うすほそな幼なじみを口説き落とすRTA 作:アホ面オムライス
第1話「同棲生活のRTA」
十四年間、俺は毎朝同じ時間に同じ場所へ向かっていた。
大学の入学式の朝も例外ではなかった。四月の空は晴れていて、風はまだ少し冷たい。俺は雪のアパートの前に立ち、ドアを三回ノックする。一度目と二度目の間隔は自然と一定になり、二度目と三度目の間隔も同じリズムを刻む。この習慣がいつから始まったのか、正確には覚えていない。ただ、雪が一人で過ごす朝に、少しでも早く俺が来たことを伝えたかった。
父親を亡くしたのは五歳の冬だった。もっと早く異変に気づけていたら、何かが変わったのかもしれない。でも、俺には何もできなかった。ただ立ち尽くすだけだった自分が、唯一やると決めたことがある。幼稚園の砂場で膝を抱えていた、今にも折れそうなあの子の小さな変化も見逃さないことだ。表情、体温、声の調子、食事の量——すべてを蓄積し、先回りする。それが俺のやり方だった。
ドアが開いて、雪が顔を出す。新しいスーツ姿だった。高校の制服より大人びて見えるが、細い体つきは変わらない。母親に「お前さえいなければ」と言われて捨てられたあの日から、雪の体はあまり変わっていない。栄養失調で倒れた冬も、今も、雪は細いままだ。でも、目はあの頃よりずっと生きている。
「……おはよう、湊くん」
「おはよう」
「……入学式、一緒に行こうと思って待ってた」
「当たり前だろ」
雪が部屋を振り返った。十四年間住んだアパートも、今日で最後だ。家具はほとんど運び出されていて、がらんとしている。壁の染みも、傾いた棚も、冬場に隙間風の入った窓も、今日で見納めになる。
「……十四年、ここに住んでたんだね」
「そうだな」
「……湊くんが毎朝迎えに来てくれた。雨の日も、雪の日も」
「今日からは一緒に出るだけだ。迎えに行く必要がなくなる」
雪が少しだけ笑った。
「……それも悪くない」
大学までは徒歩で十五分。新しいアパートは大学のすぐ近くで、通学時間が往復で十四分短縮される。雪の体調が悪い時もすぐに戻れる。年間で計算すれば、かなりの時間を雪のそばで確保できることになる。
入学式を終えて、不動産屋で鍵を受け取り、二人で新しい部屋のドアを開けた。1LDK。リビングにキッチン、寝室が一部屋。段ボールが積まれていて、まだ生活の匂いはしない。壁は白く、床はフローリングで、窓からは午後の光が差し込んでいた。
雪が部屋の真ん中に立って、ゆっくりと周りを見回した。
「……ここが、私たちの家」
「そうだ」
「……湊くんと一緒の家。自分のアパートより、ずっと広い」
雪の声が少し震えていた。十四年間、風呂もないボロアパートで一人暮らしをしてきた雪にとって、この1LDKは広すぎるのかもしれない。でも、これからは一人じゃない。
雪が俺の袖を掴んだ。ぎゅう、と。この感触は幼稚園の頃から変わらない。
「……大学生でも、離れないでよ」
「離れない。十四年前から決めている」
雪の指に、ほんの少し力が込められた。
夜になった。夕食は近所のコンビニで買った弁当で済ませた。雪が「……明日からちゃんと作る」と言ったので、俺は「期待している」とだけ返した。雪は反復によって確実に上達する。長年見てきて、それだけは間違いない。
風呂を済ませて、寝室に向かう。布団は二組。同じ部屋で寝るのは高校の文化祭の夜以来だが、あの時とは違う。あれは特別な夜で、これは日常の始まりだ。日常として同じ部屋で寝るのは初めてだった。
先に雪が布団に入った。俺はリビングでしばらく時間を潰してから寝室に行く。雪はまだ起きていて、天井を見つめていた。布団の白いシーツが、月明かりでぼんやりと浮かび上がっている。
「……湊くん、まだ起きてたの」
「雪もな」
「……緊張してる。幼稚園の遠足みたい」
