ひかりより速く、   作:おいかぜ

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十一話 前を向く約束

 

 ひかり先輩が「走る」と言ってから、競技場の音が少し遠くなった。

 

 決勝で私が向かう背中が変わる。

 茅野先輩ではなく、ひかり先輩へ。

 

 それでも、アンカーが空いたわけではない。

 茅野先輩の声が、まだバトンケースの上に残っている気がした。

 

 片桐先生はすぐに動いた。

 

「オーダー変更を出す」

 

 先生は手元の用紙に、決勝の走順を書き込む。

 

 第一走者、宮野千秋。

 第二走者、橘真帆。

 第三走者、朝倉翠。

 第四走者、鴻上ひかり。

 

 四つ目の名前が、今から走る紙に入った。

 

「招集前なら間に合う。ただし、時間はない」

 

 片桐先生は時計を確かめた。

 

「本格的な練習はできない。合わせるのは一本だけだ」

「一本だけですか」

 

 千秋が小さく繰り返した。

 いつもの明るい声ではなく、困惑が交じる。

 

「全部は見ない」

 

 先生は即答した。

 

「三走から四走。朝倉と鴻上の受け渡しだけだ」

 

 私の手が、自然に握られる。

 予選で茅野先輩へ入れた手。今度は、ひかり先輩へ。

 

 ひかり先輩は少し離れた場所で、バッグを開けていた。

 そこから、スパイクが出てくる。

 次に、学校のユニフォーム。私は思わず息を止めた。

 

「……見るだけって言ってたのに」

 

 声にしたつもりはなかった。

 でも、ひかり先輩には聞こえたらしい。

 スパイクを手にしたまま、こちらへ顔を向ける。

 

「持ってくるくらいは、走るってことじゃないし」

 

 ひかり先輩らしい言い方だった。逃げているようにも聞こえる。

 けれど、そのスパイクは現実にここにある。

 

 名前を消さなかったこと。スパイクを持ってきたこと。

 ひかり先輩は、いつも全部を閉じきっていたわけではなかった。

 

「朝倉」

 

 茅野先輩の声で、私は我に返った。

 茅野先輩はベンチに座り、右脚を冷やしている。

 走れないことは、もう誰の目にも明らかだった。

 

 でも、その声だけはアンカーゾーンに立っていた。

 

「嬉しいの、隠せてない」

 

 胸を突かれた。

 否定しようとして、できなかった。

 

「すみません」

「謝らないでいい。……私が走れないのは、私のせいだから」

 

 茅野先輩は短く返した。

 それから、少しだけ目を伏せる。

 

「嬉しいのは分かってる」

 

 言葉が出なかった。

 

「でも、忘れないで」

「はい」

「今日あんたが渡すのは、私のアンカー」

 

 私は頷いた。

 

「だから、マークは変えない」

「変えないんですか」

「変えたら全部崩れる。あんたは私に渡すつもりで来て」

 

 私に渡すつもりで。

 その言葉が、胸の中でゆっくり形を持った。

 ひかり先輩に合わせるのではなく、茅野先輩の場所へ、ひかり先輩が入る。

 その場所へ、私はいつも通り持っていく。

 

「分かりました」

「ひかり」

 

 茅野先輩が呼ぶ。

 ひかり先輩はスパイクを履き終え、顔を上げた。

 まだユニフォーム姿ではない。

 けれど、その立ち方だけで、さっきまでスタンドにいた人とは違っていた。

 

「あんたは私の出で行く」

「分かった」

「分かってなさそう」

「たぶん分かってない」

「自覚あるなら聞いて」

 

 茅野先輩はアンカーゾーンの方を指した。

 

「マークを踏んだら出る。朝倉を見ない」

「見ない」

「後ろを見ない」

「……うん」

 

 その一拍を、茅野先輩は逃さなかった。

 

「今、迷った」

 

 ひかり先輩は黙った。

 それから、少しだけ視線を逸らす。

 

「私、後ろ見たことある?」

「ある」

 

 茅野先輩は即答した。

 

「一年のとき、二回。見て怒られた」

「覚えてるんだ」

「忘れるわけないでしょ。あんた、見てからでも間に合うと思ってた」

 

 ひかり先輩は何も返さなかった。

 その沈黙だけで、当たっているのだと分かった。

 

 ひかり先輩は速い。

 多少ずれても、自分の足で取り返せてしまったのかもしれない。

 

 けれど、今日は違う。

 取り返せばいい、では済まない。

 茅野先輩が預けたアンカーを、私から受け取る。

 

 片桐先生が戻ってきた。

 

「変更は通った」

 

 先生の声で、全員が顔を上げる。

 

「決勝はこのオーダーで行く。宮野、橘、朝倉、鴻上」

 

