うすほそな幼なじみを口説き落とすRTA 作:うすほそ娘
小学校二年の冬、俺は生まれて初めて「失敗」を経験した。
借金取りが雪のアパートに来た時、俺は教室で算数の九九を暗唱していた。雪が一人で、ドアの向こうの大人の声に震えていることも知らずに。
後に俺はこの日を「初のガバ」と記録する。RTAで言えば、回避可能なダメージを無視してボス戦に突入するようなものだ。当時の俺にその自覚はなかったけれど、この失敗がその後のチャート設計を根本から変えることになる。
今にして思えば、この「ガバ」こそが、俺のRTA走者としての自我を本格的に目覚めさせたのかもしれない。失敗しなければ最適化は始まらない。六歳の俺は、その真理にこの日、手を触れた。
◆◆◆
小学校に上がる前の春休み、俺は一つの結論に達していた。
「雪を守る」だけでは足りない。もっと効率的に、もっと体系的にやらなければ、いつか取り返しのつかない「死亡フラグ」を見逃す。
とはいえ六歳だ。語彙は少ない。でも体感として、やるべきことはわかっていた。雪の周りにある危険を全部リストアップして、一つずつ対策を打つ。後の俺が「チャート作成」と呼ぶ作業だ。
ちなみに六歳児が「効率的」とか考えている時点でかなり終わっている。普通は「友達と遊びたい」とか「勉強嫌だ」とか言う年頃だ。どうやら俺の思考回路は、この頃すでに完全に出来上がっていたらしい。我ながら将来が不安になるが、そのおかげで今の俺があるのだから、何が幸いするかわからない。
◆◆◆
小学校一年生。四月。
入学式の日、俺は一人で職員室に向かった。母さんは仕事で来られなかったし、雪の母親は——そもそも来る気配がなかった。
「先生、お願いがあります」
担任は五十代の女性教師で、俺の顔を見て少し驚いた顔をした。入学式当日に、ランドセルを背負った新入生が一人で職員室に来るのは確かに珍しい。
「どうしたの、黒瀬くん」
「白崎雪の隣の席にしてください」
「白崎さん? どうして?」
「雪は体が弱くて、具合が悪くなることが多いんです。隣にいないと、すぐに気づけません」
先生は机の上で手を組んだ。
「黒瀬くんは、白崎さんのご家族なの?」
「幼なじみです」
「そう。でも席替えは定期的にあるのよ。ずっと隣というわけには——」
「席替えの時はまた頼みます。毎回頼みます。担任が変わっても来ます」
先生はしばらく黙って、それから少しだけ笑った。呆れたのか、感心したのか、自分でもわからないという顔だった。
「わかった。最初の席は隣にしてあげる。でも、お友達はたくさん作るのよ」
「善処します」
善処——六歳の口から出る言葉ではない。先生がまた微妙な顔をした。今思えば、この時すでに俺の「対大人交渉スキル」は小学生レベルを超えていたらしい。交渉の基本は「相手に断る余地を与えないこと」だ。六歳にして体得していたのだから、やはり将来が不安になる。
教室に戻ると、雪が不安そうな顔で立っていた。真新しいランドセルがやけに大きく見える。中身が空だからじゃなく、雪が細すぎるからだ。
「……湊くん、どこ行ってたの」
「ちょっとな。席、隣だから安心しろ」
「……なんでわかるの」
「先生に頼んだ」
雪の目が少しだけ大きくなる。
「……頼んだの?」
「そうだ。これからもそうする。担任が変わっても毎回頼む」
「……湊くんは、すごい」
今の俺なら、これを「好感度微増。信頼度さらに上昇。依存フラグ進行中」と記録する。当時はただ、雪がほっとした顔を見て満足していた。
RTA的に言うなら「初期配置の乱数調整成功」。この一手で、少なくとも一年間は雪の隣を確保できる。小さな勝利だが、RTAはこういう積み重ねだ。
一年生の一学期。佐藤という男子が、俺にこう言った。
「黒瀬って、いつも白崎と一緒だよな。なんで?」
「守るって決めたから」
佐藤はぽかんとした。そりゃそうだ。同じ六歳とは思えない発言を、俺は平気で口にしていた。
「好きなの?」
「違う」
即答だった。今思うとこの即答こそが、「違う」のではなく「考えたことがない」の証拠だったのだが、当時は本気でそう思っていた。