雪が正直に言うのは珍しい。俺は自分の布団に入りながら「俺もだ」と答えようとして、やめた。代わりに電気を消した。暗闇の中で、雪の手が俺の布団の端を探っているのが気配でわかった。指先がシーツを這う微かな音。袖を見つけて、ぎゅっと掴む。布越しに伝わる雪の体温は、昔より少しだけ温かい。
「……おやすみ、湊くん」
「おやすみ」
これが十四年間で初めての、同じ部屋での日常の「おやすみ」だった。
俺は寝たふりをした。十分ほど経った頃、雪がそっと起き上がる気配がした。布団が擦れる音。雪の手が俺の額に触れる。冷たい指先が体温を確かめるように数秒間触れていて、それから離れた。
「……三十六度二。いつも通り」
雪が小さく呟いた。その声は、自分自身に言い聞かせるような、確認するような響きだった。次に、ページをめくる音。ペンが紙の上を走る音。一分ほどで音が止み、雪が再び布団に潜り込んだ。袖を掴む手が再び伸びてきて、ぎゅっと掴む。それから程なくして、雪の寝息が聞こえ始めた。規則正しい、静かな呼吸。
俺は暗闇の中で目を開けた。窓の外からかすかな街灯の光が差し込んでいて、天井にぼんやりとした影を作っている。雪は毎晩、俺の体温を測っているらしい。そしてそれをどこかに書き留めている。十四年間も。
これは普通ではない。しかし、理由はわかっていた。雪は俺を失うことを、誰よりも恐れている。体温は生きている証拠だ。雪はそれを確かめることで、俺がまだここにいることを確認している。
胸の奥が少しだけ冷たくなるのを感じたが、それは恐怖とは違う何かだった。俺は雪の指先の冷たさを思い出しながら、体温計を買いに行くことを頭の中のリストに追加した。
翌朝、雪が先に起きてキッチンに立っていた。エプロン姿で卵を割ろうとしている。朝の光が窓から差し込んで、雪の髪が透けて見える。スクランブルエッグは少し焦げていたが、俺は全部食べた。食後、雪がコーヒーを入れようとした時、俺は無意識に砂糖の袋を手に取っていた。雪はスプーン半分だけ入れる。これは長年の蓄積から得た知識だ。
「……湊くん、私が砂糖入れる前に準備してる」
「その方が効率的だ」
「……私の好み、全部把握してるんだね」
「当然だ」
雪が少しだけ笑った。こういう時の雪の表情を、俺は長年の蓄積と照合する。今のは「照れと喜びが混ざった笑顔」だ。出現条件は「俺が雪の行動を肯定した時」。確率は高い。
朝食の後、ポストに手紙が届いていた。差出人は橘だった。
「拝啓、黒瀬くん。同棲開始おめでとう。昔、紹介料をケチったことをまだ根に持っているのかって? もちろん一生払わない。大学生活、楽しんで。雪さんをよろしくね。——橘」
「紹介料はまだ払わないらしい」
俺がそう言うと、雪は「……橘くん、相変わらずだね」と笑った。橘とは小学校からの付き合いだ。かつて雪に初恋をしていたが、雪が俺だけを見ていることを察して身を引いた。今ではよき友人だった。今は別の大学に進学している。
その直後、雪のスマホが震えた。茜からのLINEだ。雪が画面を見つめる。俺からは内容が見えないが、雪の表情がわずかに硬くなった。
「……茜さんから。同棲おめでとう、今度そっちに遊びに行ってもいい? だって」
「そうか」
「……湊くんを取ったりしないから安心して、だって」
雪の声が少しだけ低くなる。中学時代、茜は俺に好意を持っていた。雪はそれを察知して、茜に対してある行動を取った。今の雪はもう相手を直接排除したりはしない。でも、茜の名前を聞いた時の反応は昔と変わらない。茜は今、別の大学に通っているはずだ。新しい環境で、新しい友人もできているだろう。それでも、こうして連絡をくれるのは、茜の気遣いの深さだと思う。
雪が無意識に俺の手首に指を当てた。脈を測っているのだ。人差し指と中指が、正確に俺の脈拍を探り当てる。手慣れた仕草だった。数秒間そうしていて、はっとしたように手を離す。その直後、俺の袖を掴む力が一瞬だけ強くなった。骨に響くほどの強さだ。雪はすぐに我に返って、力を緩めた。
