余白物語 作:平行四辺犬
001
死体は、寒がらない。
当たり前と言えば当たり前の話で、寒いだの暑いだのと文句を垂れるのは生きている人間に許された特権のようなものであって、既に死んでいる者にとっては外の気温がどうなっていようと本来は知ったことではないはずだった。冷えれば縮こまり、凍えれば震え、やがて温もりを求めて誰かの隣に座る――そういう一連のいじましい仕草はすべて、心臓が動いていることの副産物なのだ。血が巡っていなければ、寒さもまた巡らない。
寒さとは、つまるところ生きていることの証明のようなものだった。指先がかじかむのも、鼻の頭が赤くなるのも、吐く息が白く濁るのも、要するにまだ心臓が動いていますという身体からの律儀な報告にすぎない。だから人は寒い寒いと文句を言いながら、そのじつ寒がれる程度には元気なのであって、本当に剣呑なのは寒さを感じなくなったときのほうなのだ。凍える人間が最期には案外暖かくなって、眠るように事切れるという話を、僕はどこかで聞いたことがある。寒さが消えたとき、人は生から、一歩、外へはみ出す。
だとすれば、最初から寒さを感じない者というのは、最初から生の外側に立っている、ということになる。
などと、詩人めいたことを考えてはみたものの、要するに、死体は寒くない、という話の振り出しへぐるりと戻ってきただけでもあった。朝っぱらから縁側で、ずいぶんと壮大な遠回りをしたものだ。
だから、僕の家の縁側に腰かけて、庭に降る雪を眺めているその少女が、寒さを感じているはずはなかった。
なかったのだが。
「鬼いちゃん」
その少女――
「僕は今、寒い。すごく寒い。凍えそうだ」
「嘘つけ」
僕は即座に突っ込んだ。突っ込まずにはいられなかった。「斧乃木ちゃんに、寒いも暑いもないだろ。感覚なんて、とっくに成仏してるんだから」
「うん。だから寒くない。全然寒くない」
「どっちだよ」
「そういう気分になってみたかっただけ。生きてる人間って、こういうとき寒がるものなんでしょ? だからやってみた。――僕はキメ顔でそう言った」
言ってしまってから、斧乃木ちゃんは、ほんのわずか硬直した。
キメ顔でも何でもなかった。彼女の顔は、雪よりも白く、雪よりも動かない、いつも通りの無表情。――だが、それでもわかる。今のは、しくじった、という顔だ。
「――僕はキメ顔でそう言った」。眉ひとつ動かさない無表情のまま、平坦な台詞の尻にこの一言を判で押したように貼りつける。それが、かつての斧乃木ちゃんの様式だった。かつての、である。この
「その様式、いつまで続けるつもりなんだ」
「僕が朽ちるまで」
「気の長い芸だな」
三月の、なかばのこと。
外は朝から雪。三月に雪というのも珍しくはあったが、この町は夏に虎が歩き秋に蛇が神になるような土地柄なので、季節外れの雪くらいでいちいち驚いていたら身がもたない。空から落ちてくるのが火の粉でなかっただけましだと思うべきなのだろう。
002
その日、阿良々木家に生きた人間は、僕ひとり。
妹たちはそろって外出していた。上の妹の火憐は「雪の日こそ走る意味がある」という、字面だけ見れば哲学的だが中身は完全に馬鹿の理屈をかざしてジャージ姿で飛び出していったし、下の妹の月火は月火で、友達の家に泊まりに行くとかで昨日から帰っていない。両親は当然のように仕事だ。うちの父も母も警察官なので、雪が降ろうが槍が降ろうが、悪人が店じまいをしてくれない限りは家に帰ってこない。
というわけで、受験も卒業式もとうに終わり、あとは合否の発表を待つばかりの、この三月の一日を、僕は一体の死体人形と二人きりで過ごすことになったのだった。
