うすほそな幼なじみを口説き落とすRTA 作:アホ面オムライス
これは、俺が絶対に書くはずではなかった記録だ。
あの時あの場所で俺は雪を受け入れ、雪も俺を受け入れた。歪んでいても、不器用でも、それでいいと二人で選んだ。それが俺たちの「真エンド」だった。
でも、もしあの時——文化祭の夜、屋上で——俺が雪の言葉を拒んでいたら。
もし俺が、最後の最後で「正しさ」を手放せなかったら。
その先に待っていたのは、こんな結末だった。
文化祭の夜、屋上で雪は泣きながら笑っていた。俺は雪の告白に「俺も好きだ」と答え、十二年かけて積み上げたチャートは完走した。
その直後だった。
「……湊くん、私、茜さんに言ったんだ」
雪がぽつりと言った。屋上の風が冷たくて、雪の髪を揺らしている。
「なにを」
「……湊くんは私のものだって。だから、もう近づかないでほしいって。もしこれ以上ちょっかいを出すなら、あんたの大事なものも、私にはどうでもいいものだから、どうなっても知らない——そう言った」
雪の声は穏やかだった。まるで昨日の天気の話でもするみたいに。
「……湊くん、私のこと、軽蔑した?」
俺は答えられなかった。軽蔑? 違う。そうじゃない。でも、今まで俺が見てきた雪と、今目の前にいる雪が、どうしても繋がらなかった。
「雪、それは違う。お前は茜に謝るべきだ」
「……なんで。湊くんを取ろうとしたのは茜さんだよ」
「取ろうとしたわけじゃない。俺に気持ちを伝えただけだ」
「……同じことだよ」
雪の声が、少しだけ固くなった。
「雪、俺はお前を守りたい。でも、お前が誰かを傷つけるなら、それは守ることじゃない。ただの——」
「……ただの、なに」
雪の目が、真っ直ぐに俺を射抜いた。
「……湊くんは、私の味方じゃないの」
「味方だ。でも——」
俺は言葉を探した。雪を否定しない言葉を。でも見つからなかった。
「……湊くん、私、小さい頃からずっと思ってた。私には湊くんだけだって。お母さんも、お父さんも、みんな私を置いていった。でも湊くんだけは違った。だから、湊くんは私のもの。誰にも渡さない」
雪は一歩、俺に近づいた。
「……やめろ」
「……やめない。湊くんは私のものだもん」
「俺はお前のものじゃない」
言ってしまった。
雪の動きが、ぴたりと止まった。
「……今、なんて」
「俺はお前のものじゃない。俺は俺のものだ。誰のものでもない」
雪はしばらく俺の顔を見ていた。それから、ゆっくりと口を開いた。
「……湊くんは、私のことが嫌いになった?」
その声は、十二年前の砂場で聞いた声と同じだった。細くて、かすれていて、でもまっすぐな声。
「嫌いじゃない」
「……でも、軽蔑した」
「してない」
「……嘘。湊くん、嘘つくとき目がちょっと右に行く。知ってるよ。十二年間、ずっと湊くんを見てきたから」
俺は何も言えなかった。
雪は俺の袖を掴んだ。ぎゅう、と。十二年前と変わらない仕草だった。
「……湊くん、お願い。私を捨てないで」
「捨てない」
「……絶対?」
「——」
俺は答えられなかった。絶対と言えなかった。一瞬の沈黙が、すべてを決定的にした。
雪の手から、力が抜けた。
「……そっか」
雪は袖を離した。自分から手を離したのは、十二年間で初めてだった。
「……湊くん、ありがとう。十二年、私を守ってくれて」
「雪、待て」
「……大丈夫。わかってた。いつかこうなるって。私みたいな重い女、湊くんに相応しくないって、ずっと前からわかってた」
「違う。そうじゃない」
「……いいの。私、湊くんに守られて、幸せだった。だから、もう十分」
雪は一歩下がった。二歩、三歩。距離が開いていく。
「……さようなら、湊くん」
