SAO~黒の剣士と遊撃手~   作:KAIMU

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 大変長らくお待たせいたしました。ねつ造設定、独自解釈等を盛り込んでいますが、どうぞよろしくお願いいたします。


七十話 世界の終焉、解放の時

 キリト サイド

 

 頬を撫でる風。燃えるような夕焼け。眼下には赤く染まった雲の群。足元には透明な水晶の板が敷かれていて、宙に浮いているのではないかと錯覚してしまいそうになる。そんな不思議な場所に、俺は立っていた。

 

 「ここは……?」

 

 俺はあの時、茅場と刺し違えて……この身を四散させた筈。死者となった俺の意識があるという事は、ここは死後の世界だろうか。

 やや強く風が吹き、黒コートの裾がはためく。俺の服装は死んだ時のままだ。剣帯は茅場の一撃で千切れたのか存在せず、背中に愛剣達の重みが感じられない。そしてこの体は……半ば透けていた。

 何の気もなしに右手を振ると、聞きなれた効果音と共にウインドウが表れる。

 

 (ウインドウ……ここはまだSAOの中なのか)

 

 ウインドウには最終フェイズ進行中とあり、進行具合がパーセントで表示されている以外何もない。無造作にウインドウを消した時、遠くから小さな破砕音が聞こえた。一体何の音だと視線を彷徨わせ、それを見つけた。

 

 「アイン……クラッド……」

 

 二年前に囚われ、生きてきた鋼鉄の浮遊城を。目を凝らせば、下部から崩れているのが分かる。どうやら先程の破砕音はこれが原因らしい。

 

 (終わった……んだな……。これでもう……皆は現実世界に帰れるんだ……)

 

 俺の大切な人達が無事に帰還できる。それが嬉しい筈なのに、この胸は哀惜の念で痛むばかりだ。

 

 「―――中々に絶景だな」

 

 「っ!?」

 

 不意に、傍らから声がした。いつの間にか俺の右側、三メートル程離れた所に茅場が立っていた。よれた白シャツ、ネクタイ、白衣……聖騎士ヒースクリフではなく本来の姿で、俺と同様半ば透けた状態で崩れゆく鋼鉄の浮遊城を眺めている。

 ついさっきまで殺し合いをしていた相手を見て、真っ先に浮かんだのは先程のような激情ではなく、疑問だった。

 

 「……何で、こんな事したんだ……?」

 

 「何故、か……」

 

 ヒースクリフだった時と変わらない金属的な光を宿した瞳が不意に、ここではないどこかを眺める様に細められた。

 

 「つい先程まで、忘れていたよ」

 

 「―――ふざけるな!!」

 

 余りにも納得できない物言いに、声の限り叫ぶ。

 

 「あんたの……あんたの欲望の為に一万人が日常を奪われて!四千人は命まで奪われたんだぞ!それなのに言うに事を欠いて動機を忘れただと!ふざけるのもいい加減にしろ!!」

 

 言い訳や弁明すら無く、茅場はただただ黙って俺を見つめていた。あくまでも無表情なその顔に、どうしようもなく腹が立つ。

 

 「あんたの所為でアスナ達は責任を背負わされて!クロトは心に深い傷を負って!ハルは死にかけたんだぞ!!」

 

 なまじ能力があるが故に、他人の上に立たされたアスナとサクラ。自分の指示一つで失われる命がある事に、二人は苦しみ、最善を求めて迷い、傷ついてきた。

 他人を殺す事に躊躇いを抱かない。そんな自分の闇を殺人鬼という形で突き付けられたクロト。彼があの時流した諦めの涙を、俺は忘れない。

 俺を支えようと、見えない所で奔走し続けたハル。何の罪も無い弟を死に追いやろうとした世界を創造したこの男が、憎い。

 

 「……そこに自分を入れない所は、親にそっくりだね」

 

 「は……?」

 

 何故そこで俺の親が出てくるのか。理解が追いつかずに間の抜けた声しか出せない。

 

 「君がそんな顔をするのも仕方無いさ……君は亡くなった父親の職業を覚えているかい?」

 

 「……教師だった、と思う……」

 