いや、正確には二人ではない。
僕の影の中には、金髪の吸血鬼が一匹眠っている。数えるならば三人。もっとも、そいつは冬眠中の熊よりもよく眠るたちなので、頭数に入れると本人がむくれる。
留守番、という言葉が僕はあまり好きではなかった。留守を守る、と書くわりに、実際にやっているのは、ただ家にいるだけの、何もしない時間だ。守るというほど大層なものは、たいてい、何も起こらない。何も起こらないことを見届けるためだけに、人は留守番をする。もっとも、この家にかぎっては、その「何も起こらない」という保証が、いちばんあてにならなかった。なにしろ、夏には妹が不死鳥だと判明し、秋には妹の友達が蛇の神様になった家である。留守番のあいだに何事もなければ、それはそれで、めっけものと思っておくべきなのだろう。
「鬼いちゃんは、寒くないの」
「寒いよ。人間だからな」
「じゃあ、あっちに行けば?」
斧乃木ちゃんは、暖房の効いた居間のほうを白い指でさした。ごもっともな指摘。暖房の効いた部屋があるというのに、わざわざ縁側で震えている人間がいたら、それはただの間抜けである。
だが、僕はその間抜けをやっていた。
なぜかと言えば、この死体人形を一人にしておくのが、なんとなく据わりが悪かったからだ。
――と、そこまで大真面目に考えて、僕は自分が他人(他人?)の留守番につきあって庭の雪を眺めていることに、我ながらたいがいだと思った。ひょっとしたら、ただ暇なだけかもしれない。
003
「雪だるまを作りたい」
唐突に、斧乃木ちゃんが言った。
脈絡というものが、どうやら彼女の辞書には載っていないらしい。言葉と言葉のあいだに、橋も梯子も、飛び石の一個すらない。
「なんで」
「作りたいから」
「理由になってない」
「じゃあ、作りたくないから作りたい」
「もっとなってない」
「鬼いちゃんは理屈っぽいね。そういうところが、後期高齢者にそっくりだよ。――僕はキメ顔でそう言った」
「……また出てるぞ、それ」
「出てない」
「出てた。『キメ顔でそう言った』。封印したんじゃなかったのかよ」
「鬼いちゃんの空耳だ。僕はそんな恥ずかしいこと、金輪際言わない。言った例しがない。歴史上、ただの一度も」
「歴史を書き換えるな」
本人の中ではとっくに無かったことになっているらしい。無かったことにするには、この五分で二回も出ているのだが。
「あと、忍を後期高齢者なんて呼ぶなよ。あいつ、あれで気にするんだから。……名前を出すと、起きてくるしさ」
「起きたら一緒に作ればいい。三人で作れば早い」
早いのか。三人で作ったら、それはもう雪だるまではなく雪の共同事業みたいなものではないか、と思ったが、口には出さなかった。口に出したところで、この人形に通じるとも思えなかったからだ。
ともあれ、僕は縁側から立ち上がった。
卒業したばかりの高校三年生が、来たる春に思いを馳せるでもなく、志望校の合格発表に胃を痛めるでもなく、雪の降る庭で死体人形と雪だるまを作る。字にすると、ずいぶんと締まりのない三月。締まりのない三月ではあったが、案外、そういう日のことを、人はあとになって思い出すものらしい。
004
握れば、すぐに固まる雪。
こういう質の雪は、雪だるま作りには向いている。きめの細かい粉雪では、玉が育つ前に手のひらからこぼれてしまう。落ちてきたそばから固まってくれる雪のほうが、都合がいいのだ。
――もっとも。
都合のいい雪、というのも妙な言い草だった。雪のほうにしてみれば、握られて固められて転がされて、しまいには誰かの背丈ほどの玉に押し固められるわけで、当人(当雪?)にとっては、いい迷惑の極みなのではないだろうか。
