招集所へ向かう通路で、千秋は急に黙った。
さっきまでバナナの話をしていた指が、公式バトンを握った瞬間、動かなくなる。
真帆先輩はその横で、招集カードとゼッケンを確認している。
落ち着いているようで、右手の指先だけが何度か開いて閉じた。
私も手を開く。
まだバトンはない。
でも、もうすぐやってくる。
千秋から真帆先輩へ。真帆先輩から私へ。そして、私から茅野先輩へ。
私の声が届く先に、茅野梨央先輩がいる。
その背中は、少し後ろにあった。
歩き方はほとんどいつも通りだった。
でも、その「ほとんど」が、今日は怖かった。
「朝倉」
呼ばれて、背筋が伸びる。
「はい」
「手」
「手ですか」
「握りすぎ。まだ何も持ってないのに」
言われて、自分の指に力が入っていることに気づいた。
手をほどく。白くなった指先に、朱が戻る。
「いろいろ考えすぎ。今日の予選であんたがすることは一つ」
「……茅野先輩へ渡すこと」
「そう」
茅野先輩は短く頷いた。
「私が出る。あんたが来る。声を出す。バトンを入れる」
「はい」
「それだけ」
それだけ。
その短さに、余計なものを置く場所がなくなった。
真帆先輩が少し振り返る。
「朝倉、私の声だけ聞いて出て」
「はい」
「途中を飛ばさない」
その言葉で、背中が少し伸びた。
ひかり先輩の名前がある。それでも、四人で走る。
千秋が公式バトンを握り直した。
「最初、行きます」
誰にともなく置かれた声だった。
真帆先輩が頷く。
「受ける」
私も続けた。
「持っていきます」
茅野先輩が最後に口を開いた。
「持っていく」
同じ言葉なのに、向かう先が違った。
私はアンカーへ。
茅野先輩はゴールへ。
招集が終わり、私たちはそれぞれの位置へ散った。
トラックに出ると、音が一気に広がる。
レーン番号を呼ぶ声。
バトンを握り直す金属の音。
テイクオーバーゾーンの白線を踏むスパイク。
どれも、昨日の百メートルにはなかった音だった。
私は三走の位置に立った。
一人でスタートラインに立つのではない。
来るものを待つ。
受ける。
そして、渡す。
アンカーゾーンでは、茅野先輩がマークを確かめていた。
右脚へ意識が寄りかけて、止める。
脚じゃなくて、背中。
茅野先輩は何も言わず、ただ前を向いた。
スタンドの端に、ひかり先輩がいた。
その顔は、アンカーゾーンへ向いている。
私は息を吸って、自分のマークへ意識を戻した。
今、そこに引っ張られる場面ではない。
真帆先輩が来る場所。
右手に入るバトン。走ってくるタイミング。
それだけを意識に残す。
スターターが立つ。
千秋がスタートラインに入る。
ピストルと共に、階段上に並んだ一走が一斉に飛び出す。
千秋の一歩目は低かった。
真帆先輩の受けは乱れなかった。
私は、真帆先輩の声だけで出た。
「はい!」
右手にバトン。すぐに持ちかえる。昨日の十一秒九一が、一瞬だけ胸をかすめる。
抜けなかった数字。でも、足には絡ませない。
真帆先輩から来た速度に、自分の悔しさを上からかぶせない。
乗せて、前へ。
茅野先輩が出る。
茅野先輩は待たない。
いつも通りか、ほんの少し早いくらいだった。
その出方に、胸の奥がきしむ。心配なんかするな。背中だけを追う。今は入れる。
「はい!」
茅野先輩の左手が伸びる。
低い。迷いがない。
私も、その手を探さない。
背中へ向かって、バトンを押し込んだ。
入った。
茅野先輩の手が閉じる。
バトンが私の手から離れた瞬間、茅野先輩はさらに前へ出た。
速い。
派手に空気を変える速さではない。
でも、後ろから来たものを絶対に落とさない。
私は止まりきれずに数歩進み、振り返る。
茅野先輩はゴールへ向かっている。
他校のアンカーが隣に並ぶ。
最後の二十メートル。
ほんの少し、右脚の戻りが遅れたように見えた。
それでも、茅野先輩は落とさない。
バトンを持った左手を崩さず、ラインへ向かう。
ゴール。電光掲示板が切り替わるまで、誰も声を出せなかった。
四十七秒八九。
予選通過。
