うすほそな幼なじみを口説き落とすRTA 作:アホ面オムライス
「黒瀬くんってさ、彼女とかいないの?」
中学一年の五月。前の席の吉岡茜が振り返って、そう言った。
「いないし、作る気もない」
「えー、もったいない!」
茜はけらけら笑った。ポニーテールが揺れる。入学式の日から、茜はなぜか俺と雪によく話しかけてくる。クラスのムードメーカーで、誰とでも分け隔てなく接する。そういうやつだった。
隣の席で雪が俯いている。俺の袖をそっと掴む指に、ほんの少し力が入った。
この明るい声が、雪の「何か」を目覚めさせることになる。
中学校に上がって、雪の「新しくないもの」は俺だけになった。
校区が広がって、知っている顔はほとんどいない。雪は入学式の朝、校門をくぐるなり俺の袖を掴んだ。ぎゅう、と。小学校の頃より力が強い。
「……離れないで」
「離れない」
これはお決まりの交換だった。雪は不安になると俺の袖を掴み、俺は「離れない」と答える。俺はこれを「なにかの儀式」だと思っていた。雪が新しい環境に慣れるまでの、一時的なものだと。
違った。雪にとってこれは「確認」だった。俺がまだ自分のものであることを、周囲に示すための。
当時の俺は気づかなかった。気づいたのは、ずっと後のことだ。
クラス発表では、俺と雪は同じ一年三組になった。事前に担任の桐山先生に頼んでおいた結果だ。桐山先生は若い男性教師で、俺の話を「事情があるなら」とあっさり受け入れた。
「何かあったらすぐ相談しろ。遠慮するなよ」
「ありがとうございます」
これで初期配置は完了。RTA的に言うなら「乱数調整成功」。中学校でも雪の隣を確保できた。
雪は教室で俺の後ろに隠れるように立っていた。周りの視線から逃げるみたいに、俺の背中に半歩隠れる。誰かが近づくたびに、袖を掴む力が強くなった。
その時、前の席から声が飛んだ。
「おお、同じクラス! あたし、吉岡茜! よろしくね!」
明るい茶髪のポニーテール。元気な声。茜は雪にも同じテンションで話しかけた。
「そっちの子は? 小柄で可愛いね!」
「……白崎です」
雪は消え入りそうな声で答えて、また俯いた。茜は気にしない。「よろしくね!」と言って、すぐに別の生徒のところへ行く。
この時はまだ、茜はただのクラスメイトだった。
六月。個人面談の日。
桐山先生が俺を呼び止めた。面談が全部終わった後、誰もいない教室で。
「黒瀬、白崎さんのことなんだけど」
「何かありましたか」
「成績は悪くない。むしろ真面目だ。ただ、クラスに馴染めてないように見える。休み時間も君の隣にいるだけで、他の生徒とはほとんど話さない」
「雪は人見知りで、家庭環境も複雑で——」
「聞いてる。児童相談所からの引き継ぎもあった。だから無理にとは言わない。でも、君に頼りすぎているように見えるんだ」
図星だった。俺は黙った。
桐山先生は机に腰掛けて、俺の目をまっすぐ見た。
「黒瀬、君はよくやっている。中学生とは思えないくらい白崎さんのことを気にかけている。でも、君が全部を抱え込む必要はない。時には先生たちに頼ってほしい」
「……雪は、俺に頼ってくれています。それが雪の支えになるなら、俺は構いません」
桐山先生はしばらく俺を見て、それから小さくため息をついた。
「君は頑固だな」
「よく言われます」
「もう一つ言うなら、白崎さんが君に依存しているように、君も白崎さんを守ることに依存しているように見える。それは健全とは言えないかもしれない」
俺はその言葉の意味を、すぐには理解できなかった。俺が雪に依存している? 違う。俺は雪を守っているだけだ。
でも、心のどこかに引っかかった。桐山先生の言う「依存」という言葉が、小さな棘のように残った。
七月。母親の消息が判明した。
夏休み直前、児童相談所を通じて連絡があった。隣の県で生活保護を受けている。役所から「お子さんを引き取る意思はありますか」という照会があったらしい。
雪は児童相談所の人と話した後、俺の家に来た。日曜の午後で、母さんは仕事。二人きりだった。
「……お母さん、生きてた」
「ああ」
「……隣の県で、一人で暮らしてるんだって。もう新しい仕事も見つけたって」
「それで」
「……私を引き取る気はないって」
雪の声は震えていなかった。泣きもしなかった。