「……ごめん。……茜さんも、今は別の大学で頑張ってるんだ」
雪の声には、自分自身に言い聞かせるような響きがあった。袖を掴む力は、まだ強いままだった。
週末、俺は「同棲生活のチャート」を発表した。ホワイトボードに書き出された項目は多岐にわたる。家賃の折半方法、光熱費の予測、自炊ローテーション、掃除当番表、雪の体調管理チェックリスト、デート予算の最適配分。そして「週に一度は必ず一緒に夕食をとる」。
雪がホワイトボードをじっと見て、ある項目を指さした。指先が微かに震えているのは、笑いをこらえているからだろう。
「……湊くん、この『雪が笑う条件リスト』って何」
「お前が笑う時の条件を十四年間積み上げてきた結果だ。気温が二十二度以上、日照時間が八時間以上、前日の睡眠時間が七時間以上、朝食に甘いものがある——これらの条件が重なると笑う確率が上がる」
「……私の笑顔、そんなに見てたの」
「当然だ。お前のことは十四年間ずっと見てきた」
雪は呆れたような、でも嬉しそうな顔をした。さらに別の項目を指さす。
「……『雪が拗ねた時の最適な対応手順』って」
「まず袖を掴ませる。次に『悪かった』と言う。最後に温かい飲み物を出す。成功率は高い」
「……私、そんな単純じゃない」
「十四年間の蓄積だ」
雪が膨れた顔をする。これもデータ通りの反応だ。雪はしばらくチャートを見ていたが、やがてぽつりと言った。
「……湊くんのチャート、私で埋まってる」
「当然だ。お前は俺の最優先事項だ」
「……湊くんも、私と似てるね」
その言葉に、俺は少し引っかかった。雪の「記録」は俺の体温や寝言まで含まれている。それと俺の「観察」は似ているようで何かが違う。しかし、その違和感をまだ言葉にできなかった。
六月に入って、雪が「……湊くん、今日は一緒に作らない?」と提案した。メニューはハンバーグ。母のレシピだ。
一緒にキッチンに立つと、息が合わないのがよくわかった。俺は効率的に動こうとし、雪はマイペースに構える。玉ねぎのみじん切り一つをとっても、大きさの好みが違う。調味料の計量でも意見が割れた。一人で作った方が速いと思ったが、雪が玉ねぎで目に涙を浮かべているのを見て、俺は包丁を奪った。
「俺が切る」
「……湊くんは泣かないの」
「切り方を知っているからだ」
「……教えて」
俺は雪の手を取って、包丁の動かし方を教えた。後ろから手を添える形になった。雪の手は相変わらず細くて、でも昔みたいに冷たくはなかった。玉ねぎの匂いがキッチンに広がっている。雪の耳が真っ赤になるのが、間近で見えた。
「……湊くんの手、あったかい」
「雪の手も、昔より温かい」
雪が目を丸くする。十四年前、氷のように冷たかった雪の手は、今は少しだけ温かい。
完成したハンバーグは少し歪だったが、雪は「……美味しい」と笑った。俺は効率の悪さを指摘しようとして、やめた。こういう非効率も、雪が笑うなら取り入れる価値がある。
その夜だった。
俺は布団の中で、雪がノートを取り出すのを待っていた。ここ一ヶ月、雪は毎晩俺が寝た後に何かを書き留めている。今夜は寝たふりをやめることにした。
雪がいつものように俺の額に手を当てる。冷たい指先。体温を測り、枕元のノートを取ろうとした時、俺は目を開けた。部屋は暗く、窓からの街灯の光だけが雪の輪郭を浮かび上がらせている。
「雪、それを見せてほしい」
雪の手が止まった。指がノートの端で固まっている。
「……湊くん、起きてたの」
「最初からだ。お前が毎晩何を書いているのか、ずっと気になっていた」
雪はしばらく逡巡していた。ノートを胸に抱えて俯いている。月明かりで雪の表情はよく見えないが、肩が微かに震えているのがわかった。俺は待った。急かさなかった。どのくらい時間が経ったか、雪が観念してノートを差し出した。その手は、震えていなかった。