雪は背を向けて、歩き出した。屋上のドアを開けて、階段を降りていく。俺はそれを追いかけようとして、足が動かなかった。
追いかけて、なんて言うんだ。俺がお前のすべてを否定したんだ。
翌日、雪は学校を休んだ。次の日も、その次の日も。一週間経って、雪のアパートは空になっていた。机の上に、一枚の紙が置いてあった。
「湊くんへ。十二年、ありがとう。さようなら。——雪」
母さんはあちこちに連絡を取ってくれた。児童相談所、警察、役所。でも見つからなかった。橘から手紙が来た。茜からも連絡があった。でも、雪の行方は誰にもわからなかった。
それから十年が経った。
俺は会社員になっていた。大学を出て、就職して、気づけば二十七歳。母さんは三年前に病気で死んだ。最期の言葉は「雪ちゃん、見つかるといいね」だった。
母さんの遺品を整理していた時、机の引き出しから封筒の束が出てきた。全部、雪を探すために母さんがやりとりした記録だった。探偵に依頼した報告書、役所への問い合わせの控え、児童相談所との手紙。母さんは死ぬまで、俺に黙って雪を探していた。そして、見つけられないまま死んだ。
俺はその夜、初めて声を出して泣いた。母さんのためじゃない。雪のためじゃない。ただ、俺のために泣いた。十二年かけて積み上げた善意が、結局は俺の自己満足だったことを、認めるために。
そして俺は、母さんの代わりに雪を探すことを決めた。もう後悔したくないとか、謝りたいとか、そんな綺麗事じゃない。ただ、知りたかった。雪が生きているのかどうかだけでも。
それからさらに二年。探偵を三回変えて、四度目の依頼でようやく見つかった。
雪は都内に住んでいた。郊外の小さなアパートで一人暮らし。職業は介護士。夜勤の多い仕事だった。報告書には付箋が貼ってあった。
「対象者について、十代後半に強いストレスによる精神疾患で入院歴あり。退院後の経過は安定しているが、定期的な通院を継続中。詳細は医療記録の開示が不可能なため不明。ただし、入院当時の担当医が退職しており、現在の状態について詳しい情報は得られず。なお、周辺への聞き込みによれば、対象者は過去の出来事の一部を覚えていない様子が見受けられるが、日常生活に支障はなく、職場での評価も良好とのこと。——以上、調査報告」
俺はその付箋を何度も読み返した。十代後半の強いストレス。精神疾患による入院。過去の出来事の一部を覚えていない様子。
俺は報告書を握りしめて、しばらく動けなかった。
それだけの情報だった。詳しいことは何もわからない。医者が守秘義務で詳細を明かさなかったのは当然だし、探偵にできるのはここまでだった。雪が今どんな状態なのか、何を覚えていて何を忘れているのか、それは直接会ってみなければわからない。でも、たったこれだけの断片的な情報でも、十分すぎるほど伝わってくるものがあった。
雪は俺と別れた後、入院しなければならないほど壊れたのだ。
俺は雪に会いに行くことを決めた。会ってどうするつもりなのか、自分でもわからなかった。ただ、雪が今どんな顔で生きているのか、それだけはどうしても知りたかった。
雪が働いているのは、駅から離れた小さなデイサービス施設だった。十二月で、冷たい風が吹いていた。利用者の送迎の時間に合わせて、施設の向かいのベンチに座って待った。
夕方、雪が出てきた。送迎の車に利用者を乗せるために、入り口まで付き添っている。濃い紺のジャージにエプロン。髪は肩のあたりで切られていて、昔より少し痩せたように見える。でも、利用者に話しかける時の笑顔は柔らかかった。利用者の女性が何か言うと、雪は首をかしげて笑った。その仕草は昔と変わらなくて、胸が締め付けられた。
利用者を車に乗せ終えた雪が、ふと顔を上げた。俺と目が合った。
