うすほそな幼なじみを口説き落とすRTA 作:アホ面オムライス
十月。大学の後期が本格化し、キャンパスには就職活動の空気が流れ始めていた。リクルートスーツを着た学生たちが企業説明会の案内を手に歩き回り、キャリアセンターの前には長い行列ができている。
俺はリビングのテーブルにノートを広げて、就職活動のチャートを作成していた。業界分析、企業リスト、面接対策、通勤時間の試算——そして雪の志望企業リストも、俺のリストと完全に一致していることを確認済みだ。
「……湊くん、またチャート」
隣でコーヒーを飲んでいた雪が呆れたように言う。
「就職活動は長期戦だ。計画的に回るためには、事前の準備がすべてだ」
「……私のリスト、全部湊くんと同じだけど、いいの」
「当然だ。お前は俺の最優先事項だ」
雪が少しだけ笑った。こういう時の雪の表情は、長年の傾向から言って「照れと喜びが混ざった笑顔」だ。出現条件は「俺が雪のための行動を明言した時」。確率は高い。
その夜、雪が観察日記に新しいページを追加しているのを、俺は隣で見ていた。
「就職活動編・続——湊くんと同じ会社に入る。同じ部署を希望する。同じタイミングで出世する。そうすれば、異動も転勤も一緒。会社は私たちをセットで扱うしかなくなる。——これは人生最大の予防策を超えた、『定着計画』」
俺はその文字を読みながら、背筋が冷たくなるのを感じた。「定着計画」——それはもはや俺を守るだけではない。俺が雪から離れられない仕組みを、社会システムの中に構築しようとしている。
「雪、この『定着計画』というのは」
「……湊くんがどこにも行かないようにする計画。会社に、私たちは二人で一組だって認識させるの。そうすれば、転勤も異動も一緒。合理的だよね」
雪は本気でそう言っている。悪意はない。自分たちの将来を真剣に考えた結果が、この「定着計画」なのだ。俺は監修欄にペンを走らせる。「計画の規模が大きすぎる。まずは内定獲得を優先すること。——湊」
雪はそれを見て「……了解」と返す。その声には、自分の計画を湊が否定しなかったことへの微かな安堵が混ざっていた。
◆◆◆
十一月。都内の大型イベントホールで開かれた合同企業説明会に、俺と雪は参加していた。会場はスーツ姿の学生で溢れ、各企業のブースには長い列ができている。空気は熱気と緊張で満ちていた。
雪は俺のスーツの裾を掴んで離さない。就職活動中はスーツだから袖を掴みにくいらしく、代わりに裾を掴むのが最近のパターンだった。
「……人混み、苦手」
「わかってる。なるべく端を歩く」
「……うん」
俺たちは事前にチェックした企業のブースを効率的に回る。雪は俺の隣で企業の説明を聞きながら、時々スマホに素早くメモを取っている。内容は企業の採用方針や、配属の可能性、そして——その企業に「湊くんを奪う可能性のある人物」がいないかのチェックらしい。
ある企業のブースで、俺は隣に立った女子学生と目が合った。彼女は企業の説明資料を熱心に読み込み、細かい字でメモを取っている。その手元には、独自に作成したらしい企業分析の表があった。俺のやり方に似ている。
「その企業、志望ですか」
彼女が話しかけてきた。眼鏡の奥の目は落ち着いていて、声には無駄な緊張がない。
「検討中だ」
「私もです。事業内容が面白くて。特に、データ分析を活用した新規事業の展開——あの部分、もっと詳しく聞きたいと思いませんか」
彼女の分析は的確だった。俺が注目していたポイントを、彼女も同じように見ている。佐伯真由——資料に挟まれた学生証に、そう書かれていた。
「佐伯さん、だな」
「はい。佐伯真由です。あなたは——」
「黒瀬だ」
「黒瀬さん。よろしく。説明会、一緒に回ってもいいですか。お互い、効率的だと思うので」
悪い人間ではない。むしろ、話していて無駄がなくて楽だった。しかし——俺の隣で、雪の目が一瞬だけ細くなるのを感じた。
「……湊くん、次のブース行こ」
雪が俺の裾を強く引いた。声は平静だったが、指に込められた力が、彼女の警戒心を物語っている。