佐藤は納得しない顔で去っていった。後に俺は、佐藤という存在を「最初のライバル」と認識することになる。この時はただのクラスメイトだったけれど。振り返ればこの頃から、「雪を守る」という行動は周囲から見ると異様だったのだ。俺はそれに気づかなかった。RTA走者というのは得てしてそういうもので、自分のプレイがどれだけ異常か、外からは見えない。
後年、佐藤に「お前、昔からぶっ飛んでたよな」と言われて初めて自覚したくらいだ。
二年生。夏。
その日は朝から雪の様子がおかしかった。目が合わない。声をかけても「……だいじょうぶ」の一点張り。何かを隠している顔だった。
「イベント発生」を察知すべきだった。後の俺なら、この違和感を見逃さない。でも当時の俺は「雪にも機嫌の悪い日がある」くらいに考えていた。これがガバの原因だ。
学校が終わると、雪は「先に帰って」と言った。いつもなら一緒に帰るのに。嫌な予感がしたけど、押し切れなかった。俺は図書室で時間を潰してから、一人で雪のアパートに向かった。
アパートの前に、知らない男が立っていた。黒いスーツ。鋭い目つき。タバコの匂い。絵に描いたような借金取りだ。
「ぼうず、ここに誰か用か」
「ここに住んでる子の友達です」
男は俺をじろじろ見て、舌打ちをした。ポケットから紙を取り出す。
「親父さん、どこにいるか知らねえか」
「知りません」
「そうか。まあいいや。これ、渡しといてくれ」
差し出された紙には電話番号と金額。小学生には理解できない桁の数字が並んでいる。でも、これが雪の父親の借金だということはわかった。
男は階段を降りていった。俺は紙を握りつぶしてポケットに入れた。雪に見せるわけにはいかない。
ドアを三回ノックする。
返事がない。もう一度。
「ゆき。俺だ。開けて」
しばらくして、鍵が開く音。
ドアの隙間から雪の顔が覗く。真っ青だった。目の下のクマが、昨日よりずっと濃い。唇は乾いて、かさついている。
「……湊くん」
「さっきの男、借金取りか。来ること、知ってたのか」
雪はうつむいた。答えない。でも答えだった。唇が震えている。
「だから先に帰れって言ったのか」
うなずく。小さく、一度だけ。
「父親はどこ」
「……わかんない。どこに行ったか」
「母親は」
「……仕事。でも、お母さんも、もう疲れてる」
雪はそこで言葉を切った。握りしめた拳が小刻みに震えている。かすれた声で、絞り出すように言った。
「私、どうしたらいいか——わかんない」
俺は雪の手を取った。冷たい。七月なのに氷みたいだ。この冷たさは、幼稚園の雨の日からずっと変わっていない。
「今日は俺の家に来い」
「……でも、迷惑」
「迷惑じゃない。いいから来い」
俺は雪を連れてアパートを出た。
階段を降りながら、俺は心の中で反芻していた。これが「ガバ」だ。雪の異変に気づきながら、先に帰らせた。一人にした。借金取りと鉢合わせさせた。全部、俺の判断ミスだ。
今の俺がこの場面を分析するなら、「緊急イベント発生、通常チャート中断、保護ルートに切り替え。要因:事前察知の失敗。対策:雪の行動パターンに『隠し事フラグ』を追加」と記録するだろう。当時はただ、雪をここから離さなければと思った。でもそれだけでは足りないと、この時初めて知った。
俺の家に着くと、母さんはまだ仕事だった。冷蔵庫にメモが貼ってある。「遅くなるから、冷凍のチャーハン食べてね」。
「座ってろ。飯を作る」
「……湊くん、料理できるの」
「できる。母さんがいない時はいつも俺が作る」
冷蔵庫を開ける。卵、冷凍チャーハン、野菜が少し。チャーハンをフライパンに開けて、卵を落とす。しょうゆをひと垂らし。五歳からやっているから手際は悪くない。今なら「調理スキルLv.3」と表現するだろう。
雪は椅子に座って、じっと俺の背中を見ていた。何も言わない。でも視線を感じる。まるで俺が消えないか確かめているみたいに。
「……湊くんの家、あったかい」
「そうか」
「……私の家、いつも寒い。冬はもっと寒い。エアコン、ないから」
前にちらっと聞いたことがある。冬は毛布にくるまって震えていると。
「冬になったら、うちに来ればいい」
「……でも」
「母さんも喜ぶ。雪が来ると料理の張り合いが出るって言ってた」
雪は黙った。チャーハンを一口食べて、それからもう一口。咀嚼は遅い。でも、箸が止まらない。
「……おいしい」