 千秋が息を吸う。

 真帆先輩は静かに頷いた。

 茅野先輩は目を伏せなかった。

 

「一本だけ合わせる」

 

 片桐先生が笛を持った。

 

「全力ではない。ただし流しすぎるな。本番の位置を確認する」

 

 私たちはアンカーゾーンへ向かった。

 千秋と真帆先輩は少し離れて、もう一度、一走から二走の声だけを確認している。

 真帆先輩が千秋の肩を軽く叩いた。

 

「始めるのは千秋だから」

「はい」

「ひかりが入っても、そこは変わらない」

「分かってます」

 

 千秋の返事は、思ったよりしっかりしていた。

 私は三走の後半位置に立った。

 

 手には練習用のバトン。

 本番ではこの重さが、千秋から真帆先輩へ、真帆先輩から私へ来る。

 

 そして、私からひかり先輩へ。

 

 アンカーゾーンに、ひかり先輩が立っている。

 見慣れない光景だった。

 動画の中のひかり先輩は、いつも一人で走っていた。

 

 今は違う。

 後ろから私が来る。

 私が、バトンを渡す。

 

 ひかり先輩は足元のマークを確かめていた。

 いつもの、何でもないような表情ではない。

 

 肩が少し硬い。この人も、怖いのだ。

 そう気づいた瞬間、胸の奥が変なふうに鳴った。

 

「朝倉」

 

 茅野先輩がベンチから声を出す。

 

「あんたはいつも通り」

「はい」

「声、遅れるな」

「はい」

「鴻上」

「うん」

「見たら殺す」

「落としたら、じゃないんだ」

「見るなって言ってる」

 

 ひかり先輩は、少しだけ口元を動かした。

 

「分かった」

 

 笛が鳴った。

 私は走り出す。

 三走後半から、アンカーゾーンへ向かう。

 前に、ひかり先輩の背中。

 マークを踏む。

 

 ひかり先輩が出る。

 速い。

 分かっていたのに、近くだとやっぱり速い。

 

 最初の数歩で、背中が前へ伸びる。

 茅野先輩とは違う。

 出方も、腕の振りも、背中の形も。

 

 見惚れそうになる。

 違う。

 今は追うためじゃない。

 

 渡すために走る。

 私は腕を振った。

 

 距離を詰める。

 ひかり先輩の左手が、まだ出ていない。

 

「はい!」

 

 ひかり先輩の左手が出る。

 

 けれど、ほんの少し遅い。手の位置が高い。

 肩が動く。後ろを確かめようとした。

 その一瞬で、流れがずれた。

 

 私はバトンを入れようとする。

 手の端に当たる。掴みきれない。

 からん、と音がした。バトンがトラックに落ちた。

 

 誰もすぐには動かなかった。

 金属の音だけが、テイクオーバーゾーンに残った。

 

 ひかり先輩が真っ先にしゃがんだ。

 

「ごめん」

 

 短い謝罪だった。

 その三文字が、ひかり先輩の声に慣れていないみたいに揺れた。

 

「今のは鴻上」

 

 茅野先輩の声が飛ぶ。

 冷たい声ではない。

 でも、逃げを許さない声だった。私がいつも掛けられてきた声だ。

 

「後ろを見ようとした。手が遅れた。手の位置も高い」

 

 ひかり先輩はバトンを拾ったまま、黙っている。

 

「朝倉は声、少し早くてもよかった。でも落ちた原因は受け手」

「分かってる」

 

 ひかり先輩が返した。

 

「分かってるなら直して」

「……失敗したら困るから、」

 

 その言葉は、ひかり先輩らしくなかった。

 ひかり先輩は、拾ったバトンを握っている。

 

「見た方が安心する」

「安心して遅れたら意味ない」

 

 茅野先輩は即座に切った。

 

「今、見ようとして落とした」

 

 言い訳の余地はなかった。ひかり先輩は黙って頷いた。

 

 その姿を見て、少しだけ分かった。

 ひかり先輩は、速く走ることには慣れている。

 でも、誰かから受け取ることに慣れているわけではない。

 

 失敗したら、自分一人では終わらない。四人分の走りを、取り零すことになる。

 

 私は一歩前に出た。

 

「先輩」

 

 ひかり先輩がこちらを向く。

 

「私、届きます」

 

 言葉にすると、少しだけ怖かった。自信はない。ひかり先輩は、私よりもずっと早い。今までの私は、ひかり先輩の記録に届かなかった。

 でも、言うべきだと思った。

 

「だから、後ろを見ないでください」

 

 ひかり先輩は何も言わない。

 

「茅野先輩は、いつも見ませんでした」

 