 一度詳しく聞いたと思うが、幼かった俺が理解できたのは誰かに何かを教えるのが父親の仕事だという事だけだった。だが、今それを聞かれる理由が分からず、俺は困惑した表情で茅場を見る事しかできない。

 

 「正確に言えば、とある大学の研究室で、助教授をしていた」

 

 「大学で、助教授……?まさか……」

 

 「ああ。重村教授率いるフルダイブ研究チームに、私も、君の父親も所属していたよ。キリト君……いや、鴉野(からすの)和人君」

 

 鴉野。もう二度と呼ばれる事は無いと思っていたかつての姓名を呼ばれ、俺は驚愕と共に息を吞んだ。

 

 「君達兄弟の事は、君達のお父さん……先生からよく聞かされたよ。家族を愛し、隣人を愛する心優しい自慢の息子達だと。……もっとも、先生達の葬儀の時に見た抜け殻具合には驚いたがね」

 

 茅場が父さんの教え子で、あの葬儀の場にいた。予想だにしていなかった事実をすぐに受け止め切れず、思わず額を抑える。だが同時に、新たな疑問が浮かぶ。

 

 「何で……父さんはフルダイブ技術の研究をしていたんだ……?」

 

 「今までにない新しい技術……それを形にする事が、暮らしをより豊かにし、多くの人達の為になる……先生はそう信じて疑わなかった。そんな純粋な心で研究に打ち込んでいたよ」

 

 父さんらしい。真っ先に思ったのは、そんな事だった。元々フルダイブ環境システムの有用性は茅場がナーヴギアを開発し、技術を確立する以前から叫ばれていたのは誰だって知っている。

 目の見えない人に光を。耳の聞こえない人に音を。動けない人に体を動かす喜びを。それらを届けられる仮想世界が完成すれば、どれだけ多くの人達の助けになるのか。

 きっと父さんは無限の可能性を秘めた仮想世界への扉を開く事が、楽しみで仕方無かったのだろう。それが多くの人達の役に立つのならば、猶更に。

 

 「……ああそうだ。思い出したよ。私はただ……あの世界に、私が作った贋作ではない、本当の浮遊城に……行きたかった」

 

 崩れゆく浮遊城を眺める目を懐かしむように細めた茅場は、視線を向ける事なく続ける。

 

 「伴侶を得て、子供を授かる……先生がよく語ってくれた家族の話を聞いていく内に、人並みの幸福を得るのも悪くないと思ったが……そう思えば思う程、私の中に宿った鋼鉄の城の空想はより鮮明になり、私はそれに駆り立てられた」

 

 「茅場……」

 

 「現実世界のあらゆる枠や法則を超越した、鋼鉄の浮遊城……ソードアート・オンラインは、限りなくそれに近づけた……贋作に過ぎない。だが、それで私は満足だったよ。何せ―――」

 

 浮遊城から俺へと向き直った彼と、目が合う。

 

 「―――私の世界の法則を乗り越えた者が、いたのだからね」

 

 今までの無機質とも言うべき表情から一転して、茅場は微笑んでいた。

 

 「……普通、ゲームマスターとして悔しくならないのか?自分が作り上げた世界のルールを、たかが一プレイヤーが捻じ曲げた事に」

 

 「悔しいと思わないのは、君達だったからなのだろうな。人の可能性を信じ続けていた先生の息子である君と、その仲間である彼等だったから……これも人の可能性なのだと、受け入れる事ができた」

 

 彼は心底満足した様子で、嘘を言っているようには見えない。穏やかな笑みを浮かべたままこちらに歩み寄り、おもむろに口を開く。

 

 「―――さて、私はそろそろ行くよ。ゲームクリアおめでとう、キリト君。」

 

 俺の肩に手を乗せ、労うようにそう告げると彼は夕日へ歩きだす。数歩も進まないうちに一際強く風が吹き……気づけば茅場の姿は掻き消えていた。現実世界に戻ったのかと思ったが、即座に否定する。彼は自分が作ったアインクラッドを贋作と評した。それならばきっと……贋作ではない、本当の鋼鉄の浮遊城を求めて旅立ったのだろう。

 浮遊城は四分の三が崩壊している。恐らく全て崩壊すればSAOは終わる。それと同時に俺も死ぬ。変えようの無い決定事項を、俺は驚くくらい落ち着いて納得していた。

 

