うすほそな幼なじみを口説き落とすRTA   作:アホ面オムライス

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第4話「大阪出張のRTA」

 雪の観察日記に「定着計画・第三段階——大阪出張同行作戦」が書き込まれた夜から、俺たちの日常は新しい段階に入った。

 

 七月の終わり、木村から正式に大阪出張の打診があった。三ヶ月間、大阪支社の新規プロジェクトにリーダーとして参加してほしい——評価されての抜擢だ。断る理由はない。いや、俺個人にはなかった。雪がそれをどう受け止めるかは別の話だが。

 

 出張の日程が決まった夜、雪はリビングのテーブルにノートパソコンを広げて、何やら資料を作成していた。いつもの観察日記ではなく、PowerPointの画面だ。スライドには「大阪支社プロジェクト参加希望——総合企画部 白崎雪」というタイトルが付けられている。

 

「……雪、それは」

 

「大阪に行くための提案書。木村先輩に提出するの」

 

 雪は俺の方を振り返らずに答えた。キーボードを打つ指は速く、迷いがない。

 

「湊くんが大阪に行くなら、私も行く。でもただ『一緒に行きたい』じゃ通らないから、会社に『私が必要な理由』を説明する」

 

 俺は雪の隣に座って、画面を覗き込んだ。スライドには雪のこれまでの業務実績、大阪支社のプロジェクトで必要とされるスキル、そして「湊との連携による業務効率化の提案」が詳細にまとめられている。数字と事例が並び、すべてが筋の通った内容だった。

 

 さらに、資料の最後のページを見て、俺は息を呑んだ。

 

 そこには「将来的な展望」として、三つのシナリオが書かれていた。湊が大阪に転勤になった場合の「雪の転勤希望」。湊が東京に戻る場合の「雪の帰任希望」。そして——湊と雪の「同時異動」の提案。

 

「雪、これは」

 

「……定着計画の一環。湊くんがどこに行っても、私が一緒に行けるようにするための仕組み。会社に『私たちは二人で一組』って認識させれば、将来の異動も一緒になる。合理的だよね」

 

 雪は本気でそう言っている。悪意はない。自分たちの将来を真剣に考えた結果が、会社の人事制度そのものを利用した長期計画だった。

 

「ここまで来ると、会社の人事を動かすレベルだな」

 

「……動かしてるんじゃない。会社にとって一番合理的な選択を提案してるだけ。湊くんの分析力と私のサポート力——二人揃えば、会社にもメリットがある。私が証明する」

 

 俺は資料を見つめながら考えた。雪の提案は、確かに合理的だ。数字も実績も揃っている。誰が見ても「検討に値する」と言うだろう。しかし——その根底にあるのは「湊を離さない」という雪の異常な執着だ。それが、会社という組織の中で「優秀な社員の提案」として通ってしまう。誰も雪の異常性に気づかない。気づくのは、俺だけだ。

 

 俺は監修欄にペンを走らせる。「資料の内容を確認。提案は合理的であり、会社にとってのメリットも明確。提出を承認する。——湊」

 

 雪はそれを見て「……ありがとう」と小さく言った。その声には、安堵と決意が混ざっていた。

 

 ◆◆◆

 

 出発の三日前、橘とカフェで会った。大阪に行く前に一度話しておきたかったのだ。

 

 橘は相変わらず落ち着いた物腰で、建築関係の仕事にも慣れてきたらしい。互いの近況を話した後、俺は雪の資料のことを橘に話した。

 

「……それ、会社の人事を動かすってことだろ」

 

 橘はコーヒーカップを置いて、少しだけ驚いた表情を見せた。

 

「そうだ」

 

「雪さんは本気だね。会社ごと君を守ろうとしてる」

 

「止めない。合理的だからな」

 

 橘はしばらく俺の顔を見てから、小さく息を吐いた。

 

「君がそう言うなら、僕が口を出すことじゃない。でも——君はそれでいいのか」

 

「いい。俺が選んだことだ」

 

「そっか。じゃあ、それが君たちの答えなんだな」

 

 橘は少しだけ寂しそうに笑った。それから「紹介料は——」と言いかけて、俺が「一生払わないんだろ」と遮ると、橘は「当然だ」と笑った。

 

