うすほそな幼なじみを口説き落とすRTA   作:アホ面オムライス

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赤バーmaxが見たいよう……


第2話「夏休みのRTA」

 七月の終わり、大学の前期試験が終了した夜。俺はリビングのテーブルにノートを広げて、夏休みのチャートを作成していた。海、花火大会、夏祭り。書き出した項目を時系列に並べ、それぞれの移動時間と予算を算出する。そして一番上に大きく書いたのが「浴衣イベント」だ。雪の浴衣姿はまだ見たことがない。どんな浴衣を着て、どんな顔をするのか、今の俺にはまだ見当がつかないことだらけだった。

 

「……本当に全部計画するんだね」

 

 隣で覗き込んでいた雪が呆れたように言った。でもその声には微かな笑いが混ざっている。

 

「合理的に回るためだ。特に花火大会は人混みが予想される。最適なルートを事前に確保しておく必要がある」

 

「……デートなのに、なんだか作戦みたい」

 

「作戦だ。楽しい夏にするためのな」

 

 雪が少しだけ笑った。こういう時の雪の表情は、長年の傾向から言って「照れと喜びが混ざった笑顔」だ。出現条件は「俺が雪のための行動を明言した時」。確率は高い。

 

 その時、スマホが鳴った。橘からだ。

 

「来週、そっちに遊びに行く。紹介料の話の続きをしよう」

 

 相変わらずの口調だった。橘は今、別の大学で建築を学んでいる。俺が「紹介料はもういい」と返すと、橘は笑った。

 

「一生払わないけどね」

 

 電話を切った後、雪が「……橘くん、来るんだ」と呟いた。声は平静だったが、俺の袖を掴む力が少し強くなる。いつものことだ。橘の名前を聞くと、雪の指にほんの少し力が込められる。無意識の反応だろう。

 

 翌日、もう一つ予定外の連絡が入った。同じゼミの女子学生、田村恵からメッセージが届いたのだ。

 

「黒瀬くん、夏休み中もゼミの課題のことで相談してもいい?」

 

 返信を打とうとした俺の手元を、雪が後ろから覗き込む。キッチンからコーヒーを運んできたところだった。

 

「……湊くん、この人、誰」

 

「ゼミの同級生だ」

 

 雪はそれ以上何も言わなかった。しかしその場で観察日記を取り出し、新しいページを開いて「田村恵」と書き込んだ。ペン先が微かに震えている。雪の中で「新規案件」として認識された瞬間だった。

 

 ◆◆◆

 

 八月最初の土曜日。橘がアパートを訪ねてきた。

 

 相変わらず落ち着いた物腰で、少し日焼けしている。大学の話、新しい友人のこと。橘は楽しそうに近況を語った。

 

「最近、ちょっといいなと思う人ができたんだ。まだ何も進展してないけど」

 

 俺が「紹介料を請求する相手が増えるのか」と聞くと、橘は一瞬ぽかんとして、それから吹き出した。

 

「その発想は相変わらずだな。安心した」

 

 雪は橘の話を聞きながら、以前より自然に接している。笑顔もある。でも俺は見ていた。橘が新しい恋愛対象について話すたびに、雪の指が膝の上のスマホに素早く動くのを。画面には観察日記のアプリが開かれていて、橘の話した内容が箇条書きで入力されている。

 

 橘が帰り際、雪と一瞬だけ視線を交わした。雪は静かに微笑む。橘はその微笑みを数秒見つめ、それから小さくうなずいた。口元に浮かんだのは、状況を理解し、それを受け入れた者の穏やかな笑みだった。

 

「雪さん、相変わらずだね。君を見る目が、昔と変わってない」

 

 橘は俺にだけ聞こえる声でそう言うと、少し間を置いてから続けた。

 

「……まあ、君もだけど」

 

 去り際に雪が橘に声をかけた。

 

「……橘くん、また遊びに来て。紹介料の話はまだ終わってないから」

 

 橘は笑って手を振った。

 