「だろ」
「……湊くんは、なんでもできる」
「なんでもはできない。できることをやってるだけだ」
これは本心だ。俺にできることは限られている。料理を作ること。隣にいること。危ない目に遭いそうになったら、守ること。でも今日は、守るべき時に隣にいなかった。その反省が、胸の奥でくすぶっている。
雪はチャーハンを完食した。器が空になるのを見て、俺は少しだけほっとした。まだ、取り返せる。
「……湊くん、私ね」
雪がぼそりと言った。
「……お母さんに、言われたことあるの」
「なにを」
「……『お前さえいなければ』」
俺は息を止めた。
「……お母さん、ずっと言ってた。私がいなければ、もっと楽になれるのにって。だから私、お父さんもお母さんも、私のせいでいなくなったんだと思う」
「違う」
即答だった。今度こそ、即答するべきことだった。
「違う。お前のせいじゃない」
「……でも」
「大人がどうするかは、大人の問題だ。お前のせいじゃない」
雪は俯いて、消え入りそうな声で言った。
「……湊くんは、違うの」
「違う。俺は、お前にいてほしい」
雪の手が、ぎゅっと膝の上で握られた。
「……ほんと」
「本当だ。いなかったら困る」
雪は顔を上げなかった。でも、小さくうなずいた。
チャーハンの器が空になったことが、その日の俺の唯一の「成功」だった。
三年生。冬。
あの日も寒かった。
雪の母親がいなくなったのは、雪が学校に行っている間でも、夜中でもなく、雪が眠っている間だった。朝起きたら、母親の布団は空っぽで、クローゼットから服が消えていた。
日曜の朝七時。インターホンが鳴って出てみると、雪が立っていた。髪はぼさぼさ。服はしわだらけ。前の日に着ていた服のまま、一晩中起きていたみたいだった。泣いたのかどうか、目は赤くなかった。でも、何かが切れたような顔だった。表情があるのに、感情が全部抜け落ちたような——そんな顔。
「……お母さん、いなくなった」
「いつ」
「……わかんない。夜のうちに。起きたら、いなかった」
雪の手が震えている。冬の朝だから寒いだけじゃない。手を握ってやると、骨ばった指がぎこちなく握り返してきた。
「置き手紙は」
「……ない。でも、わかる。もう戻ってこない」
「どうしてわかる」
雪は答えなかった。俯いて、しばらく黙って、それからぼそりと言った。
「……前に、言われたから」
「なにを」
「『お前さえいなければ』」
二年生の夏に聞いたその言葉が、今度は「実際にいなくなる理由」として雪の前に現れた。俺の中で、何かが音を立てて変わった。
雪の母親に対する感情は、後から湧いてきた。怒りだ。大人のくせに、子供にそんなことを言うのか。自分の人生の責任を、子供に押し付けるのか。でも当時の俺は、それを口にできなかった。口にしたら雪がもっと傷つくと思った。今思えば、これもまた誤った判断だった。怒りを共有することで、雪は「自分だけが悪いんじゃない」と気づけたかもしれない。
「……お母さん、これで楽になれる。よかった」
よかった——雪はそう言った。母親を失って、よかったと言った。
俺は雪の手を離して、代わりに肩を抱いた。引き寄せる。雪は抵抗しなかった。俺の胸に顔を押し付けて、小さく震えている。
「泣いていい」
「……泣いてない」
「泣け。俺しか見てない」
雪の手が、俺の背中に回された。ぎゅう、と。今までで一番強い力だった。
それから雪は、声を殺して泣いた。泣き声が漏れないように、歯を食いしばって。俺の服が涙で濡れていく。でも俺は動かなかった。動けなかった。
母さんが起きてきて、事情を察した。すぐに行政に電話をかけ始める。児童相談所、民生委員。そういう言葉が飛び交う中、雪はずっと俺の服を掴んでいた。
この時、俺は雪の「依存度」という概念を知らなかった。もし知っていれば、この瞬間に雪の依存度が跳ね上がっているのを数値で確認できただろう。でも知らなかったから、俺はただ雪の背中をさすり続けた。それが結果的に、依存をさらに加速させた。そういう皮肉を、俺はこの後何度も経験することになる。
この日の俺は「雪の人生で最も重要なイベント」に立ち会いながら、その意味を半分もわかっていなかった。後に俺が「取り返しのつかない見落とし」と呼ぶことになる認識不足の原型が、すでにここにある。
