「私の記録を抜けたら、リレーに入ってあげる」
女子百メートル。鴻上ひかり。十一秒六四。
大会名と風速は、数字の横に小さく押し込まれている。
その小ささに比べて、十一秒六四だけが紙の上でやけに場所を取っていた。
その下に自分の名前があるわけではない。
それでも私は、記録表の余白に勝手に自分のタイムを置いていた。
朝倉
差は、〇秒九四。
時計の上では薄い数字だった。
でもトラックの上では、ゴールの向こうに立つ背中になる。
それでも私は、頷いていた。
「抜きます」
自分の声は、思ったよりもはっきりと音になった。
ひかり先輩の指先が、記録表の上で少しだけ止まった。
笑ったのかもしれない。
けれど、その指はすぐに紙から離れた。
「じゃあ、頑張って」
それだけ言って、ひかり先輩は記録表から離れた。
指先が離れたあとも、一番上の数字は揺らいだりしなかった。
ひかり先輩がなぞった軌跡が、ちょうど数字の下に線を引く。
その線の向こうに、ひかり先輩の名前があった。
私には、そこだけ紙ではなく壁に見えた。
♦
話は、そこから三日前に戻る。
高校の陸上部に入った最初の日、私は十二秒六一で走った。
ゴールを抜けたあと、スパイクのピンがタータンから離れる音だけが耳に残っていた。
息は荒い。
でも、悪くない。
そう思えるだけの手応えはあった。
「朝倉、十二秒六一」
片桐先生がストップウォッチを見て言った。
私はゴールの先で息を整えながら、軽く頭を下げた。
「はい」
「中学のベストは?」
「十二秒五八です」
「近いな」
先生はストップウォッチを止めた親指をそのままに、私の走ってきたレーンへ顎を向けた。
無表情で厳しそうだ、という初対面の印象は、少し話してみても払拭されなかった。
「ただ、走り方はだいぶ散らかっている」
「散らかっている、ですか」
「良くも悪くもな。能力はある。けど、全部を前に使えていない」
怒られているのか、褒められているのか分からなかった。
ただ、「能力はある」のところだけ、スパイクのピンみたいに胸に引っかかった。
「直せるところが多いってことだ」
「はい」
中学では、決勝に残れば名前を呼ばれた。
リレーでは、バトンを任される側だった。
だから高校でも、短距離を続けることに迷いはなかった。
でも、このグラウンドでは私は特別ではなかった。
一年にも、先輩にも、私より整った走りをする人はいる。
タイムだけなら勝っていても、スタートで置いていかれる相手もいた。同級生の宮野千秋は、私よりも初速が速い。橘真帆先輩は、私よりも丁寧で、、安定しているのにずっと速い。
中学では速い方だった私が、ここではただの有望な一年生の一人になる。
それ以上ではない。
落胆より先に、納得があった。
練習後、部室の壁に新しい測定結果が貼られた。
真帆先輩が紙を押さえ、画鋲を留めている。
「朝倉、十二秒六一ね」
「はい」
「初日でこれなら十分。けど、先生に何か言われた?」
「走り方が散らかってるって」
「ああ」
真帆先輩は少し笑った。
面白かったから、というよりは、苦笑混じりだった。
「片桐先生、それ言うときは見込みあるときだよ。だから、大丈夫」
「そうなんですか」
「本当にどうにもならなかったら、もう少し優しい」
「それはそれで怖いですね」
「でしょ?」
私の名前は、新しい紙の真ん中あたりにあった。
朝倉翠、十二秒六一。
画鋲の跡がまだ浅い。
そこから上へ、タイムが少しずつ削られていく。
十二秒三台。
十二秒二台。
十二秒一台。
一番上まで目を上げたところで、首の後ろが少し固くなった。
十一秒六四。
そこだけ、インクの濃さが違って見えた。
飲み下そうとして、失敗する。
「これ、誰ですか」
思わず尋ねていた。
真帆先輩は、私が指した先を確かめて、納得したように頷いた。
「ああ、ひかり」
「ひかり?」
「鴻上ひかり。二年。うちの学校記録」
