うすほそな幼なじみを口説き落とすRTA 作:アホ面オムライス
大阪支社の会議室には、朝の静かな光が差し込んでいた。
今日が山根へのプレゼンテーションの日だ。雪は昨夜遅くまで資料の最終調整をしていて、俺はその隣で監修をしていた。雪の資料は完璧だった。数字も実績も、すべてが揃っている。あとは雪が話すだけだ。
「……湊くん、緊張してる?」
雪が俺の顔を覗き込む。自分だって眠れなかったくせに、声はいつもと変わらない。
「していない。準備は万全だ」
「……嘘。湊くん、嘘つくとき目がちょっと右に行く」
「十四年間も観察されていると、こういう時に困るな」
雪が少しだけ笑った。その笑顔を見て、俺の緊張が少しだけ和らぐ。
「……大丈夫。湊くんが監修してくれた資料だから、絶対に通る」
「俺は監修しただけだ。作ったのはお前だ」
「……うん。でも、湊くんが一緒なら、私は大丈夫」
雪が俺の裾を掴んだ。ぎゅう、と。その力は、十四年前と変わらない。
会議室のドアが開いて、山根が入ってきた。
◆◆◆
雪のプレゼンテーションは、完璧だった。
スライドには大阪支社のプロジェクトで得られた成果、湊の分析力が本社の新規事業にどう貢献できるか、そして雪と湊の連携が会社にもたらす利益が、数字と実績に基づいてまとめられている。雪の声は落ち着いていて、抑揚があり、まるで初めからこの場を想定していたかのようだった。
山根は腕を組み、時折うなずきながら雪の説明を聞いていた。資料の完成度の高さには感心しているようだった。実際、ベテラン社員でもここまでの資料を作れる者は少ない。雪の能力は、会社の中でも間違いなく評価されるべきものだった。
「——以上が、湊くんが東京本社に戻ることが、会社全体にとって最適な選択である理由です」
雪が言い終えた。会議室が静かになる。
山根はしばらく資料を見つめていた。それから顔を上げて、ゆっくりと口を開いた。
「白崎さん、君の提案は筋が通っている。資料も完璧だ。正直、ここまで準備されているとは思わなかった。君の能力は高く評価する」
「ありがとうございます」
「しかし——」
山根の声のトーンが変わった。
「私は、黒瀬くん本人のキャリアを考えている。大阪に残る方が、彼にとってはプラスになる。私は中途でこの会社に入ってね。前の会社では、実力があっても評価されないことが多かった。だからここでは、ちゃんと実力を見て評価する——それが私の信念だ。そして黒瀬くんの実力は、大阪でこそ最大限に活きると判断している」
山根の言葉には、これまでのキャリアで積み重ねてきた何かが込められていた。彼は本気だ。悪意はない。むしろ、湊のことを真剣に考えての発言だった。
雪が何か言おうとした。しかし俺は手で制した。
「山根さん」
俺は立ち上がった。雪が驚いた顔で俺を見上げる。俺の心臓は早鐘を打っていた。これから言おうとしていることは、雪の資料にも、俺のチャートにも書かれていないことだ。
「俺は東京に戻ります。大阪での経験を本社で活かすことが、俺のキャリアにとって最善だと判断しました」
「しかし——」
「そして」
俺は雪の方を向いた。雪の目が、不安そうに揺れている。
「俺には、東京で一緒に仕事をするパートナーがいます。白崎雪です。俺たちは二人で一組です」
雪が息を呑んだ。山根もまた、俺の言葉に目をわずかに見開いた。
「俺は雪に依存しています。雪も俺に依存しています。それが俺たちの関係です。歪んでいるのはわかっています。でも——それが俺の選択です」
会議室が静まり返った。誰も言葉を発しない。雪は俺の裾を掴んで、じっと俺を見つめている。その指が、微かに震えていた。
山根はしばらく俺の顔を見ていた。それから、小さく息を吐いた。
「……君がそこまで言うなら、私が引き留める理由はない」
「山根さん」
「君の言葉には、データや資料にはない重みがある。白崎さんの資料が完璧だったのは言うまでもないが、決め手は君の言葉だ。自分でそう決めたのなら、私が口を出すことじゃない。わかった。東京に戻りたまえ」
