を重ねる」——当時は意味がわからなかったけど、今ならわかる。RTAでも、練習で無駄なルートを捨てて、本番の最短を走る。同じことだ。
雪はうなずいた。それから、もう一度「うんとこしょ、どっこいしょ」と小声で練習を始める。
◆◆◆
十一月。俺の誕生日。
六歳になる。幼稚園の誕生日会で、みんなの前で「おめでとう」と言われた。恥ずかしかったけど、悪い気はしなかった。
その日、雪が俺に折り紙を差し出した。
「……これ」
「なんだ」
「たんじょうびのプレゼント」
折り紙で作った人形。二つ並んでいる。色は水色と白。大きさが違う。水色が大きくて、白が小さい。
「これ、俺と雪か」
「……うん。こっちが湊くんで、こっちが私」
折り目は乱れていた。何度もやり直した跡がある。時間をかけて作ったのがわかる。
「ありがとう。大事にする」
「……ほんと?」
「当たり前だ」
雪の口元が、はっきりと動いた。今度は間違いなく、笑顔だった。
初めて見る、雪のちゃんとした笑顔。
俺はその時、胸のあたりが温かくなるのを感じた。これが何かはわからない。でも、この笑顔をもっと見たいと思った。
今の俺はこの瞬間を「好感度+5のクリティカル」と記録する。でも数値では測れない何かが、確かに動いた瞬間だった。
◆◆◆
十二月。クリスマス。
母さんが雪を家に呼んだ。ケーキを買って、チキンを焼いて、ささやかなクリスマス会をした。
雪は緊張していたけど、ケーキを一口食べて、目を丸くする。
「……おいしい」
「だろ。母さんのケーキはうまいんだ」
「……湊くんは、いいな」
「なにが」
「……お母さんが、いて」
俺はフォークを止めた。雪の母親は、仕事でクリスマスもいないらしい。
「雪も、うちに来ればいい。母さんは雪が来ると喜ぶ」
「……いいの」
「いいに決まってる」
雪はうつむいて、それからケーキをもう一口食べた。
「……来年も、来たい」
「当たり前だ」
これが俺たちの最初の「来年の約束」だった。
◆◆◆
一月。雪が休んだ。
朝、アパートに行くと、雪は布団の中で咳き込んでいた。熱はないけど、明らかに体調が悪い。
「今日は休め」
「……でも」
「休め。俺も遅刻する。休んだ方が効率的だ」
雪は「効率的」の意味がわからなかったらしい。でも俺が一緒にいるならいいかと思ったのか、うなずいた。
俺は幼稚園に電話をかけて、雪が休むことを伝えた。自分の分も休みますと言ったら、母さんは「好きにしろ」と言った。
一日中、雪の部屋で過ごした。
折り紙を折った。絵本を読んだ。昼には近くのコンビニで買ったおにぎりを食べた。
「……湊くん、楽しい?」
「なにが」
「……私といて」
「楽しいに決まってる」
俺は即答した。雪はまた、ぎゅう、と俺の袖を掴んだ。
この時の雪の顔を、俺はよく覚えている。嬉しそうで、でも少しだけ怖かった。何かが決定的に変わり始めている顔だった。
◆◆◆
二月。節分。
幼稚園で豆まきをした。鬼のお面をかぶった先生に、みんなで豆を投げる。
「鬼は外、福は内」
雪は小さな声で言いながら、豆をぽんぽん投げていた。
「ゆきは鬼を信じてるか」
「……わかんない。でも、鬼は嫌い」
「そうか」
「……鬼は外、福は内。湊くんのところにも、福が来ますように」
「俺じゃなくて、雪のところだ」
「……湊くんが福じゃなかったら、私のところにも来ない」
雪はたまに、こういう不思議なことを言う。五歳児とは思えない、妙に核心をつくようなことを。
俺は言葉に詰まった。でも悪い気はしなかった。
◆◆◆
三月。卒園式。
幼稚園が終わる。四月からは小学生だ。
雪は白いワンピースを着ていた。俺の母さんが「卒園式にはこれがいい」と買ってくれたものだ。雪の母親は来ていなかった。仕事を休めなかったらしい。
代わりに俺の母さんが、雪の写真をたくさん撮っていた。
「雪ちゃん、笑って!」
