余白物語 作:平行四辺犬
001
世の中には、人間関係を貸借対照表で運用する人種がいる。
受けた恩は負債の欄に、かけた情は債権の欄に。奢られた昼飯は短期借入金で、バレンタインのチョコレートは前受金。決算は常に即日、繰越は認めず、監査は誰にも任せない――そういう帳簿を心の中に一冊、それこそ命より大事そうに抱えて生きている人種が、この世には確かに存在するのである。
誰のことかと言えば、僕の彼女のことだった。
戦場ヶ原ひたぎ。直江津高校三年、学年でも指折りの才媛にして、自他ともに認める毒舌家である。ちなみにクレジットという言葉は、ラテン語のクレデレ――「信じる」に由来するのだと、いつか僕に教えてくれたのも彼女で、ツケで飲めるのは店に信じられているからであり、カードが切れるのは信用の残高が残っているからであり、つまり貸し借りというものは金の話をしているようでいて、その実、最初から最後まで、信じるか信じないかの話をしているらしい。聞いたときは、へえと思っただけだった。この八月ほど、その蘊蓄を噛み締めた月もない。
彼女は、受けた恩を必ず返す。
恩に着る、という気長な話ではない。受け取ったら帳面につけ、締め日を切って、受け取った以上を揃えて、返す。そういう人間に彼女を作り上げたものの正体を、僕は少しだけ知っている。彼女の家は一度、壊れているのだ。病気の娘を救おうとした母親が、まっとうでない神様に金を注ぎ込み、家計ごと家庭が崩れ、両親は離婚して、彼女は今、古いアパートで父親と二人で暮らしている。彼女の言う「信用」がどういう金利で焦げついてきたのかを、僕はいくらかは知っているつもりである。
そしてこの七月の終わりに、彼女は、その崩壊に関わった詐欺師との年季の入った貸し借りに、決着をつけた。名前は伏せる。伏せるだけの価値もない男だが、ともあれ決着はついて、清算は済んで、彼女の長い長い帳簿は、これでようやく閉じられた――はずだった。
閉じた帳簿に、何が起きたか。
これから話すのは、そういう話である。
002
八月十七日、木曜日。午前九時に、携帯が鳴った。
「おはよう、阿良々木くん。朝から悪いわね。……お願いが、あるのだけれど」
と、戦場ヶ原は言った。それから電話の向こうで、わずかに間があった。
「うちに来てくれないかしら。相談したいことがあるの」
昔の――といってもほんの数ヶ月前の彼女なら、こうは言わなかったはずだ。来なさい、と言っただろうし、なんなら理由も告げずに呼びつけて、渋れば文房具の在庫一掃セールが僕の顔面に向かって開催されただろう。頼みごとを頼みごとの形で口にするようになったのは、この夏、髪を短くしたあたりからのことである。
「わかった、すぐ行く」
「ありがとう。……ふふ。素直にお礼が言える女になったものだわ、私も」
「自分で言うと台無しなんだよなあ」
僕は着替えて自転車を出し、出がけに思い出した玄関のスイカを、前かごに積んだ。一昨日親戚が送ってきた大玉の二個目で、手土産にはちょうどいい。
民倉荘二〇一号室。築年数を訊くのが失礼にあたる木造アパートの、外階段を上がって手前の部屋だ。呼び鈴を押すと短い髪の戦場ヶ原が顔を出して、父親は仕事だと言った。六畳の部屋では扇風機が首を振っていて、卓袱台の上だけがやけにきちんと片付いている。
「ほら、差し入れ。スイカ」
「あら、気が利くじゃない」
彼女は目を細めて、両手を出した。
僕はその両手の上に、大玉のスイカを載せた。
――載せた、はずだった。
スイカは彼女の両手を素通りして、落ちた。畳に着弾する寸前、僕の手が辛うじて追いつく。春休み譲りの反射神経に感謝すべき場面だが、それより先に、頭の芯が冷えていた。彼女は確かに、受け取ったのだ。指はスイカに触れていた。触れていたのに――渡らなかった。