「二年生なんですか」
「うん。出したのは一年の秋だけど」
今の私と、そう遠くない時期だ。
それで十一秒六四。
数字だけで、立っている場所が違うと分かった。
「今も部活にいるんですか」
真帆先輩は、少しだけ答えるまでに間を置いた。
言いづらい、という感じよりはむしろ、どう答えるのが正しいのか迷ったように見えた。
「名前はあるよ」
「名前は?」
「学校には来てる。でも、部活にはほとんど来ない」
真帆先輩は、少し困ったように付け加えた。
「幽霊部員ってやつかな」
よく分からない答えだった。
十一秒六四を出せる人が、部活に来ない。
紙には名前が残っている。
けれど、グラウンドにはいない。
その二つが、私の中で上手く重ならなかった。
「どうしてですか」
「本人に聞いても、たぶんちゃんとは答えない」
真帆先輩は少しだけ肩をすくめた。
「考えてないんじゃなくて、答える気がない感じ」
そう言って、記録表の隣を指した。
そこには、リレーの学校記録が貼られている。
女子四×一〇〇メートルリレー。四十七秒六二。
第一走者、卒業した先輩。
第二走者、橘真帆。
第三走者、卒業した先輩。
第四走者、鴻上ひかり。
また、その名前があった。
百メートルの紙では、鴻上ひかりの名前だけが一番上にある。
でも、リレーの紙では違った。
鴻上ひかりの前に、三人の名前がある。
その後ろに、第四走者。
アンカー。
同じ名前なのに、少しだけ別の場所に置かれているように見えた。
その日の夜、真帆先輩から動画が送られてきた。
──これ、ひかりの十一秒六四。見すぎると毒だけど
ベッドの上で、スマホを横に倒す。
画面の端に、真帆先輩のメッセージがまだ残っていた。
見すぎると毒だけど。
その一文を、私は少しだけ笑えなかった。
動画の画質は少し荒い。
女子百メートル決勝。
レーンに並ぶ選手たちの中に、鴻上ひかり先輩がいた。
首元で切りそろえられた、少し茶色がかった髪。この学校のユニフォーム。
スタート前なのに、肩に余計な力が見えなかった。
スターターが腕を上げる。
直後、号砲。
画面の中の選手が一斉に走り出した瞬間、息が止まった。
──速い。
そう思うより先に、呼吸を忘れていた。力んでいない。急いでいるようにも見えない。なのに、身体だけが前へほどけていく。
腕も脚も、迷わず次の場所へ収まっていく。
周りの選手は必死に走っている。
地面を蹴っている。
ひかり先輩も、もちろん走っている。
けれど、トラックの上にある風の通り道を、一人だけ知っているみたいだった。
ゴール。
電光掲示板に、十一秒六四が出る。
周りが騒ぐ。
隣の選手が何か声をかける。
でも、ひかり先輩は笑わなかった。
掲示板の数字にも、周りの声にも、表情だけが少し遅れていた。
ひかり先輩は、一度だけ掲示板を確かめる。
それから、レーンの外へ顔を向けた。
自分の名前から、少し遅れて逃げるみたいだった。
親指が、勝手に再生バーを最初へ戻していた。
スタート。最初の一歩。二歩目。三歩目。
姿勢が低いのに沈まない。
踏み込みは強いのに固くない。
見れば見るほど、分からなくなった。
それなのに、目だけは何度もスタートへ戻ってしまう。
速いから。
でも、たぶんそれだけではない。
あんな走りを持っている人が、どうして部活に来ないのか。
どうして、ゴールしたあとにあんな顔をするのか。
その夜、私は動画を何度も戻した。
眠る前に目を閉じても、三歩目だけがまだ画面の奥で動いていた。
翌日の練習前、私はグラウンドの端でスタートを試していた。
昨日の動画が頭に残っている。
ひかり先輩の一歩目。
三歩目。
あの低さ。
あの滑らかさ。
一朝一夕に真似できるとは思っていない。
それでも、試さずにはいられなかった。
地面に手をつく。
よーい。
小さく吐いて、出る。
一歩目。二歩目。
三歩目で、足裏の力が下へ抜けた。