山根が席を立った。俺は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「君たちは——変わっている。でも、それが君たちの強みなんだろうな」
山根はそう言って、少しだけ笑った。
◆◆◆
会議室を出た廊下で、雪が立ち止まった。
俺の裾を掴む手が、震えている。
「……湊くん、今の、本当?」
「本当だ」
「……湊くんが、私を選んでくれた。会社の人前で、『二人で一組』って言ってくれた」
「事実だ」
雪の目から涙がこぼれた。十四年間、湊を守り、湊に守られ、湊を失うことを恐れ続けてきた雪が、初めて——湊が自らの言葉で雪を選んだ瞬間を目の当たりにした。
「……私、湊くんに守られてるだけじゃなかったんだ」
「当たり前だ。俺は十四年前から、お前を選んでいた。今日はそれを、言葉にしただけだ」
雪は俺の胸に顔を埋めて、声を殺して泣いた。誰もいない廊下で、俺は雪の背中に手を回した。この体は、昔より少しだけ温かい。
◆◆◆
大阪最後の夜、山根が居酒屋に連れて行ってくれた。
「君は変わっている。でも、それが君の強みだ。東京に戻っても、そのままでいい」
山根はビールを飲みながら、しみじみと言った。
「ありがとうございます」
「私も若い頃、仕事を選んで家族を犠牲にしたことがある。今でもそれが正しかったのかわからない。でも君は、違う道を選んだ。仕事も、パートナーも、両方取る——それが君の選択なら、少なくとも迷わなかったことは間違いじゃない」
山根の声には、これまでの人生で積み重ねてきた何かが込められていた。
「君の言葉には説得力があった。あれだけはっきりと言えるのは、なかなかできることじゃない。自信を持っていい」
俺は山根の言葉を受け止めた。山根は合理的な人間だ。その山根が「君の言葉には重みがある」と言った——それは、雪の計画ではなく、湊自身の意思が認められた瞬間だった。
「山根さんには感謝しています。大阪に来て、多くのことを学びました」
「そうか。それなら、今回の出張は意味があったな」
山根は笑った。俺も笑った。そして固い握手を交わした。
◆◆◆
休憩スペースに立ち寄ると、同僚たちが雑談をしていた。その中で、ふと耳に入った名前があった。田村恵——。
「田村さんって知ってる? 別の会社で活躍してるらしいよ。この前、業界誌に載ってたんだ」
俺は足を止めた。同僚は俺に気づかずに話を続けている。田村が新しい職場で評価され、着実にキャリアを積んでいる——その事実が、胸の奥に溜まっていた罪悪感の最後の欠片を、静かに溶かしていった。彼女は自分の道を進んでいる。それで十分だった。
休憩スペースを出ると、雪が壁にもたれて待っていた。
「……湊くん、何してたの」
「少し休憩を」
「……嘘。何か考えてた顔」
雪には何でも見抜かれる。俺は「田村が元気そうでよかった」と正直に言った。雪は少しだけ目を伏せてから、「……湊くんは優しいね」と言った。
「優しくない。俺はお前を選んだ。その結果だ」
「……うん。知ってる」
雪が俺の裾を掴んだ。ぎゅう、と。その力は、いつもより少しだけ強かった。
◆◆◆
ホテルに戻ると、茜から着信が入っていた。折り返すと、茜の明るい声が受話器から飛び出してくる。
「黒瀬くん! 雪さんと一緒に大阪にいるんだって? 相変わらずだね」
「相変わらずだ」
「よかった。雪さんが幸せそうで、私も嬉しい」
茜の声には、昔のような翳りがまったくなかった。彼女はもう、自分の人生をしっかりと歩いている。
「黒瀬くん、雪さんのこと、ちゃんと見てあげてね」
「わかってる」
「うん。じゃあね」
電話を切った後、隣で話を聞いていた雪が「……茜さん、相変わらず強い」と呟いた。
「お前もだ」
「……うん。でも、湊くんが選んでくれたから、もう大丈夫」
雪の声には、十四年間の不安が溶けていったような静かさがあった。
◆◆◆
橘からのメッセージが届いたのは、その夜だった。
「そういえば、君が大阪に行ってから、雪さんが毎日君のことを話してたよ。『湊くんは今日も頑張ってる』って。君たちは本当にお似合いだ。紹介料の代わりに、結婚式のスピーチでこの話をさせてくれ。——橘」