「君たちに会うといつも元気が出るよ。また来る。紹介料は一生払わないけどね」

 

 その夜、雪の観察日記に新しい記録が追加されていた。俺は相互監修の権限でそれを読む。

 

「橘くん来訪。新しい恋愛対象あり。湊くんへの未練は消滅と判断。脅威度:低。ただし湊くんとの友人関係は継続——今後の情報源として有用。定期的な接触を推奨」

 

 雪の中で橘は「脅威」から「情報源」へと分類が変わったらしい。これも彼女なりの予防策なのだろう。

 

 ◆◆◆

 

 花火大会の前日。雪が浴衣を選びに商店街へ行きたいと言い出した。母から譲り受けた浴衣はあるが、サイズが合わないらしい。俺も同行した。

 

 呉服店で雪が何着か浴衣を手に取る。店員に勧められて試着室に向かう背中を見ながら、俺は雪がどの浴衣を選ぶかの予測を立てていた。好みの色は白か淡い青。柄は控えめ。露出は少なめ——十四年間の蓄積がそう告げている。

 

 試着室のカーテンが開いて、雪が出てきた。淡い水色の浴衣に、白い帯。予測通りの選択だった。

 

「……どう?」

 

「それでいい」

 

「……もっとちゃんと見てよ。数字だけじゃなくて」

 

 雪が少し膨れた。俺は「十四年間の蓄積と、今お前が着ているのを見た印象の両方だ」と返した。雪は「……それならいい」と嬉しそうに笑う。

 

 その時、ふと頭をよぎったのが田村恵だった。花火大会にゼミのグループが来ると言っていた——。

 

「……湊くん」

 

 雪の声で我に返る。雪が俺の袖を引いていた。

 

「……今、誰か思い浮かべた?」

 

「ゼミの課題のことを思い出した」

 

「……嘘。湊くん、嘘つくとき目がちょっと右に行く」

 

 雪の目が細くなる。俺は十四年間、雪を見てきた。しかし雪もまた、同じだけ俺を見ている。嘘を見抜かれたのは想定外だった。雪はそれ以上追及せず、「……今日は浴衣の日だから、他のことは考えないで」と言って服の裾をつまんだ。力が少し強い。

 

 帰宅後、俺が雪の観察日記を読んでいる間、雪は隣で浴衣を丁寧に畳みながら「……湊くん、明日楽しみ?」と聞いてきた。

 

「情報収集の機会だ」

 

「……情報」

 

 雪が呆れたように笑う。その指先は、浴衣の帯を何度も撫でていた。観察日記の田村恵のページは拡張され、花火大会での「湊くんの右側を確保すること」が赤字で強調されている。雪は明日に備えて、すでに入念な準備を整えているらしい。

 

 ◆◆◆

 

 花火大会当日。雪は水色の浴衣を着て、俺と並んで河川敷を歩いた。人混みの中、雪は俺の右側に立ち、袖を掴んでいる。

 

「……今日は私が右側。湊くんを守る」

 

 花火大会の会場で、ゼミのグループと合流した。その中に田村恵がいた。俺に気づくと嬉しそうに手を振る。明るい茶髪のショートカット。活発そうな印象だ。

 

「黒瀬くん! 来てくれたんだ!」

 

 田村恵は俺にも気軽に話しかけてくる。

 

「黒瀬くんて、ゼミではすごく冷静で分析が的確で。私、そういうところに憧れるんだよね。私も黒瀬くんみたいに冷静に物事を考えられるようになりたい」

 

「憧れる対象としては不適切だ」

 

「そういうストレートなところも面白い!」

 

 田村はけらけらと笑った。悪い人間ではない。むしろ、好感の持てるタイプだ。雪は俺の隣で黙ってそれを聞いている。笑顔だが、俺の袖を掴む力がどんどん強くなる。

 

 花火が始まった。大きな音が響く中、田村が俺に近づいて何かを話そうとした瞬間——雪が自然な動作で俺と田村の間に体を滑り込ませた。

 