結局、雪は同じアパートで一人暮らしを続けることになった。
父親名義のアパートはまだ契約が残っていて、生活保護を受けながらなんとかやっていける算段がついた。俺の母さんが「隣で見守ります」と役所に申し出て、定期的に様子を見に行くことが正式に認められた。母さんはそういう手続きに強い。看護師として患者の家族と行政の間に入ることが多いからだ。
「湊、雪ちゃんのことを頼むわね」
「最初からそのつもりだ」
母さんは少し笑った。
「あんたはお父さんに似てお人好しね。でも、無理はしなくていいからね。何かあったら、ちゃんと大人に言うのよ」
俺はうなずいた。でも心の中では「大人より俺の方が動ける」と思っていた。傲慢だ。今ならわかる。
この日から、俺のチャートはさらに精密になった。
朝、雪のアパートに行く。ドアを三回ノック。返事がなければ、持っている合鍵で開ける。雪が眠ったまま熱を出している可能性があるからだ。これは幼稚園の時に学習した教訓。
朝食を渡す。おにぎりを中心にした。雪は「おにぎりの方が好き」と言ったからだ。後の俺なら「好感度上昇のためには好物を把握しろ。これは基本」と解説する。
学校に行く。席は隣。これも毎回先生に頼んだ。担任が変わるたびに職員室に通うのは、今では俺の「新学期ルーティン」になっている。
変わったのは、夜だ。
夕食を届ける。俺が作るか、母さんが作ったものを持っていく。雪がちゃんと食べているか、その場で確認する。食べていない時は「食え」と言って待つ。雪は俺がいる方が箸が進むらしい。食後は宿題を見る。雪は算数が苦手で、授業中にぼんやりしていることが多いからだ。
「ここの掛け算、九九を覚えればできる」
「……九九、苦手」
「何度も言えば覚える」
俺は雪に九九を暗唱させた。小さな声で「いんいちがいち、いんにがに」と続ける。途中で間違えると訂正する。繰り返すうちに、雪の声は少しずつ大きくなった。
「……はっく、しちじゅうに」
「正解」
「……できた」
雪が顔を上げる。この時、目にほんの少しだけ光が戻る。これが俺の「報酬」だった。
「やればできるだろ」
「……湊くんが教えてくれるから」
「俺がいなくても、できるようになれ」
雪はその言葉に反応しなかった。俯いて、消しゴムをいじる。指がかすかに震えている。
「……湊くんは、ずっといるって言った」
「言ったな」
「……だから、湊くんがいればいい」
その時、俺の背筋を何かが走った。違和感。かすかな警鐘。でも俺はそれを言葉にできなかった。「甘えるな」と雪の頭を軽く叩くのが精一杯だった。
この違和感を、後の俺は「依存度の過上昇アラート」と呼ぶ。当時はアラートの存在すら知らず、ただのもやもやとして処理した。
今にして思えば、この「もやもや」を無視したことが、その後のすべての歪みの起点になった。RTAで言うなら「警告表示をスキップして先に進んだ」状態。結果、後のチャートで大きな皺寄せを食らうことになる。
四年生。
クラス替えの季節。俺はまた先生に頼んだ。三度目なので先生も慣れたものだ。
「黒瀬くん、白崎さんの席はまた隣ね」
「ありがとうございます」
「でも、他の友達も作りなさいよ」
「善処します」
四年生になると、クラスの雰囲気が少し変わった。男子と女子がお互いを意識し始める。誰が誰を好きだとか、そんな噂が飛び交う年頃だ。雪は相変わらず俺以外とはほとんど話さなかった。休み時間は一人で本を読んでいる。
そんな中、橘という転校生が現れた。
隣の市から引っ越してきたらしく、クラスは違うが同じ学年。髪は茶色がかっていて、女の子みたいな顔立ち。言葉がやけに丁寧で、四年生とは思えない落ち着きがあった。
「君が黒瀬くん?」
休み時間、橘が俺の教室に来た。窓際で声をかけられて振り返る。
「そうだ」
「僕、橘。隣のクラスなんだけど、白崎さんのこと、少し知ってるんだ」
「雪を?」
「去年の夏祭りで見かけてね。一人で出店を見てて、綺麗な子だなと思って」
橘はにこっと笑った。人好きのする笑顔だ。でも俺は、その笑顔が気に入らなかった。
理由はわからない。でも、橘が雪の話をする時の目の輝きが、何かを刺激した。
「それで?」