ページを開く。紙の擦れる音が静かな部屋に響く。そこには俺の体温、睡眠時間、寝言の回数、寝返りの回数、朝食の量、機嫌の変化、大学から帰宅した時の表情——十四年分の俺の行動が、びっしりと記録されていた。几帳面な文字で、日付と時刻が正確に書き込まれている。インクの匂いが微かに鼻をかすめた。最後のページには「湊くん観察日記・大学編」と書かれていた。
さらにページをめくると、ある項目で手が止まった。「湊くんが他の女子と話した日」——そこには日付、相手の名前、会話の内容の推測、湊の表情の変化、そしてその日の雪の機嫌が記録されていた。
その下に、さらに細かい分析があった。
「湊くんが他の女子と話した日は、私の機嫌が悪くなる。機嫌が悪いと湊くんが私を気にする。だからその日は湊くんが私に優しくなる。この流れは中学校の茜さんの時から変わっていない。湊くんの気を引くために、わざと機嫌が悪いふりをしたこともある」
背筋が冷たくなった。手に持ったノートの重さが、急に増したように感じる。次に湧いてきたのは、怒りだった。
「雪、お前は俺の行動をコントロールしていたのか。俺がお前の機嫌を気にして優しくするように、全部仕組んでいたのか」
俺の声が少しだけ強くなった。自分でも驚くくらいの怒りだった。雪にここまで把握され、誘導されていた——それは裏切りに近い感覚だった。
雪は首を横に振った。でも悪びれる様子はなかった。月明かりに照らされた雪の目は、まっすぐに俺を見つめている。
「……コントロールじゃない。湊くんが私を選んでくれる確率を上げてるだけ。だって湊くんは私のものだもん。湊くんが私を選び続けるように、ちょっとだけ手伝ってる。それのどこが悪いの」
本気でそう言っているのだと、雪の目を見てわかった。悪意はまったくない。湊を失いたくない一心で、湊が自分を選び続けるための最適解を追求しただけ。
「……湊くんが私じゃない誰かを選ぶ未来の方が、私は怖い。だから、それを防ぐためにずっと書いてた。中学校の時も、高校の時も。ただそれだけ」
雪の声は静かで、だからこそ余計に、その言葉の重みが伝わってきた。雪は自分の異常性を理解していない。理解せずに、十四年間これを続けてきた。湊を失う未来への恐怖が、雪の中で「記録し誘導する」という行動を完全に正当化している。
二度目の恐怖が来た。しかしそれと同時に、胸の奥で何かが疼いていた。これが正しいのか、俺にはまだわからない。ただ、雪を拒絶できない自分がいることだけは確かだった。
俺は父親を亡くしてから、ずっと「何もできなかった自分」を責めてきた。病院に連れて行くことも、母さんを支えることも、五歳の俺には何もできなかった。雪を守ることで、その罪悪感から逃れてきた。雪がここまで俺を必要としてくれること——俺の体温を測り、俺の寝言を記録し、俺が自分を選ぶ確率まで計算してくれること——それはつまり、雪が俺を誰よりも必要としている証拠だ。俺の存在を、これほどまでに求めてくれる人間がいる。雪だけが、そんな俺を必要としてくれた。
父親を亡くしたあの日、誰にも必要とされていないと思った。でも雪は違った。雪は砂場で膝を抱えて、俺が来るのを待っていた。俺が声をかけるのを、ずっと待っていた。
俺はノートを閉じた。
「……俺は、雪にそこまでされて、嫌じゃないのか」
雪が息を呑んだ。
「正直、まだ怖い。雪にここまで把握されていると思うと、今も息が詰まる。でも——俺は雪を切り捨てられない。お前にここまで必要とされていることを、否定できない。俺は父親を亡くしてから、ずっと誰かの役に立ちたかった。雪を守ることで、自分の存在価値を確認してきた。雪だけが、そんな俺を必要としてくれた。だから——雪にここまで必要とされることが、俺にとって必要なんだ」