二度目、彼女は両腕で抱え込むようにしたが、スイカは腕の輪をすり抜けて、また落ちた。受け止めた。三度目は彼女のほうから覆いかぶさるように取りにきて、結果は同じで、それを受け止めたとき、僕の膝は畳についていた。
「訓練よ。阿良々木くんの動体視力がなまっていないか、抜き打ちで検査したの。三回とも、合格よ」
「三回連続で検査するな、心臓に悪い」
軽口の形はしていた。形はしていたが、目が笑っていない。彼女は自分の両手を開いて、しばらく眺めて、それから諦めたように卓袱台を指した。
「座って頂戴。……見てもらいたいものがあるの」
卓袱台の上には、大学ノートが一冊、開いて置いてあった。几帳面な字で表が引いてあり、日付、品目、出どころ、結果と並んで、昨日の朝から今朝までで、すでに二ページが埋まっている。学年トップクラスの秀才は、怪奇現象に見舞われても記録から始めるらしい。
彼女の説明は、実験報告のように整然としていた。始まりは昨日の朝、お隣のお裾分けの茄子を、三本とも玄関に転がしたこと。以来ひととおり試して、規則性はもう掴んであるという。自分で買ったものは、持てる――現に手元の麦茶は自分でスーパーで買ったもので、このとおりだ。借りたものも持てるし、図書館の本は普通に読めた。返す前提のものは、通る。通らないのは、もらうものだけ。手渡しでも置き土産でも駄目で、父親が買ってきてくれた梨は三回落として、三回とも「手が滑った」で押し通したそうだ。
「それだけじゃないのよ。昨日の夜、お父さんが炒飯を作ってくれたのだけれど」
彼女はそこで、初めて言い淀んだ。
「味が、しなかったわ。お湯を噛んでいるみたいに。私に元気がないと、あの人は炒飯を作るのよ。昔から、そうなの。その炒飯の味が、しないの。……今朝、自分で作った目玉焼きは普通の味がしたわ。つまり、そういう規則なのよ」
物だけでは、なかった。彼女はノートの最後の行を指でつついて、実験に付き合いなさい、と言った。私を褒めてみて頂戴、何でもいいから、心を込めて――と。
「注文をつけられて込める心があるか。……ええと、あれだ。お前、頭いいよな。この状況でこのノートを付けられるあたり、本物だと思う」
「…………」
「戦場ヶ原?」
「ごめんなさい、今、何か言っていたかしら。口は、動いていたけれど」
背中を、冷たいものが這った。声が小さかったわけではない。彼女の耳は僕の声を拾っていて、それなのに、褒め言葉だけが、彼女のどこにも届いていないのだ。
「ちなみに、悪口は聞こえるのよ」
「……試したのか」
「お父さんに頼んだら泣きそうな顔をされたから、自分の声を録音して再生したわ。あなたは可愛げのない女ね、って。一言一句、明瞭に」
「自分の悪口を自分で録音して自分で再生するな。悲しみの自給自足だろ」
「効率的でしょう」
効率の問題ではない。しかしこれで輪郭は出た。物でも、飯でも、言葉でも――人から与えられるものだけが、彼女を素通りしていく。値段のつかない好意ほど、綺麗に、跡形もなく。
「それとね。関係があるのかは、わからないのだけれど――夜になると、音がするの」
と、戦場ヶ原は少しだけ声を落とした。規則正しい、硬い音。かっ、かっ、と等間隔で、几帳面で、そろばんでも弾いているような……何かの勘定を、ずっと数え続けているような音だという。外に見に出ても、誰もいない。ただ一度だけ、カーテンの隙間から、視界の隅に――馬のような、首の長い影が見えた気がした、と彼女は真昼の蝉しぐれの窓へ目をやった。振り向いたときには、もう消えていたけれど、と。