「……湊くん、のど渇いた。りんご飴買って」

 

 それは誰が見ても不自然ではない、さりげない動きだった。しかし田村は一瞬だけ戸惑いの表情を見せ、少し距離を取った。花火の光が雪の横顔を照らす。その表情は笑顔だったが、田村はその目を見て、なぜか背筋が冷たくなるのを感じた。言葉にできない違和感——しかしそれが何かはわからないまま、彼女は一歩後ずさった。

 

 花火の後、田村が言った。

 

「黒瀬くん、今度ゼミの課題のことで個別に相談してもいい?」

 

 俺が「構わない」と答えようとした瞬間、雪が俺の手首に触れて強く引いた。

 

「……湊くん、帰ろ。人混みが増える前に」

 

 結局、田村に返事はできなかった。

 

 帰り際、田村が友人に「白崎さんて、いつもあんなに黒瀬くんの近くにいるのかな」と何気なく尋ねているのが耳に入った。友人は「幼なじみだって。ずっと一緒にいるよね」と答え、田村は「……そっか」とだけ呟いた。彼女の声には、まだ整理しきれていない戸惑いが滲んでいた。

 

 帰宅後、雪の観察日記に詳細な記録が追加されていた。

 

「田村恵、花火大会にて湊くんへの接触を試みる。湊くんへの憧れは明白。ただし湊くんの本質ではなく表面的な部分(冷静さ・分析力)に惹かれている——本気度は中程度と推測。予防策:湊くんとの物理的距離を最小化。自然な形で会話の機会を制限。湊くんのスケジュールを把握し、個別相談の機会を最小化する。効果は確認できた。ただし油断は禁物」

 

 俺はノートを閉じた。雪の「予防策」が初めて具体的な形で実行された。排除ではなく、機会そのものを消去する。より静かで、より洗練された形だった。

 

 ◆◆◆

 

 八月の終わり、夏祭り。雪は浴衣を着て、俺と並んで神社の境内を歩いた。今度は白地に青の花柄だ。屋台でたこ焼きを買い、金魚すくいに挑戦する。雪は意外にも何匹か掬ってみせた。

 

「……湊くんに見せたかった」

 

「これは想定外だ。未知の領域だ」

 

「……まだまだ湊くんの知らない私がいる」

 

 雪が少し得意げに笑った。こういう表情は、これまでの記録にない新しいものだった。

 

 その時、不意に声がかかった。

 

「黒瀬くん? 白崎さん?」

 

 振り返ると、茜が立っていた。浴衣姿で、大学の友人たちと来ているらしい。中学の時よりずっと明るい表情だった。

 

「久しぶり! 二人とも元気だった?」

 

 茜は大学の話、サークルの話を楽しそうに語った。一人暮らしは大変だけど自由でいい、料理も少しできるようになった、と笑う。俺が「友達を待たせてるんじゃないか」と声をかけると、茜は「あ、そうだ。じゃあまたね」と言って友人たちの元に戻ろうとした。

 

 その去り際、茜は雪のすぐ横を通り、雪にだけ聞こえる声で言った。

 

「白崎さん、黒瀬くんのこと、今も大事にしてるんだね。あの時と同じ目をしてる——安心した。白崎さんがいるなら、誰も入れないね」

 

 雪は一瞬息を呑んだ。中学校の文化祭の夜——茜に放った「湊くんは私のものだ」という自分の言葉が、一瞬頭をよぎったのかもしれない。雪の表情が、ほんの一瞬だけ曇った。俺の服の裾をつまむ指に、ぎゅう、と力が込められる。中学の時と同じ強さだ。

 

 しかし雪はすぐに静かな笑顔に戻り、茜にだけ聞こえる声で答えた。

 

「……うん。誰も入れない。でも——あの時とは違う。今は、湊くんが私を選んでくれてるから」

 

 茜は少し驚いた顔をして、それから嬉しそうに笑った。

 

「……そっか。よかった。白崎さんが幸せそうで、あたしも嬉しい」

 