雪の目が大きく見開かれた。月明かりで、その瞳が揺れているのがわかる。
「……湊くん、私のこと、気持ち悪くないの」
「気持ち悪い。怖い。でも——それでも雪を選ぶ。俺はお前の異常さごと、お前が必要だ」
雪の目から涙がこぼれた。頬を伝って、シーツに染みを作る。俺は雪の手を握った。指先はまだ少し冷たいけど、昔みたいに震えてはいなかった。
「俺は雪のそのやり方を否定しない。でも、一つだけ約束しろ。俺の知らないところで書くのは、もうやめろ。俺が知っているところでやれ。俺もお前の記録に付き合う。雪が俺を見るなら、俺も雪を見る。それで対等だ」
雪は泣きながら、何度もうなずいた。
「……湊くん、ありがとう」
「礼を言われることじゃない」
「……ううん。湊くんに選ばれたこと、一度も忘れたことない。幼稚園の砂場で声をかけてくれた時も、小学校でお母さんがいなくなった時も、中学校で茜さんがいた時も。全部、湊くんは私を選んでくれた。だから——今も、私を選んでくれてありがとう」
俺は雪の手を握り返した。この手を、幼稚園の砂場で握ってから十四年。冷たかった手は、今は少しだけ温かい。
観察日記のことを知ってから数日後、俺は雪の記録と自分のチャートを組み合わせた新しい生活リズムを作ろうとしていた。雪の機嫌が悪くなるパターンを先回りして対処するためだ。
雪がそれを見て言った。
「……湊くん、私の記録をそうやって使われるのは、ちょっと違う」
「違うとは」
「湊くんは私の記録を使って、私が機嫌を損ねる前に全部先回りしようとしてる。でも、私が書いてきたのは、湊くんが自然に私を選んでくれる瞬間を知りたいから。湊くんが自分から私を見てくれるのを待っていたい」
俺は雪の言葉を反芻した。雪は俺に「選ばれたい」と言っている。俺が先回りすることで、雪は「選ばれる機会」を奪われていた。
「俺は先回りすることで雪を守れる。雪が嫌な思いをする前に手を打つのは、俺の十四年間のやり方だ」
「……でも、それじゃ私は湊くんに選ばれてない。全部決められてるだけ。私は、湊くんに選ばれたい」
雪の声が震えた。俺は言葉に詰まった。
雪が続けた。
「……でも、私も間違ってた。湊くんが先回りするのは、湊くんが私を守ろうとしてくれているからだよね。私、湊くんのその気持ちを否定してた。湊くんに選ばれたいって言いながら、湊くんのやり方を全部否定してた」
俺は雪の手を握った。窓の外から、遠くの車の音がかすかに聞こえる。部屋の中は静かで、冷蔵庫の低いうなりだけが響いている。
「俺も間違っていた。雪が俺を選んでくれていることを信じずに、全部先回りしようとしていた。雪が俺を選ぶのを、俺が待っていなかった」
「……じゃあ」
「俺は待つ。雪が俺に選ばれたいと思うなら、俺は待つ。雪が機嫌を損ねてからでも、必ず気づく。雪が俺に気づいてほしいと思った時、俺は必ず雪を見る。効率は悪い。でも——雪と共に走るなら、それが俺の選んだ道だ」
雪の目に涙が浮かんだ。でも今度は泣かなかった。
「……私も、湊くんがどうしても先回りしたい時は、先回りしていいよ。でも、大事なことは私にも教えて。私、湊くんの全部を知りたいから。湊くんが私をどうやって守ろうとしているのかも、知りたい」
俺はうなずいた。この非効率を受け入れる。歪んでいても、これが俺の選んだ道だ。
翌朝、空はどんよりと曇っていた。降水確率は六十パーセント。俺が折りたたみ傘を二本、鞄に入れようとした時、雪が言った。
「……湊くん、私、今日は自分で天気予報見た。降水確率六十パーセント。だから自分で傘持ってきた」
雪は自分の鞄から折りたたみ傘を取り出して見せた。
「……湊くんの真似。たまには私も、湊くんを先回りしたい」
俺は少し驚いて、それから自分の鞄から傘を一本減らした。