怪異、なのだろうか。いや、考えるまでもない。ここまで規則の綺麗な怪奇現象が、怪異以外の何かであるものか。問題は、こういうときに頼るべき専門家を、僕たちがもう知らないことのほうだった。廃ビルの四階に住み着いていたあの胡散臭いアロハシャツの男は、二ヶ月前、別れも告げずにこの町から消えて、連絡先など、はなから教わっていないのだった。
だが、あてが一つもないわけでもない。
僕の影の中には、五百年を生きた元怪異の王が住んでいる。夜になれば、機嫌次第で口も利く。機嫌の相場は、ドーナツで決まる。
「夜まで待ってくれ。うちの物知りに訊いてみる」
003
昼、僕は神原駿河を呼び出した。
場所は町内の公園で、電話を切ってから五分後には、ジャージ姿の後輩が汗だくで走ってきた。
「やあ、阿良々木先輩! 呼ばれて飛び出て駆けつけ三分――いや、五分! 遅参の段、平にお詫びする!」
「いや早いよ。お前んちから二キロはあるだろ」
神原駿河。直江津高校の二年生で、元バスケットボール部のエースにして、戦場ヶ原の中学時代からの後輩である。左腕には真夏だというのに、肘から先までぐるぐると包帯が巻いてある。事情は省くが、こいつも僕や戦場ヶ原と同じ側の――厄介ごとの敷居を一度跨いだ側の人間だ、とだけ言っておく。
「それにしても、阿良々木先輩のほうからお呼び出しとは光栄の極みだ。先輩は私の恩人であり、恩師であり、もはやマイベネファクターと言ってもいい」
「恩師は誤用で、三つ目はただの英訳だ。段が一つも上がってない」
「では本題を伺おう。ついに私の身体が目当てか。よろしい、脱ごう」
「よろしくない。ジャージのファスナーから手を離せ。本題はお前の身体以外の全部だ」
本題である。
「戦場ヶ原のことで、訊きたいことがあってな。……仮の話なんだけどな、もし戦場ヶ原が、人から物をもらえなくなったら、どう思う。贈り物とか差し入れとか、そういうのを受け取れなくなったら、という話だ」
我ながら、下手な訊き方だと思う。しかし神原はしばらく黙って、それから、意外なことを言った。
「それは仮の話ではなく、昔の話に聞こえるな」
「……昔の話?」
「戦場ヶ原先輩は昔から、もらいっぱなしというのが、恐ろしく苦手な人だったよ」
神原は、懐かしむように目を細めた。
「中学の頃だ。私が一年で、先輩が三年。陸上部のエースで、他所の部の一年にまでファンがいる人だったから、差し入れやら贈り物やらがしょっちゅう届いた。……先輩は、断らない。にこやかに受け取って、丁寧に礼を言う。誰にでも、そうだった。ただ」
「ただ?」
「翌週にはきっちり、同等以上の何かが返ってくる。どうやって値打ちを量っていたのか、いまだに謎だが」
あんまり正確に返ってくるものだから、そのうち皆わかってきたそうだ。あの人に何かをあげるということは、あの人に宿題を出すのと同じなのだと。
「宿題……」
「もらいっぱなしの戦場ヶ原先輩を、私はただの一度も見たことがない。当時はそれが格好よかった。誰にも借りを残さない、綺麗な走り方の人だと。……だが、今にして思えば、あれは」
神原はそこで言葉を選んだ。右手が無意識みたいに、左腕の包帯を軽く押さえていた。
「格好いいというより、不器用だったのだろうな。返さずにいられないというのは、つまり――いや、やめておこう。先輩を後ろから分析するのは、後輩の礼に反する」
「……そうか。助かった」
「詳しくは訊かない。訊かせない訊き方をしたのは、先輩のほうだからな。ただ」
神原はにやりと笑って、右手の親指を立てた。
「戦場ヶ原先輩のことなら、いつでも呼んでくれ。次は三分で来よう」
