異世界でとんかつ屋さんとして生きていきたい   作:藤沢春

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79 ライズ オブ リンカーネイション

 私はいつの世界の『魂』であっても、平和を享受(きょうじゅ)できたことなどなかった。命の大切さなど結局は分からぬまま、それぞれの人生を歩んできた。唯一、ひとつ前の記憶では九十八歳という長寿で終えることができ、それは最愛の家族がいたからこそ、それだけ長く生きられたのだと思う。

 

 もっとも、八十三歳を迎えたあたりで記憶は混濁(こんだく)し、一人で満足に生活することも出来なくなってはいたが。それでも、あの時代は良かった。ええ、本当にとても幸せだった。思い返せばあの出会いがなければ、私が今こんな風に生活を楽しいと思える瞬間はきっとなかったはずだ。

 

 今、希望が生まれた。こんな世界で、こんな前時代的(ぜんじだいてき)な環境で、言葉もきっと通じず、文化もまるで違っていて、私のことを不審に思う人もたくさんいるだろう。それでも、私には希望ができた。

 

 

 

 よく夫と庭で語り合ったものだ。「なにかお店を一緒にできたら、どんなに楽しいだろうね」と、二人で笑いながら言葉を交わした。あのほんの些細(ささい)で小さな夢。なんてことのない、誰にでも思い描くような夢。決して叶うことはないけれど、そんな泡沫(うたかた)の希望を心に描くと、自然と胸が熱くなる、あの楽しく語り合った夢。

 

 私はこの死に間際になって急にそのことを思い出し、臨終(りんじゅう)の寝床で何を思ったか私はそれを口走ったのだ。それを聞いた娘や孫、ひ孫たちの顔。あの時の皆の顔ったらなかったわ。うふふ、鳩が豆鉄砲を食ったような顔というのは、きっとあんな表情を言うのね。穏やかだったわ、とても。みんなの顔が、最後の最後でよく見えた。娘もあの時、いくつになっていたのかしら。もしかしたらもう喜寿にでもなっていたかもしれないわね。

 

 孫の顔は判然としなかったけれど、おかっぱ頭をしたひ孫の顔はよく見えた。よくうちに遊びに来ては「チェス」や「将棋」をやったものだわ。なかなか筋が良くて、今頃きっと学校では敵なしね。もしかしたら、どこかの大会で暴れ回っているかもしれないわ。そうなっていたら、なんて爽快かしらね。「ちぇーちゃん」と呼んでいたあの子は、本当によく私の世話をしてくれた。あの子の両親、つまり私の次女の娘夫婦が事故で亡くなって以来、長女の夫婦のところで暮らしていたけれど、どうにもウマが合わなかったようで、私のところばかりに来ては、ほぼ入り浸りのような状態だった。

 

 少し変わった子だったわ。高校に進学する時も「自分で稼いで行くからいい!」なんて言うものだから、心配ばかりさせられた。私もわずかな年金からほんの少しだけ援助をする代わりに、私の身の周りの世話をしてもらうようにしていた。本当に感心な、偉い子だった。

 

 素朴な遊びを好んで、私に合わせてくれていた。私が使っていた革の手帳をあげたら大事に使ってくれていた。心配だわ、この後どうするのかしら。まあ、でも人間、生きていればどうにでもなるものよね。強く生きてほしいわ。

 

 

 

 夫が亡くなった頃、私は毎日涙に暮れていた。こんなにも人は涙を流せるものなのかと、自分のことながら呆れるほどだった。初七日を迎えるまでは、当時のことをよく覚えていない。そこから四十九日の法要までは、酷い嗚咽を繰り返して、周りのみんなを困らせていたと思う。一周忌まではそんな感じの日々が続いて、三回忌の頃にようやく落ち着いたかと思ったけれど、ふとした瞬間に気づくと、また涙が頬を伝っていた。感情を失うというのは、ああいった状態を言うのだと思う。何をしていても、何を考えていても、誰かとお茶を飲んでいる時でさえ、自然と涙が流れてくる。相手がいる時は、さすがに随分と心配された。

 

 『こんなに悲しんでもらえるなら、お父さんも本望(ほんもう)なのだろうね』

 

 私自身はそんな感傷に浸っているつもりはなかったけれど、よく娘にそう言われたものだ。何が本望なものですか。死んで花実が咲くものですか。死んでしまったら、人間はおしまいなのだ。私がそう口にすると、娘は「スン」と鼻を鳴らして、やれやれといった様子で、やつれた笑顔を私に向けるのだった。

 

 夫の残した功績は素晴らしいものだった。戦中から原動機(げんどうき)の開発をする會社(かいしゃ)に所属していた夫は、その後も一貫してエンジン開発に携わり、飛行機や自動車、さらには船舶の船体なども手がける大きな会社に勤めていた。