前へ進む前に、身体が沈む。
慌てて四歩目で起こす。
腕が遅れる。足だけがばらばらに前へ出る。
数歩で止まると、膝の奥に変な重さだけが残った。
「スタートじゃなくて、転んでるだけだよ」
横から声がした。
顔を上げると、フェンスの向こうに制服姿の女子生徒が立っていた。
短い髪。風でもあまり揺れない表情。
画面の中で見た人が、音もなく現実に立っていた。
鴻上ひかり先輩。
私たちの距離は、画面の中よりずっと近い。
近いのに、記録表の数字みたいに遠い。
「鴻上、先輩」
私が名前を呼ぶと、ひかり先輩は少しだけ首を傾げた。
「誰?」
「一年の朝倉翠です。短距離です」
「ふぅん」
興味がなさそうに、それだけだった。
私はさっきの言葉を思い出した。
「転んでるって、どういう意味ですか」
「そのまま」
「スタートが、ですか」
「三歩目」
ひかり先輩は短く言った。
「沈んでる」
三歩目。
昨日、動画で何度も戻した場所。
私はスパイクの先を少しだけずらした。
いつもの靴なのに、急に借り物みたいに感じた。
「どうすればいいですか」
「知らない」
即答でばっさりと切り捨てられた。
「知らない、ですか」
「私の身体じゃないし」
突き放す言い方なのに、なぜか嘘には聞こえなかった。
ひかり先輩は、フェンスの網に指をかけるでもなく、グラウンドの方へ体だけを少し向けた。
部員たちが集まり始めている。
真帆先輩がこちらに気づきかけたとき、ひかり先輩は一歩下がった。
「先輩は」
私は慌てて言った。
「部活には来ないんですか」
ひかり先輩は、すぐには答えなかった。
一呼吸置いて、無表情のまま口を開いた。
「来ないね」
「どうしてですか」
「来る理由がないから」
簡単な言葉だった。
簡単すぎて、引っかかった。
来る理由がない。
それは、来ない理由を言わないための言葉にも聞こえた。
「でも、走れるのに。あんなに速く」
言った瞬間、踏み込みすぎたと思った。
ひかり先輩は怒らなかった。
ただ、私を見た。
「速いから走るって、誰が決めたの?」
なにか答えようとして、なにも返せなかった。
走れるなら走る。
速いなら続ける。
その二つを、私は今までほとんど同じ意味で使っていた。
ひかり先輩は、もう一度だけ私の足元を確かめた。
「三歩目」
「え?」
「そこ、変」
それだけ言って、歩き出した。
呼び止めようとしたときには、もう背中が遠かった。
しばらく呆然と見送って、我に返ってからグラウンドに戻ると、真帆先輩が私を待っていた。
「今、ひかりいた?」
「はい」
「何か言われた?」
「三歩目が沈んでるって」
真帆先輩は少し笑った。
「見えてるんだなあ、相変わらず」
「相変わらず?」
「本人は教えてるつもりないんだろうけどね」
教えているつもりはない。
たしかに、そんな言い方だった。
見えたものだけを、地面に置いていくような人だった。
でも私は、その一言を忘れられなかった。
三歩目、沈んでる。
練習後、私は部室で記録表の前に立った。
十一秒六四。
何度向き合っても、数字は変わらない。
リレーの記録にも、鴻上ひかりの名前がある。
四十七秒六二。
第四走者、アンカー。
昨晩の動画を思い出していた。
あの人が一人で走る百メートルは、もう見た。
十一秒六四。
その数字の横には、ひかり先輩の名前だけがある。
でも、リレーの紙では違った。
第四走者、鴻上ひかり。
その前に、三人の名前がある。
誰かから渡されたものを持って走るとき、あの人はどんな顔をするのだろう。
翌日、私は部室の前にいた。
帰るタイミングを何度か逃した。
鞄の持ち手を握り直しても、足は部室の前から離れなかった。
紙には名前が残っている。
本人は来ない。
それが、どうしても納得できなかった。
しばらくして、廊下の向こうからひかり先輩が歩いてきた。
部活に来たわけではなさそうだった。