「五分を根に持ってるんだな」
004
夜、自室。
机の上には手つかずの宿題の山があり、その脇に、ミスタードーナツの箱を一つ、供え物のように置く。
「おい、起きてるか」
声をかけると、フローリングに伸びた僕の影が、ぐにゃりと歪んだ。歪んで、盛り上がって、金色が生えてくる。金髪。白い肌。年の頃なら八つばかりの幼女が一人、影の中からずるりと生まれ出て、着地と同時にドーナツの箱を開けていた。挨拶より先に、である。
「うむ。ゴールデンチョコレートじゃな。お前様、わかってきたではないか」
「まず礼を言え」
「たわけ。儂とお前様の仲に、礼だの貸し借りだのは無粋というものよ。あるのは貢ぎ物と、気が向いたときの下賜じゃ」
「下賜する側が箱ごと抱え込むな。二個までだ」
忍野忍。かつて怪異の王とまで呼ばれた吸血鬼の、成れの果て。今は僕の影に住み着いて、僕の血とドーナツで生きている同居人だ。昼はおおむね寝ているが、夜はこのとおり、よく食い、よく喋る。
僕は昼間の一部始終を話した。スイカ、ノートの規則、素通りする褒め言葉、味のしない炒飯、それから、夜ごとの、勘定を数えるような硬い音――話の途中から、忍はドーナツを齧る速度を落としていた。聞き終える頃には指の砂糖を舐めながら、妙に古い目つきで僕を見た。
「――
「つけうま?」
「知らぬか。まあ、今日びの若造は知るまいのう。廓の言葉じゃ」
忍は二個目のドーナツに手を伸ばしつつ、講釈を始めた。饒舌の相場も、ドーナツで決まる。
「昔の遊里ではな、お前様。金も持たずに派手に遊んで、勘定を払えなくなる阿呆な客が、後を絶たなんだ。そういう客にはのう、店の若い衆が一人付くのじゃ。家まで一緒に帰って、その場で金を受け取ってくるための、な。それを馬と呼んだ。付け馬、付き馬ともいうがの。ツケの回収に付いてくる馬じゃから、付け馬よ」
「取り立て屋か」
「人聞きの悪い。あれはただ、勘定を合わせにいくだけの者じゃ。脅しも殴りもせぬ、ただ黙って、客の隣を、家までついて歩く。……のう、お前様。ツケが回る、という言い回しがあろう。あれはなかなか出来のよい言葉での、回ってくるのは、何も請求書とは限らんのじゃ。――憑いて、回る。怪異というものは、そういう性質の悪い語呂を、大層好むものでな。カカ」
笑い事ではない。
「じゃあ、あいつに憑いてるのはその付け馬か。妙だろ。取り立てられるどころか、受け取れなくなってるんだぞ」
「たわけ。逆さまに読むでない」
忍はドーナツを頬張ったまま断言した。
「勘違いするでないぞ、お前様。怪異は取り立てになど来ぬ。勘定を、合わせに来るだけじゃ」
「勘定を、合わせる……?」
「これ以上、借りが増えぬようにしておるのじゃ。言うなれば差し押さえよ。新しい貸し借りを一切通さねば、帳面の数字はもう動かぬ。……ある種の人間にとっては、これほど手厚い沙汰もあるまいて」
「どこがだよ。親父さんの飯の味もしなくなってるんだぞ。あれのどこが手厚いんだ」
「じゃから――それをありがたがる人間にこそ、憑くのじゃ」
忍の声から、からかいの色が抜けた。
「よいか、付け馬は誰にでも憑くわけではないぞ。借りたものは必ず返す――それを刃物のように研いで研いで、研ぎ続けて生きてきた人間がおるじゃろう。そういう手合いが最後の借りを返し終えて、長年の帳面をぱたりと閉じる。……その瞬間の空白ほど、この手の怪異にとって座り心地のよい椅子はないのじゃ。まして、あの女は一度怪異に関わった身じゃろう。敷居はとうに跨いでおるわ」
返し終えた直後。七月の末の、あの決着。閉じられた帳簿。時期は、合ってしまっている。
