サクラ サイド
つがいと思しき小鳥たちが、掌から飛び立っていく。気を紛らわす為に続けていたハミングを止めて目で追いかけると、小鳥たちは金の格子の隙間をすり抜けた。そのままぼんやりと眺めていると、やがて小鳥たちは空へと溶けていった。
(今日で……六十日、だったっけ……?)
部屋とも呼べない巨大な鳥籠のような牢獄に囚われてからの日数を思い出すけれど、それだって最近は確信が持てなくなってきている。一日が二十四時間よりも非常に短くて、体内時計に従って寝起きしても昼夜が殆どかみ合わないのだ。同じ日が覚めない悪夢のように何度も繰り返されているんじゃないか、そんな不安が日増しに膨らみ、握り合わせた手が震える。
「負けちゃダメ……負けちゃダメ……!」
希望は何処かに必ずある。そう言い聞かせて手の震えが治まった頃、後ろのベッドから微かな衣擦れ音が聞こえた。
「ぅ……キリト、君……」
「アスナさん!」
夢にうなされている彼女が虚空へと伸ばした手を取り、揺り起こす。慌てていたから少し乱暴だったかもしれないけど、アスナさんはちゃんと起きてくれた。涙にぬれた瞳が二度、三度と瞬きする中で焦点が定まり、わたしの事を認識してくれた。
「……サ、クラ……?」
「はい。おはようございます、アスナさん」
「えぇ、おはよう…………また、夢だったのね」
諦観した呟きと共に、彼女の目尻から一筋の雫が零れ落ちる。でも、それだけだった。その一滴が全ての感情を流してしまったかのように、今のアスナさんの顔から表情が無くなる。
(わたしは………)
何もできない。目の前の人にずっと助けられたのに、その恩を返す事すらできない。支えたいと思っても、彼女の心に触れられない。その無力感に、思わず唇を噛み締める。だが幾ら力を強めても、血の一滴を流すどころか痛みすら感じないのは、ここが仮想世界である証だ。
分かる事は少ないけれど……わたしとアスナさんは悪意によってこの仮想世界に囚われた、という事はハッキリしている。そしてその首謀者も。
あの時―――夕焼けに染まる空でキリトとの最後のお別れを迎えた後、わたし達の意識は現実世界に帰還する筈だった。光に吞まれ、仮想の肉体が消え去り……それでもなお感じられた大切な人達の温もりが、不意に奪われた。冷たい暗闇の中に落とされたと思った次の瞬間には、この牢獄の中で目が覚めたのだ。
わたし一人だけだったなら、きっと取り乱して正気を失っていた。アスナさんがいてくれたのは、不幸中の幸いだったのかもしれない。
(ううん……一番辛いのは、アスナさんよ……!)
心の底から幸せだと思える時間をくれた人と、想いを通じ合わせる事ができたのに……その人は
「―――相変わらずつれない顔だねぇ、ティターニア」
「っ!」
俯いていた顔を跳ね上げ、声の主から隠すようにアスナさんの前に立つ。一体いつから?という疑問を吞み込み、睨みつける。
「おやおや、小鳥ちゃんも相変わらず手厳しい」
「……二度とアスナさんに顔を見せないでくださいと、そう言った筈です」
全身を駆け巡る悪寒を堪えて、声を絞り出す。だが目の前の男は全く意に介した様子は無く、両手を上げて肩を竦めてみせるだけだった。作り物めいた整った顔立ちや、上品な衣服から非常に絵になる筈の仕草だけど、その全てを台無しにするような歪んだ笑みが……どうしようもない位に気持ち悪い。
「サクラ、その人には言うだけ無駄よ。自分に都合の悪い事は覚えられないサルだもの」
「やれやれ、言葉もつれないなぁ。今まで君達に無理矢理手を出した事はないのに」
上辺だけの猫撫で声が非常に不愉快で、今すぐにでも耳を塞ぎたい。
「私達をこんな所に閉じ込めておきながら、よくそんな事が言えるわね。須郷さん」
外を見つめながら、アスナさんは平坦で全く感情の無い声を発する。今の彼女が感情を見せるのは、決まってキリトの夢を見た時だけ。それ以外は心が凍り付いたようになってしまった。