「鬼いちゃん、手が赤い」
「凍えてんだよ。人間だからな」
「さっきから、人間だからな、しか言ってない」
「事実だからだよ」
斧乃木ちゃんの手は、赤くならない。
当然だ。彼女の身体には血が通っていない。頬を刺す風がどれほど冷たかろうと、雪をどれほど素手でこねようと、その白い指先が赤らむことはない。凍傷にもならなければ、しもやけにもならない。彼女はただ、雪と同じ温度で、雪をこねていた。
雪をこねる雪、みたいだった。
その手つきは、見ようによっては、ひどく寒々しかった。血の通わない手が、冷たいものを、冷たいまま、黙々とこねている。だが、見ようによっては――そう、たとえば、ずいぶんと気の長い辛抱強さのようにも見えた。冷たさに文句も言わず、赤くもならず、ただ淡々と、玉を丸める。感情がないというのは、裏を返せば、感情に振り回されないということでもあるのだった。僕なら、三分でやめている。
僕は転がした玉を胴体にして、彼女の丸めた玉を頭に乗せた。彼女のこしらえた玉は、気味が悪いほど真球に近かった。人形の手つきは、正確なのだ。感情のこもらない仕事は、いつだって寸分の狂いもない。
「顔をつけよう」
「木の枝でも拾ってくるか。目は炭で……いや、うちに炭なんてあったかな」
「目はいらない」
「雪だるまに目をつけないのか」
「目をつけると、こっちを見る。見られると、恥ずかしい」
「雪だるまに見られて恥ずかしがるなんて、初めて聞いたな」
「じゃあ、口だけつける」
彼女は、雪だるまの顔のあたりに、木の枝を一本、横一文字に挿した。
への字でも、にっこりでもない。ただ、まっすぐな一本の線。
感情のない、横一文字の口。
「これは僕だ」
と、斧乃木ちゃんは言った。
「僕の顔だ。よく似てる」
似ていた。
悔しいくらいに、
005
雪だるまというのは、放っておけば溶ける。
それが雪だるまの本分であり、宿命であり、あるいは唯一の取り柄でもある。今日こしらえたそれも、明日には少し小さくなり、明後日にはさらに縮み、そのうち庭の隅に泥混じりの水たまりを残して、跡形もなく消えてしまうだろう。桜が咲く頃には、ここに雪だるまがあったことなど、誰も覚えていない。
溶けるからこそ、雪だるまなのだ。
溶けない雪だるまは、たぶん、雪だるまとは呼ばれない。それはもう、白い塑像か、季節を忘れた置物か、そうでなければ――ただの、変わらないもの。
変わらないものは美しい、と人は言う。永遠だとか、不変だとか、その手の言葉には、たしかに、どこか陶然とさせる響きがある。陶然、というのも柄にもない言葉を選んでしまったが、まあいい。だが、よくよく考えてみれば、変わらないというのはそもそも何も起こらないということであって、何も拾わず、何も失わず、昨日と同じ顔で今日を迎え、今日と同じ顔で明日を送り――つまり、財布の中身が一円も減らない代わりに一円も増えもしない、そんな一日を延々とくり返すようなもので、いや、財布よりは、賽の河原で石を積んでは崩し積んでは崩ししているほうが近いか、とにかくそうして一日をやり過ごすたびに損も得もしないというのは、一見すると幸福の別名のようでいて、その実、時間のほうから爪弾きにされ、明日という日にははなから用のない者として扱われているだけなのかもしれず、だとすればそれはむしろ、幸福というより、緩慢な置き去りに近いのではないだろうか。溶ける雪だるまと、溶けない何か。どちらが幸福なのかを決める権利は、雪だるまを作った人間にも、雪だるまそのものにもない。
斧乃木ちゃんは、その横一文字の口をした雪だるまを、黙って見上げていた。