 

 そして、あの戦後から亡くなるまで、生涯を平和祈念(へいわきねん)に捧げた。そうして、私の生み出した兵器によってたくさんの人々が亡くなったことを共に懺悔し、生涯を悔恨の日々として過ごしてくれた。

 

 もう一度、あの人に会いたい。そう何度願ったことだろう。いつも言葉にできなかった想いを、今なら素直に伝えられるのかもしれない。特別に隠していたわけではないけれど、あまり、こう、なんというか、率直に表現することは苦手だった。それは夫も同じだったようで、あまり愛の言葉を(ささや)かれた記憶はない。けれど、それで良かったのかもしれない。言葉にすればいいというものでもないのだから。

 

 でも、それでも。もう一度あの人の声を聞きたい。お願い、もう一度だけ聞かせてほしい。横顔をこちらに向けてくれるだけでいい。あの人の傍にいられたことは、私の人生で本当に幸せなことだった。

 

 

 

 孫やひ孫が生まれてからは、それはそれは賑やかな毎日だった。私たち老夫婦の家には、毎日ひっきりなしに、常に誰かが訪れていた。私の作る料理が口に合ったらしく、和食が中心だった献立を、孫もひ孫も実によく食べてくれた。

 

 今考えると、少し不思議だわ。あんなに若く、幼く、小さな子たちが、私が作るような昔ながらの食事を好んで食べるなんて。普通、子供ってもっと洋食が好きなものでしょう?ひじきの煮物やきゅうりの漬物、ポテトサラダやマカロニサラダあたりは、果たして洋食と言えるのかしら。

 

 そんな中で一番よく食べてくれていたのは、「とんかつ」だった。揚げ物は私が特に得意としていて、というより、私がただ単に好きなだけだったのだけれど。工夫はいろいろと凝らしたわ。私の衣は、他所では真似できないほどサクサクだったもの。お肉も柔らかくなるようにたくさん研究したし、ご飯もふっくらと炊き上がるようによくおまじないをしたわ。「おいしくなーれ」ってね。

 

 中学生になったばかりの頃の孫が野球部に入ったというので、よくお弁当を作ってやったわ。「ドカベン」と呼ばれるような大きなものよ。ご飯なんか三合は入ってしまうのだから。そこに揚げ物を十品くらい詰め込んでやって、海苔を五層ほどに重ねた海苔ご飯にするの。よく友達に羨ましがられると言っていたな。

 

 そんな孫にもやがて子供ができて、今度は家族ごとよく遊びに来るようになった。私の料理を食べたいのだと。夫もあきれ顔だったわ。そんなあの人の顔も、とても愉快そうに笑う表情が今も印象に残っている。本当に毎日が楽しくて、笑顔に溢れていて、そして本当に幸せな毎日だった。

 

 

 

 子育ての毎日は忙しなく、ただ必死だった。私には両親がいなかったので、夫の両親や近所の方々がよく手助けをしてくれた。義理の両親は本当によく子供たちを見てくれた。初孫が生まれた時は、それはそれは喜んでくれたものだ。その後に生まれた子たちも分け隔てなくしっかりと面倒を見てくれて、教育にも熱心だった。

 

 近所の奥さんには、本当に頭が上がらない。私もその分、きちんとお返しをしなくちゃと奮闘したものだ。昔は良かったわ。運動会になると、みんなでゴザを敷いて囲み、一緒にお弁当を食べた。片親の子がいたので、特にその子のことは気にかけていた。その子の母親にはよく恐縮されたけれど、「気にしないで、しっかりお仕事をなさい」と声をかけた。

 

 正直なところ、子供なんて一人が二人になった時点で、もうあとは何人になってもあまり変わらない。その子のことは、自分の子供と同じように接した。両親がいない寂しさは、私が一番よく分かっている。夫もその子をよく公園に連れて行っては、一緒に遊んでやっていた。帰ってきたら、みんなでちゃぶ台を囲んで、山盛りのご飯を食べさせたものだ。一升炊いたご飯が一晩でなくなってしまうものだから、お米の三河屋さんが大喜びしていたわ。

 

 良い時代だった。ひとつの遊びで、みんなで一緒になって笑った。百人一首で坊主めくりをしては、転げ回って笑い合った。めんこのコツが分からない子には、夫が丁寧に教えてやっていた。私が自作した紙芝居を見せると、みんな釘付けになって観てくれた。

 

 子供というのは急に電池切れになるもので、お腹が満たされ、遊び疲れた子供は、コロリと倒れるように畳に横たわり、すやすやと寝息を立てて雑魚寝で眠ってしまうのだ。転がそうが蹴飛ばそうが、まるで起きやしない。そうして毎日が過ぎていく。楽しかったし、必死だったけれど、何より、温かくて幸せな日々だった。

 