「悪い、先を急ぐ」
「そうですか。またどこかで」
佐伯は笑顔で手を振った。嫌味のない、さわやかな笑顔だった。雪はそれを見ながら、スマホに何かを素早く打ち込んでいる。観察日記のアプリだ。
説明会の帰り、俺は会場の外で見覚えのある後ろ姿を見かけた。田村恵だ。彼女は友人らしき人物と歩きながら、笑っている。元気そうだった。就職活動も順調なのだろう。俺はそれを見て、胸の奥が少し軽くなると同時に、重くなるのを感じた。軽くなったのは罪悪感の軽減。重くなったのは——雪の予防策が確かに機能したことを、再確認したからだ。
その夜、雪の観察日記に新しいページが追加されていた。
「佐伯真由。合同説明会で湊くんに接触。分析的な思考を持つ。湊くんと似たタイプ。——要注意」
雪の分析は的確だった。俺は監修欄に「佐伯は分析力の高い学生。それ以上の情報はまだない。警戒は合理的だが、過剰な判断は禁物」と書き込む。雪はそれを見て、小さくうなずいた。
◆◆◆
十二月から一月にかけて、俺と雪は複数の企業の面接を受けた。
面接は順調だった。湊の分析的な受け答えと、雪のバイトでの経験を活かした志望動機——それぞれが評価を得ていく。しかし就職活動には常に不確実さがつきまとう。雪が時折見せる不安そうな表情を、俺は見逃さなかった。
ある面接の帰り道、駅までの夜道を歩きながら、雪がぽつりと言った。
「……湊くん、もし私だけ落ちたらどうしよう」
「その時は俺が別の会社を受ける」
「……それじゃ意味ない。湊くんのキャリアが台無しになる」
「台無しじゃない。お前と一緒にいられない方が、俺にとっては非効率的だ」
雪は少しだけ驚いた顔をして、それから小さく笑った。
「……効率厨め」
「合理的と言え」
「……うん。でも、私も頑張る。湊くんと同じ会社に入るために」
雪の手が、俺の裾を強く掴んだ。その力には、不安と決意が混ざっていた。
ある企業のグループディスカッションで、俺は佐伯真由と同じグループになった。彼女は的確な発言で議論を整理し、俺もそれに応じて分析を加える。息の合ったやりとりだった。面接官からも良い評価を得た。
面接後、佐伯が俺に声をかけてきた。
「やっぱり、黒瀬さんと仕事すると面白いですね。お互い受かってるといいですね」
「そうだな」
「私、この会社が第一志望なんです。黒瀬さんもですか」
「検討中だ」
「またまた。検討中って言いながら、一番詳しく調べてるの、この会社ですよね」
佐伯は笑った。彼女の観察眼は鋭い。俺は少しだけ、「話しやすい」と感じている自分に気づいた。それは恋愛感情ではない。しかし雪がこの場にいたら、何と言うだろうか——。
「……黒瀬さん?」
「なんでもない。次の面接がある。失礼する」
俺はその場を離れた。佐伯は少しだけ不思議そうな顔をしていたが、すぐに次の学生との会話に戻った。雪は少し離れた場所で待っていた。笑顔だったが、俺の裾を掴む力が強い。
「……湊くん、佐伯さんと仲良くなったの」
「業務上の会話だ」
「……ふうん」
その夜、雪の観察日記の佐伯のページが更新される。「佐伯真由、グループディスカッションで湊くんと高評価を得る。仕事上の相性は良好。湊くんが『話しやすい』と感じている可能性あり。——脅威度:中から高に引き上げ」
俺は監修欄に「佐伯は仕事上のパートナーとして優秀。ただしそれ以上ではない。俺がそう判断する」と書き込む。雪はそれを見て「……湊くんがそう言うなら」と返すが、ページを閉じる指が少しだけ迷っていた。
◆◆◆
二月。俺と雪は第一志望の企業から無事内定を得た。しかも二人とも同じ部署——総合企画部——への配属が内定した。
偶然ではない。雪が裏で「同じ部署を希望する理由」を綿密に準備し、面接で自然に伝えていたのだ。面接官は雪の「私たちは幼なじみで、お互いの弱点を補い合える」という説明に納得したらしい。雪は自分を「湊くんのサポート役」として売り込み、湊を「分析力に優れた人材」として推薦した。その結果が、同じ部署への配属だった。
