ひかりより速く、   作:おいかぜ

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十話 On your marks

 

 招集所へ向かう通路で、千秋は急に黙った。

 さっきまでバナナの話をしていた指が、公式バトンを握った瞬間、動かなくなる。

 

 真帆先輩はその横で、招集カードとゼッケンを確認している。

 落ち着いているようで、右手の指先だけが何度か開いて閉じた。

 

 私も手を開く。

 まだバトンはない。

 

 でも、もうすぐやってくる。

 千秋から真帆先輩へ。真帆先輩から私へ。そして、私から茅野先輩へ。

 

 私の声が届く先に、茅野梨央先輩がいる。

 その背中は、少し後ろにあった。

 

 歩き方はほとんどいつも通りだった。

 でも、その「ほとんど」が、今日は怖かった。

 

「朝倉」

 

 呼ばれて、背筋が伸びる。

 

「はい」

「手」

「手ですか」

「握りすぎ。まだ何も持ってないのに」

 

 言われて、自分の指に力が入っていることに気づいた。

 手をほどく。白くなった指先に、朱が戻る。

 

「いろいろ考えすぎ。今日の予選であんたがすることは一つ」

「……茅野先輩へ渡すこと」

「そう」

 

 茅野先輩は短く頷いた。

 

「私が出る。あんたが来る。声を出す。バトンを入れる」

「はい」

「それだけ」

 

 それだけ。

 その短さに、余計なものを置く場所がなくなった。

 真帆先輩が少し振り返る。

 

「朝倉、私の声だけ聞いて出て」

「はい」

「途中を飛ばさない」

 

 その言葉で、背中が少し伸びた。

 ひかり先輩の名前がある。それでも、四人で走る。

 千秋が公式バトンを握り直した。

 

「最初、行きます」

 

 誰にともなく置かれた声だった。

 真帆先輩が頷く。

 

「受ける」

 

 私も続けた。

 

「持っていきます」

 

 茅野先輩が最後に口を開いた。

 

「持っていく」

 

 同じ言葉なのに、向かう先が違った。

 

 私はアンカーへ。

 茅野先輩はゴールへ。

 

 招集が終わり、私たちはそれぞれの位置へ散った。

 トラックに出ると、音が一気に広がる。

 

 レーン番号を呼ぶ声。

 バトンを握り直す金属の音。

 テイクオーバーゾーンの白線を踏むスパイク。

 

 どれも、昨日の百メートルにはなかった音だった。

 

 私は三走の位置に立った。

 一人でスタートラインに立つのではない。

 

 来るものを待つ。

 受ける。

 そして、渡す。

 

 アンカーゾーンでは、茅野先輩がマークを確かめていた。

 右脚へ意識が寄りかけて、止める。

 脚じゃなくて、背中。

 

 茅野先輩は何も言わず、ただ前を向いた。

 

 スタンドの端に、ひかり先輩がいた。

 その顔は、アンカーゾーンへ向いている。

 

 私は息を吸って、自分のマークへ意識を戻した。

 今、そこに引っ張られる場面ではない。

 

 真帆先輩が来る場所。

 右手に入るバトン。走ってくるタイミング。

 それだけを意識に残す。

 

 スターターが立つ。

 千秋がスタートラインに入る。

 ピストルと共に、階段上に並んだ一走が一斉に飛び出す。

 

 千秋の一歩目は低かった。

 真帆先輩の受けは乱れなかった。

 私は、真帆先輩の声だけで出た。

 

「はい!」

 

 右手にバトン。すぐに持ちかえる。昨日の十一秒九一が、一瞬だけ胸をかすめる。

 抜けなかった数字。でも、足には絡ませない。

 真帆先輩から来た速度に、自分の悔しさを上からかぶせない。

 

 乗せて、前へ。

 茅野先輩が出る。

 

 茅野先輩は待たない。

 いつも通りか、ほんの少し早いくらいだった。

 

 その出方に、胸の奥がきしむ。心配なんかするな。背中だけを追う。今は入れる。

 

「はい!」

 

 茅野先輩の左手が伸びる。

 低い。迷いがない。

 私も、その手を探さない。

 

 背中へ向かって、バトンを押し込んだ。

 入った。

 茅野先輩の手が閉じる。

 バトンが私の手から離れた瞬間、茅野先輩はさらに前へ出た。

 

 速い。

 

 派手に空気を変える速さではない。

 でも、後ろから来たものを絶対に落とさない。

 

 私は止まりきれずに数歩進み、振り返る。

 茅野先輩はゴールへ向かっている。

 

 他校のアンカーが隣に並ぶ。

 最後の二十メートル。

 

 ほんの少し、右脚の戻りが遅れたように見えた。

 それでも、茅野先輩は落とさない。

 バトンを持った左手を崩さず、ラインへ向かう。

 

 ゴール。電光掲示板が切り替わるまで、誰も声を出せなかった。

 

 四十七秒八九。

 予選通過。

 