千秋が叫ぶ。
「四十七八九!」
声が少し裏返っていた。
真帆先輩が大きく息を吐く。
「出た」
私は数字から離れられなかった。
四十七秒八九。
旧記録まで、あと〇秒二七。
昨日の百メートルと、同じ距離だった。
十一秒六四まで、あと〇秒二七。
四十七秒六二まで、あと〇秒二七。
届かなかったものが、二つ並んだ。
でも、今は一人ではない。
「茅野先輩」
千秋の声で、はっとした。
ゴール付近で、茅野先輩が立ち止まっていた。
右脚に手を伸ばしかけ、すぐに戻す。
けれど、片桐先生はもう走り出していた。
「茅野」
先生の声が低く響く。
茅野先輩は顔を上げた。
「……大丈夫です」
「座れ」
「大丈夫です」
「座れ」
二度目の声は、拒否を許さなかった。
茅野先輩はしばらく立っていた。
それから、芝生の端に腰を下ろす。
真帆先輩がすぐに駆け寄った。
千秋も行こうとして、途中で止まる。
私は動けなかった。
バトンを渡した手だけが、空のまま残っている。
片桐先生が右脚の裏側、太もものあたりを確認する。
茅野先輩は唇を結んでいた。
痛いとは言わない。でも、息の吸い方が浅い。
「決勝は無理だ」
先生が告げた。
その一言で、周りの音が遠くなる。
「走れます」
茅野先輩がすぐに返す。
「今も走りました」
「だから止める」
「最後まで行けました」
「最後まで行ったから、止める」
先生の声は冷たくはなかった。
でも、揺れなかった。
「ここで走らせたら、次の一本じゃ済まない」
茅野先輩の手が芝を握った。
「でも」
「走れるかどうかじゃない。走らせていい状態かどうかだ。……私は、教師だ」
茅野先輩は何も返さなかった。真帆先輩が、隣で膝をついている。千秋は両手を握りしめていた。
私は、まだ立ったままだった。
動けば、何かが決まってしまう気がした。
「…………よかったね」
茅野先輩が、ぽつりと落とした。
最初、自分に向けられた言葉だと分からなかった。
茅野先輩は私の方へ顔を向けていた。
「これで、鴻上ひかりを呼べるじゃん」
息が止まった。
「違います」
反射で返していた。
でも、言った瞬間、自分の中に別の声があることにも気づいた。
ひかり先輩が走るかもしれない。
その可能性に、私は確かに反応していた。
五人目の名前を知った瞬間、胸が動いた。
そのことを、私は消せない。
「違うって顔じゃない」
茅野先輩の声は、怒鳴るよりずっと痛かった。
私は拳を握る。
「違わないです」
千秋が息を呑んだ。
真帆先輩が私を見る。
私は茅野先輩の前で、逃げずに続けた。
「ひかり先輩に走ってほしい気持ちはあります」
茅野先輩の目が揺れた。
「あります。ずっと」
声が震えそうになって、息を吸う。
「でも、今のアンカーを、なかったことにはしたくないです」
茅野先輩は黙っていた。
「今日の四十七秒八九は、茅野先輩が持っていった記録です」
私は掲示板の方へ顔を向けた。
数字はまだ残っている。
「決勝で誰が走っても、今日のアンカーは茅野先輩です」
茅野先輩は目を伏せた。
芝を握っていた手から、少しだけ力が抜ける。
「一人にして」
小さな声だった。
真帆先輩が頷いた。
「分かった」
片桐先生も立ち上がる。
「救護スペースで冷やす。橘、付き添いを」
「はい」
「宮野、朝倉、少し離れていろ。決勝の招集時刻は確認しておく」
私は頷くしかなかった。
茅野先輩が立ち上がるとき、真帆先輩が肩を貸そうとした。
茅野先輩は一瞬だけ拒みかけて、結局その手を受けた。
それが苦しかった。
少し離れた場所に移動すると、スタンドの端からひかり先輩が下りてきた。
ずっとそこにいたのだと思う。
予選も。四十七秒八九も。
茅野先輩が止められたところも。
ひかり先輩は私の前で足を止めた。
「茅野は」
「決勝は、走れません」
「そう」
短い返事。
でも、意識は救護スペースの方へ向いていた。
「私は」
息を吸う。
「今、私からは言えません」
「走って、って?」
「はい」
「どうして」
「茅野先輩のアンカーだからです」