 橘と別れた後、俺は街を歩きながら考えた。俺は雪の計画を承認した。資料の提出を許可した。それはつまり、俺が会社という組織の中で雪の共犯者になることを意味している。雪の異常性が、組織の意思決定に影響を与える——そのことに迷いがないと言えば嘘になる。しかし、俺はそれを止めない。止める理由がない。

 

 橘の言葉が耳に残っていた。「君はそれでいいのか」——答えは決まっている。俺は雪を選ぶ。雪の異常さごと、全部。

 

 ◆◆◆

 

 出発の前日、雪が木村に資料を提出した。

 

 俺は別の打ち合わせでその場にいなかったが、後で雪から報告を受けた。木村は資料を読み、少しの間沈黙した後、「ここまで綿密に準備されているなら、検討する価値がある。正直、ここまでとは思わなかった」と言ったらしい。雪の資料は、ベテラン社員でもなかなか作れないレベルのものだったからだ。

 

 雪の観察日記にはこう書かれていた。「資料提出。木村先輩の反応は良好。定着計画・第三段階、第一関門突破。——あとは会社の判断を待つ」

 

 その夜、二人で最後の夜を過ごした。雪が作ったハンバーグを食べ、チャートを確認し、明日の新幹線の時間を打ち合わせる——いつもと変わらない日常だった。

 

 でも、雪が俺の裾を掴む力は、いつもより少し強かった。

 

「……湊くん、三ヶ月、私なしで大丈夫?」

 

「大丈夫じゃない。だからお前も来るんだろ」

 

「……うん。絶対に行く。だから待ってて」

 

「待つ。お前が来るまで、俺は大阪でお前の居場所を作っておく」

 

 俺は雪の手を握った。雪の指は、相変わらず少し冷たいけど、昔みたいに震えてはいなかった。

 

 ◆◆◆

 

 八月。大阪に到着した。

 

 支社は本社より一回り小さいが、活気があった。新規プロジェクトのメンバーとして紹介され、俺は早速プロジェクトリーダーの山根という男性と顔を合わせた。三十五歳、中途入社八年目。実力主義で合理的——そんな印象だった。

 

「黒瀬くん、君の分析力は本社でも評価が高かったと聞いている。期待しているよ」

 

「ありがとうございます」

 

「私は中途でこの会社に入ってね。前の会社では、実力があっても評価されないことが多かった。だからここでは、ちゃんと実力を見て評価する——それが私の信念だ」

 

 山根の言葉には、これまでのキャリアで積み重ねてきた何かが込められているようだった。悪い人間ではない。むしろ、信頼できる上司だ。しかし——その「実力を見て評価する」という信念が、俺を大阪に引き留めようとする理由になるかもしれない。それは、雪の計画にとっては脅威だった。

 

「君は優秀だ。出張が終わっても、大阪に残る気はないか」

 

 初日からそれだった。俺は「検討します」とだけ答えたが、山根の目は本気だった。

 

 その夜、ホテルに戻る途中、コンビニに寄った。何気なくおにぎりの棚を見て、手が止まった。雪が好きな鮭のおにぎりだ。俺はそれを二つ買って、ホテルの部屋で一人で食べた。冷たくて、少し味が薄く感じた。

 

 それから雪とビデオ通話をした。画面の向こうの雪は、いつもと変わらない笑顔だったが、俺の報告を聞くうちに目が少しだけ細くなった。

 

「……山根さん、湊くんを評価してるんだ」

 

「そうだ。ありがたいことだ」

 

「……大阪に残れって言われた」

 

「初日にだ」

 

「……ふうん」

 

 雪はそれ以上何も言わなかったが、画面の端で観察日記に何かを書き込んでいるのが見えた。おそらく「山根」のページが新たに追加されたのだろう。

 

「……湊くん、ホテルの部屋、どんな感じ?」

 

「普通のビジネスホテルだ」

 

「……窓からの景色は?」

 

「隣のビルが見えるだけだ」

 

「……ふうん」

 

 雪は俺の部屋の様子を細かく聞いてきた。何階なのか、角部屋かどうか、冷蔵庫はあるか——それらはすべて観察日記に記録されていく。遠距離でも雪の情報網は機能していた。

 

「……湊くん、私の資料、今週中に会社から回答がある予定。そうすれば、私も大阪に行ける」

 