「興ざめだなぁ。この世界の僕は妖精王オベイロン!そしてキミは僕の妻にして女王ティターニアだと、いつになったら受け入れてくれるのかな?」
「それこそ何度も言っているでしょう。私はアスナで、そんなおかしな名前じゃないわ。そして何があろうと、私が貴方の伴侶になる事は絶対にありえない」
目の前の男―――須郷さんが何と言おうと、アスナさんの態度は全く変わらない。
「全く……気の強さだけは随分と成長したようだね。でも最近は、そんな君を手折ってみたいとも思うんだよねぇ―――」
「―――触らないで!」
牢獄に踏み込んだ須郷さんが無遠慮に近づいてくる。彼がアスナさんに触れようとしているのは明白で、我慢できなかったわたしは伸ばされかけていた彼の手を振り払った。
「チッ……まぁいいさ。君がそう粋がっていられるのも今の内だしね」
「……貴方なんかに、負けません……絶対に……!」
「気丈だねぇ……そんな君がいずれ自分から僕を求めるようになると思うと、クク……ゾクゾクするよ」
「何、を……?」
わたしから求める?この男を?そんな事絶対にありえない。だってわたしにはもう、クロトがいる。彼への想いがあるから、怖くても頑張れる。
「君達も知らないだろうから教えてあげるよ。フルダイブ技術っていうのは、何も娯楽市場の為だけの代物じゃあないってさ!」
エメラルドの瞳に狂気を孕んだ光を宿した彼は、芝居がかった仕草で浪々とわたし達に語ってきた。曰く、フルダイブゲームは脳の感覚野に限って電磁パルスを送っている。ならばその枷を外し、脳のあらゆる場所に電磁パルスを送れば……記憶や感情さえも操作できる可能性が充分にあると。だがその研究の為には非人道的な実験が不可欠で、被験者の確保が課題だったが……SAO帰還者の一部のルーターに細工する事で、約三百人のプレイヤーを被験者として確保できた、と。
「許せない……!貴方のそんな身勝手の為に、彼は……わたし達は戦ったんじゃない!!」
キリトをはじめ、今までの攻略で死んでいった人達が、戦いの日々に傷つきボロボロになった人達が脳裏をよぎる。わたし達が足掻き続けた日々を、想いを穢された事に抑えきれない怒りがこみ上げてくる。
「現実世界に帰ったら、真っ先に貴方の悪行の全てを暴いて見せるわ!」
「やれやれ……研究は進展しているって言ったのをもう忘れたのかい?こうしてわざわざ教えてあげたって事は、もう君の記憶や感情を弄る準備が出来上がりつつあるからだと何故気づかない?」
「なっ!?」
冷たい手に心臓を鷲掴みにされたように、恐怖が這い上がっていく。
「ククク……強がってた君の、今にも折れてしまいそうな顔。堪らないよ」
ニタニタとした笑みが、ゆっくりと近づいてくる。目を閉じて一歩下がったその時―――
「―――チッ、あの
不意に、目の前の男の気配が離れた。恐る恐る目を開くと、彼は目の前に現れたウィンドウに向かって一言二言呟き、踵を返す所だった。
「くろ、がね……?」
「ん?あぁ……レクト本社の営業課のヤツだよ。大方目標通りの利益が出ているかのチェックだろう。全く、自分のガキがSAOに囚われたってのに仕事優先とは……ま、そのお陰であの
いやはや、一労働者として尊敬するよ!明らかな嘲りと共に大笑いする彼の事なんて、すぐに気にならなくなった。
(仕事優先……
大切な人の居場所の手がかりが、思いがけず手に入ったのだ。それも思っていたよりもずっと近くだと。それなら、きっとクロトが助けに来てくれる。
「おや、その眼は何だい?まさか誰かが助けに来てくれるとでも?」
「えぇ、彼なら。貴方の言う全てが貴方を許しても、彼だけは絶対に貴方を許しはしないわ」
抱いた希望を悟られた事に硬直したわたしに変わって、アスナさんが淡々と告げた。わたし達をここに閉じ込め、
「ククク……彼、ねぇ……それは