 茜が友人たちの元に戻っていく。雪はその背中を見送りながら、観察日記を鞄から取り出すと、「茜さん」のページを開いた。そこには中学時代の記録——脅迫した日のこと、その後の茜の変化、そして今回の再会での言葉——を静かに追記していた。最後にこう締めくくられている。

 

「茜さんは私を許してくれた。私はもう、茜さんを脅威とは思わない。監視対象から正式に除外。——でも、あの時の自分の気持ちは忘れない。湊くんを守るためなら、私は何でもする。それは今も変わらない」

 

 雪が顔を上げた。

 

「どうした」

 

「……なんでもない。夏祭り、楽しいね」

 

 雪の笑顔は、さっきまで過去を振り返っていた目とは違う、今の俺だけを見つめる目だった。それから雪は観察日記の別のページを開いた。田村恵のページだ。そこに新しい文字が刻まれる。「ゼミの後期も同じクラスになる可能性が高い。長期戦を想定」。雪の関心は、完全に現在の「脅威」に向けられていた。

 

 ◆◆◆

 

 夏休みが終わりに近づく頃、俺はいくつかの変化に気づいた。田村恵からのメッセージが減ったのだ。ゼミのグループ学習で顔を合わせても、彼女は俺に話しかける回数が減り、以前より距離を取るようになっていた。

 

 ある日、講義の後、田村が友人にこぼしているのを偶然耳にした。

 

「なんか私、黒瀬くんに嫌われてるのかな……話しかけようとすると、タイミング悪くて。私、何かしたのかな」

 

「気のせいだって」と友人が慰める。田村の声には戸惑いが滲んでいた。彼女は何も悪くない。ただ、雪の「予防策」が完璧に機能しているだけだ。

 

 帰宅後、雪が観察日記を俺の前に置いた。

 

「……湊くん、これ見て」

 

 田村恵のページが開かれている。雪が自ら見せてきたのだ。そこには詳細な記録が続いていた。

 

「湊くんのスケジュールを事前に把握し、田村恵と二人きりになる時間をゼロに調整」「ゼミのグループを再編成し、田村恵と湊くんが別の班になるよう自然な形で提案」「田村恵の湊くんへの好意が周囲に知られないよう配慮しつつ、彼女が湊くんに接近しにくい環境を構築」

 

 雪が大学のゼミで何気なく発言したことや、グループ分けの提案が、すべて計算された「予防策」だった。俺はノートから顔を上げて、隣でコーヒーを飲んでいる雪を見た。

 

「雪、お前のこの予防策は、田村を傷つけてはいないか」

 

 雪はしばらく考えてから答えた。

 

「……傷つけるつもりはない。ただ、湊くんに近づきにくくしてるだけ。田村さんが湊くんを諦めてくれれば、それで終わり。誰も傷つかない」

 

「彼女は俺に好意を持っていた。それを奪うことは、傷つけることにならないか」

 

「……奪ってない。もともと湊くんは私のもの。田村さんが勘違いしてただけ。それを正してるだけ」

 

 本気でそう言っている。悪意はない。雪にとっては「誤解を解いている」のと同じ感覚なのだ。だからこそ、胸の奥が重くなる。そして——だからこそ、雪は俺にこのノートを見せられるのだ。悪いことをしているという自覚が、欠片もないから。

 

「雪、お前のその予防策を、俺は止めない。代わりに——」

 

 俺は言葉を切った。本当にこれでいいのか。雪の異常性を肯定することになる。田村は何も悪くない。彼女はただ、俺に憧れていただけだ。それなのに——俺は雪を選ぶのか。

 

 田村の「私、何かしたのかな」という戸惑いの声が耳に蘇る。俺はその問いに答えなかった。答えられなかった。今も、答えは出ていない。でも——。

 

 それでも、俺は雪を選ぶ。

 

「雪、お前の予防策を俺は止めない。俺をお前から奪おうとする相手がいるなら、お前がそれを防ぐのは理にかなっている。でも——お前が一人で全部をやる必要はない」

 