「よかったら、紹介してくれないかな。友達になりたいんだ」
俺の中で、初めての感情が湧いた。苛立ち。
後から冷静に分析すれば、これは「嫉妬」だ。でも当時の俺は、それを「雪に不適切な人物が近づくのを防ぐのも守ることの一環だ」と自分に言い聞かせた。効率厨のくせに、感情の自己分析だけは驚くほど非効率的だった。つくづく自分という人間は、無駄の多い設計をしていると思う。まあ、そこが人間の面白いところでもあるのだが。
「雪は人見知りする。急に話しかけるな」
「でも、君はいつも一緒にいるよね」
「俺は幼なじみだからだ」
「じゃあ、橋渡しくらいしてくれてもいいんじゃない?」
「紹介料、五百円な」
橘が目を丸くした。どうやら冗談だと気づくのに数秒かかったらしい。
「……今の、冗談?」
「さあな」
橘は吹き出した。笑いをこらえるように口を押さえて、肩を震わせている。
「黒瀬くんって、面白い人だね」
「褒めてないだろ、それ」
「褒めてるよ。もっと話してみたくなった」
俺は少しだけ、橘という人間を見直した。冗談が通じる。それは意外だった。四年生で「紹介料五百円」のボケに気づけるやつは少ない。
今にして思えば、これが俺と橘の奇妙な友情の始まりだった。恋のライバルでありながら、会話が成立する相手。雪をめぐる競合プレイヤーなのに、なぜか話していて息が詰まらない。複雑な関係だったが、悪い気はしなかった。
後日、橘は本当に雪に話しかけた。
「白崎さん、こんにちは。僕、橘。隣のクラスなんだ」
雪はびっくりした顔で橘を見上げて、それから俺の方をちらっと見た。助けを求めている。
「雪、橘はいいやつだ。話しても大丈夫だ」
俺はそう言った。言わなければいけないと思った。雪の世界を狭めるのは、俺の役目じゃない。
「……こんにちは」
雪は小さくうなずいた。まだ警戒しているけど、拒否はしなかった。
「よかった。今度、一緒に図書室に行かない? 本が好きなんだよね?」
「……湊くんも、行く?」
雪が俺を見る。
「俺はいい。二人で行け」
俺は席を立った。胸の奥がざわついた。でも、これでいい。雪が俺以外の人間と話せるようになるのは、いいことのはずだ。
そう自分に言い聞かせながら、教室を出た。
今ならわかる。俺はこの時、二重の意味で間違っていた。一つは、自分の嫉妬を認めなかったこと。もう一つは——橘と雪の時間が、雪の依存をむしろ強化するとは考えなかったことだ。
橘と雪は、ときどき図書室で一緒に本を読むようになった。
俺はその間、教室で一人で待っていた。雪が戻ってくるのを待つ時間は、不思議と長く感じた。もっとも当時の俺は「待機時間の有効活用」と称して宿題を片付けていたので、学業成績だけは無駄に向上した。何が幸いするかわからない。
「……ただいま」
「おかえり」
「……橘くん、面白い本を教えてくれた。星の王子さま」
「そうか」
「……湊くんは、何してたの」
「宿題。ついでに明日の分も終わらせた」
「……相変わらず効率的」
その言葉に、俺は少しだけ引っかかった。「効率的」という言葉を、雪が使うとは思わなかったからだ。多分、俺がよく使っているのを覚えたのだろう。雪が俺の口癖を真似るのは、これが初めてだった。
「……今度、湊くんも一緒に行こう」
「俺が行かなくても、雪は橘と行けばいい」
雪は黙った。それから、俯いて言った。
「……湊くんがいないと、私、うまく話せない」
「話せてるだろ」
「……橘くんは、湊くんじゃないから」
俺はその言葉の意味を、ちゃんと考えなかった。
雪にとって「湊くんじゃない」は、つまり「価値がない」ということなのだ。橘という人間がどんなにいいやつでも、雪の世界では俺以外はすべて「その他」に分類される。これは危険な兆候だった。でも当時の俺は、雪が友達を作れたことに安心していた。安心して、この言葉の重みを見逃した。
ある日、橘がぽつりと言った。
「雪さんは、僕と話してる時も、ずっと君の話をしてる。湊くんはね、料理ができるんだよ。湊くんはね、九九を全部覚えてるんだよ。湊くんはね、いつも私を助けてくれるんだよ——って」
俺は何も言えなかった。
「僕、途中で気づいたんだ。雪さんと話す時間は楽しいけど、雪さんは僕を見ていない。君を探してるんだ。目が、いつも教室のドアの方を見てる。君が迎えに来るのを待ってる」