制服のまま、片手に鞄を持っている。
「朝倉さん」
「はい」
「何してるの?」
「待ってました」
「私を?」
「はい」
ひかり先輩は、少しだけ面倒そうに目を伏せた。
「なんで」
私は壁の一番上へ顔を向けた。
その隣に、リレーの紙が貼られている。
十一秒六四。
四十七秒六二。
同じ名前が、二つの紙に分かれていた。
「リレーに戻ってください」
自分でも驚くくらい、まっすぐな言葉だった。
百メートルを走ってください、ではなかった。
もう一度、十一秒六四みたいな記録を出してください、でもなかった。
あの人が一人で走るところではなく、誰かからバトンを受け取って走るところを見たい。
そう思っていた。
ひかり先輩は部室の中へ入らず、扉の前で立ち止まった。
「速い人が欲しいだけでしょ」
その声は冷たかった。
でも、怒っているというより、何度も同じ場所を押された人の声だった。
「速い人は、欲しいです」
言ってから、違う、と思った。
違わない。
でも、それだけではない。
「でも、それだけじゃありません」
ひかり先輩が少しだけ顔を上げる。
「正直だね」
「嘘をついたら、たぶんもっと失礼なので」
「じゃあ、何」
私は記録表の二つの紙の間で、少しだけ言葉を探した。
百メートルの名前。
リレーの名前。
同じ人の名前なのに、少し違う場所に置かれている。
「先輩の走りを、もう一度見たいんです」
ひかり先輩は一度なにかを言いかけて、黙った。
「……動画でいいんじゃない?」
「動画じゃ、今の先輩は走りません」
言ったあと、スタート前みたいに喉が細くなった。
今の先輩。
私はまだ、この人のことをほとんど知らない。
でも、記録表の名前と動画の中だけで終わらせたくなかった。
ひかり先輩の指先が、百メートルの記録の横で止まった。
その指は、数字に触れそうで触れない。
記録を見るというより、剥がし忘れた紙を見つけたときの手つきに近かった。
それから、隣のリレー記録へ少しだけずれる。
第四走者、鴻上ひかり。
ほんの少しだけ、指の動きが遅れた気がした。
「朝倉さんのベスト、いくつ?」
「十二秒五八です」
「昨日の測定は?」
「十二秒六一です」
「そっか」
ひかり先輩は、もう一度記録表を指した。
「私の記録を抜けたら、リレーに入ってあげる」
最初、その意味がすぐには入ってこなかった。
「え」
「十一秒六四」
ひかり先輩の指先が、数字の横で止まっている。
「それを抜けたら」
十一秒六四。
その数字を前にして、返事より先に喉が止まった。
十二秒五八から、〇秒九四。
その遠さは、もう身体が知っていた。
ひかり先輩は、戻りたくないと言わなかった。
走りたくないとも言わなかった。
ただ、届かないように見える場所へ、条件を置いた。
そのことが、悔しかった。
それなのに、目が離せなかった。
「抜きます」
考えるより先に、声が出ていた。
ひかり先輩は、記録表から手を離し、私のほうへ振り返った。
「本気?」
「本気です」
「一秒近くあるよ」
「知ってます」
「普通は縮まらない」
「普通なら、そうだと思います」
ひかり先輩は、そこで少しだけ黙った。
「分かってて言うんだ」
「言います」
しばらく何も返ってこなかった。
それから、ひかり先輩は記録表から一歩離れる。
「じゃあ、頑張って」
最初に聞いたときと同じ、軽い言葉。
でも私はもう、それを軽く受け取れなかった。
ひかり先輩が部室の前を離れていく。
私は記録表の前に独り残された。
壁には、まだ二つの紙が残っている。
どちらにも、鴻上ひかりの名前があった。
その名前だけが、部室の壁から降りてこない。
憧れなのか、悔しさなのか、怒りなのか。
まだ、どれにも決められない。
それでも、次にスタートラインに立つとき、私はもう同じ場所にはいない。
十一秒六四。
そこに届くまで、私はもう、前と同じスタートラインには立てない。