 (父さん……母さん……きっと、怒るだろうな……)

 

 弟を独りぼっちにしてしまい、十六歳で死んでしまうなど親不孝も甚だしい。きっと今までに無い位にこっぴどく叱られそうで、思わず苦笑する。それでも両親にもう一度会えるのなら、そこは甘んじて受けよう―――

 

 「―――キリト君……?」

 

 ―――背後から、声がした。

 

 ~~~~~~~~~~

 

 ―――時は少し遡る―――

 

 クロト サイド

 

 「キリト君!!」

 

 たった一人、解けない筈の麻痺を打ち破り、駆け出すアスナ。その先にいるのは、彼女が最も愛する少年。だがその姿は淡く輝き、彼女の手が届くその前に……無数のポリゴン片へとなり果てた。

 

 「ぁ……あぁ……!」

 

 消える。消えていく。キリトの欠片が。アスナが伸ばした手が掴めたのは彼の最後の一欠片のみで、それも程なく弾けて消え去った。キリトがいた場所に力無く座り込んだ彼女は、ただただ言葉にならない声を発するのみ。

 

 ―――ゲームはクリアされました……ゲームはクリアされました……

 

 無機質なシステムの声が響き渡ったのと同時に、オレ達全員を縛っていた麻痺が解けた。今なお鉛のように重い体をサクラに支えてもらいながら起き上がり、何とかアスナの傍へと歩み寄る。

 バキリ、とエリュシデータの剣先が割れる音が響く。切先を失い、刃は零れ、罅だらけの刀身となった彼の愛剣達は、役目を終えたと言わんばかりだ。

 

 「……アスナさん、これ……」

 

 サクラがボロボロの二刀を拾い上げ、アスナへと差し出す。感情が焼き切れたように呆然としていた彼女だったが、彼の遺品とも言うべき剣達に触れた途端、その顔を歪めた。

 

 「キリ、ト……君っ……!」

 

 二振りの剣を掻き抱き、人目を憚らずに泣き叫ぶ。サクラはそんな彼女を抱きしめるが、彼女自身もあふれ出す涙を堪えられずに嗚咽を漏らす。それが合図となり、時が止まっていたかのように静かだった空間に声が満ちる。

 

 「嘘だろ……こんな結末、何の冗談だ……?」

 

 「キリト……キリトよぉ……」

 

 エギルが、クラインが……誰も彼もが、キリトの為に泣いていた。人前では強者であり続けた彼を妬んだり、疎ましく思ったりする事はあっても……死ねばいいなどと本気で思う奴はここにはいなかったのだ。

 

 ―――本当は、誰だって気づいていたのだ。キリトが憎まれ役(いけにえ)になったのは、自分達が団結しやすい世界を作る為だったのだと。そして彼も、理不尽なこの世界で必死に足掻いて生き続けようとしていただけの……ただの少年でしかなかった事を。

 そんな彼らの中で、オレだけが違った。アスナのように泣き叫ぶ事も、クライン達のように嗚咽を漏らす事も無く……それ以前に、涙が全く流れてこない。言葉にできない喪失感が胸中に広がり、オレから感情を奪っていく。

 

 ―――プレイヤーの皆さまは順次、ログアウトされます……

 

 無機質なアナウンスによって告げられたのは、二年間誰もが望んだ筈の、この世界からの解放(ログアウト)。だがそんなもの、今のオレにはいらなかった。それを受け取ってしまえば、オレは……オレ達はキリトの犠牲を認めてしまうのだから。キリトにとって無二の親友でありたいと願い、あの時彼にそう呼ばれたオレは、不謹慎にも嬉しかった。そして、彼を信じ独りで戦わせてしまった。

 

 「キリト……」

 

 零れた呟きは誰の耳にも入る事無く、誰かの泣き叫ぶ声にかき消される。幾ら後悔しようとも過ぎ去った時は戻らず、死者が蘇る事なんて無い。心に穿たれた空虚な穴が塞がる事だって無いのだ。だが、それでもオレは、彼の死を受け入れたくなかった。

 お袋の時と同じだ。その場で受け入れてしまえばその喪失に耐えられないから心の一部を凍り付かせ、時間と共に少しずつ受け止める。そうしなければ容易く壊れてしまう程にオレは脆く、弱い。

 

 ―――少しだけでいい。アスナ達と話す時間をくれ。

 

 「っ……!」

 

 決闘の前にキリトは確かにそう言った。そして茅場はそれを承諾し、何らかの設定を行った筈だ。もしそれが実行されるなら……!

 

 「アスナ!」

 

 一縷の望みに過ぎないが、まだ全てが終わった訳では無い。僅かな希望に突き動かされるままに、アスナの肩を揺さぶる。サクラが驚いて顔を上げるが、今は時間が惜しい。すでに何人かはログアウトしたのかこの場から消え去っており、これからそうなる者達は全身を淡く光らせていた。

 

 「アスナ、聞け!キリトはまだ死んでない!」

 

 「ぇ……?」

 

 彼がまだ死んでいない。その言葉に彼女は硬直し、瞳を揺らしながらオレを見上げる。だがオレ達三人の体も光りだしており、後数秒でこの場から離れてしまう。

 

 「お前と話す時間が欲しいって!最後はお前の傍にいたいって!アイツはそう言った筈だ!!」

 

 「……!」

 

 息を吞み、目を見開くアスナ。それを見た瞬間、オレの視界は白く染まった。

 