「待ってる」

 

「……うん。それまで、湊くんは私のものだってことを忘れないで」

 

「忘れるわけがない」

 

 雪は少しだけ笑って、それから通話を切った。画面が暗くなった後も、俺はしばらくその場に座っていた。雪の情報収集は、遠距離でもまったく衰えていない。

 

 ◆◆◆

 

 大阪での二週間が過ぎた。プロジェクトは順調に進み、山根の俺への評価はますます高まっていた。

 

「黒瀬くん、君の分析は本当に的確だ。報告書の構成も完璧で、無駄な部分が一切ない。こういう仕事ぶりを見ると、本気で大阪に残ってほしくなる」

 

「光栄です」

 

「本気で考えてみないか。大阪に残ることを。君のキャリアにとって、こちらの方がプラスになる。私が保証する」

 

 山根の言葉は、単なる社交辞令ではなかった。彼は本気で俺を大阪に引き抜こうとしている。それだけ俺の仕事を評価してくれている——そのこと自体は、素直にありがたかった。しかし、雪の計画にとっては最大の脅威だった。

 

 その夜、雪からメッセージが届いた。「資料、正式に承認されました。来週、大阪に行きます」

 

 俺はそのメッセージを見て、胸の奥が少し軽くなるのを感じた。雪の計画が、また一つ現実になった。俺は返信を打った。「待ってる」

 

 ◆◆◆

 

 八月の終わり。JR大阪駅。

 

 新幹線を降りた雪は、人混みの中をまっすぐに俺の方に歩いてきた。そして俺の前に立つと、一瞬息を整えてから、俺の裾を掴んだ。ぎゅう、と。

 

「……湊くん、待っててくれた」

 

「待ってた」

 

 俺は雪の手を握り返した。その手は、昔よりずっと温かかった。雪の計画が、また一つ現実になった瞬間だった。

 

 大阪支社での雪の活躍は目覚ましかった。彼女が作成した資料が評価され、プロジェクトに正式に参加することになったのだ。木村の後押しもあり、雪の「大阪出張同行作戦」は完璧に成功したと言っていい。

 

 しかし——問題は山根だった。

 

 大阪に来て一週間が経った夜、雪が観察日記を開きながら言った。

 

「……湊くん、山根さんの評価ポイントを分析した。湊くんを大阪に残したい理由は、湊くんの分析力を高く評価しているから。でも、それは湊くんが東京で活躍できない理由にはならない。むしろ——湊くんが東京に戻って本社のプロジェクトを率いる方が、会社にとっては大きな利益になる」

 

「それを山根に伝えるのか」

 

「……うん。山根さんは実力主義の人だから、会社全体にとってのメリットを数字で示せば理解してくれる。湊くんが東京に戻ることが、会社にとって最善の選択だって」

 

 雪は資料を作り始めた。今度は「湊を大阪に引き抜かないでほしい」という内容ではなく、「湊が東京に戻ることが会社全体にとって最適である」という提案だ。雪のヤンデレは、もはや会社の意思決定に影響を与えるレベルに達している。

 

「……定着計画・第四段階」

 

 雪が呟いた。

 

「大阪転勤対策。山根部長を説得し、湊くんが東京に戻ることを会社の総意にする。それが今回の作戦」

 

 俺は監修欄にペンを走らせる。「第四段階の発動を承認する。ただし山根への過剰な干渉は禁止。俺が東京に戻ることは、俺自身が証明する。——湊」

 

 雪はそれを見て「……了解」と返した。その返事には、今度こそ完全な納得の響きがあった。

 

 窓の外には、大阪の夜景が広がっている。二人の歪んだ社会人生活は、大阪の地で新たなステージへと突入した。

 

 雪が俺の裾を掴んだまま、静かに言った。

 

「……湊くん、私、絶対に湊くんを東京に戻す。それが会社にとっても、私たちにとっても一番合理的な選択だから」

 

「わかってる」

 

 俺は雪の手を握り返した。山根は合理的な人間だ。雪の提案を否定しないだろう。つまり——また一人、雪の計画に巻き込まれる人間が増える。

 

 でも、俺はそれを止めない。止める理由がない。雪は俺を守ろうとしている。俺が雪を守るのと同じように。

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