「……わかってた。お母さんは私のことが邪魔だったから」
「違う」
俺は雪の手を握った。冷たい手だった。中学生になっても、雪の手はいつも冷たいままだった。
「お前は邪魔なんかじゃない」
「……でも、お母さんは私を捨てた」
「それはお前のせいじゃない。大人の都合だ」
雪はうつむいて、しばらく黙っていた。それから、ぼそりと言った。
「……湊くんは、私を捨てない?」
「捨てない。絶対に」
「……絶対?」
「絶対だ」
雪は俺の手を握り返した。ぎゅう、と。今までで一番強い力だった。それから、今まで聞いたことのない声で言った。
「……湊くんがもし捨てたら、私、許さない。絶対に許さない」
その声には、母親への怒りが混ざっていた。いや、母親への怒りを、俺にぶつけているのだ。
雪の中で何かが変わった瞬間だった。悲しみが、怒りに変わった。それは雪が初めて見せた、自分を捨てた世界への反抗だった。
雪が茜を「脅威」と認識したのは、この時だったのだろう。母親に捨てられた直後、雪の中で「湊くんだけが絶対」という認識が固まった。その直後に茜が現れた。俺を奪うかもしれない存在として。
七月。体育祭の練習が始まった。
茜が雪を綱引きに誘った。雪は「運動できない」と断ろうとしたけど、茜は雪の手を引いて競技の列に並ばせる。
「大丈夫大丈夫! みんなで引っ張ればできるって!」
雪は困惑した顔で俺を見た。助けを求めている。でも俺は首を横に振った。こういう時こそ、雪は他の人間と関わるべきだと思ったからだ。
綱引きが始まった。雪は一番後ろで、ぎこちなく縄を握っている。笛が鳴って、みんなが引っ張る。雪も必死な顔で引っ張った。でもすぐにバランスを崩して、転びそうになる。
茜がとっさに雪の腰を支えた。
「危ない! 大丈夫?」
「……だいじょうぶ、です」
「よかった! 一緒に引っ張ろ!」
雪は茜と並んで綱を引いた。ぎこちないけど、最後まで立っていた。結果は負けたけど、雪の顔には少しだけ達成感があった。額に汗が浮かんでいる。
「……私、最後までできた」
「すごいじゃないか」
「……茜さんが助けてくれたから」
「そうか」
俺は素直に嬉しかった。雪が俺以外の人間と関わって、何かを成し遂げた。これは大きな進歩だと思った。
練習の後、茜が俺の隣に来て、缶ジュースを差し出した。
「黒瀬くん、お疲れ」
「ああ。ありがとう」
「白崎さん、頑張ってたね。最初はどうなるかと思ったけど」
俺は缶ジュースを受け取りながらうなずいた。茜は缶を開けて、一口飲んで、それから少しだけ声を潜めた。
「黒瀬くんは白崎さんのこと、ずっと守ってるよね。入学式の日から」
「守るって決めてるからな」
「それってさ」
茜は缶を揺らしながら、次の言葉を探しているようだった。
「守るだけ? 他の気持ちはないの?」
「他の気持ち?」
「好きとか」
「わからない」
正直な答えだった。雪を守りたい。でもそれが「好き」なのかどうか、考えたことがなかった。考えようとしなかった。
茜は少しだけ驚いた顔をして、それから困ったように笑った。
「そっか。わかんないんだ」
「わからない」
「じゃあさ、あたしがもらっちゃおうかな」
冗談めかした口調。でも目は笑っていない。
「……なにを」
「黒瀬くんのこと」
「もらわれる筋合いはないが」
茜が一瞬ぽかんとして、それから吹き出した。
「なにそれ! 筋合いって!」
「事実だ。俺は俺のものだ」
「黒瀬くんって、ほんと面白いね。そういうところ、好きだわ」
茜はけらけら笑いながら去っていった。ポニーテールが揺れている。俺は缶ジュースを開けずに持ったまま、その後ろ姿を見送った。
この会話を、雪が見ていた。
校舎の陰から、じっとこっちを見ている雪に、俺は気づかなかった。
その夜。
雪のアパートで夕食を食べている時、雪がぽつりと言った。
「……茜さん、湊くんと仲良くなってる」
「クラスメイトだからな」
「……体育祭の時も、ジュース渡してた。笑ってた」
「たまたまだ」
雪は箸を置いた。まだ半分以上残っている。
「……茜さんは、湊くんのこと好きだと思う」
「考えすぎだ」
「……湊くんは、茜さんのこと、どう思ってるの」
「クラスメイトだ。それ以上でも以下でもない」
