余白物語 作:平行四辺犬
うつろセミ
001
手触り、というものについて、僕は今まで一度も真面目に考えたことがない。
考えるまでもないからだ。猫の背中はあたたかく、鉄棒は冷たく、妹の脳天は殴れば固い。実感とはそういう、わざわざ言葉にするのも馬鹿らしいくらい当たり前のものであって――つまるところ失ってみるまで誰もその当たり前を確かめたりはしないのである。
空気が薄くなって初めて、人は呼吸をしていたことを思い出す。
梅雨の合間に、今年最初の蝉がどこかで一匹だけ気の早い声でしきりに鳴いていた。
その少女に出くわしたのは、ちょうどその蝉の声の下でのことだ。
住宅街の外れにある小さな公園。錆びた水飲み場のそばで、制服姿の女の子がひとりきりでしゃがみこんでいた。足元には割れたガラスの破片が散らばっている。落として割ってしまったらしいラムネの瓶。
僕が「危ないぞ」と声をかけるより早く、彼女はその破片を素手で拾い集めはじめた。
「おい――」
止める間もない。鋭い破片の角が、彼女の指の腹をあっさりと裂いて、血がひとすじ、白い指を伝ってゆく。
なのに彼女は顔色ひとつ変えない。
痛がりもしない。手を引っ込めもしない。まるでそれが自分の指ではないとでもいうように、淡々とガラスを拾い続けている。
「おい、待て。血、出てるぞ」
僕が手首をつかむと、彼女はようやくこちらを見た。
「……あ。ほんとだ」
まるきり他人事の声。自分の指を伝ってこぼれ落ちてゆくその血を、まるで天気の話でもするみたいに、彼女はただ緩慢に眺めていた。
「だいじょうぶです。痛くないので」
痛くないので、だいじょうぶ。
その理屈の、いったいどこが大丈夫だというのか――僕には、まるでわからない。
名札には、
僕はハンカチを取り出して、その指に巻いてやった。彼女はされるがままで、自分の指が手当てされていく様子を、やはりどこかよそごとのように眺めている。痛みを感じない人間というのは、こんなにも自分の体に無関心になれるものなのだろうか――そう思ってすこし寒くなり、もっとも、こんなことで寒くなれるだけ僕はまだましなのだろう。鈍いだけかもしれないが。
「あなた、誰ですか」
と、その少女はようやく訊いた。怒っているわけでも、警戒しているわけでもない。ただ事実を確認するだけの平らな声。
「阿良々木。高校三年の阿良々木暦だ。……お前は?」
「鳴海うつろ、です」
彼女は、自分の名前すら、どこか他人のもののように、平らに名乗った。
「阿良々木さんは、親切なんですね。でも、もったいないですよ。わたしなんかに、親切にしても」
わたしなんか、と彼女は言う。
その言い方には、自分を粗末に扱うことにすっかり慣れきった人間の、ひどく平らな響き。そして僕は経験上、よく知っている――そういう人間のところにこそ、この町のろくでもないものは寄ってくるのだが、なぜかと訊かれても、いやというほど見てきただけで、理屈のほうはさっぱり知らない。
その日、僕が別れ際に「またな」と言うと、鳴海うつろは不思議そうに首をかしげた。まるでまた会うという当たり前のことがもう自分には起こらないとでも思っているみたいに。
歩き去っていくその後ろ姿は、奇妙なほど軽そうだった。重さを失くした戦場ヶ原とはまた少し違う種類の軽さ。自分という存在の、いちばん大事な芯をどこかへ置き忘れてきた人間だけが持つ、あの頼りない軽さで、彼女は暮れなずむ住宅街に音もなく溶けていった。気の早い蝉の声だけがいつまでもその背中を追いかけていた。
002
「鳴海うつろ、ね」
翌日の昼休み。戦場ヶ原ひたぎは、その名前を二度、舌の上で転がすようにゆっくりと繰り返した。
「鳴く海に、空ろ。ずいぶんと寂しい名前じゃない」
「人の名前にケチをつけるな」
「ケチじゃないわ。詩的な感想よ」
「お前の口から出ると、どんな感想も遺言みたいに聞こえるんだよ」
「あら、光栄ね。私の言葉に、それだけの重みがあるということでしょう」
「重みを失くした女がよく言うよ」
「減らず口の重さだけは、ちゃんと手元に残してあるのよ。神様も、そこは大雑把だったみたいね」
「お前の詩的は他人の致命傷なんだよ」
「あら。致命傷ならお互い様でしょう。私だって、阿良々木くんという致命傷を抱えて生きているのだから」