 ~~~~~~~~~~

 

 目を開くと、そこはもう薄暗いボス部屋ではなく、燃えるような夕焼けが広がっていた。咄嗟に左右へと視線を巡らせると、案の定アスナとサクラがオレと同じように空に立っていた。いや、足元に透明な足場があるらしく、オレ達はその上に立っているのだ。

 

 「―――キリト君……?」

 

 たった一点を見つめるアスナが、震える声を零す。彼女の視線を辿ると―――この二年間で見慣れた、黒衣の少年の背中があった。アスナの声が聞こえたのか、彼はゆっくりと振り返る。

 

 「……アスナ……」

 

 一瞬だけ呆けた顔をしたキリトだったが、すぐに穏やかな笑みを浮かべる。

 

 「……ダメだよ、君が……君達がこんな所に残ってたら。ちゃんと……現実世界(むこう)に帰らないと」

 

 「っ!」

 

 悲しげに微笑むキリトの体は半ば透けていて、背にした夕日の輝きに今にも溶けてしまいそうな程儚い。彼の言葉が、その表情が、オレ達に変えようのない事実を突きつける。

 

 ―――生存者(オレたち)は現実へと帰り、死者(キリト)とは二度と会えなくなるのだと。

 

 それが見えない刃となって胸を穿ち、耐えがたい痛みをもたらす。

 

 「……バカ……バカァ!!」

 

 溢れる涙を煌かせ、アスナは迷う事無くキリトの胸へと飛び込んだ。

 

 「やだ……やだよ!さよならなんてしたくないよ!!」

 

 「……ごめん。勝つって……約束した筈なのにな……」

 

 泣きじゃくる彼女の頭をあやす様に撫で、彼はオレ達へと視線を向ける。

 

 「クロト……サクラ……」

 

 「どうしても……ダメなの……?」

 

 縋るような声で問いかけるサクラに、キリトは黙って首を横に振る。だがその答えがまだ信じられないのか、彼女は言葉を重ねる。

 

 「どうしてっ……!……貴方がいなくなったらアスナさんは……ハル君はどうするの……!?」

 

 「あいつには、ごめんって伝えておいてくれ……でも、ハルなら大丈夫だよ。きっといつか……乗り越えてくれる。アスナは……サクラが支えてくれないか?」

 

 「キリト……君?」

 

 縋りついていたアスナを引き離したキリトは、彼女の両肩に手を置き、はしばみ色の瞳をまっすぐ見つめる。

 

 「アスナ……君の優しさに、想いに、俺は救われたんだ。この世界で、こんな俺の事を……愛してくれた君に出会えた。共に生きる事ができた。それだけで……俺は充分幸せだったよ」

 

 彼は見開かれたアスナの目元に溜まった涙を優しく拭う。

 

 「俺がいなくても、アスナなら大丈夫だよ。君は、強いから……俺が知る中で、誰よりも、ずっと強いからさ……」

 

 言い聞かせるようにそう言ったキリトの表情はどこまでも穏やかで。まるで……まるで自分の死を受け入れているようで。

 