雪の観察日記にはこう書かれている。「内定獲得。湊くんと同じ部署に配属決定。定着計画、第一段階クリア。——次は配属後の部署内でのポジショニング」
ここまで来ると、もはや偶然や幸運ではない。雪の計画が、社会システムの中に確実に根を下ろし始めている。俺は監修欄に「定着計画第一段階クリアを確認。第二段階への移行を承認する。ただし配属面談での過剰な誘導は禁止」と書き込んだ。
その夜、二人で祝杯を挙げる。雪はグラスを揺らしながら言った。
「……湊くん、これで社会人も一緒だね」
「そうだな」
「……湊くんは、本当にそれでいいの」
「いい。俺が選んだことだ」
雪は少しだけ驚いた顔をして、それから俺の手を握った。指先は相変わらず少し冷たいけど、昔みたいに震えてはいなかった。
◆◆◆
四月。入社式の日。
俺と雪は新しいスーツを着て、企業の本社ビルに向かう。雪は俺のスーツの裾を掴み、「……社会人でも、離れないでよ」と言った。
「離れない。十四年前から決めている」
「……うん」
入社式の会場で、俺は見知った顔を見つけた。佐伯真由だ。彼女も同じ会社に内定していた。佐伯は俺に気づくと、嬉しそうに声をかけてくる。
「黒瀬さん! やっぱり受かってたんですね!」
「お前もか」
「はい! 同じ部署だって聞きました。これからよろしくお願いします」
佐伯は笑顔で頭を下げた。嫌味のない、さわやかな笑顔だ。雪はその場で観察日記を取り出し、佐伯のページを更新している。指が微かに震えていた。
「佐伯真由、同じ会社に内定。同じ部署の可能性あり。——脅威度:高に確定」
入社式の後、新人研修が始まる。教育係として紹介されたのは、木村という先輩社員だった。穏やかな笑顔の、三十代くらいの男性だ。
「私は新人に無理をさせない主義だ。特に分析力のある奴は、つい抱え込みたがるからな——黒瀬くん、君のことだよ。面接での君の分析力は評価が高かった。期待している」
「ありがとうございます」
俺が答えると、隣で雪の目が一瞬だけ細くなった。木村は俺を評価している。評価されるのは良いことだ。しかし雪にとっては——また一つ、「湊くんを奪う可能性のある要素」が増えたことになる。
その夜、雪の観察日記が大幅に更新された。
「佐伯真由、同僚として確定。木村先輩、湊くんを評価。——新たな脅威は『湊くんを私から物理的に離す可能性のある存在』。定着計画、第二段階を加速する必要あり。具体策:湊くんと同じプロジェクトに配属されるための根回し。木村先輩への情報提供による信頼獲得。佐伯真由の徹底的な情報収集」
俺は監修欄に「計画の加速は合理的。ただし木村先輩への接近は、あくまで業務の範囲内で行うこと。佐伯への過剰な警戒は、湊の業務評価に影響する可能性があるため控えること」と書き込んだ。
◆◆◆
五月。配属先の総合企画部で、俺と雪の社会人生活が本格的に始まった。
俺は佐伯と同じプロジェクトチームに配属された。雪は隣のチーム。これは雪の希望が一部叶わなかった形だが、雪は既に次の手を打っていた。
木村がフロアを回りながら、湊と佐伯に声をかける。
「黒瀬くん、佐伯さん、期待しているよ。特に今回はお前たち二人の分析力が鍵になるプロジェクトだからな」
「ありがとうございます。頑張ります」
佐伯が元気よく答え、俺も「了解です」と短く返した。木村は満足そうにうなずいて去っていく。雪は少し離れた席からその様子を見ていた。
木村の期待はありがたいが、それによって雪の計画がさらに加速することも理解している。雪は木村に積極的に質問に行き、信頼を獲得し始めていた。「白崎さんは真面目だね。質問のポイントが的確で助かる」——木村は雪をそう評価し、部署内の情報を共有するようになった。雪は木村を通じて、湊のプロジェクトの進捗状況や佐伯との関わり方を間接的に把握し始めたのだ。排除ではない。情報による掌握——これが雪の新たな才能だった。