「借りを返しきったなら、それで終わりだろ。なんで、そこに空白なんてものが空くんだ」
「帳面を閉じてみて、初めて見えるものが、あるからよ」
忍は指を一本立てた。
「どれだけ几帳面に返し続けてもな、お前様。返しようのない貸し借りというものが、人生にはどうしても残るのじゃ。返す宛先が、もうのうなった借りとか、のう。金や品物では返らぬ性質の恩とか、のう。……帳面を閉じた人間は、それにようやく気づく。気づいて、空白になる。そこに、馬が来る。合わぬ勘定のあるところに、な」
「……どうすれば、離れる」
「勘定が合えば、去るじゃろうよ。合わすのは、あの女自身の仕事じゃがな」
忍はドーナツの箱を影の中へ引きずり込みながら――おい、残りは僕の分のはずだが――言った。
「言うておくが、儂は助けぬぞ。儂は専門家ではないのでな、ただの物知りじゃ。……カカ。まあ、せいぜい励むがよいわ。お前様のそういう働き者なところ、儂は嫌いではないがの」
言い残して、忍は影に沈んだ。箱ごと。
電気を消して、ベッドに転がって、僕は彼女の帳簿のことを考えた。小学生の彼女が大病をして、母親はそれを救おうとして、まっとうでない神様に金を払って、家は傾き、壊れ、母親は出ていった。高校生の彼女は、家に群がった詐欺師どもとの後始末に、この七月まで掛かりきりだった。例の蟹の一件で専門家に払った十万円は、彼女が父親の仕事を手伝って稼いだ金で、僕はただ仲介しただけの立場なのに、彼女はそのあと、僕への返済方法を大真面目に悩み続けた。そういう女の帳面の、いちばん古いページに載っているのは――たぶん、母親なのだ。命だの、名前だの、育てられた年月だの、そもそも貸し借りの形をしていないものを、あいつは律儀に負債の欄に書き込んで、返す宛てを失ったまま、利息だけを払い続けてきた。毎晩あの音を、あいつはどんな顔で聞いていたのだろうか。
なんて帳簿だ。監査が入ったら、一発で突き返される。
資産の欄に、自分のものが一つも書いてないのだから。
005
翌八月十八日、金曜日。僕は日が落ちてから、もう一度民倉荘を訪ねた。
夜に、と指定したのは僕だ。蹄の音が鳴る時間ということでもあるし、影の同居人が起きている時間、という素人考えの保険でもある。
大切なのは状況だ、場を作ることだ――と、消えたアロハはよく言っていたが、僕は当時も今も、半分も理解できてはいない。だから今夜のこれは、専門家の真似事ですらない、真似事の真似事で、それでも、思いつく限りで一番ましな場を、僕は用意することにしたのだった。
用意したものは、麦茶が一杯。
それだけである。彼女の家の冷蔵庫にある、彼女が自分で買った麦茶を、僕がグラスに注いで、僕の手から彼女に渡す。ただの麦茶だ。値段はつかない。お返しのしようもない。貸し借りの帳面に載せようにも、書き込む欄が見当たらない――もらうことの、いちばん小さい単位。
卓袱台を挟んで、僕たちは向かい合った。扇風機は止めてある。窓の外で遠くの蝉が鳴きやんで、そして、聞こえた。
かっ……かっ……かっ……。
硬い音。等間隔。廊下でもなく、外でもなく、もっとずっと近く――たぶん、この部屋の中でだ。数えている。めくっている。検めている。僕の耳にも、それははっきり聞こえた。こういうものが聞こえる身体に、春休み以来、僕はなっているのである。
「……聞こえるでしょう」
「ああ」
「毎晩よ。慣れてしまいそうで、それがいちばん嫌だわ」
戦場ヶ原は、卓袱台の真ん中のグラスを見ていた。僕が注いで置いた、一杯の麦茶を。忍の見立ては、昨夜のうちに電話で伝えてある。理屈は通っているし、実験結果とも矛盾しない、と彼女も認めていた。