雪はしばらく俺の顔を見ていた。何かを探るような目だった。それから小さくうなずいて、箸を持ち直した。
「……わかった」
でもその声には、納得していない響きがあった。
十月。文化祭の準備が始まった。
クラスの出し物は喫茶店。茜が提案した。男子は給仕、女子は料理。雪は「接客できない」と言って厨房を希望し、茜は快諾した。
準備期間、茜は文化祭実行委員として忙しく動いていた。雪は黙々と飾り付けを手伝っている。俺は備品の買い出し要員だ。
茜が買い出しのリストを持ってきた時、俺たちは教室の隅で段ボールを整理していた。
「黒瀬くん、買い出しありがとう。助かる」
「必要なものがあるなら言え」
「じゃあさ、文化祭が終わったら、ちょっと話したいことがあるんだ」
「今じゃダメなのか」
「ダメ。ちゃんと終わってから言う」
茜はそう言って、少しだけ緊張した顔で立ち去った。雪は段ボールを抱えたまま、動かない。茜の背中をじっと見ていた。
文化祭当日。喫茶店は盛況だった。
俺は給仕をしながら、時々厨房を覗いた。雪はコーヒーカップを並べて、真剣な顔で盛り付けをしている。集中している時の雪は無駄な動きがない。
午後、客足が落ち着いた頃、茜が俺の袖を引いた。
「黒瀬くん、ちょっといい?」
「なんだ」
「こっち」
茜について教室を出る。非常階段のところで茜が立ち止まった。振り返った顔は、いつもの明るさがなかった。
「あのさ、この前の話、覚えてる?」
「もらっちゃおうかな、ってやつか。筋合いの話なら覚えてる」
茜は少しだけ笑った。でもすぐに真顔に戻る。
「うん。あれ、冗談のつもりだったんだ。でも、無理だった」
茜はまっすぐ俺の目を見た。
「黒瀬くんのこと、好き。多分、入学式の日から。黒瀬くんが『よろしく』って言ってくれて、それで」
俺は何も言えなかった。茜の声が少し震えている。
「白崎さんのことは大事にしてるんだよね。わかってる。でも、黒瀬くんの『守る』は、恋愛とは違うんでしょ。さっき『わからない』って言ってた」
「……ああ」
「じゃあさ、あたしにもチャンス、ないかな」
茜が一歩近づいた。非常階段の狭い踊り場で、距離が縮まる。
「……湊くん」
声がした。
振り返ると、雪が立っていた。文化祭のエプロンをつけたまま、両手をだらりと下げている。
「ゆき、どうして」
「……厨房、一段落したから。探してた」
雪の声は平坦だった。感情が抜け落ちたような、でもその奥に何かが渦巻いているような——そんな声だった。
「……茜さん、湊くんと何話してたの」
「え、あ、いや、クラスのことで」
「……教室に戻ってください。お客さん、来てる」
雪は茜をまっすぐ見ていた。その目に、茜は何かを感じたらしい。一歩後ずさった。それから一瞬、肩が震えた。
「……わかった。黒瀬くん、また後で」
茜が去った後、雪は俺の方を向かなかった。
「……湊くん、教室戻るよ」
「雪」
「……戻るよ」
雪は俺の袖を掴んだ。ぎゅう、と。今までで一番強い力だった。骨が軋むんじゃないかと思うくらい。
教室に戻っても、雪は俺の袖を離さなかった。接客の間も、片付けの間も。他の生徒が不思議そうな顔をしたけど、雪は気にしなかった。
片付けが終わって、誰もいなくなった教室で、雪がようやく口を開いた。
「……茜さんに、告白された」
「……聞いてたのか」
「……聞いてた。最初から」
雪は俺の前に立った。身長差があるから、俺を見上げる格好になる。
「……湊くん、どうするの」
「どうするも何も」
「……茜さんと、付き合うの」
「付き合わない」
即答だった。今度こそ、考える必要はなかった。
「……ほんと」
「本当だ。俺は雪を守る。それが最優先だ」
雪はしばらく俺の顔を見ていた。何かを確認するみたいに。それから、ゆっくりと頷いた。
「……よかった」
でもその声は、安堵というより、確認が取れた時の響きだった。
「……湊くんは、私のものだもんね」
その言葉に、俺は背筋が冷たくなるのを感じた。でも同時に、否定する言葉も見つからなかった。
雪は俺の袖を掴んだまま、もう一度言った。
「……誰にも渡さない」
小さな声だった。でもはっきりと聞こえた。誰にも渡さない。それは茜に対してだけじゃない。これから先、俺に近づくすべての人間に対する宣言だった。
文化祭の翌日、茜は学校を休んだ。