その一言にわたしは息を吞み、アスナさんは目を見開いた。漸く彼女の表情が変化した事に気をよくしたのか、須郷さんは上機嫌で声を張り上げた。
「ついこの間会ったよ!君の病室でねぇ!あんな貧弱で死んだ魚みたいな目をしたガキがSAOをクリアしただなんて、今でも信じられないよ!」
アスナさんの表情が変わるさまを、これ以上見せる訳にはいかない。その一心で彼女の頭を掻き抱いて隠す。
「特に君との結婚を教えた時の顔!アレは傑作だったね!!あぁ、君達に画像を見せてやりたいくらいなっさけ無い顔だったさ!」
ひとしきり笑い終えた後、扉へと向かいながらトドメを刺すかのように彼はキリトを嘲る。
「賭けてもいいけど、あんなガキは絶対に来ないよ!そもそもナーヴギアは政府が回収したんだし、アイツにだってもう一度VRにダイブする勇気なんてありゃしないよ!」
「……!」
沸き上がる怒りを堪える為に、腕の中のアスナさんをより一層強く抱きしめる。そんなわたし達に満足したのか、あの人はそれ以上何も言わずに扉横のタッチパネルに暗証番号を打ち込む。程なく扉の開閉音が響き、聞きたくもない足音がゆっくりと遠ざかり……やがて消えた。
「……アスナさん」
「大丈夫、番号は覚えたわ……」
腕の力を緩めてアスナさんの顔を覗き込むと、わたしを死角に鏡を見つめていた彼女は頷いてくれた。仮想世界での生活に一日の長があるわたし達だからこそ気づき、逆に日が浅いあの男では全く警戒していないこの方法を見つけたのは大分前だったけど、タイミングよく彼の退室時に鏡を見る機会が無かった。
「後は、脱出の機会を……待つ、だけ……!」
震える声はそれ以上続かず、アスナさんは再びわたしの胸に顔を埋める。胸元の衣服が心許ない程に薄手で小さなものであるが故に、抱いた彼女が流す涙の熱がはっきりと伝わってくる。
「アスナさん……」
「ごめんなさい……私も、よくわからなくて……!でも……でも、キリト君、が……!」
「ええ、生きてます。だから今はいっぱい……いーっぱい、泣いてください。ここには、わたししかいません」
「うん……!」
アスナさんを抱きしめたまま傍らのベッドに倒れ込み、宥めるように彼女の髪を撫でて、歌う。小さな頃に母が歌ってくれた子守唄に過ぎないけれど……彼女の気が済むまで涙を流し、泣き疲れて眠るまで、わたしは歌い続けた。
終わりの見えなかった日々に漸く垂らされた、希望の糸。それが折れそうだった心を奮い立たせてくれる。なら―――
(わたしも、頑張れるよ……クロト)
―――自分にできる事を、全力でやろう。
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??? サイド
「―――で、どうだ?ダイブした感想は」
「ああ、何もかもが思った以上だったよ。想定外の事もあったけどな」
電話越しに聞こえる声に、おれは一人苦笑する。声の主である少年のムスッとした表情が目に浮かぶが、同時にアイツならそんな事があっても容易く切り抜けただろうと容易に想像できた。
「……ありがとな」
「おいおい、礼はまだいらねぇって言っただろうが」
「お前のお陰で早速一つ、大切なものを取り戻せたんだ。今のはその礼だよ」
「成程なぁ……」
おれも彼も……いや、SAO生還者ならば大なり小なりあの城に大切なものを残している。それはあの世界で愛した誰かであったり、鍛え上げた武具や己のステータスであったり、帰るべき居場所であったり……形や良し悪しはどうあれ、当人にとってはかけがえのないものだった。きっとアイツもその内のどれかが偶然にも取り戻せたのだろう。
(大方、仮想世界への熱意ってとこか?アイツもSAO以来フルダイブはしていなかったみてぇだし)
SAOで彼が全力で生きようとしていた姿を思い出す。時としてNPCすら生きた人として情をかけた程の熱意があれば、きっとアイツはどの仮想世界でも負けはしないだろう。