「要は、私が受け取り直せばいいのよね。借りにしないで、もらう。言葉にすれば、たったそれだけのこと」
彼女はグラスに手を伸ばしかけて、やめた。
「でもね、阿良々木くん。理屈でわかっていることと、手が動くことは、別なのよ」
「…………」
「昨日から、考えていたの。私が最後に何かを『もらいっぱなし』にしたのは、いつだったかしらって。……思い出せないのよ。もらったものは、返してきたわ。きっちり、同じだけ――できれば、少し上乗せして。返してしまえば、帳面は閉じるでしょう。私は帳面を、開けたままにしておけないの」
「……律儀なことだな」
「臆病なのよ」
と、彼女はあっさり言った。毒舌の切っ先を自分に向けるときの、平坦な声だった。
「借りっぱなしというのは、相手を信じて、預けたままにするということだもの。私には、それができなかった。信じた分だけ持っていかれる家で育ったから――というのは、言い訳ね。でも、実感ではあるの。うちでは信用は、払った端から焦げついていったから」
かっ……かっ……。
音は、続いている。急かすでもなく、脅すでもなく、ただ正確に。
「返せる借りは、いいの。返せば済むもの。怖いのは――」
彼女は一度、言葉を切った。切って、それでも続けた。ここで続けられるようになったのが、この夏の彼女なのだと思う。
「私はもう、返しきれない額を、知っているのよ」
「…………」
「お母さんに、もらったものがあるわ。命とか、名前とか、十七年ぶんのいろいろ。何ひとつ返せていないまま、返そうと決めた頃には、渡す先が、もうどこにいるのかもわからなかった。……それでね。あなたにもらったものにも、私は値札を付けられなかったの。あの十万円は専門家への手数料で、あなたへの支払いじゃないわ。あなたには、何も払えていないの。何も。二年間、誰も信じないで済むように暮らしていた私を、あなたは――ああ、もう。これ以上は言わないわ、惚気になるから」
「途中まで言っといて」
「ともかく」
と、彼女は仕切り直した。耳が、少し赤かった。
「私の帳簿には、返せない借りが二件、載っているの。永久に消せない負債が、二件。だから、決めていたのよ。これ以上は一円も借りない、誰からも、何も、もらわない。……あの馬は、たぶん、私のその決算を手伝いに来ただけ。私が呼んだようなものだわ」
「もらわないで、生きていくつもりか」
僕が言えたのは、それだけだった。説得はしない、と決めてきた。理屈なら彼女のほうが上手いし、正論なら、彼女自身が昨日から百回は唱えている。ここから先は、僕の出る幕ではない。壁というのは、喋らないから壁として役に立つのである。
「……そうね。それは」
彼女はグラスを見た。麦茶の表面が、扇風機のない部屋で、静かに水平を保っていた。
「それは、味気ないわね。……昨日の炒飯、本当に、砂を噛んでいるみたいだったのよ。味のしない炒飯なんて、あんなもの……あんなものは、炒飯じゃないわ」
彼女の声が、初めて揺れた。
006
戦場ヶ原ひたぎは、背筋を伸ばした。
試験の答案に向かうときの顔だった。それから両手を出して――スイカを三度取り落とした、あの両手で、卓袱台の真ん中のグラスを包むように持ち上げた。
グラスは、落ちなかった。
いや、正確に言えば一瞬、落ちかけた。指の間でグラスが滑って、傾いた。彼女はそれを、握り直した。逃さなかった。そして、宣言した。
「これは、借りじゃないわ」
僕にともなく、部屋の隅の、見えない経理係にともなく。
「あなたが注いでくれた麦茶よ。お返しはしない、値段も訊かない。……もらうわ。もらって、返さない。これは――私のものよ」
彼女は、飲んだ。