彼女は、変わらない。
僕が彼女と出会ってから――正確には、僕の可愛くない妹を殺しに来たこの死体人形に、ちょっとばかしやんちゃに盾突いてから、そこそこの月日が経つ。そのあいだに、僕は季節を巡り、受験をして、高校を卒業した。数えきれないほどのものを拾い、同じくらいの数を取りこぼしてきた。
けれど彼女は、出会った日から今日まで、背丈も、声も、その白い横顔も、一ミリだって変わっていない。
死体は、老いない。
人形は、育たない。
彼女は、この雪だるまとは正反対に――決して溶けない。
「鬼いちゃん」
「なんだ」
「難しい顔をしてる。後期高齢者にそっくりだ」
「またそれか」
「難しいことを考えてるなら、やめたほうがいい。鬼いちゃんが考え事をすると、だいたいろくなことにならない。この町の統計がそう言ってる」
「余計なお世話だよ」
僕は、危うく、言いそうになった。
斧乃木ちゃんは溶けなくて羨ましいとか、それとも、溶けないのは寂しくないのかとか、そういう、いかにも物わかりのいい人間が言いそうな、湿っぽくて据わりの悪い台詞を。
言わなくてよかった、と思う。
言っていたら、たぶん、この死体人形は、心の底から軽蔑した目で――いや、無表情のまま、僕を見ただろうから。
006
「鬼いちゃんは、勘違いしてる」
僕が何も言わないうちに、斧乃木ちゃんのほうが口を開いた。
まるで、僕の言いかけた湿っぽい台詞を、口に出される前に横から刈り取るみたいに。
「勘違い?」
「僕が、変わらないと思ってる」
「……変わるのか。斧乃木ちゃんが」
「変わるよ」
彼女はしゃがみ込んで、雪だるまの足元――足はないが、その根元のあたりの雪を指先でつついた。
「去年の僕は、鬼いちゃんのことを、殺すべき化物だと思ってた。今年の僕は、鬼いちゃんの家で、雪だるまを作ってる。ずいぶん変わった。革命的に変わった。――僕はキメ顔で」
そこまで言って、斧乃木ちゃんは、ぴたりと口を閉じた。今度は、すんでのところで例の黒歴史を飲み込んだらしい。革命的に変わった、と言った矢先に古い口癖が出かかるあたり、存外こいつも変わっていない――と思ったが、言わないでおいた。飲み込めたのなら、上出来だ。
「……そりゃまあ、そうだけど」
「背が伸びないのと、変わらないのは、別のことだよ。鬼いちゃん。背の伸びない人間が、みんな去年のままだと思う? そんなわけない。背の縮んだお年寄りが、みんな子供に戻ってると思う? 思わないでしょ」
思わなかった。
当たり前の話。当たり前すぎて、僕はそれをすっかり取り違えていた。
外側が同じだからといって、中身まで昨日のままだと決めつける。それはずいぶんと失礼な話で、いや、失礼というより、筋の通らない、勝手な思い込みだった。ちょうど、雪だるまに目をつけて、こっちを見られると恥ずかしがるのと、同じくらいには。
「余接ちゃんは、たまにいいこと言うな」
「たまにじゃない。いつも言ってる。鬼いちゃんが聞いてないだけ」
「言うようになったなあ」
「貝木の影響だ」
「あの詐欺師の影響で口が悪くなったのか。最悪の教育だな」
「うん。最悪だと思う。でも、悪くない」
悪くない、と彼女は言った。
最悪だけど、悪くない。
矛盾しているようだが、たぶん、そういうものなのだろう。つまり、理屈としては破綻しているのに、なぜか、ちゃんと筋が通って聞こえる。この人形の言い分は、いつもそう。
007
ともあれ僕たちは、しばらく無言で雪だるまを見ていた。
横一文字の口をした、目のない雪だるま。斧乃木ちゃんいわく、彼女自身の似姿。