雪の目が、ほんの少しだけ不思議そうに細められた。知らない顔を見る時の、普通の反応だった。でもその一瞬、雪の動きが止まった。何かを探すみたいに、俺の顔をじっと見ている。右目の端がぴくりと動いて、それから雪は首をかしげた。
「……あの、すみません。どこかでお会いしましたっけ」
その声には、何の翳りもなかった。俺に対する恨みも、憎しみも、愛情も、何もなかった。ただの見知らぬ誰かに対する、普通の声だった。
俺は首を横に振った。
「いえ。人違いです」
「……そうですか。すみません、変なこと聞いて」
雪はぺこりと頭を下げた。その時、雪の髪が風に揺れて、耳の後ろの小さな傷跡がちらりと見えた。小学校の体育祭で転んだ時にできた傷だ。綱引きの練習で転んで、俺が保健室まで背負って運んだ。雪はその傷のことも、きっと覚えていない。俺はそれを見ないふりをした。
雪が施設の中に戻っていく。ドアが閉まる直前に、雪がもう一度だけ振り返った。何かを確かめるみたいに、俺の顔を見た。でもすぐに小さく首を振って、ドアの向こうに消えた。
俺はベンチに座ったまま、立ち上がれなかった。風が冷たくて、手の感覚がなくなっていく。
雪は俺を完全に忘れていた。顔も、声も、名前も、十二年分の記憶も、すべて。
俺は雪にとって、もう誰でもなかった。
さようならも、ありがとうも、ごめんも、何も言えなかった。言う資格がなかった。そもそも、何を言えばいいのかもわからなかった。俺は雪の何なんだ。かつて守っていた誰か。そして最後に否定した誰か。雪がそれをすべて忘れて幸せそうに笑っているのに、俺が今さら現れて「思い出せ」と言う権利がどこにある。
その夜、ホテルに戻ってから、俺は初めて声を殺さずに泣いた。隣の部屋の客が壁を叩くまで泣いた。それでも涙は止まらなかった。
それから三年。俺は毎年十二月に、あの施設の前を通る。雪がいるのは知っている。でも近づかない。もう二度と、雪の前に現れないと決めた。
ある年の十二月、雪は施設の前に立って、送迎の車を待っていた。寒い中、マフラーに顔を埋めて、白い息を吐いている。その時、雪が無意識にドアの方を向いた。誰かを待つ時の癖だ。小学校の頃、毎朝俺を待っていた時の癖。
でもドアは開かなかった。雪は少しだけ首をかしげて、それから小さく笑った。自分でも何を待っていたのかわからないという顔だった。
俺は向かいのベンチに座って、そのすべてを見ていた。
一度だけ、橘と酒を飲んだ時に雪のことを話した。橘は結婚して、一児の父になっていた。指に銀色のリングが光っている。
「お前はどう思う」
橘はしばらく黙って、グラスを回してから言った。
「僕は、君が悪いとは思わない。でも、正しくもなかったと思う」
「……そうだな」
「雪さんは、君に守られて幸せだった。それは本当だ。でも、君に守られる以外の幸せを知らなかった。だから最後に、君が正しさを選んだ時、雪さんは自分を否定されたと思ったんだろう」
橘の言葉は正しかった。でも、その正しさが今の俺には痛かった。
橘はカバンから一冊のアルバムを取り出した。小学校の卒業アルバムだった。
「これ、実家を片付けてたら出てきて」
ぱらぱらとページをめくる橘の手が止まった。そこには集合写真があった。先生が「好きな子と一緒に写っていいよ」と言った時の写真だ。雪は迷わず俺の隣に立っている。耳が真っ赤で、でも嬉しそうな顔だった。俺は真顔だったけど、雪の手は俺の袖をしっかり掴んでいる。写真の中の俺は、雪に掴まれていることに気づいていない。
「……これ、見るか」
「いや、いい」
「そうか」
橘はアルバムを閉じた。それから一度だけ、窓の外を見た。何か言いたそうだったけど、何も言わなかった。
「紹介料は、もういいから」