橘は少しだけ寂しそうに笑った。
「だから、雪さんは僕が守る相手じゃない。君が守るべき相手だ。僕はそう思う」
「……お前は、それでいいのか」
「よくないよ。でも仕方ない。雪さんが選んだのは君だから」
橘はそう言って、窓の外を見た。校庭では次の授業の準備をしている生徒たちが走り回っている。
「黒瀬くん、一つだけ聞いていい?」
「なんだ」
「君は雪さんのこと、どう思ってるの」
俺は答えられなかった。守りたい。でも「好き」かと聞かれると、違う気がする。じゃあ何なのか。説明できなかった。
橘は俺の沈黙を答えだと受け取ったらしい。小さくうなずいて、「そっか」と言った。
今思えば、この時に答えられなかったことこそが、俺の最大の問題だった。雪への気持ちを定義できないまま、守ることだけを続ける。それは雪に「俺の気持ちがわからない」という不安を与え、それが依存をさらに加速させる。知らず知らずのうちに、俺は雪を追い詰めていた。
五年生。
雪が倒れた。
十一月の放課後。帰り道を歩いていて、雪が突然立ち止まった。
「……湊くん」
「どうした」
返事がない。振り返ると、雪がその場にしゃがみ込んでいる。顔から血の気が引いて、唇が青ざめていた。
「ゆき!」
駆け寄って肩を抱く。体がぐったりしていて、手足が冷たい。息が浅い。
「……だいじょうぶ」
「大丈夫なわけないだろ」
俺は雪を背負って、走った。病院は小学校から十五分。雪は背中で「おろして」と小さく言ったが、無視した。この「おろして」は幼稚園の頃から変わらない。でも体は確実に重くなっている。成長している証拠だ。それなのに、栄養が足りていない。
病院の待合室で、俺は生まれて初めて「恐怖」というものを味わった。雪が死ぬかもしれないと思った。幼稚園の時も似たようなことはあったが、今回は明らかに違った。雪の体が限界を迎えている。自分のチャートに致命的な欠陥があったことを、この時初めて理解した。
診断は「栄養失調と貧血」。
生活保護の金で食費を切り詰めすぎて、ちゃんと食べていなかったらしい。俺が夕食を届けても、それだけでは足りていなかった。雪は俺に心配をかけまいと、食べているふりをしていたのだ。
「君は家族の方?」
看護師が俺に聞いた。五年生の男子に向かって言う台詞じゃない。
「幼なじみです。保護者には連絡します」
「幼なじみ……ああ、将来の彼女さん?」
俺は即答したが、耳が熱くなった。看護師はにやにやしている。三十代の女性はこういう反応を楽しむ傾向がある。後に学習することになるが、この手の「大人のからかい」はスルーが最適解だ。
病院の公衆電話で母さんを呼んだ。母さんは仕事中だったけど、すぐに来てくれた。こういう時の母さんは本当に頼りになる。雪の頭を撫でながら、静かな声で言った。
「雪ちゃん、今日から毎日、うちでご飯を食べようね。朝も夜も。湊に迎えに行かせるから」
雪はベッドの上でうなずいた。目に涙が溜まっているけど、こぼさなかった。
「……私、また迷惑かけた」
「迷惑じゃない」
俺は雪の手を握った。点滴の針が刺さった手は、いつもよりさらに冷たい。
「雪は迷惑じゃない。俺が勝手にやってるだけだ」
「……湊くんは、なんでそこまでしてくれるの」
なぜ。
俺は少し考えた。考えたけど、答えは最初から決まっていた。
「俺が、雪を幸せにしたいからだ」
初めて口に出した。雪を幸せにしたい。幼い頃からずっと走り続けてきた、たった一つのゴール。
雪は目を見開いた。それから、声を出さずに泣いた。涙が指の隙間からこぼれて、枕に染みをつくる。
「……幸せって、なに」
「わからない」
「……わからないのに、幸せにできるの」
「雪が笑ってること。それを増やす。それでいいと思ってる」
雪は俺の手を握り返した。点滴の管が揺れるくらい、ぎゅう、と。
「……私、湊くんといると笑える。だから、もう十分幸せ」
「まだ足りない。もっと笑えるようになる」
「……じゃあ、湊くんは、ずっと一緒にいてくれる?」
「いる。約束する」
雪はうなずいた。何度も、何度も。