雪は、まだ降っていた。僕たちの作った雪だるまの頭に、肩に、少しずつ、新しい雪が積もっていく。積もったそばから律儀に固まって、固まったそばからまた降ってきて、雪だるまは、こしらえた直後よりも、心なしか大きくなっていた。
溶けるまでは、育つのだ。
消えるまでは、少しずつ、形を変えていくのだ。
それは、なんだか、少しだけ、救いのある話のように思えた。どうせ溶けるのだから何をしたって無駄だ、というのが、いちばん簡単な考え方である。簡単で、そしてたぶん、間違っている。溶けるまでのあいだにも、雪だるまはちゃんと雪を受け止めて、少しずつ大きくなる。溶けることと、育つことは、同じ一つの身体の上で、矛盾なく同居していた。もっとも、雪だるま一つ眺めてそこまで御大層な教訓を引っぱり出すのは、いささか元が取れていない気もしたが。
「鬼いちゃん、卒業したんでしょ」
「ああ」
「これから、この家、どうなるの」
「どうもならないよ。僕はしばらく、家から大学に通う。合格してればの話だけどな」
「不合格だったら?」
「その話はするな。胃に穴があく」
「穴があいても、鬼いちゃんなら塞がる。吸血鬼だから」
「もうその力には頼らないって決めたんだよ。だから胃薬を飲む」
「じゃあ、胃薬を買ってくる。僕が」
「なんで余接ちゃんが」
「留守番のお礼だ」
留守番をしていたのは、どちらかというと僕のほうだと思ったが、口には出さなかった。訂正したところで、この人形が「そうだね」と引き下がるとも思えなかったし、何より、胃薬を買ってきてやると言い出した死体人形に、そういう理屈で水を差すのはなんとなく無粋な気がしたからだ。
「――僕がいるあいだは」
と、斧乃木ちゃんは、雪だるまを見上げたまま言った。
「この家、雪だるまくらいは作れる」
それが、どういう意味なのか。
僕は、あえて訊かなかった。いや、訊くだけ野暮というものだ。
訊けば、たぶん、彼女は「そのままの意味だよ」とだけ言って、あとは口をつぐむだろう。この人形は、大事なことほど、木の枝で挿した横一文字の口みたいに、まっすぐ一言で済ませてしまうのだ。
008
結局、僕たちはその足で、近所のコンビニまで胃薬を買いに出ることになった。
斧乃木ちゃんが「善は急げ」と言い出したからだ。死体人形の口から「善は急げ」という格言が飛び出すと、急かされている善のほうが、なんだか迷惑そうに見えてくるのだから不思議である。善だって、たまには雪の日にこたつでみかんを剥いていたいだろうに。
雪の中を、二人で歩く。
僕の足元では、一歩ごとに、雪がぎゅ、ぎゅ、と鳴った。踏むたびに固まって、体重を、下へ下へと受け止めてくれる音だ。生きている人間が雪の上を歩くと、たいていこの音がする。重さの音。
斧乃木ちゃんの足元は、鳴らない。
気になって振り返ってみると、雪の上に点々と続いているのは、僕の足跡だけ。彼女の歩いてきたあとには、ごく浅い輪郭のぼやけた窪みがあるきりで、まるで雪のほうが、彼女がそこにいたことを半分しか認めていないみたいだった。
「足跡、つかないんだな」
「つくよ。薄いだけ。僕は軽いから」
「軽いって、体重がないのか」
「あるよ。でも、生きてる重さとは、種類が違う。生きてる重さっていうのは、下に向かってかかるでしょ。地面に、まっすぐ。僕の重さは……なんて言えばいいのかな。あんまり、どこにもかかってない」