両手で持ったまま、少し行儀悪く、喉を鳴らして。半分ほど飲んでグラスを置いて、息をついた。
「……味がするわ」
「そうか」
「薄いけれど。麦茶のパックを節約したのが、裏目に出ているわね」
「感想が世知辛いんだよ」
――音が、しなくなっていた。
いつから、とは言えない。グラスを持ち上げたときか、宣言したときか、あるいは麦茶の濃度に文句をつけたときか。気がつけば、あの規則正しい蹄の音は部屋のどこからも聞こえなくなっていた。劇的な去り際も、捨て台詞もなしだ。検め終えた帳場の音が、店じまいとともにやむ、ただそれだけのことだった。
「……行ったみたいね」
「ああ」
「そう」
彼女はそれ以上、何も言わなかった。倒した怪異でもなければ、追い払った怪異でもない。勘定が合ったから、いなくなった。それだけの話に勝ち鬨は似合わないと、彼女もわかっているのだろう。
「阿良々木くん」
「ん?」
「おかわり」
「自分ちの麦茶だろ! ……ああもう、注げばいいんだろ」
僕は台所に立った。彼女は卓袱台に頬杖をついて、空になったグラスを、指先で軽くつついていた。もらいっぱなしの女の顔は、思っていたよりずっと、普通の顔だった。
帰り道、夜道を自転車で走っていると、僕の影の中から、声だけがした。
「合ったようじゃの、勘定」
「聞いてたのか」
「暇じゃったからのう。カカ。……のう、お前様。あの馬は別段、負けて帰ったわけではないぞ」
「わかってるよ」
「もらったものまで借金と書きつける、阿呆な帳面が一冊あっただけの話じゃ。書き損じが直れば、検める仕事もない。怪異とはそういうものよ。おおかたは、な」
「なあ、忍。その書き損じ、直ったと思うか。今夜ので」
「知らぬ。儂は物知りじゃが、女心の専門家ではないのでな」
それきり、影は黙った。
まあ、いい。帳簿の直しは、経理係の去った帳場で、ゆっくりやればいいことだ。急ぐ理由は、もうないのだから。
007
後日談というか、今回の決算。
二学期を目前に控えた八月十九日、僕は戦場ヶ原に呼び出されて、また民倉荘に上がり込んでいた。用件は聞いていない。聞かずに上がり込めるのが、交際というものである。
卓袱台の上には、切ったスイカが並んでいる。一昨日あれだけ受け取れなかった、僕の差し入れのスイカである。今日は普通に受け取った。普通に受け取って、包丁で八等分されて、皿まで出てきた。
「言っておくけれど、阿良々木くん。このスイカのお返しは、しないわよ」
「知ってるよ」
「もらったものは、返さないの。私はこれから、もらいっぱなしの女として生きるわ。ただし」
と、彼女はスイカを一切れ、僕の皿に載せながら言った。
「あなたからの借りだけは、別枠よ。あれは返すわ。利子をつけて、一生かけて、きっちり返すことにしたから。覚悟しておいて頂戴」
「……返さない主義になったんじゃなかったのか」
「もらったものは返さない、借りたものは返す。健全な帳簿でしょう。あなたのぶんは、私が借りの側に計上したの。私がそう決めたから、そうなの」
「経理の私物化じゃねえか」
「ちなみに利率は複利よ。年利は、私の気分で変動するわ」
「怖すぎる金融商品だな! せめて元本を開示しろ!」
「教えない。一生かけて、明細で確認なさい」
言って、戦場ヶ原ひたぎはスイカに齧りついた。夏の終わりにふさわしい、いい食いっぷりだった。種を行儀悪く皿に吹き出すその横顔には、毒舌家の面影と更生した女の面影が、半々くらいの配合で同居していた。
ちなみにスイカは、八等分したうちの五切れをあいつが食った。差し入れたのは僕である。数えていた僕も僕だが、数えてしまったものは、仕方がない。
……別にいい。
ツケにしておく。