橘は最後にそう言って、笑った。俺も笑った。でも、笑いながら目が熱かった。
茜とは一度だけ電話で話した。母さんの葬式の時だ。茜はわざわざ参列してくれて、帰り際に言った。
「雪さん、見つかるといいね。あたしは雪さんのこと、恨んでないから」
「……ありがとう」
「黒瀬くんも、自分を責めないで。でも、忘れもしないで」
茜は強い。お前は本当に強いよ。俺はお前みたいにはなれなかった。
「あのさ」茜が電話の向こうで少しだけ声を詰まらせた。「あたし、結婚したんだ。去年。相手は普通の人。優しい人。雪さんは、あたしに『湊くんは私のものだ』って言ったけど、あたしが本当に欲しかったのは、黒瀬くんじゃなくて、誰かに選ばれることだったんだと思う」
「そうか」
「だからあたしは、もう大丈夫。黒瀬くんも、いつか大丈夫になって」
電話が切れた。茜は最後まで強かった。
それからさらに五年。雪は今も、理由のわからない涙と一緒に生きている。
朝、目が覚めると枕が濡れている。誰かの夢を見た気がするのに、その誰かの名前が出てこない。雨の日はなぜか胸が苦しくなる。誰かがドアを三回ノックするだけで体が震える。パンを半分だけ先に食べて、残りを見つめて首をかしげる。誰かと歩く時は右側に立ち、自分でも理由がわからない。誰かを待つ時は必ずドアの方を向き、誰も来ないのにじっと待ってしまう。
同僚が不思議がって「なんでそんな食べ方するの」と聞いたことがある。雪は首をかしげて「……わかんない。昔からそうだった気がする」と答えた。それが本当かどうか、雪にはもう確かめられない。確かめようとすると、頭の奥が痛くなるから。
雪はその理由を、きっと一生知らないまま生きていく。
そして俺は、その理由を知りながら、雪に二度と会わずに生きていく。
橘は子供に「お父さんの初恋はね」と話す日が来るかもしれない。茜は自分の子供に、優しい嘘をつくだろう。あの文化祭のことは、雪の同級生たちの記憶からも少しずつ薄れていく。雪自身さえ覚えていないのだから、誰も覚えているはずがない。
俺だけが覚えている。俺だけが、すべてを覚えている。それが俺の罰だ。
これが、俺のRTAの本当の結末だ。
俺は雪を守ると決めて、十二年走り続けた。そして最後の最後で、守ることを間違えた。雪が誰かを傷つけることを止めようとして、雪自身を傷つけた。
攻略対象は、攻略者を必要としなかった。
俺がいなければ、雪はもっと普通に笑えた。俺がいなければ、雪は誰かを傷つけずに済んだ。俺がいなければ、雪はもっと早く幸せになれた。
俺のRTAは、最初から間違っていたのだ。
俺は今日も、チャートのない日々を走っている。効率も、最短ルートも、何もない。ただ雪がどこかで生きていることを知りながら、雪のいない世界を走り続ける。雪が理由のわからない涙を流す朝、俺もまた理由のわからない涙を流している。二人は二度と交わらないのに、同じように枕を濡らしている。
雪が誰かのためにドアを三回ノックする時、その誰かは応えない。俺が誰かのドアを三回ノックする時、その誰かはいない。
これが俺の、最後のガバだ。
分岐点:高校2年文化祭、屋上での告白後。雪の茜に対する行動を聞いた湊が「やめろ」「俺はお前のものじゃない」と言ってしまったこと。
湊の総括(35歳)
「俺のRTAは、最初から間違っていた。俺がいなければ、雪はもっと早く幸せになれた。俺は今日も、チャートのない日々を走っている。雪が理由のわからない涙を流す朝、俺もまた理由のわからない涙を流している。二人は二度と交わらないのに、同じように枕を濡らしている。雪が誰かのためにドアを三回ノックする時、その誰かは応えない。俺が誰かのドアを三回ノックする時、その誰かはいない。これが俺の、最後のガバだ。」