次の日も、その次の日も。一週間経って、ようやく登校してきた茜は、別人みたいに静かになっていた。
俺に話しかけなくなった。目が合っても、すぐに逸らされる。ポニーテールはそのままだったけど、休み時間に席を立つことも減って、教室の隅で本を読んでいることが多くなった。
雪は変わらず俺の隣にいる。茜のことは何も言わない。でも時々、茜の方をじっと見ていることがあった。確認するように。何かを測るように。
放課後、茜が一人で下駄箱にいるのを見かけた。俺は声をかけようとした。でも、その前に雪が俺の袖を掴んだ。
「……湊くん、帰ろ」
「ちょっと待て。茜に——」
「……湊くんは関係ない」
雪の声は冷たかった。
「……茜さんは、自分で決めた。湊くんが何か言うことじゃない」
俺は雪の顔を見た。雪はまっすぐ前を見ていた。その横顔からは何も読み取れない。でも、袖を掴む指の力は、これまでで一番強かった。
結局、俺は茜に声をかけられなかった。
十二月。桐山先生が俺を呼んだ。今度は放課後、職員室で。
「茜のことで話がある」
先生は疲れた顔をしていた。
「茜が最近、学校に来ても様子がおかしい。何か知ってるか」
「……文化祭の時に、少し」
「何があった」
俺は黙った。言っていいことなのか、わからなかった。先生は俺の沈黙を見て、ため息をついた。
「茜が少しだけ話してくれた。文化祭の後、白崎さんに呼び出されたと。そこで『湊くんは私のものだ』と言われたそうだ」
俺は息を呑んだ。
「……雪が、そんなことを」
「君は知らなかったか」
「……はい」
桐山先生は机の上の書類を整理しながら、重い声で言った。
「黒瀬、君は白崎さんを守ることに必死で、周りが見えなくなっているんじゃないか」
「……そんなことは」
「ある。君は中学生だ。大人がやるべきことを、一人で抱え込んでいる」
先生はそこで言葉を切って、俺の目を見た。
「でも、君のせいだけじゃない。俺も、学校も、もっと早く動くべきだった。白崎さんの家庭環境は把握していたのに」
「先生のせいじゃないです」
「そう言ってくれるか」
桐山先生は少しだけ笑った。でもすぐに真顔に戻る。
「これからは俺ももっと関わる。白崎さんにも、茜にも。君だけに任せない」
俺はうなずいた。でも心のどこかで、もう遅いかもしれないと思っていた。雪の中で育っているものは、先生が想像するよりずっと深い。
二月。バレンタインデー。
雪は前の日に俺の家に来て、母さんと一緒にクッキーを作っていた。チョコじゃなくてクッキーなのは、雪がチョコをまだうまく作れなかったからだ。
「……湊くん、これ」
雪がラッピングされた小さな袋を差し出した。星型のクッキー。少し焦げているのもある。
「ありがとう」
「……初めて作った。おばさんに教えてもらった」
「美味そうだ」
「……まだ食べてない」
「見ればわかる」
雪は俯いて、耳を赤くした。こういう時の雪は、まだ昔のままだ。ただの照れ屋な幼なじみに見える。
「……湊くん、他に誰かからもらった?」
「まだもらってない」
「……茜さんからは」
「もらってない」
雪は小さくうなずいた。ほっとしたような、やっぱりというような、微妙な表情だった。
「……よかった」
その「よかった」の意味を、俺はあえて聞かなかった。聞くのが怖かった。
雪はクッキーの入った袋を両手で胸に抱えて、小さく息をついた。大事なものが無事だったことを、確認するみたいに。その指先が、ほんの少し震えていた。無事だったことに安堵しているのか、それとも——。
茜はその日も、教室の隅で静かに本を読んでいた。手元にはチョコレートの包みが一つもない。去年までは誰にでも義理チョコを配っていたのに。
三月。卒業式。
雪は高校の制服を着ていた。今度はサイズがぴったりだ。中学校三年間で雪も少し身長が伸びた。まだ細いけど、前よりは健康的に見える。
式の後、校庭で写真を撮った。母さんが来ていて、雪と並んで立つ俺たちを何枚も撮影する。
「湊、笑って」
「笑ってる」
「真顔だよ。雪ちゃんはちゃんと笑ってるのに」
雪は確かに笑っていた。でもその目は、カメラではなく俺を見ていた。レンズ越しに、俺がフレームの中にいることを確認するように。