ある日、湊と佐伯が残業で二人きりになった。プロジェクトの締切が迫り、他のメンバーは先に帰っていた。オフィスには静かな空気が流れ、パソコンの画面だけが明るく光っている。
「黒瀬さんと仕事すると、本当に効率的で助かります」
佐伯が画面を見ながら言った。
「お前も分析が的確だからやりやすい」
「……そう言ってもらえると嬉しいです。最近、仕事に集中できてる理由が自分でもわかってて。実は私、就職活動中に彼氏と別れたんです。お互いの進路が合わなくて。だから今は仕事に集中できて、逆に良かったのかもしれない」
佐伯は少しだけ寂しそうに笑った。彼女は彼女で、色々なものを抱えながらここにいるらしい。
「佐伯さんは優秀だから、すぐにいい人が見つかる」
「……黒瀬さんにそう言われると、なんだか説得力がありますね」
その時、雪がコーヒーを二つ持って現れた。
「……湊くん、残業お疲れさま。佐伯さんもどうぞ」
雪は笑顔だった。しかしその目は、湊と佐伯の距離感を測っていた。佐伯が湊の隣に座っている位置、湊の画面に映っている資料の内容、佐伯が湊に向ける視線の角度——すべてを数秒で分析しているようだった。
「白崎さん、ありがとうございます。お気遣いいただいて」
佐伯は素直に礼を言った。彼女は雪の視線の意味に気づいていない。気づくはずがない。雪の異常性は、湊にしか見えない。
その夜、雪の観察日記に新しい記録が追加された。
「佐伯真由、湊くんと同じプロジェクトで残業。湊くんは佐伯を『やりやすい』と評価。——これは危険。湊くんが無意識に佐伯に親近感を持つ可能性がある。追加情報:佐伯、彼氏と別れたばかり。——脅威度はさらに上昇。対策:残業時は私が必ず差し入れに行く。湊くんと佐伯の二人きりの時間を最小化する」
俺はそれを見て、監修欄に書き込むべきか一瞬迷った。しかし——ここで否定しても、雪の行動原理は変わらない。むしろ、俺が監修することでバランスを取る方が合理的だ。「佐伯との残業は業務上必要。過剰な干渉は湊の評価を下げるリスクあり。差し入れは歓迎するが、それ以上の介入は控えること。佐伯の私的事情は対策の根拠として不十分」
雪は「……了解」と返す。しかしその返事には、まだ納得していない響きがあった。
◆◆◆
六月のある金曜日。橘から「久しぶりに飲まないか」と誘われた。
都内の居酒屋で落ち合う。橘は相変わらず落ち着いた物腰で、建築関係の会社から内定を得たらしい。社会人になった実感はまだないと笑っていた。
互いの近況を話した後、橘がグラスを揺らしながら言った。
「そういえば、雪さんは元気? 相変わらず君の袖を掴んでるんだろうな」
「相変わらずだ。スーツだから裾を掴んでるが」
「安心した。君たちが変わらないと、なんか落ち着かない」
橘は少し笑ってから、真顔に戻る。
「で、仕事はどう。雪さんの『監視』は相変わらず? ——ああ、ごめん、『監修』だっけ」
「観察日記は継続中だ。俺が監修している。最近は『定着計画』に発展してな。俺が雪から離れられないように、会社のシステムごと利用しようとしている」
「……それ、やばいやつだろ」
「やばい」
「でも君は止めないんだな」
「止めない。合理的だからな」
橘はしばらく俺の顔を見てから、小さく息を吐いた。
「君がそう言うなら、僕が口を出すことじゃない。でも——」
「でも?」
「君は自分で思ってるより、雪さんに依存してるよ。雪さんが君を守るために動けば動くほど、君は雪さんに守られることに慣れていく。それが君たちの『歪んだ対等』なら、僕は何も言わない。でも——君がそれで苦しむなら、それは違うと思う」
橘の言葉はいつも正しい。俺は雪に依存している。雪に守られ、雪の計画に乗り、雪の監修をしながら——結局、俺は雪なしでは生きられなくなっている。
「……それでいいと思ってる。雪が俺を離さないなら、俺も雪を離さない。それが俺の答えだ」
「そっか。じゃあ、それが君たちの答えなんだな。紹介料は——」
「一生払わないんだろ」
「当然だ」