 雪が目を見開く。

 

「お前の予防策を俺にも共有しろ。俺が監修する。お前が誰を脅威と判断し、どんな対策を取るのか、俺がチェックする。それでお前の行動が過剰にならないように調整する」

 

「……湊くんが、私の予防策を手伝うの」

 

「手伝うんじゃない。監修だ。お前のやり方は間違ってはいないが、時に過剰だ。田村への対策も、もう少し穏便な方法があった。俺はお前の行動を否定しない。でも、より最適な方法を提案する。それが俺の役割だ」

 

 雪はしばらく俺の顔を見ていた。それから、ゆっくりと笑った。

 

「……湊くん、それって結局、私に加担してるってことだよ」

 

「わかってる」

 

「……いいの」

 

「いい。俺はお前を選ぶ。お前の異常さごと、全部。お前が俺を守るために誰かを遠ざけるなら、俺はお前が遠ざけすぎないように調整する。それで対等だ」

 

「……共犯者」

 

「そうだ。俺もお前の共犯者だ」

 

 雪の目に涙が浮かぶ。でも今度は泣かなかった。

 

「……湊くんは、やっぱり変わらない」

 

「合理的だ」

 

「……うん。それが湊くんだ」

 

 雪が俺の袖を掴んだ。ぎゅう、と。その力は、今までで一番強かった。

 

 その夜、俺は初めて雪の観察日記に自分の筆跡で書き込んだ。「湊くん監修欄」——そこには雪の予防策への俺のフィードバックが記される。

 

「田村への対策、スケジュール調整は適切。ただしグループ再編成はやや強引。次回はより自然な方法を検討すること」

 

 俺はペンを置いた。

 

「これで俺も雪の共犯者だ」

 

「……共犯者。いい響き」

 

 雪が笑った。その笑顔を見ながら、俺は自分が取り返しのつかない場所に足を踏み入れたことを理解していた。それでも——悪くないと思っている自分がいた。

 

 ◆◆◆

 

 九月。大学の後期が始まった。

 

 キャンパスには夏休みを終えた学生たちが戻ってきている。講義室へ向かう途中、キャンパスのベンチで友人と笑っている田村の近くを通りかかった。彼女は元気そうだ。友人と楽しそうに話していて、俺には気づく様子もない。その笑顔には、夏の初めに見た時のような翳りはなかった。

 

「最近ゼミにも慣れてきてさ、楽しいんだよね」——田村の声が聞こえてくる。「あの時はちょっと憧れてただけだったのかも。今は今で、毎日充実してる」。友人が「そっか、よかったじゃん」と返し、田村は明るく笑った。彼女は自分の言葉で、自分の気持ちを整理したようだった。

 

 通り過ぎながら、俺は「……大丈夫そうだな」と呟いた。雪が俺の手首にそっと触れる。

 

「……湊くん、何見てるの」

 

「田村が元気そうでよかった」

 

「……湊くんは、私があの人に何か悪いことをしたと思ってるの」

 

「思っていない。お前はただ、俺を守っただけだ」

 

 雪は少しだけ驚いた顔をして、それから俺の袖を強く掴んだ。

 

「……うん。湊くんを守るためなら、私は何でもする。それだけは変わらない」

 

 田村が去っていくのを見送りながら、俺は雪の手を握り返す。田村は傷ついていない。雪の予防策は、確かに「誰も傷つけずに」機能したのだ。

 

 講義室に戻る途中、雪が言った。

 

「……湊くん、後期が終わったら三年生だね。就職活動が始まる」

 

「チャートを作成中だ。業界分析、企業リスト、面接対策、通勤時間の試算——」

 

「……私も同じ会社を受ける」

 

 雪が静かに言った。

 

「湊くんと一緒がいい。通勤時間も一緒、昼休みも一緒、帰りも一緒。それが一番いい」

 