 ―――そんな本音を隠した態度に、腹が立って仕方がなかった。

 

 「だから、君は向こうで新しい幸せを―――」

 

 「―――ふざけんなああぁぁぁ!!」

 

 全力で駆け出し、渾身の力でぶん殴る。間髪入れずに反対の手で彼の胸倉を掴み、ありったけの感情を叩き付ける。

 

 「そうやってお前は!また本音を隠しやがって!なに割り切ったみてぇな顔してんだよ!!」

 

 「クロト……」

 

 申し訳なさそうに目を逸らすキリト。その行為が、彼がまだ仮面をしている何よりもの証拠だった。

 

 「勝手に納得してんじゃねぇよ!オレは認めねぇぞ!テメェが死んだなんて、絶対に認めねぇからな!!」

 

 こみ上げる涙を必死に抑えて睨みつけると、ふと彼が微笑んだ。

 

 「……ありがとな、親友」

 

 「て、めぇ……!ダチってんなら……勝手に……いなくなるんじゃ、ねぇよ……!」

 

 親友。その一言を聞いた途端、抑え込んでいた涙が溢れだす。一度流れ出した雫を止める事はできず、みっともなく泣き出してしまう。

 

 「本当に、ありがとう。こんな俺の為に泣いてくれて」

 

 優しく肩を叩かれると、力の抜けた手が彼から離れる。それはまるで自分とキリトの繋がりが絶たれたようで、オレの心に痛みと悲しみをもたらす。

 全てが失われ、始まったあの日から今日までの二年間、肩を並べて突き進み……互いに背中を預けて戦った日々の記憶が蘇る。オレの中に刻まれたキリトの存在は余りにも大きく、彼のいない世界が言葉にできない程に虚しい。

 

 「―――そろそろ……お別れだな」

 

 「やだ……やだよ!お別れなんて絶対に嫌!!」

 

 夕日はそのほとんどが雲海に沈み、空は夜のとばりが降りている。もうすぐSAOが終わる。終わってしまう。キリトに……永遠に会えなくなる。それだけは到底受け入れられるものではなかった。

 

 「……大和(やまと)だ」

 

 「え?」

 

 「鉄大和(くろがねやまと)……向こうでお前を探す、諦めの悪いオレの名前だ。忘れんなよ」

 

 二年近くの間呼ばれる事も、名乗る事もなかった現実世界での名前。その名と共に、決してキリトを忘れはしない自分の意志を示す。彼が呆気にとられていると、サクラが抑えた笑い声を上げた。

 

 「ふふっ、キリトでもそんな顔するんだね。クロトの次はわたしかな?……天野桜(あまのさくら)、クロトと同じ十六歳だよ」

 

 彼女の目尻にはまだ涙が浮かんでおり、決して立ち直った訳では無い事が容易に察せられた。そんなサクラを見て、キリトは決意したようにアスナへと向き直った。

 

 「……アスナ。一つだけ、覚えていてほしい事があるんだ」

 

 「キリ、ト……君っ……」

 

 「桐ケ谷和人(きりがやかずと)。埼玉県の川越市に住んでいた……多分、先月で十六歳」

 

 きりがや、かずと。それが親友(キリト)の本当の名前。かけがえのない相棒の名を、オレは心に刻み付ける。アスナも同様に彼の名を何度も繰り返すと、涙を拭って顔を上げた。

 

 「うん……絶対……絶対に忘れないよ、和人君の事。だから……私の事も、覚えていてほしいの。……結城明日奈(ゆうきあすな)、十七歳です」

 

 「ゆうき、あすな…………ゆうきあすな。あぁ……覚え、た……よ……」

 

 彼の双眸から、煌く雫が零れ落ちる。突然の変化に最も驚いていたのは、他ならぬキリト自身だった。

 

 「あ、れ……?なんで……俺、泣いて……今泣いちゃ、ダメなのに……!何で……止まらないんだよ……!」

 

 肩が震える。嗚咽が漏れる。一度溢れ出した涙は止まらない。それでもキリトは必死にそれらを抑え込もうと何度も目元を拭う。

 

 「和人君……もう、隠さなくていいんだよ」

 