声が震れた。
「私のバトンでもあります。でも、茅野先輩のアンカーです」
ひかり先輩は何も返さなかった。
その沈黙が少し怖かった。
真帆先輩が救護スペースから戻ってきたのは、それからしばらく経ってからのことだった。顔はいつも通りにしようとしていた。
でも、目元だけが少し赤い。
「梨央が決めないと、たぶん動かないね」
真帆先輩はそれだけ口にした。
誰も、何をとは聞かなかった。
片桐先生はオーダー変更の用紙を持って、少し離れた場所に立っている。
準備はしてある。
リレーは登録メンバー内なら変更できる。
それはさっき聞いた。
でも、紙を出せば終わる話ではなかった。
誰が走るかだけではなく、何を持って走るかが決まっていなかった。
茅野先輩の右脚にはテーピングが増えている。
歩き方はゆっくりなのに、背筋だけは折れていなかった。
真帆先輩が止めようとしたが、茅野先輩は首を振った。
「決勝、私は走らない」
その声は、はっきりしていた。
千秋が口元を押さえる。
私は何も言えない。
「でも、アンカーは空けない」
茅野先輩は、ひかり先輩の方へ歩いた。
一歩ずつ。
痛いはずなのに、止まらない。
ひかり先輩はその場で待っていた。
二人が向かい合う。
前に、茅野先輩は「ひかり」と呼んだ。
けれど今は、名前を呼ばなかった。
「私のアンカーを、あんたに預けに来た」
ひかり先輩は黙っていた。
茅野先輩は続ける。
「勘違いしないで。譲るんじゃない。預けるだけ」
言葉が、まっすぐ落ちた。
「私が走ってきたリレーを、あんた一人のものにしたら許さない」
ひかり先輩の表情は大きく変わらなかった。
でも、目だけが少し揺れた。
「私が走ったら、そうなるかもしれないよ」
「ならないように走れ」
茅野先輩は即答した。
「天才なんでしょ」
「……自称したこと、無いんだけど」
その言い方は、挑発みたいで、信頼みたいだった。
ひかり先輩は少しだけ息を吐く。
「茅野は、それでいいの」
「よくない」
茅野先輩の声が、初めて少し崩れた。
「いいわけないでしょ」
誰も動かなかった。
「私は走りたかった」
茅野先輩は言った。
「私がアンカーで、旧記録を抜きたかった」
右手が小さく震えていた。
「鴻上が戻ればって、何度も聞いた。でも、戻らなくても私が走るって思ってた」
真帆先輩が俯く。
千秋はもう泣いていた。
「でも、今は走れない」
茅野先輩は唇を噛み、それから顔を上げた。
「だから預ける」
ひかり先輩は、茅野先輩から逃げなかった。
記録表から目を逸らしたときの顔ではない。
「受け取るの、下手だよ」
ひかり先輩が言った。
「知ってる」
「後ろ、見たくなるかもしれない」
「見るな」
「落とすかも」
「落としたら殺す」
千秋が泣きながら、小さく言った。
「物騒……」
真帆先輩が、少しだけ笑った。
ひかり先輩は私へ顔を向けた。
「朝倉さんは?」
心臓が跳ねる。
「朝倉さんのバトン、私が受けることになるけど」
私の手が、自然に握られる。
まだ、ひかり先輩にバトンを渡したことはない。
でも、ずっとそこへ向かっていた気がした。
十一秒六四には届かなかった。
それでも、私は三走だ。
バトンを持って、アンカーへ走る。
「私は、渡します」
声は震えなかった。
「鴻上先輩にじゃなくて、アンカーに」
ひかり先輩は黙って私を見ていた。
それから、茅野先輩へ顔を戻す。
「分かった」
短い言葉だった。
でも、その場の空気が変わった。
「──走るよ」
千秋が息を吸い込む。
真帆先輩が目を閉じる。
片桐先生がすぐにオーダー変更の用紙を出した。
「準備はしてある」
茅野先輩は、ひかり先輩を見上げた。
「四走で」
「うん」
「私のアンカーだから」
ひかり先輩は、少しだけ頷いた。
「分かった」
その返事は、さっきより深く聞こえた。
ひかり先輩が走る。
その事実より先に、茅野先輩の言葉が残った。
譲るんじゃない。預けるだけ。
決勝で私が渡すのは、空いたアンカーではない。
そこには茅野先輩がいる。