「そりゃそうとお前、相棒に連絡したのか?アイツなら一も二もなく手ェ貸す筈だろ?」
「……今の俺には、会わせる顔が無いんだ……」
「二人を救うまでは、か?」
「あぁ……」
それっきり、電話越しの少年は押し黙った。言いたい事があっても、上手く言葉にできない……SAOでよく彼が見せていた表情が容易に想像できる沈黙だった。
「あのなぁ……アイツからすりゃ、お前は今でも死んだままなんだぞ?それが生きてるってだけでもデッカイ希望だ」
「そうだけど……!これは俺の不始末なんだ……!目覚めていないあの二人を取り戻すのは、あの城に残してしまった俺のっ……!!」
「バカ野郎が。一人で何でもかんでも背負いこもうとするのは、お前の悪い癖だ。それで何回アイツにブン殴られたってんだ?」
「っ……」
図星らしく、少年が短く息を吞む音が聞こえた。だがそれが返って意地を張らせてしまったらしく、感情を押し殺した声が聞こえてくる。
「それでも……もうこれ以上アイツに頼る訳にはいかないんだ……!俺の……俺一人の所為で、アイツがどれだけボロボロになったのか……!」
「……そうだな」
「だったら分かるだろ!俺の為に何度も傷ついて、死にかけて……何かが違っていたら、俺がアイツの命を使い潰していたかもしれなかったんだぞ……!!」
「それでもアイツは’お前がほっとけねぇ’っつって手を貸す、大バカ野郎だよ」
少年はあの城で共に戦い抜いた
「もう一度よく考えてみろよ?アイツだってお前の力になり切れなかったって悔やんでいるだろうってのは、お前が一番わかってるんじゃないのか?」
「……」
返答は無い。だが、おれから言うべき事は伝えた以上、後は少年次第だろう。
「言っとくが、おれはアイツの居場所も連絡先も知らないぞ。お前が言わない以上、アイツの中のお前は死んだままだからな」
「……解ってる。それじゃあ、またなエギル」
静かに電話が切られた。あの様子では相棒への連絡は当分しないだろう。
「誰もお前を責める筈ないだろうが……キリト」
本来帰還する筈だった三百人が囚われたままとなり、その一方で死ぬ筈だった自分がのうのうと現実世界で生きている。その事実が日々彼の心を苛み続け、擦り減らしているのはこの店で再会した時から分かっていた。話の分かる役人に直談判し、思いつく限りの知人の本名と連絡先のリストを入手したと聞いた時は、’コイツらしい’とどこか諦めに似た感慨を抱いたのだが……実際連絡がとれたのはおれ一人だけらしい。他の連中は現実との折り合いをつける為の妨げになるかもしれないから会ってない、だとか言ってきた時は思わず生意気な頭を小突いてやったが。
(今にして思えば、それも建前だろうな……)
今のキリトは、自分が生きている事自体に負い目を感じている。その負い目から誰の手も掴めず、傍で支える筈だった少女も今は眠ったまま。
「妙な遠慮しやがって……けど、その通りってのも事実なんだよなぁ……」
SAO生還者は殆どが社会復帰に奮闘している真っただ中で、仮想世界と現実世界のギャップにも苦しんでいる者が多い。それにSAOでは無かった様々なしがらみもあって……全てを投げうってでも誰かを助けられるか?と聞かれても即答できなくなった。SAOでは最悪の場合自分の命だけで済んだ対価が、今のおれにはそこに嫁さんと彼女が守り続けた店が加わっているからだ。
「それでもクロトなら、お前を助けようとするんだろうな」
アイツならば。無茶やらかして大変な目に遭いながらもキリトを助け、対価なんて踏み倒して帰ってくる……そんな姿がありありと浮かんでしまう。
「結局、キリトの事はお前頼みになっちまうのか……クロト」
準備時間故に客のいない店に、おれの呟きは空しく消えていくだけだった。
あっという間に三が日が過ぎました……アポクリファ終わっちゃいましたし、週末の楽しみが減りました(涙)