「のろけてんのか貶してんのかはっきりしろ!」
「両方よ。私の中では、矛盾しないの」
矛盾しないらしい。
矛盾しないのだそうだ。
恋人になってからというもの、戦場ヶ原の暴言には、ごくたまに砂糖が一粒だけ混ざるようになったのだが、問題なのは、その一粒を探し当てるために九十九粒の塩を舐めさせられるという点である。
「で、阿良々木くん。そのうつろさんが、どうしたって?」
「触ってもわかんないんだとさ」
僕は言う。
「何を触っても、それがそこにあるって感じがしない。熱いも冷たいも、痛いも痒いも、ぜんぶ、すりガラス一枚向こうの出来事みたいになっちまった――って。本人はぜんぜん困ってないみたいな顔をしてたけどな」
「……それは」
戦場ヶ原の声から、砂糖が消えた。
塩も消えた。
ただの、水になった。
「私の、逆ね」
その短い一言にどれだけのものが詰まっているのか、僕にはその半分もわかっていなかったのだろうか――重さをいちど失って、それでもまだ重さのあった頃の自分を覚えているあの女になら、むしろ、わかってしまうのだろう。何も感じないというのは、静かだ。静かすぎて、こわい。たぶん、そういうことなのだと思う。
「あのね、阿良々木くん」
戦場ヶ原は、サンドイッチの最後のひとかけをもてあそびながら言った。
「痛みっていうのはね、自分がまだ、ちゃんと地面の上に立っているっていう目印なのよ。痛いから、ここにいるとわかる。――まあ、殴られても堪えないあなたみたいな鈍感には、一生わからない理屈でしょうけど」
重さを失って、自分が宙に浮いているのか地に沈んでいるのかさえわからなくなったことのある女の言葉には、軽々しく頷くことのできない重み。
比喩ではなく。
「忍野さんのところね」
質問では、なかった。
003
「うつせ蝉だね」
忍野メメは、こちらの説明を半分も聞かないうちにそう言う。
例によってアロハ。例によって無精髭。例によって、潰れた塾の四階で、まるで自分の家みたいな顔をして胡座をかいている。実際、自分の家だと思っているのだろう。家賃を払っていないという一点を除けば。
そして、例によって。
部屋の隅に、金髪の女の子が一人、膝を抱えて座っていた。ヘルメットにゴーグル、見てくれは八歳児くらい。こちらをじっと睨んでいる。睨んでいる、というか、あいつはいつだってああいう据わった目つきをしていて、春休み以来ただの一度も口をきいたことがない。
僕の連れだ。
そう言ってしまうには、少しばかり込み入った連れだったけれど――今は、それはともかく。
そして、今日はもう一人。僕の隣には、戦場ヶ原がいた。昼休みにうつろの話をしたら、「暇だから」と、当たり前みたいについてきたのだ。この女が暇で、こんな辛気くさい廃ビルの四階にまで足を運ぶわけがない。その理由は、たぶん――というか間違いなく、本人がいちばん認めたくないところにある。
「うつせみ、ね。空っぽの蝉と書いて
「知ってるよ、それくらい」
「へえ。じゃあ元が何か知ってるかい?」
「……元?」
「空蝉ってのはね、元を辿ると
忍野は、宙に指で字を書いた。現実の現に、身体の身。
「この世に現れている身。生きてここにいるって意味さ。古い歌では、この世そのものをうつせみの世なんて詠んだりもしたのさ。それがいつのまにか抜け殻のほうを指すようになった。現し身が、空蝉に。生きてる身体を表す言葉が死んだ殻を表す言葉に、すぽんと入れ替わっちまったわけだ。音がちょいと似てるってだけで、生きてるほうと死んでるほうが、するりと立場を入れ替える。蝉が地面から這い出て、背中を割って、自分を脱いでいくみたいにね」
「……入れ替わった」
「言葉ってのはよく入れ替わるんだよ。八九寺の名前のときにも言っただろう? 言霊さ。そういうことになっちまったから、そういうことになる」
「で、名前をつけるってのはね、阿良々木くん」
忍野は、人差し指を立てた。
「手なずけるってことなんだ。名前のわからないものは扱えない。昔の人が、得体の知れない化け物にいちいち名前をつけて絵に描いて図鑑にならべたのも、こわいものを四角い枠のなかへ押し込めて、それでちょいとばかり安心したかったからさ。だからまずこいつにちゃんと名前をやる。うつせ蝉、ってね。――名前さえついちまえば、これでようやく土俵に上がれる」