 これは雪なりの「予防策」の延長だ。就職という新たな環境でも、湊を奪う可能性のある存在を事前に排除する——そのための最善手が「湊くんと同じ会社に入ること」なのだ。

 

「お前のその発想は筋が通ってる」

 

「……でしょ」

 

 雪が笑った。

 

 その夜、雪の観察日記に新しいページが追加されるのを、俺は隣で見ていた。「就職活動編——湊くんと同じ会社を受ける。同じ職場なら、湊くんを守りやすい。合理的。これは人生最大の予防策になる」。

 

 俺は監修欄にペンを走らせる。「雪の就職先リストを確認。俺の志望企業と一致している。問題なし。ただし面接対策は共同で行うこと。——湊」

 

 その直後、橘からメッセージが届いた。

 

「就活の相談、今度乗ってやる。紹介料の代わりに。そういえば、雪さんの観察日記を君が監修してるって聞いて笑った。君たちは本当にお似合いだよ。もう笑うしかない。——橘」

 

 俺は短く返信した。「紹介料は一生払わないんだろ」「当然だ。むしろ俺が請求したいくらいだ」

 

 雪がノートを閉じて、俺の服の裾をつまんだ。ぎゅう、と。指先が微かに震えている。

 

 窓の外では、秋の気配が近づいている。

 

「……湊くん、就職先も一緒だよ。絶対に離れないから」

 

「わかってる」

 

 俺は雪の手を握り返した。これから先も、ずっと。

 

 雪が俺を離さないなら、俺も雪を離さない。それが俺たちの歪んだ対等だ。




夏休みが終わった。

橘が来て、花火大会があって、夏祭りがあって、田村恵が現れて、そして雪の「予防策」が初めて具体的な形で実行された。盛りだくさんの夏だったと言えばそうだが、俺のチャートはすべてのイベントを消化し、当初の予定通り九月を迎えた。

問題は、チャートにないことが起きすぎたことだ。

田村恵は悪い人間ではなかった。むしろ、好感の持てるタイプだったと思う。だからこそ、雪の予防策によって彼女が徐々に俺から遠ざけられていくのを見るのは、正直なところ複雑だった。

田村が友人にこぼしていた「私、何かしたのかな」という言葉は、今も耳に残っている。俺はその問いに答えなかった。答えられなかった。今も、答えは出ていない。

でも——それでも俺は雪を選んだ。

雪が俺を守るために誰かを遠ざけるなら、俺は雪が遠ざけすぎないように調整する。それが俺の役割だ。歪んでいるのはわかっている。でも、雪が俺を離さないなら、俺も雪を離さない。それで対等だと思った。

橘は笑っていた。「君たちは本当にお似合いだよ。もう笑うしかない」と。あいつは昔から、俺たちのことを誰よりも客観的に見ている。その橘が笑うしかないと言うのだから、俺たちはよほど歪んでいるのだろう。

雪の観察日記には今、「湊くん監修欄」が追加されている。俺が雪の行動をチェックし、フィードバックを書き込む。雪はそれを嬉しそうに読んでいる。悪いことをしている自覚がないから、監修されることにも抵抗がないらしい。

これで俺も、雪の共犯者だ。

夏が終わり、秋が来る。就職活動が始まる。雪は俺と同じ会社を受けると言っている。通勤時間も一緒、昼休みも一緒、帰りも一緒——それが彼女なりの「人生最大の予防策」らしい。

人事の人が震えている姿が目に浮かぶが、まあいい。俺は雪の就職先リストを確認し、監修欄に「問題なし」と書いた。これで俺も、雪の就職活動に加担していることになる。

歪んでいる。でも、悪くない。



湊の総括(19歳)
「田村は悪くなかった。彼女はただ、俺に憧れていただけだ。それでも俺は雪を選んだ。そのことに罪悪感はある。今も答えは出ていない。でも——それでも、俺は雪を選ぶ。それが俺の決断だ。俺は今、雪のヤンデレの共犯者だ。歪んでいる。でも、悪くない。」
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