どこにもかかっていない重さ、というものを、僕はうまく思い描けなかった。重さというのは、どこかにかかるからこそ重さなのであって、どこにもかからない重さは、いっそ軽さと呼んだほうがいいような気もしたが、彼女はそれをはっきりと「重さ」と言った。かからない重さを、抱えて歩く。それがどういう感触なのか、生きている僕には、見当もつかなかった。もっとも、見当がついてしまったら、それはそれで薄気味が悪い。生きている人間が死体の重さの感触までわかるようになったら、それはもう、だいぶ末期である。
途中、民家の庭先で、犬が吠えた。
鎖につながれた大きな犬が、僕たち――正確には、斧乃木ちゃんのほうを見て、全身の毛を逆立てて、けたたましく吠え立てた。雪の日の静けさを、根こそぎひっくり返すような声。
「嫌われてるな」
「犬は正直だから」
と、斧乃木ちゃんは、犬のほうを見もせずに言った。
「僕が、この世にいるべきじゃないものだって、ちゃんとわかってる。生きてもいないのに動いてる。そういうのは、勘のいい生き物には、気持ちが悪い」
「気にすんなよ」
「気にしてない。犬に嫌われるのは、慣れてる。猫にも、赤ん坊にも、勘のいい人間にも、だいたい最初は嫌われる」
その平坦な声が、今日はほんの少しだけ、いつもより静かに聞こえた。気がした。もっとも、たぶん気のせいである。死体人形の平坦な声に、静かも騒がしいもあったものではない。僕の耳が、雪のせいで、勝手にそう聞いただけだろう。そういうことにしておいた。
コンビニで、僕は胃薬を買った。
斧乃木ちゃんは、勝手にドーナツを一箱、かごに入れた。
「それ、余接ちゃんが食うのか」
「旧キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードに。留守番のあいだ、鬼いちゃんの影の下で、ずっと寝てるだけの同居人への、手土産。……手土産って、こういうときに使うので合ってる?」
「合ってるよ。だいたい合ってる」
レジの店員は、斧乃木ちゃんの顔をひと目見て、ほんの一瞬、言葉に詰まった。何かを言いかけて、やめた。雪より白い肌と、まばたきをしない目に、居心地の悪さを覚えたのだろう。だが、それを口に出さないだけの分別が、その店員にはあった。この町の人間は、たいてい余計なことを見ないふりで済ませる術に長けている。そうでもしないと、この町ではとても暮らしていけないからだ。
帰り道、また雪が降り始めた。
「お姉ちゃんは、今、北のほうにいる」
と、斧乃木ちゃんが、例によって脈絡なく言った。お姉ちゃん、というのは、彼女の本来の主人――影縫余弦のことだ。
「北極で、白熊と喧嘩してるらしい。連絡が、たまにしか来ない」
「白熊と喧嘩って……影縫さん、地面を歩けないのに、北極でどうやって暮らしてんだよ」
「知らない。流氷の上を跳んでるんじゃない? あの人は、そういう人だから」
「そういう人、で片づけていい話じゃない気がするけどな」
「僕は今、お姉ちゃんから鬼いちゃんに、貸し出されてる。……貸し出されてる、で合ってる?」
「合ってるよ。合ってるけど、もうちょっとマシな言い方はなかったのかよ」
「じゃあ、居候」
「それも微妙に違う気がするな」
僕たちは、雪の降る道を、並んで歩いて帰った。
僕の足跡と、彼女の薄い窪みが、二列。降り続ける雪が、そのどちらも少しずつ埋めていった。埋まる速さは、たぶん同じだった。重さのある足跡も、重さのかからない窪みも、雪にしてみれば、埋めるべき凹みという点ではなんの区別もない。
009
夕方、火憐がずぶ濡れで帰ってきた。
雪の中を延々と走ってきたらしく、頭から湯気を立てて、玄関で「兄ちゃん、風呂!」と叫んだ。相変わらず、季節にも天候にも喧嘩を売りに行くような妹。
「あー、寒かった! 死ぬかと思った!」
「死ぬなら走るな」
「走らなきゃ死んでたね!」