今の俺がこれを見たら、「依存度、危険水域に突入」と警告を出すだろう。でも当時の俺は、雪が泣き止んだことで満足していた。この病院の夜が、俺のRTAの「分岐点」だった。ここで雪の依存に気づいて修正するか、気づかずに走り続けるか。俺は後者を選んだ。しかも無自覚に。
六年生。卒業が近づいていた。
秋のある日、クラスの女子が俺に消しゴムを借りに来た。山下さんという、明るい子だった。
「黒瀬くん、消しゴム忘れちゃって。ちょっと貸して」
「いいぞ」
俺は筆箱から消しゴムを出して渡した。それだけのことだった。
放課後、雪がぽつりと言った。
「……湊くん、今日、山下さんに消しゴム貸してた」
「ああ。忘れたらしい」
「……山下さん、湊くんのこと、どう思ってるのかな」
「どうって、ただのクラスメイトだろ」
雪はしばらく黙って、それから小さく言った。
「……湊くんの消しゴム、いい匂いした?」
質問の意味がわからなかった。今でも正確にはわからない。でも、その時の雪の声のトーンが、いつもと違うことだけはわかった。
「普通の消しゴムだ。匂いもしない」
「……そう」
雪はそれ以上何も言わなかった。でも、それから山下さんが俺に何か借りに来ることはなくなった。理由はわからない。考えないようにした。
今にして思えば、これは「排除行動」の初期段階だ。雪が自覚的にやったのか無意識かはわからない。でも、俺の周りから誰かが離れていく時、必ず雪が何かをしていたのだろう。当時の俺はそれを「たまたま」で片付けた。それがどれほど都合の良い解釈か、後で思い知ることになる。
橘とは相変わらずだった。ときどき図書室で雪と本を読んでいたが、ある日ぱったりと来なくなった。
「……橘くん、最近来ないね」
「そうだな」
「……なんでだろう」
「さあな」
俺は理由を知っていた。橘が引っ越すのだ。隣の県に転校すると、少し前に本人から聞いていた。でも雪には言わなかった。言うべきだったのかもしれない。でも言えなかった。
後の俺なら、これを「情報隠蔽によるライバル排除」と呼ぶ。当時は「わざわざ言うことじゃない」と思っていた。
雪が橘の不在に慣れた頃、橘が俺の教室に来た。卒業式の前日だ。もう荷物はまとめたらしく、手ぶらだった。
「黒瀬くん、ちょっといい?」
廊下に出る。橘は相変わらず落ち着いた顔で立っていたが、少しだけ口元が強張っている。
「明日、引っ越すんだ」
「知ってる」
「雪さんには言わなかった」
「……なんで」
「僕が言うことじゃないと思って」
橘は少しだけ寂しそうに笑った。
「雪さんには、君が言ってあげて。橘はいなくなったけど、湊くんはいるから大丈夫だって」
「お前はそれでいいのか」
「よくないよ。でも、雪さんが僕を見ていないのに、僕だけが雪さんを見ているのは、違うと思う」
橘は俺の目をまっすぐ見た。
「雪さんは君だけを見てる。ずっと前から、そうだったんだと思う。僕が入る隙間はなかったんだ」
俺は何も言えなかった。橘は手を差し出した。
「さよなら。雪さんを頼む。あと——たまには君も、自分の気持ちと向き合った方がいい。効率だけじゃ、見えないものもあるから」
俺はその手を握った。橘の手は温かかった。雪の手とは正反対の、温かい手。
「……お前は、いいやつだった」
橘は笑った。今度は本当に、心からの笑顔だった。
「初恋は実らなかったけど、いい思い出だよ。紹介料、結局払えなかったけどね」
俺は思わず吹き出した。橘も笑っている。別れ際に交わす言葉が紹介料の話とは、我ながら間抜けな友情だったと思う。
「じゃあな」
橘は手を振って去っていった。数歩歩いて、立ち止まる。振り返って、もう一度だけ言った。
「雪さんが泣かないように、ちゃんと伝えてあげてね」
橘の背中が校舎の向こうに消えるまで、俺はそれを見送った。
橘は雪のことを一度も「ゆきちゃん」とは呼ばなかった。いつも「雪さん」だった。それは橘の、精一杯の距離の取り方だったのかもしれない。
卒業式。
雪は中学の制服を着ていた。まだ体に合っていない、ぶかぶかの制服。俺の母さんが夜なべしてサイズを詰めてくれたものだ。
式の後、俺は雪に橘のことを伝えた。
「雪、言わなきゃいけないことがある」
「……なに」
「橘が引っ越した。隣の県だ。昨日、挨拶に来た」
雪の足が止まった。
「……いつ」
「昨日」
「……どうして、もっと早く言わなかったの」