 

 

 夫に婚姻(こんいん)を申し込まれた時、私はまともな精神状態ではなかった。戦中の軍医だった先生が、私が引き取られた親戚の田舎で小児科医をしていたので、私はよくその医院に通い詰めていた。医師の先生は「きっと脳の病気だろう」と言っていた。治すための有効な方法はない、とも告げられた。通うたびに脳波を測定され、心電図も取られたけれど、結果はいつも正常だった。

 

 しかし、私の心は常に限界を感じていて、生きていること自体が烏滸(おこ)がましいとさえ思い詰めていた。馬鹿なことも何度も繰り返した。そのたびに母屋(おもや)に住む親戚に引っ叩かれ、病院へと引き摺られて行ったものだ。今になって考えると、あの時無理にでも生かされていたのは、幸いだったのかもしれない。親戚にしてみれば、暇さえあれば私をいびり、まともな食事も与えてくれなかったが、なぜか死なせようとはしなかったのだ。それはもちろん、「死ねば許されるかもしれない」という私の甘えた根性が見え透いていて、そんな私をあえて責め立てるためでもあった。

 

 死ぬことは簡単だった。ただ、私が死んだところで、犠牲になった人々は浮かばれるのだろうか。私のせいで亡くなった人たちの溜飲は下がるのだろうか。口減らしをすれば、親戚だって自分たちの食い扶持が増えるだろうに、あえて私を生かすという判断をしていた。

 

 私は毎日、苦しみの底にいた。仕事などできるはずもなく、これから新しく何かを学ぼうとすることさえできやしなかった。

 

 しかし、そんな折に転機が訪れた。「軍縮会議」という集まりに、なぜか私が呼ばれたのだ。各国から日本に専門家が集まり、兵器開発の技術や新素材を平和利用すべく、その分野の専門家が意見を交換するという主旨だった。私の役目は、かつて兵器に使われていた「軍用機能素材」を、人々の生活基盤に役立つよう能力変換すること、というお達しだった。私はこれ以上、兵器開発の分野に少しでも(たずさ)わりたくはなかったが、世のためになるというので、渋々その会議に参加した。

 

 その時に出会ったのだった。のちに夫となるその男性は、とても親身に接してくれて、私と同じ開発部門に属せるように裏で段取りを進めてくれた。しかし、何をしようにも私の頭はまともに回らず、それどころか急に意識を失って倒れてしまったり、ひきつけを起こしたりしてしまい、特にその男性には苦労をかけた。都内の宿泊施設に何泊も滞在させてもらえたのはその会議のおかげだったけれど、その男性は常に私に目をかけてくれていた。

 

 やがてその会議も終わりを迎え、私は何も成果を上げられぬまま、また親戚のいる田舎の離れに帰り、しばらく他人に会うことを考えたくもなかった。

 

 しかしその男性は私にしつこく声をかけてくれた。手紙をよこし、文通なども始めた。次第に私の心は晴れ渡るように、その男性に打ち解けて行った。

 

 そして歳月は流れ、ある時その男性がわざわざ私の住む離れに(おもむ)いてくれてこう言ってくれた。

 

「私はあなたのすべてをお守りすることはできないかもしれませんが、あなたの生涯をきっと幸せなものにできるように力を尽くします。そして、共にあなたの向き合うべきことに生涯を捧げることを誓います」

 

 その言葉は、一言一句たがわずに覚えている。その言葉を聞いた時、私は自分の中で何かを取り戻した。それは愛情とか、そういうものではなかったと思う。自分のしてきたことを、これから決して忘れずに真摯に向き合い、そして亡くなった人たちの分まで生きよう。必ず人々の利益になるような人生を歩もう。そして、それらすべてが幸福であるように。

 けれど、その想いはぐっと胸の奥に押し込んで、決して表には出さず、自分を押し殺し、せめてすべてが私のしたことで終われるように。平和を、ただただ平和だけを望んで生きていきたい。そう願い、その男性の申し出を謹んでお受けさせていただいた。

 

 

 

 私はいつの世界の『魂』であっても、平和を享受できたことなどなかった。命の大切さなど結局は分からぬまま、それぞれの人生を歩んだ。「さくら」としての人生の前、そしてそれよりももっと前の世界の私、その魂は今もここにある。(おぼろ)げながらも、いつの世界の私も、そんな人生を辿ってきたことを覚えている。

 

 

 そして今、この世界の魂が終わろうとしている。これが、いわゆる「走馬灯(そうまとう)のよう」とでも言うのかしら。すべてがぐるぐると巡って、本当に走馬灯のように私の生涯を語りかけてくれている。今にして思えば、私の半生は幸せだった。

 こんな人生を共に歩み、たくさんの幸せを与えてくれた夫に、ようやく会える。

 

 

 待っていてね、あなた。

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