理屈が完全に円環している。突っ込む隙もない。
その火憐が、庭の雪だるまを見つけて、「なにあれ」と首を傾げた。
「兄ちゃんが作ったの? 珍しー。ってか、なんか顔こわくない? 目がなくて口だけって」
「ああ、まあな」
余接ちゃんの自画像だ、とは言えなかった。
火憐にとって斧乃木ちゃんは、下の妹の月火が自分の部屋に飾っている、ただの出来のいい着せかえ人形にすぎない。動くことも、喋ることも、まして雪だるまをこしらえることも、うちの上の妹は知らない。――本当は月火を見張るために阿良々木家へ潜り込んでいる式神なのだが、そんなことは、口が裂けても言えたものではなかった。だから斧乃木ちゃんは、火憐が玄関の戸を開けたその瞬間から、靴箱の上にちょこんと腰かけて、ぴくりとも動かなくなっていた。まばたき一つしない、精巧な人形の顔で。
――だが、僕にはわかる。
今、こいつは猛烈に不服そうだ。自信作の自画像を「こわい」呼ばわりされて、無表情の、そのまた奥のあたりで、静かに憤慨している。
人形の抗議は、声にならない。ならないが、なぜか、伝わってくる。
「こわくないだろ。目がないのも、味があっていいじゃないか」
僕は、本人に代わって弁護しておいた。
「えー、兄ちゃん趣味悪すぎ」
火憐は靴箱の上の人形を、通りすがりにぽんと撫でて、風呂場へ消えていった。撫でられたほうは、されるがまま。ただ、その横一文字の口が、心なしか、いつもより不満げに見えた。
もちろん、気のせいだろう。人形は、拗ねない。
――と、そこまで見届けて、僕はなんだか、少しだけ、肩の力が抜けるのを感じた。この、くだらない、どうでもいい、締まりのないやりとりのために、僕はさっきまで寒い縁側で震えていたのかもしれない。
010
その夜。
風呂上がりの火憐がとっくに寝入って、家がすっかり静まったころ、僕は自分の部屋の窓からもう一度、庭の雪だるまを見下ろした。
雪は、いつのまにか止んでいた。
雲の切れ間から、細い月が出ていた。その頼りない光の下で、横一文字の口をした雪だるまは、庭の真ん中にひとつ、立っていた。目がないので、どこを見ているのかもわからない。ひょっとしたら、何も見ていないのかもしれないし、全部を見ているのかもしれない。
明日には、少し溶けるだろう。
明後日には、もっと溶けるだろう。
四月になる頃には、たぶん、跡形もなくなっている。
「――何を、しみったれた顔で見ておるのじゃ、お前様は」
影の中から、寝ぼけた声がした。
金髪の吸血鬼が、どうやら僕の影を通じて、同じ景色を見ていたらしい。
「別に。雪だるま見てただけだよ」
「あの、目のない不気味な雪の塊がか。趣味が悪いのう」
「余接ちゃんの自画像だってさ」
「ふん。……よう似ておるわ」
忍まで、そう言った。
似ている、と、この家の全員が言う。目のない、口だけの、笑いも泣きもしない雪だるまが、あの死体人形に、よく似ていると。
悪趣味な話。
悪趣味な話ではあったが――と、そこまで考えて、僕は自分が真夜中に庭の雪だるまを相手に、ずいぶん立派な感慨にふけっていることに気づいた。我ながら、たいがいである。ひょっとしたら、ただ眠いだけなのかもしれない。
僕はカーテンを閉めて、布団にもぐり込んだ。
明日、目が覚めたら、あの雪だるまは、今日より少しだけ小さくなっているだろう。そして、あの死体人形は、今日とまったく同じ背丈で、居間のこたつに座って、「おはよう、鬼いちゃん」と、抑揚のない声で言うのだ。
――僕はキメ顔でそう思った。
あいつが封印したはずの黒歴史を、一つ、こっそり失敬して。
もちろん、キメ顔でも何でもなかった。