「言えなかった。お前が悲しむと思って」
雪は俯いて、それからまた歩き出した。足音だけがやけに大きく聞こえる。
「……そっか」
「怒ってるか」
「……怒ってない。でも、悲しい。湊くんが教えてくれなかったのが、一番悲しい」
俺は立ち止まった。雪も立ち止まる。振り返った雪の目は、少しだけ濡れていた。
「……湊くんは、なんでも私に言ってくれると思ってた」
「言えなかったんだ」
「……それで、もっと悲しくなった。湊くんは私を守ってくれるけど、時々、大事なことを隠す」
図星だった。俺は雪を傷つける情報を、無意識にフィルタリングしていた。それが雪のためだと信じて。でも違った。雪にとっては、情報を隠されること自体が傷だった。
「ごめん」
俺は素直に謝った。ここで言い訳するのは違う。
「……次からは、ちゃんと言う。約束する」
雪はしばらく俺を見ていたけど、やがてうなずいた。
「……約束、守って」
「守る」
「……破ったら」
「許さないんだろ」
雪は少しだけ笑った。今度はさっきより柔らかい笑顔だった。
「……覚えてるならいい」
校庭の桜はまだ蕾で、春はもう少し先だった。雪は俺の袖を掴んだ。幼稚園の頃と同じ仕草。でも力が違う。ぎゅう、と布がしわになるほど強い。
「……湊くん、中学校はどうなるかな」
「どうって」
「……また一緒のクラスになれるかな」
「先生に頼む。何度でも頼む」
「……湊くんは、ずっとそうやって私の隣を確保してたんだ」
「当たり前だろ」
雪は笑った。今ではもう、笑顔は珍しくない。俺の前ではいつも笑っている。
「……私、湊くんがいれば、他に何もいらない」
その言葉を聞いた時、俺の背筋にまたあの違和感が走った。
「……友達もか」
「……友達は、橘くんがいたけど、でも違う。橘くんは湊くんじゃない」
湊くんじゃない。この言葉を雪は何度も繰り返す。そのたびに、俺以外のすべてが雪の世界から排除されていく。
「雪、人は一人じゃ生きられない」
「……湊くんがいるから、一人じゃない」
俺はそれ以上、何も言えなかった。言うべき言葉が見つからなかった。
その代わり、雪の手を握った。冷たい手。でも幼稚園の頃よりは、少しだけ温かい。それが、俺が積み上げてきたものの証拠だと思いたかった。
「……約束、覚えてる?」
雪が言った。
「どの約束だ」
「……ずっと一緒にいるって」
「覚えてる」
「……絶対だよね」
「絶対だ」
雪はうなずいた。それから、少しだけ怖い目をして笑った。
「……約束、破ったら許さないから」
冗談めかした口調。でも声のトーンは冗談じゃなかった。俺は笑ってごまかした。でも心のどこかで、小さな警鐘が鳴っていた。
今ならわかる。この「許さないから」は、のちの「許さない」のプロトタイプだ。雪の中で育っている何かが、この時すでに芽を出していた。
その夜。
机の引き出しにしまった古い日記帳を、雪は久しぶりに開いた。最後に書いたのは、母親が出ていった日だ。それ以来、ページは空白だった。
雪は新しいページを開いて、ゆっくりと文字を書いた。インクがかすれないように、丁寧に、一文字ずつ。
「橘くん、さようなら。湊くんは、私だけのもの」
雪はその一文を見つめて、それから日記帳を閉じた。誰にも見せない。誰にも渡さない。
中学校が、始まる。
春が来る。
中学校という新しいフィールドが、俺たちを待っている。
雪の母親の消息はまだわからない。父親の借金が消えたわけでもない。問題は山積みだ。
そして俺は、まだ気づいていない。
雪の中で育っている「何か」が、中学校で加速度的に膨らんでいくことを。
RTAはここから、本格的に狂い始める。
俺が走っているこの道が、本当に「真エンド」に繋がっているのか——それを疑いもしないまま、俺は加速する。
【読者専用ステータス画面——第2話終了時点】
| 項目 | 開始時 | 現在値 | 変動 |
|------|--------|--------|------|
| 白崎雪 好 感 度 | 15/100 | 48/100 | +33 |
| 白崎雪 依 存 度 | 12/100 | 44/100 | +32 |
| 白崎雪 ヤンデレ度 | 1/100 | 9/100 | +8 |