俺は「紹介料は一生払わないんだろ」と返信した。橘からは「当然だ」と即座に返事が来た。雪が画面を覗き込んで、「……橘くん、相変わらず」と笑う。俺も笑った。橘はいつも、俺たちを誰よりも客観的に見ていてくれた。その橘が「お似合いだ」と言ってくれる——それが、何よりも心強かった。
◆◆◆
大阪を発つ日の朝、俺は雪の部屋のドアを三回ノックした。
「……おはよう、湊くん」
「おはよう」
「……今日、東京に帰るんだね」
「ああ。お前も一緒だ」
雪が少しだけ笑った。その笑顔には、もう不安はなかった。
新幹線の座席で、雪は俺の肩に頭を預けて眠っている。規則正しい寝息が聞こえてきた。窓の外には、過ぎ去っていく街並み。俺はその景色を見ながら、十四年間の記録を頭の中でなぞっていた。
幼稚園の砂場で膝を抱えていた雪、小学校で母親に捨てられた雪、中学校で茜を排除した雪、高校の文化祭で告白した雪、大学で同棲を始めた雪、社会人になって会社というシステムにまで手を伸ばした雪。そのすべての雪を、俺は見てきた。
そして今日、俺は自分の言葉で雪を選んだ。それは、十四年間で初めてのことだった。
◆◆◆
東京に戻って最初の週末、雪がキッチンでハンバーグを作っていた。母から教わったレシピだ。
そこに母から電話がかかってきた。俺が応答する。
「湊、元気? 雪ちゃんは?」
「元気だ。今、ハンバーグを作ってる」
「あら、私のレシピ?」
「そうだ」
母が笑う。「雪ちゃん、料理上手になったでしょ。私の自慢の娘だもの」
俺は雪に電話を代わった。雪が受話器を持って、少しだけ緊張した声で言う。
「……おばさん、私、湊くんを幸せにするから」
電話の向こうで、母が少しの間沈黙した。それから、優しい声で言った。
「雪ちゃん、ありがとう。湊をよろしくね。……もう言わなくても大丈夫か」
「……うん」
雪はそれだけ答えた。母の声は、十四年前に湊が雪を守ると決めた時から、ずっと二人を見守ってきた人の声だった。
◆◆◆
その夜、俺は監修欄にペンを走らせた。
「定着計画、全段階終了。——湊」
雪も観察日記の最後のページを開いている。何を書くのか、俺は黙って見ていた。
「湊くんが私を選んでくれた。会社の人前で、『二人で一組』だと言ってくれた。これで私の記録は、本当の意味で完結した。——でも、記録は続ける。湊くんの新しいデータを、これからもずっと」
雪はペンを置いて、俺の顔を見た。
「……湊くん、これからも私の記録を監修してくれる?」
「当たり前だ。俺もお前を観察し続ける」
「……ずっと?」
「ずっとだ」
雪が俺の裾を掴んだ。ぎゅう、と。その力は、十四年前と変わらない。
◆◆◆
数ヶ月後。
湊と雪は東京本社で新しいプロジェクトを任されていた。木村は「やっぱり君たちは二人で一組だな」と笑いながら、プロジェクトリーダーに俺を推薦した。雪は相変わらず、俺の知らないところで根回しをしているらしい。でも今は、その根回しの内容も俺に共有される。相互監修は続いているのだ。
橘からは先週もメッセージが届いていた。「結婚式のスピーチ、そろそろ本気で準備するよ。紹介料の代わりだからな」。俺は「紹介料は一生払わないんだろ」と返信し、橘は「当然だ。でもスピーチは有料にしようかな」と返してきた。雪が「……橘くん、商売上手になった」と笑う。
朝、俺は雪のアパートの前に立つ。ドアを三回ノックする。
一度目と二度目の間隔は自然と一定になり、二度目と三度目の間隔も同じリズムを刻む。この習慣がいつから始まったのか、正確には覚えていない。ただ、雪が一人で過ごす朝に、少しでも早く俺が来たことを伝えたかった。
ドアが開いて、雪が顔を出す。
「……おはよう、湊くん」
「おはよう」
「……今日も一緒に会社行こう」
「当たり前だろ」
雪が俺の裾を掴んだ。ぎゅう、と。この感触は、幼稚園の頃から変わらない。
俺は雪の手を握り返した。この手を、幼稚園の砂場で握ってから十四年。冷たかった手は、今は温かい。
雪が俺を離さないなら、俺も雪を離さない。それが俺たちの歪んだ対等だ。
これが俺たちの、これからも続くRTAだ。
あと蛇足編やったら終わります