 私はベンチの方へ意識を向けた。

 茅野先輩は冷却袋を脚に当てたまま、こちらに顔を向けている。

 

「怖くても、見ませんでした」

 

 その怖さを、私は少しだけ知っている。後ろから走る側だから。

 渡せなければ終わると分かっている側だから。

 

「だから、私は入れるしかなかった」

 

 手の中のバトンを見る。

 さっき落ちたバトン。でも、本番では落とさない。

 

「今度は、先輩に入れます」

 

 ひかり先輩は、私を見ていた。

 

「失敗したら?」

 

 静かな声だった。

 私は一瞬だけ考えて、それから答えた。

 

「二人のせいにしましょう」

 

 ひかり先輩が目を瞬いた。

 茅野先輩も少しだけ眉を上げる。

 

「リレーですから」

 

 言ってから、少しだけ自分でおかしくなった。

 

 でも、本気だった。

 一人のせいにしない。

 一人のものにしない。

 そういう競技だと、私はやっと分かり始めている。

 ひかり先輩は、バトンを握り直した。

 

「変なの」

 

 いつもの言葉だった。

 けれど、今日は逃げるためではない気がした。

 

「もう一回はできない」

 

 片桐先生が言った。

 

「全体で走る時間はない。ここからは歩きと軽いジョグで手の位置だけ確認する」

「はい」

 

 そこからは走らなかった。

 歩きと軽いジョグで、手の高さだけを直す。

 

「手、高い」

「朝倉、声」

「鴻上、肩を動かすな」

「見るな」

 

 茅野先輩の声が、何度も飛んだ。

 ひかり先輩は、言われるたびに少しずつ直した。

 

 上手いわけではない。

 でも、覚えるのは早かった。

 ほんの数回で、手の位置が落ち着いていく。

 

 それが少し悔しくて、少し安心した。

 軽いジョグの最後、私は声を出す。

 

「はい」

 

 ひかり先輩の手が伸びる。

 今度は後ろを確かめない。

 バトンが手のひらに収まる。

 

 走っている速度ではない。

 本番とは違う。ずっと遅くて、余裕がある。

 それでも、入った。

 

 ひかり先輩はバトンを握ったまま、少し前へ進んでから止まった。

 

「後ろにいるのに、結構うるさい」

「入るまで鳴らします」

「足音も?」

「たぶん」

 

 ひかり先輩は、バトンを見下ろす。

 

「聞こえるなら、見なくていいかもね」

 

 私は頷いた。

 

「前を向いていてください」

 

 強く言いすぎたかもしれない。

 でも、ひかり先輩は怒らなかった。

 

「分かった」

 

 さっきの「見ない」より、少しだけ深く聞こえた。

 茅野先輩がベンチから立とうとして、真帆先輩に止められていた。

 

「梨央、動かない」

「立つだけ」

「立つだけの人はそういう顔しない」

「うるさい」

 

 そのやり取りで、千秋が少し笑った。

 泣いたあとみたいだった顔が、少しだけ戻る。

 片桐先生が時計を見る。

 

「決勝の招集まで時間がない。各自、最後の確認に入れ」

 

 その一言で、空気が変わった。

 練習は終わり。確認も終わり。

 

 次は本番だ。

 千秋が公式バトンを握り直す。

 真帆先輩が二走の位置を頭の中でなぞる。

 茅野先輩はベンチに座ったまま、私たちから視線を外さない。

 

 ひかり先輩は、練習用のバトンを茅野先輩へ一度差し出した。

 茅野先輩は受け取らなかった。

 

「決勝で持って帰ってきて」

 

 ひかり先輩は少しだけ黙る。

 

「返すのは、そのあと?」

「そう」

「落としたら?」

「言わなくても分かってるでしょ」

「分かってる」

「後ろを見たら?」

「見ない」

「ならいい」

 

 茅野先輩はそこで一度、息を吐いた。

 それから、ひかり先輩へまっすぐ顔を向ける。

 

「一人で勝たないで」

 

 ひかり先輩は、何も言わなかった。

 

「最後だけ持っていって。全部持っていかないで」

 

 その言葉は、命令みたいだった。

 願いみたいでもあった。

 ひかり先輩は、練習用のバトンを握ったまま、少しだけ目を伏せた。

 

「返す」

 

 茅野先輩は一瞬、言葉を失ったように見えた。

 それから、口元だけで笑う。

 

「走ってから言って」

「うん」

 

 そのやり取りを聞いて、喉の奥が少し詰まった。

 

 茅野先輩は走れない。

 

 でも、アンカーの席は空いていない。

 そこに、ひかり先輩が入る。

 

 奪うのではなく、預かるために。

 

 私はひかり先輩の横に立った。

 

「先輩」

「何?」

 