「効率的だ」
「……でしょ」
雪が少しだけ得意げな顔をした。こういう表情は、これまでにない新しいものだった。
七月の終わり。同棲を始めて三ヶ月が経った。
大学の前期試験が終わり、夏休みが近づいている。キャンパスを歩きながら、湿った夏の風が二人の間を吹き抜けた。雪が言った。
「……湊くん、夏休み、どうする?」
「未定だ。海、花火大会、夏祭り——浴衣を着る機会は最優先だ。まだ情報が足りないからな」
「……情報」
雪が呆れたように笑った。耳が少し赤い。
「……浴衣、見たい?」
「見たい。雪がどんな浴衣を着て、どんな顔をするのか。まだ知らないことが多すぎる」
「……効率厨め」
雪が俺の袖を掴んだ。ぎゅう、と。この感触は十四年間変わらない。夏の制服越しに、雪の指の温もりが伝わってくる。
その夜、俺が寝息を立て始めた後、雪は机の引き出しから古いノートを取り出した。最初のページには幼稚園の頃のたどたどしい文字で「湊くん観察日記」と書いてある。雪は最後のページを開いて、今日の湊の体温、機嫌、印象的な言葉を書き込んだ。ペン先が紙を擦る音だけが、静かな部屋に響いている。
「湊くんは私の記録を受け入れてくれた。私の全部を受け入れてくれた。だから私も、湊くんの全部を受け入れる。湊くんが先回りしたくなったら、私もそれを受け入れる。湊くんが私を守ろうとしてくれていることを、もう否定しない。その代わり、湊くんは私が湊くんに選ばれるのを待ってくれる。私も湊くんも、変わった。私たちは、歪んだまま一緒にいる」
雪はペンを置き、最後にもう一行だけ書き足した。インクがかすれないように、ゆっくりと、一文字ずつ。
「夏休み、橘くんが遊びに来る。橘くんはもう湊くんを狙ったりしないと思う。でも——もしまた誰かが湊くんを奪おうとしたら、その時は、この記録が役に立つ。中学校の時みたいに」
雪はノートを閉じて、そっと引き出しに戻した。金属の取っ手が微かに音を立てる。
隣で眠る湊の額に手を当て、体温を確認する。人差し指と中指で、正確に。
「……三十六度三。ちょっと高い。夏が近いからかな」
雪はその数字もノートに書き留めてから、湊の袖を掴んだ。ぎゅう、と。
窓の外では、夏の気配が近づいている。夜風がカーテンを揺らし、遠くで虫の声が聞こえ始めていた。
こうして大学最初の三ヶ月が過ぎた。同棲生活にも慣れ、雪の料理の腕も少しずつ上がり、俺のチャートはver.2.0に更新された。順調と言えば順調だ。
ただ、一つだけ予想外だったことがある。
雪の観察日記だ。
十四年間、俺は雪のあらゆる変化を見逃さないようにしてきた。表情、体温、声の調子、食事の量——すべてを蓄積し、先回りする。それが俺のやり方だった。でも雪は、俺と同じことを俺に対して行っていた。いや、もっと徹底的に。俺の体温を測り、寝言を記録し、機嫌のパターンを分析し、俺が雪を選ぶ確率まで計算していた。
正直、まだ少し怖い。自分の知らないところでここまで記録されていたという事実は、今も胸の奥が冷たくなる。でも——俺は雪を切り捨てられなかった。雪だけが、父親を亡くして「何もできなかった」と思っていた俺を必要としてくれた。雪の異常さは、俺の欠落を埋めるものでもあった。
だから俺は、雪の記録を受け入れた。代わりに、これからは俺の知っているところで記録してもらう。俺も雪の記録に付き合う。雪が俺を見るなら、俺も雪を見る。それで対等だ。
歪んでいるのはわかっている。でも、これが俺たちの選んだ道だ。
夏休みが近い。橘が遊びに来るらしい。浴衣も見たい。楽しみなような、少し怖いような——複雑な気分だ。
なにせ雪の観察日記の最後のページには、こう書かれていたのだ。
「もしまた誰かが湊くんを奪おうとしたら、その時は、この記録が役に立つ。中学校の時みたいに。」
俺はこの夏、無事に生き延びられるだろうか。