橘は笑った。俺も笑った。笑いながら、俺は自分が本当にこれでいいのか、まだ答えが出ていないことに気づいていた。でも——それでも、俺は雪を選ぶ。それが俺の決断だ。
帰宅後、俺は雪に橘との会話を話した。雪は「……橘くん、相変わらずだね。でも、橘くんが湊くんに何を言っても、湊くんは私を選んでくれる。知ってる」と言った。
「その通りだ」
俺は雪の手を握った。雪の指は、昔よりずっと温かい。
その夜、俺は監修欄に新しい項目を書き加える。「橘からの指摘:俺は雪に依存している。——これを否定しない。これが俺たちの歪んだ対等だ」。
◆◆◆
七月。入社から三ヶ月が経ち、社会人としての日常が定着し始めた頃。
木村が俺を会議室に呼び出した。
「黒瀬くん、来月から始まる新規プロジェクトのリーダーを任せたい。君の分析力と効率的な仕事ぶりを評価しての抜擢だ」
「ありがとうございます」
「ただし——」
木村は少し言いづらそうに続けた。
「プロジェクトの関係で、大阪の支社に三ヶ月間出張してもらう可能性がある。まだ確定じゃないが、早めに伝えておこうと思って」
大阪——三ヶ月間。
俺は言葉を失った。三ヶ月間、雪と離れる——それは雪の「定着計画」が直面する、最大の試練だった。
帰宅後、俺は雪に木村の話を伝えた。雪はしばらく黙って俺の顔を見ていた。その目は、十四年前の砂場で初めて見た時と同じ——何かを必死に考えている目だった。
それから雪は観察日記を開き、新しい見出しを書いた。
「定着計画・第三段階——大阪出張同行作戦」
俺は監修欄に何かを書こうとして——やめた。雪の目が、これまでに見たことのない決意に満ちていたからだ。
「……湊くん、私に考えがある」
雪は静かに言った。その声は震えていなかった。むしろ、確信に満ちていた。
「定着計画・第三段階——大阪出張に同行するための根回し。私が大阪支社のプロジェクトに必要な人材だと会社に認識させる。方法は——」
雪はそこで言葉を切り、俺にだけ見せる笑顔を向けた。
「……湊くんは、私の計画を信じてくれる?」
俺は雪の目を見つめ返した。雪の計画は間違いなく異常だ。会社の人事制度を利用して、湊と離れないための仕組みを作ろうとしている。それはもはや「予防」でも「定着」でもない——「浸食」だ。雪の愛が、社会の仕組みそのものを侵食し始めている。
しかし——俺はそれを止めない。止める理由がない。雪は俺を守ろうとしている。俺が雪を守るのと同じように。
「信じる。ただし——監修は続ける。過剰な介入は俺が止める」
「……うん。それでいい。湊くんが監修してくれるなら、私はどこまでも行ける」
その夜、雪の観察日記に新しいページが追加された。
「定着計画・第三段階——大阪出張同行作戦。湊くんと三ヶ月間離れることは、私にとって最大の脅威。しかし会社の評価を落とすわけにはいかない。だから私は、大阪支社のプロジェクトに必要な人材として、会社に自らを提案する。私のスキルと実績をまとめた資料を作成し、木村先輩を通じて人事に提出。——これは排除でも予防でもない。会社の仕組みの中で、湊くんと私が一緒にいることを『合理的な選択』にするための作戦」
俺は監修欄にペンを走らせる。
「大阪出張の件、雪の計画を監修することを承認する。ただし以下の条件を付ける。一、会社への提案は合理的な理由に基づくこと。二、湊の評価を下げる行為は禁止。三、何があっても一人で抱え込まないこと。——湊」
雪はそれを見て「……了解」と返した。その返事には、今度は納得の響きがあった。
窓の外では、夏の気配が近づいている。社会人としての最初の夏——それは、二人の歪んだ関係をさらに深める、新たな試練の始まりだった。
「……湊くん、私、絶対に離れないから。たとえ会社が何を言っても」
「わかってる」
俺は雪の手を握り返した。この手を、幼稚園の砂場で握ってから十四年。冷たかった手は、今は温かい。そして今、この手は俺を離さないために、会社という巨大な仕組みさえも動かそうとしている。
俺はそのことを、否定しない。むしろ——それを「合理的だ」と判断している自分がいる。