でもその笑顔は、写真の中でもはっきりわかるくらい、柔らかかった。母さんが「雪ちゃん、可愛く撮れた」とカメラを覗き込む。雪は照れて俯いた。耳が赤い。そういうところは、昔から変わらない。
校庭の片隅で、茜が一人で立っていた。卒業証書を筒に入れて、それをじっと見つめている。
俺は雪の手をそっと離した。
「ちょっと行ってくる」
「……どこに」
「すぐ戻る」
茜は俺に気づくと、少しだけ驚いた顔をした。それから、久しぶりに見る笑顔で「やあ」と言った。
「文化祭の時は、悪かった」
「……いいよ。別に」
「ちゃんと断れなくて」
「ううん。あたしも、無理に言わせちゃったし」
茜は卒業証書を抱え直して、顔を上げた。目が少し潤んでいるけど、笑っていた。
「黒瀬くんはさ、白崎さんのこと、ちゃんと見てあげてね。あの子、黒瀬くんのことしか見てないから」
「……わかってる」
「うん。じゃあね」
茜は背を向けて歩き出した。ポニーテールが揺れている。二度と振り返らなかった。俺はその背中が見えなくなるまで、立ち尽くしていた。
俺が雪のところに戻ると、雪は無言で俺の袖を掴んだ。今までで一番強い力だった。
「……湊くん、何話してたの」
「別れの挨拶だ」
「……そう」
雪はそれ以上何も言わなかった。でも、茜が去っていった方角をじっと見つめる目は、まだ何かを警戒しているようだった。
「……湊くん、高校でも一緒だね」
「当たり前だろ」
「……湊くんは、ずっとそう言う」
「事実だからな」
雪は笑った。俺の前ではよく笑うようになっていた。でもその笑顔の裏に、何かが隠れていることに、俺はうすうす気づき始めていた。
「……私、湊くんがいないとダメだから。よかった」
ダメだから、よかった。
その言葉の意味を、俺は考えなかった。考えるのが怖かったのかもしれない。
その夜。
雪は机の引き出しから日記帳を取り出した。小学校の卒業式の日に書いたページをめくって、新しいページを開く。
「茜さんは、もう来ない。これで邪魔する人はいなくなった」
雪はペンを置いて、自分の書いた文字をじっと見つめた。それから、最後にもう一行だけ書き足した。
「高校でも、ずっと一緒。ずっと、ずっと」
雪は日記帳を閉じて、そっと引き出しに戻した。
窓の外では、春の日差しがアパートの壁を照らしている。
「……湊くん」
誰もいない部屋で、雪は一人呟いた。
「高校でも、絶対に離れないからね」
その頃、俺は自宅の机で高校の準備をしていた。新しい教科書、新しい制服、新しい通学路。頭の中では、高校でのチャートを組み立て始めている。
雪のクラスを確保する方法。通学ルートの最適化。高校は中学校より広いから、移動時間の計算も必要だ。雪の体調管理はもっと綿密に——。高校でも職員室に通うのか。我ながらストーカーみたいなことをしている自覚はある。まあ、今さらだが。
机の隅に、一枚の写真が立てかけてある。父親と俺と母さん。三人家族だった頃の写真だ。父親が死んで、俺は何もできなかった。だからせめて、雪だけは守る。そう決めた。
「湊、まだ起きてるの?」
母さんがリビングから声をかけてきた。
「ああ。高校の準備」
母さんは俺の手元を覗いて、それから言った。
「雪ちゃんのこと?」
「……なんでわかる」
「あんたがそんな顔するのは、雪ちゃんのことだけよ」
母さんはそれだけ言って、温かいミルクを机に置いてくれた。俺はミルクを飲みながら、チャートの続きを書いた。
後から思えば、この時が最後の分岐点だった。ここで立ち止まって、雪とちゃんと向き合っていれば、何かが違ったかもしれない。
でも俺は立ち止まらなかった。立ち止まるのは効率が悪いと思った。
そうして俺は、立ち止まる機会を永遠に失った。
【読者専用ステータス画面——第3話終了時点】
| 項目 | 現在値 | 前回比 |
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| 白崎雪 好 感 度 | 78/100 | +30(前回48) |
| 白崎雪 依 存 度 | 72/100 | +28(前回44) |
| 白崎雪 ヤンデレ度 | 42/100 | +33(前回9) |
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