はっはー、と忍野は笑う。
部屋の隅の金髪が、その笑い声にわずかに眉をひそめた気がした。名付けの話は、こいつにとっても他人事じゃないんだろう、何しろこいつの名前も、そこの軽薄なおっさんが語呂の良さで適当につけたものなのだから。
「君が見つけたそのお嬢ちゃんはたぶん――脱いだんだ。自分から、背中を割って」
「何を」
「手触りを。現実の、実感をね」
忍野は、指で書いた字を払って消した。
「重さを失った子が、いただろう」
忍野は、ちらりと戦場ヶ原のほうへ目をやった。
「あれのちょうど裏側だと思えばいい。あっちは思い悩むのをやめたくて、重みを神様に預けた。こっちは――痛いのをやめたくて、実感を蝉に脱いでもらった。痛みってのは、現実の手触りのいちばん尖ったところだからね。それを感じなくするには手触りごと脱ぐのがいちばん手っ取り早い」
「手っ取り早いって、お前」
神様。
悪魔。
そして、蝉。
ついこないだも、僕は似たような顔で後輩を一人見送ったばかりで、あいつの左腕は結局のところ元には戻らなかったのだから、願いを叶える悪魔というのは、奪うだけの神様よりよほど律儀で、律儀すぎて、かえって容赦がない。
いや、それなら脱ぐ蝉は、どっちなんだろうか。
「で」
戦場ヶ原が、ぽつりと言った。
「その子は、今、どこにいるの」
「おや」
忍野が、にやりとした。
「ずいぶん気にするじゃないか、ツンデレちゃん」
「……気になんてしていないわ」
「するさ。きみは重さを失って、それでも返してほしいと願った側だ。脱いだものをもう一度着たいと願った側だよ。――その逆を行こうとしてる子のことが気にならないわけがない」
「忍野さん」
戦場ヶ原の声は、低かった。
「私、あなたのそういう、人の傷を正確に指し示してくる癖――あまり、趣味がいいとは思えないの」
「はっはー。知ってる知ってる。みんなそう言うんだ」
みんなそう言うらしい。
みんなそう言うのだそうだ。
「でもね、ツンデレちゃん。僕は嫌われるのが仕事みたいなもんでね。好かれて解決した怪異なんてひとつもないのさ」
「言っとくけど」
忍野は、こちらを指さした。いつもの軽い調子で。だけど目だけは、笑っていなかった。
「僕は助けないよ」
「……わかってるよ」
僕は言った。
「お前は、いつだってそうだ」
「よく聞きな、阿良々木くん。あのお嬢ちゃんはね、被害者じゃないんだ」
「被害者じゃ、ない」
「自分から、背中を割って脱いだ。誰に呪われたわけでも、騙されたわけでもない。――つまり、
「……」
加害者、か。
その単語は、なぜだか僕の側にすっと寄ってきた。
「きみが勝手にそう願うなら僕は止めない。蝉も止めない。神様だの妖怪だのってのは、案外人の願いに律儀でね。痛くないようにしてくれって願ったら、ちゃんと痛くなくしてくれる。あったかいも、冷たいも、抱きしめられてる感触も、まとめてね。――律儀すぎて、大雑把なだけさ」
大雑把。
その単語には、覚えがある。神様ってのは、確かに大雑把な連中らしい。
脱いだ殻は、二度と着られないんだろうか。
あの後輩の腕みたいに――あるいは、部屋の隅で膝を抱えている、あの金髪の抜け殻みたいに。
かつて伝説とまで呼ばれた化け物が今は喋りもせず、ただ睨むだけの八歳児になって、こんな埃っぽい廃ビルの隅にいる。昔は、黙るということを知らない女だった。減らず口の塊みたいな奴。それが、今は、ひとことも。
あれだって立派な空蝉で、脱いで、脱がされて――その殻を脱がせたのが誰なのか、僕は知りすぎるくらいによく知っている。
二度と着られない殻を、それでも捨てさせないと決めたのは、僕だ。
「忍野」
僕は訊いた。
「その子がもう一度着直したいって思うには――どうすればいい」
「さあね」
忍野は、肩をすくめた。
「それを思い出すのはお嬢ちゃん自身の仕事さ。なんで脱いだのか。何がそんなに痛かったのか。――脱いだ理由のあるところにしか、着直す場所はないんだよ」
脱いだ理由のあるところ。
その言葉を、僕は廃ビルを出てからも、ずっと口の中で転がし続けていた――人が現実の手触りごと自分を脱いでしまうほどの痛みというのはよほどのもので、そのよほどのものを、あの平らな顔をした少女がたった一人きりで抱え込んでいて、そうしてどうやら、抱え込んだその場所にしか帰り道はないのだという。