 千秋が叫ぶ。

 

「四十七八九!」

 

 声が少し裏返っていた。

 真帆先輩が大きく息を吐く。

 

「出た」

 

 私は数字から離れられなかった。

 

 四十七秒八九。

 

 旧記録まで、あと〇秒二七。

 昨日の百メートルと、同じ距離だった。

 

 十一秒六四まで、あと〇秒二七。

 四十七秒六二まで、あと〇秒二七。

 

 届かなかったものが、二つ並んだ。

 でも、今は一人ではない。

 

「茅野先輩」

 

 千秋の声で、はっとした。

 ゴール付近で、茅野先輩が立ち止まっていた。

 

 右脚に手を伸ばしかけ、すぐに戻す。

 けれど、片桐先生はもう走り出していた。

 

「茅野」

 

 先生の声が低く響く。

 茅野先輩は顔を上げた。

 

「……大丈夫です」

「座れ」

「大丈夫です」

「座れ」

 

 二度目の声は、拒否を許さなかった。

 茅野先輩はしばらく立っていた。

 それから、芝生の端に腰を下ろす。

 

 真帆先輩がすぐに駆け寄った。

 千秋も行こうとして、途中で止まる。

 私は動けなかった。

 

 バトンを渡した手だけが、空のまま残っている。

 

 片桐先生が右脚の裏側、太もものあたりを確認する。

 茅野先輩は唇を結んでいた。

 痛いとは言わない。でも、息の吸い方が浅い。

 

「決勝は無理だ」

 

 先生が告げた。

 その一言で、周りの音が遠くなる。

 

「走れます」

 

 茅野先輩がすぐに返す。

 

「今も走りました」

「だから止める」

「最後まで行けました」

「最後まで行ったから、止める」

 

 先生の声は冷たくはなかった。

 でも、揺れなかった。

 

「ここで走らせたら、次の一本じゃ済まない」

 

 茅野先輩の手が芝を握った。

 

「でも」

「走れるかどうかじゃない。走らせていい状態かどうかだ。……私は、教師だ」

 

 茅野先輩は何も返さなかった。真帆先輩が、隣で膝をついている。千秋は両手を握りしめていた。

 私は、まだ立ったままだった。

 

 動けば、何かが決まってしまう気がした。

 

「…………よかったね」

 

 茅野先輩が、ぽつりと落とした。

 最初、自分に向けられた言葉だと分からなかった。

 茅野先輩は私の方へ顔を向けていた。

 

「これで、鴻上ひかりを呼べるじゃん」

 

 息が止まった。

 

「違います」

 

 反射で返していた。

 でも、言った瞬間、自分の中に別の声があることにも気づいた。

 

 ひかり先輩が走るかもしれない。

 その可能性に、私は確かに反応していた。

 

 五人目の名前を知った瞬間、胸が動いた。

 そのことを、私は消せない。

 

「違うって顔じゃない」

 

 茅野先輩の声は、怒鳴るよりずっと痛かった。

 私は拳を握る。

 

「違わないです」

 

 千秋が息を呑んだ。

 真帆先輩が私を見る。

 私は茅野先輩の前で、逃げずに続けた。

 

「ひかり先輩に走ってほしい気持ちはあります」

 

 茅野先輩の目が揺れた。

 

「あります。ずっと」

 

 声が震えそうになって、息を吸う。

 

「でも、今のアンカーを、なかったことにはしたくないです」

 

 茅野先輩は黙っていた。

 

「今日の四十七秒八九は、茅野先輩が持っていった記録です」

 

 私は掲示板の方へ顔を向けた。

 数字はまだ残っている。

 

「決勝で誰が走っても、今日のアンカーは茅野先輩です」

 

 茅野先輩は目を伏せた。

 芝を握っていた手から、少しだけ力が抜ける。

 

「一人にして」

 

 小さな声だった。

 真帆先輩が頷いた。

 

「分かった」

 

 片桐先生も立ち上がる。

 

「救護スペースで冷やす。橘、付き添いを」

「はい」

「宮野、朝倉、少し離れていろ。決勝の招集時刻は確認しておく」

 

 私は頷くしかなかった。

 茅野先輩が立ち上がるとき、真帆先輩が肩を貸そうとした。

 茅野先輩は一瞬だけ拒みかけて、結局その手を受けた。

 

 それが苦しかった。

 

 少し離れた場所に移動すると、スタンドの端からひかり先輩が下りてきた。

 ずっとそこにいたのだと思う。

 

 予選も。四十七秒八九も。

 茅野先輩が止められたところも。

 ひかり先輩は私の前で足を止めた。

 

「茅野は」

「決勝は、走れません」

「そう」

 

 短い返事。

 でも、意識は救護スペースの方へ向いていた。

 

「私は」

 

 息を吸う。

 

「今、私からは言えません」

「走って、って?」

「はい」

「どうして」

「茅野先輩のアンカーだからです」

 