 聞かれて、すぐには言葉が出なかった。

 

 十一秒六四の代わりではなく、茅野先輩の場所を空ける言葉でもなく、三走として。今なら言えると思った。

 

「私のバトンを受けてください」

 

 言った瞬間、周りの音が少し遠くなった。心臓の音が大きくなる。首元から体温が集まってくる。

 

 ひかり先輩は、私を見た。

 その目から、いつもの軽い返事がすぐには出てこなかった。

 

「私の?」

「はい」

「茅野のアンカーでしょ」

 

 私は頷いた。

 

「チームのリレーでしょ」

「はい」

「それでも、朝倉さんのバトン?」

「私が持っていきます」

 

 手のひらを開く。

 まだバトンはない。

 でも、本番ではそこに来る。

 千秋から始まって、真帆先輩が運んで、私の手に入る。

 

 その瞬間から、私はアンカーへ向かう。

 

「茅野先輩のアンカーに、私が持っていきます」

 

 ひかり先輩は黙って聞いていた。

 

「十一秒六四には届きませんでした」

 

 喉が少し熱くなる。

 でも、声は切らさなかった。

 

「でも、アンカーまでは届けます」

 

 私はひかり先輩から目を逸らさなかった。

 

「だから、受けてください」

 

 ひかり先輩は、少しだけ息を吸った。

 

「後ろ、見たら駄目なんだよね」

「駄目です」

「見た方が安心する」

「それでも駄目です」

「落としたら」

「そのときは、二人で拾います」

「また、そういうこと言う」

「リレーなので」

 

 ひかり先輩は、ほんの少し笑った。

 笑った、と言えるほど大きくはない。

 けれど、確かに表情が緩んだ。

 

「朝倉さんの声、聞こえるかな」

「聞こえるように出します」

 

 ひかり先輩は、私の顔ではなく、喉元のあたりを一瞬だけ見た。

 まるで、そこから出る声の位置を覚えようとしているみたいだった。

 

「足音は」

「届くところまで行きます」

 

 ひかり先輩は、アンカーゾーンの方を向いた。

 まだ誰もいないレーン。

 数分後には、そこに立つ。

 

 後ろから私が来る。

 ひかり先輩は前を向いたまま出る。

 私が声を出す。

 バトンが渡って、その先をひかり先輩が走る。

 

「じゃあ」

 

 ひかり先輩が言った。

 

「私は前を向いてる」

「はい」

「朝倉さんが持ってきて」

「持っていきます」

「茅野のアンカーを」

「はい」

「チームのリレーを」

「はい」

 

 ひかり先輩は、最後に私を見る。

 

「朝倉さんのバトンを」

 

 私のバトン。ひかり先輩の口から出た言葉を、改めて飲み込む。

 

「鴻上先輩」

「うん」

「絶対、届けます」

 

 ひかり先輩は頷いた。

 

「待ってる」

 

 その言葉で、胸ではなく、足の奥に力が入った。

 

 ひかり先輩が待っている。

 前を向いたまま、後ろを見ずに。

 私の声と足音を待っている。

 

「そろそろ行くぞ」

 

 片桐先生の声がした。

 

 千秋が公式バトンを大きく振った。

 茅野先輩がベンチに座ったまま、私を呼ぶ。

 

「朝倉」

「はい」

「迷ったら遅れる」

「迷いません」

「ひかりを見るな」

 

 私は一瞬だけ固まった。

 茅野先輩は、少しだけ笑った。

 

「走りに見惚れるなって意味」

「……はい」

「アンカーへ渡す相手として見ろ」

「はい」

「それでいい」

 

 ひかり先輩は、茅野先輩へ顔を向けた。

 

「最後だけ、だよね」

 

 茅野先輩は頷く。

 

「全部持っていくなよ」

「分かった」

 

 今度は、逃げるための返事には聞こえなかった。

 私は最後に、手のひらを開いた。

 

 まだ何も持っていない。

 それでも、右手はもう受ける形を覚えていた。

 

 真帆先輩の声を聞いて出る。

 ひかり先輩へ向かう。

 

 それだけでよかった。

 

 招集所の係員が、私たちを呼んだ。

 決勝のレーンへ向かう。

 

 一走の千秋が先に歩く。

 二走の真帆先輩が続く。

 私はその後ろを歩いた。

 ひかり先輩は少し先で、アンカーの位置へ向かう。

 

 ユニフォームの背中が見える。

 

 動画の中で見た背中とは違う。

 

 あれは、一人でゴールへ向かう背中だった。

 今見えているのは、私のバトンを受ける背中だ。

 

 私は息を整えた。

 

 絶対に届ける。

 

 前を向いているひかり先輩へ。

 私のバトンを。

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