ともあれ、僕が向かったのは、最初に彼女と出くわした、あの公園ではなくて、なんとなく、そこじゃない――というか、そこでは見つからない気がしたのだ。
004
鳴海うつろは、二度目もすぐに見つかる。
昨日の公園じゃなかった。古い平屋の一軒家の、その縁側。庭に面した障子は開け放たれていて、彼女は膝の上に色あせた麦わら帽子を載せたまま、誰もいない家にぽつんとひとり腰かけていた。
「おばあちゃんの、家なんです」
僕が隣に座ると、うつろは、訊いてもいないのにそう言った。
「先月まで、ここに、おばあちゃんが住んでて。わたし、おばあちゃん子で。学校が終わると、毎日ここに来て、この縁側で、二人で、
過去形だった。
ぜんぶ、過去形だった。
「先月、死んじゃったんです。おばあちゃん」
うつろは麦わら帽子のほつれた縁を、指でなぞる。なぞっているのに、その指は何も感じていないようだ。
「お葬式のとき、わたし、泣けなかったんです。すごく、悲しいはずなのに。涙が、一滴も出なくて。みんな、泣いてるのに、わたしだけ、ぼーっと、突っ立ってて。――おかしいですよね。いちばん、おばあちゃん子だったのに」
おかしくなんかない、と僕は思う。
涙が出ないのは悲しくないからじゃなくて、悲しすぎて、体がいったんその悲しみごと、どこか手の届かないところへ預けてしまったからで――その預けた先が、よりにもよって夏の蝉だったというだけのことだ。
「……」
「そのとき、思ったんです。あんまり、悲しくて。いっそ、もう、何も感じなければいいのにって。痛いのも、悲しいのも、ぜんぶ、なくなっちゃえばいいのにって。――そしたら」
そしたら、本当になくなった。
願いは、叶ったのだ。律儀すぎて、大雑把な何かによって。
「楽です」
うつろは、薄く笑った。笑った、つもりらしかった。
「もう、痛くないし、悲しくもない。これで、いいんだって、思ってました。ずっと」
「思ってた、ってことは」
僕は言った。
「今は違うのか」
うつろの指が、麦わら帽子の上で止まる。
「……このあいだ、おばあちゃんの夢を、見たんです。縁側で、西瓜を食べてる夢。おばあちゃんの手、すごく、あったかくて。わたしの頭を、撫でてくれて。――でも、起きたら」
彼女の声が、初めてほんの少しだけ揺れた。
「起きたら、その、あったかさが、思い出せなくなってて。どんな手触りだったか、もう、わからなくなってて。怖く、なったんです。このまま、ぜんぶ感じなくしてたら、わたし、おばあちゃんのことも、ぜんぶ、忘れちゃうんじゃないかって」
怖い、と彼女は言った。
何もかも脱ぎ捨ててしまったこの子に、たったひとつだけ残っていたのがその恐怖だったのだ。痛みから逃げ切ったはずの体に、最後まで居残った痛みのかけら。忘れたくないという、それだけが、かろうじて彼女をこちら側につなぎとめていた。
ようやく、わかった。
この子が脱ぎ捨てたのは、痛みだけじゃない――いや、痛みとひとつながりになっていたぜんぶで、おばあちゃんのあのあたたかい手も、縁側で二人して割った西瓜のつめたさも、悲しいという感情でさえも何もかもいっしょくたに脱ぎ捨ててしまって、その痛くないかわりに、この子はもう何ひとつ自分の手で抱きしめられない体になってしまったのだ。
005
「鳴海」
僕は言った。
「お前、たぶん勘違いしてる」
「……勘違い?」
「忘れないために、感じるのをやめたんだろ。でも逆だ。感じるのをやめたら、お前はきっといちばん大事なことから、忘れていく。あったかかった、っていう、それすら」
うつろは、こくりと俯いた。
「でも。もう一回、感じるようにしたら――おばあちゃんが死んじゃった、あの、痛いのも、戻ってきます」
「ああ。戻ってくる」
僕は、ここで嘘はつかなかった――楽な嘘をついてやるのは、たぶんいちばんこの子を馬鹿にすることだったからだ。
「めちゃくちゃ痛いと思う。悲しいと思う。お葬式のときに脱いだやつが一気に戻ってくるんだからな。――でもさ。その痛みはお前がおばあちゃんのことを本気で好きだったっていう、証拠なんだよ。どうでもいい相手のことじゃ、人はそんなに痛くならない」