 声が震れた。

 

「私のバトンでもあります。でも、茅野先輩のアンカーです」

 

 ひかり先輩は何も返さなかった。

 その沈黙が少し怖かった。

 

 真帆先輩が救護スペースから戻ってきたのは、それからしばらく経ってからのことだった。顔はいつも通りにしようとしていた。

 

 でも、目元だけが少し赤い。

 

「梨央が決めないと、たぶん動かないね」

 

 真帆先輩はそれだけ口にした。

 誰も、何をとは聞かなかった。

 片桐先生はオーダー変更の用紙を持って、少し離れた場所に立っている。

 

 準備はしてある。

 リレーは登録メンバー内なら変更できる。

 

 それはさっき聞いた。

 でも、紙を出せば終わる話ではなかった。

 誰が走るかだけではなく、何を持って走るかが決まっていなかった。

 

 茅野先輩の右脚にはテーピングが増えている。

 歩き方はゆっくりなのに、背筋だけは折れていなかった。

 真帆先輩が止めようとしたが、茅野先輩は首を振った。

 

「決勝、私は走らない」

 

 その声は、はっきりしていた。

 

 千秋が口元を押さえる。

 私は何も言えない。

 

「でも、アンカーは空けない」

 

 茅野先輩は、ひかり先輩の方へ歩いた。

 一歩ずつ。

 痛いはずなのに、止まらない。

 

 ひかり先輩はその場で待っていた。

 二人が向かい合う。

 

 前に、茅野先輩は「ひかり」と呼んだ。

 けれど今は、名前を呼ばなかった。

 

「私のアンカーを、あんたに預けに来た」

 

 ひかり先輩は黙っていた。

 茅野先輩は続ける。

 

「勘違いしないで。譲るんじゃない。預けるだけ」

 

 言葉が、まっすぐ落ちた。

 

「私が走ってきたリレーを、あんた一人のものにしたら許さない」

 

 ひかり先輩の表情は大きく変わらなかった。

 でも、目だけが少し揺れた。

 

「私が走ったら、そうなるかもしれないよ」

「ならないように走れ」

 

 茅野先輩は即答した。

 

「天才なんでしょ」

「……自称したこと、無いんだけど」

 

 その言い方は、挑発みたいで、信頼みたいだった。

 ひかり先輩は少しだけ息を吐く。

 

「茅野は、それでいいの」

「よくない」

 

 茅野先輩の声が、初めて少し崩れた。

 

「いいわけないでしょ」

 

 誰も動かなかった。

 

「私は走りたかった」

 

 茅野先輩は言った。

 

「私がアンカーで、旧記録を抜きたかった」

 

 右手が小さく震えていた。

 

「鴻上が戻ればって、何度も聞いた。でも、戻らなくても私が走るって思ってた」

 

 真帆先輩が俯く。

 千秋はもう泣いていた。

 

「でも、今は走れない」

 

 茅野先輩は唇を噛み、それから顔を上げた。

 

「だから預ける」

 

 ひかり先輩は、茅野先輩から逃げなかった。

 記録表から目を逸らしたときの顔ではない。

 

「受け取るの、下手だよ」

 

 ひかり先輩が言った。

 

「知ってる」

「後ろ、見たくなるかもしれない」

「見るな」

「落とすかも」

「落としたら殺す」

 

 千秋が泣きながら、小さく言った。

 

「物騒……」

 

 真帆先輩が、少しだけ笑った。

 ひかり先輩は私へ顔を向けた。

 

「朝倉さんは?」

 

 心臓が跳ねる。

 

「朝倉さんのバトン、私が受けることになるけど」

 

 私の手が、自然に握られる。

 まだ、ひかり先輩にバトンを渡したことはない。

 でも、ずっとそこへ向かっていた気がした。

 

 十一秒六四には届かなかった。

 

 それでも、私は三走だ。

 バトンを持って、アンカーへ走る。

 

「私は、渡します」

 

 声は震えなかった。

 

「鴻上先輩にじゃなくて、アンカーに」

 

 ひかり先輩は黙って私を見ていた。

 それから、茅野先輩へ顔を戻す。

 

「分かった」

 

 短い言葉だった。

 でも、その場の空気が変わった。

 

「──走るよ」

 

 千秋が息を吸い込む。

 真帆先輩が目を閉じる。

 片桐先生がすぐにオーダー変更の用紙を出した。

 

「準備はしてある」

 

 茅野先輩は、ひかり先輩を見上げた。

 

「四走で」

「うん」

「私のアンカーだから」

 

 ひかり先輩は、少しだけ頷いた。

 

「分かった」

 

 その返事は、さっきより深く聞こえた。

 

 ひかり先輩が走る。

 

 その事実より先に、茅野先輩の言葉が残った。

 

 譲るんじゃない。預けるだけ。

 

 決勝で私が渡すのは、空いたアンカーではない。

 そこには茅野先輩がいる。

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