雪は緊張した顔でカメラを見た。一枚、二枚。三枚目で、少しだけ口元が緩んだ。
式が終わって、園庭で雪が俺を呼んだ。
「湊くん」
「なんだ」
「……小学校でも、一緒にいてくれる?」
雪の手が、俺の袖を掴んだ。ぎゅう、と。五歳児とは思えない力だった。いや、もう六歳か。離すまいとするみたいに、指が袖に食い込んでいた。
「当たり前だろ」
俺は雪の手を握り返した。
「小学校でも、中学校でも、ずっと一緒だ。約束する」
雪の目に涙が浮かんだ。でも泣かなかった。代わりに、笑った。今までで一番はっきりとした、笑顔。
「……絶対?」
「絶対だ」
雪は俺の手を握ったまま、何度もうなずいた。
◆◆◆
卒園アルバム用の集合写真が終わった後、先生が「好きな子と一緒に写っていいよ」と言った。
何人かの子が照れながら動く。隣のクラスの女の子が、別の男の子の隣に立った。黄色い声が飛んだ。
雪は迷わず俺の隣に来た。
「……湊くんがいい」
即答だった。顔は俯いていて、耳が真っ赤だ。
「そうか」
俺はそれだけ答えた。何が「そうか」なのか、自分でもよくわかっていない。
カメラがパシャリと鳴る。
後日、現像された写真を見た母さんが「あら、湊、彼女できたの?」と笑った。俺は「違う」と否定したが、写真の中の雪は、確かに他の誰より俺の近くに立っていた。
今なら言える。これは完全にフラグだ。当時の俺は、フラグの意味すら知らなかったけれど。
◆◆◆
卒園アルバムには、俺と雪が一緒に写った写真がもう一枚ある。母さんが撮ったやつだ。雪は少しだけ笑っていて、俺は真顔だった。
これが、俺の「白崎雪攻略RTA」の始まりだった。
もっとも、攻略もRTAもまだ知らない。知っているのは「雪を守る」ということだけ。
傍から見れば、六歳児が「雪を守る」と決めて、十二年後に「食べられる」ことになるのだから、人生とはわからないものである。
──いや、この言い方は語弊があるな。今のは忘れてほしい。
それで十分だった。
◆◆◆
春が来る。
小学校という新しいフィールドが、俺たちを待っている。
雪の家庭は、これから本格的に崩れ始める。父親の蒸発、借金、母親の失踪。雪は追い詰められていく。でもこの時の俺は、まだそれを知らなかった。
知っていたのは、雪を守らなければいけないということだけ。
すべては、これからだ。
| 項目 | 現在値 | 前回比 |
|------|--------|--------|
| 白崎雪 好 感 度 | 15/100 | +15(初期値0) |
| 白崎雪 依 存 度 | 12/100 | +12(初期値0) |
| 白崎雪 ヤンデレ度 | 1/100 | +1(初期値0 |
変動履歴(主要イベントのみ)
- 砂山修復+ケンタ撃退:好感度+3(初の死亡フラグ回避)
- 給食隣接+おやつ提供(累積):好感度+4(日常イベントボーナス)
- 雨の相合傘+初めての「ありがとう」:好感度+2、依存度+3
- 発熱+おんぶ+看病(「降ろさない」発言):好感度+1、依存度+4
- 折り紙プレゼント:好感度+3
- 卒園式の約束+写真撮影:好感度+2、依存度+5、ヤンデレ度+1
湊の現在の認識(17歳による回想)
「当時の俺は好感度を数値化していなかったが、雪が少しずつ心を開いているのは感じていた。まだ15——と思うか? 初期値ゼロからの15だ。上々の滑り出しだった」
【読者への注釈】
- 主人公は依存度・ヤンデレ度の概念を認識していません。これらは読者だけが見られるメタ情報です。
- ヤンデレ度「1」は「のちの闇を予感させる微かな片鱗」を表します。卒園式の「絶対?」の言い方、袖を離さない仕草、「湊くんがいい」の即答など、後に開花する素養がすでに現れています。
- 次回から依存度・ヤンデレ度は少しずつ上昇していきます。