「……」
「痛くないってのは――おばあちゃんのことを、もう、なんとも思ってないってことだ」
それだけ言って、僕は口を閉じた。
うつろの手が、麦わら帽子を握りしめた。
握ったけれど、その感触はまだ、彼女には届いていないはずなのだ。
「最後の一歩は僕には踏めない」
僕は言った。忍野の受け売りだったけれど、たぶん、本当のことだった。
「お前が脱いだ殻は、お前にしか着直せない。痛いほうの世界に戻ってきたいって、お前が自分で思わないと」
うつろは、答えなかった。麦わら帽子を握ったまま、ながいこと自分の足元を見つめている、その横顔が怖いのだと僕にはわかった――痛くない世界のあの底なしの静けさをいちど知ってしまった人間にとって、もう一度痛みのある世界へ戻るというのは、きっといったん脱ぎ捨てた殻に自分からもういちど袖を通すようなもので、いちど手放した痛みも温度もぜんぶ抱えなおして、まだ手放したばかりの温もりを宿したその薄い殻を、もういちど着なおすのに、いったいどれほどの覚悟がいることなのだろうか――痛みから一度も逃げ切れたためしのない僕には、その半分も見当がつかないのだ。
誰だって、ためらう。ためらって、当たり前だ。
だから僕は、急かさなかった――こういうのは、最後の一歩を本人が自分の意思で踏み出すのを、ただ隣で黙って待つしかないのだ。
西日が、縁側いっぱいをゆっくりとあたたかい色に染めていた。
たぶん何十年ものあいだ、夕方になればこの板の間を、おばあちゃんと、うつろが並んで西瓜を食べていたその同じ場所を、こうして飽きずに温めてきた西日だ。
うつろは、ながいことその西日を見ていた。
それから――そっと、縁側の板に、手のひらを押し当てた。
西日に焼けた、板の間に。
「……あったかい」
最初は、自分でも信じられないみたいな声。
「あったかい。あったかいです。これ。すごく」
ただの西日に焼けた、ありふれた古い板の間。特別なものなんて何ひとつありはしないのに、その何でもない温もりが、すりガラス一枚の向こうから何ヵ月ぶりかにまっすぐ彼女の手のひらへ届いた。
堰が、切れた。
うつろの目から、涙がこぼれた。お葬式のときには一滴も出なかったものが、いまさら、みたいに。
「あった、かい……っ。おばあちゃんの手、こんな、感じ、だった……っ。思い出した。思い出し、ました……っ」
痛いはずだった。
悲しいはずだった。
それでも、泣きながら、うつろは何度も何度も、もう二度と触れられない誰かの手のかわりとでもいうように、あたたかい縁側の板を撫で続けていた。
僕は、何もしなかった。ただ隣に座って、彼女が泣き終わるまで、夏のはじまりの蝉の声をいっしょに聞いていた。
泣き終わると、うつろは膝の上の麦わら帽子をそっと頭にのせた。色あせた、おばあちゃんの帽子。
「……ちくちく、します」
濡れた顔のまま、彼女はちょっとだけ笑う。さっきまでは、いくらなぞっても、何ひとつ感じなかったはずの、その麦わらが。
脱いだ殻は、二度と着られない――そう思っていた。
けれど、どうやら。
着直す本人さえいれば、殻はちゃんと本人のところへ帰ってくるものらしかった。
どこかで、蝉がまだ鳴いていた。
今年は、もう、夏なのだ。
006
後日談というか、今回のオチ。
その晩、僕は猫の背中を撫でてみた。あたたかかった。鉄棒は触らなかった。夜の鉄棒は、だいたい、ろくな結末にならない。
ただ、念のため、自分の頬を一度つねってみたら、しっかり痛かったので、僕はまだ、ちゃんと
当たり前のことが、当たり前にあった。
痛いのも、あったかいのも、ぜんぶちゃんと、そこにあった。
数日して、鳴海うつろから短い手紙が届いた。指の傷は、ちゃんと痛くて、ちゃんと治りました、と書いてある。最後の一行は、こうだ。『痛いのも、悪くないですね』
たった一行の、なんでもない報告。庭に、来年こそ西瓜が生えるといい、とも書いてあった。
悪くない、か。
脱いだ殻に、もう一度袖を通すのが、どれだけ難しいか。それは、僕も――いや、僕こそが、ほんの少しだけ知っているつもりだ。春休みに、よく似た選択をしたことがあったからだ。
いつか、それを伝えてやれる日が来るといい。
部屋の隅で、ずっと黙ったままこちらを睨んでいる、あの金髪の抜け殻にも。