 全てを受け入れる慈母のような笑みと共に、アスナは優しくキリトを包み込む。彼女の腕の中で、彼はやっと本心を叫んだ。

 

 「俺は……!俺だって……まだ死にたくない!もっと皆と……明日奈と一緒に生きていたい!!」

 

 「うん……うん……!」

 

 幼子のように泣き叫び、縋りつく黒衣の少年を抱く少女もまた、泣いていた。そんな二人を、オレとサクラは迷う事無く両側から抱きしめる。かけがえのない人達の温もりを、自分の魂に焼き付ける。

 

 「和人!オレの親友(ダチ)はお前だけだ!!」

 

 「あの時、わたしの背中を押してくれた事!今でも感謝してる!!」

 

 「私……私!和人君といる時間が一番幸せだった!いつまでも君を……愛しています!!」

 

 世界が終わる。視界が白く染まり、あらゆる感覚が遠のいていく、その中で―――

 

 ―――ありがとう……さよなら

 

 彼の最後の言葉が、聞こえた。

 

 ~~~~~~~~~~

 

 匂う。その事に強烈な違和感しかなかった。アインクラッドでは人や物に意識を向けなければ基本的に無臭だった筈だ。自分が今どこにいるのかが知りたくて瞼を開くが、ぼんやりとした白が視界に映るだけだ。

 

 (これ、涙……か?)

 

 何故自分が泣いているのか……何度も瞬きを繰り返しながら記憶を辿り―――

 

 ―――クロト!

 

 ―――行こうぜ、相棒

 

 彼の鋼鉄の城で再会した最愛の少女と、共に戦い続けた無二の親友の声が響く。それが引き金となり、彼を愛し、結ばれた少女を思い出す。彼の為に心を砕いてくれた、年の離れた二人の友人を思い出す。

 

 「ぁ……!」

 

 ぼんやりとしていた意識が、一気に覚醒する。同時に新たな雫が溢れだす。

 

 (行か……なきゃ……!)

 

 感情のままに飛び起きようとして―――できなかった。体が信じられない程に重く、力が入らなかったのだ。だが、いちいちそんな事で止まる訳にもいかなかった。少しだけ休んでから、時間をかけて体に力を籠める。

 

 (こ……の……!)

 

 歯がゆい程ゆっくりと上体を起こす事に成功すると、それだけで息が上がってしまった。頭がやけに重い。恐らく何かを被っているのだろう。顎下にある固定具を手探りで外すと、どうにかそれを引きはがす。

 

 (ナーヴギア……やっぱり、現実世界なんだな……)

 

 二年間オレ達プレイヤーをSAOへと縛り続けた鎖であり、死をもたらす処刑具であり―――影でオレ達と共にあり続けた第二の相棒。至る所の塗装が剥げて、幾分痛んでいるそれを複雑な思いで見つめた後、少し視線をずらす。

 そこにはおおよそ自分のものとは思えないくらいやせ細った体があった。とはいえ冷静に考えてみれば、こちら側のオレ達は二年間ずっと寝たきりだったのだ。こうやって自力で動けるだけでも驚くべき事なのかもしれない。喉の痛みを堪えて呼吸を整えている間に周りに視線を巡らせて、漸くオレは病室で寝かされていたのだと気づいた。しかし、今のオレにはそんな事はどうでもよかった。

 今の脆弱な体を支える道具として、自分に繋がれた点滴の支柱に目をつける。自由を得る為に点滴以外のコードを引きはがし、何とかベッドから降りる。

 

 「ぅ……ぁ……!」

 

 再び息が上がり、痛くて仕方なかった。久しく感じなかった痛みに涙が溢れ、今にも崩れ落ちてしまいそうになる。

 

 「ぐ……ぅ……!」

 

 でも……それでも、立ち止まらない。立ち止まれない。両手で点滴の支柱につかまり、覚束ない足取りで部屋を出る。僅かに回復した聴覚が何処かで響く警告音や看護師と思しき足音を少しだけ拾ったが、一切気にならなかった。

 

 (サクラ……アスナ……キリト……!)

 

 大切な人達に再び会うまで、オレは決してこの歩みを止めはしないのだから。




 アインクラッド編はこれで完結になります。ここまで本当に長かったです……!
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