ひかり先輩が「走る」と言ってから、競技場の音が少し遠くなった。
決勝で私が向かう背中が変わる。
茅野先輩ではなく、ひかり先輩へ。
それでも、アンカーが空いたわけではない。
茅野先輩の声が、まだバトンケースの上に残っている気がした。
片桐先生はすぐに動いた。
「オーダー変更を出す」
先生は手元の用紙に、決勝の走順を書き込む。
第一走者、宮野千秋。
第二走者、橘真帆。
第三走者、朝倉翠。
第四走者、鴻上ひかり。
四つ目の名前が、今から走る紙に入った。
「招集前なら間に合う。ただし、時間はない」
片桐先生は時計を確かめた。
「本格的な練習はできない。合わせるのは一本だけだ」
「一本だけですか」
千秋が小さく繰り返した。
いつもの明るい声ではなく、困惑が交じる。
「全部は見ない」
先生は即答した。
「三走から四走。朝倉と鴻上の受け渡しだけだ」
私の手が、自然に握られる。
予選で茅野先輩へ入れた手。今度は、ひかり先輩へ。
ひかり先輩は少し離れた場所で、バッグを開けていた。
そこから、スパイクが出てくる。
次に、学校のユニフォーム。私は思わず息を止めた。
「……見るだけって言ってたのに」
声にしたつもりはなかった。
でも、ひかり先輩には聞こえたらしい。
スパイクを手にしたまま、こちらへ顔を向ける。
「持ってくるくらいは、走るってことじゃないし」
ひかり先輩らしい言い方だった。逃げているようにも聞こえる。
けれど、そのスパイクは現実にここにある。
名前を消さなかったこと。スパイクを持ってきたこと。
ひかり先輩は、いつも全部を閉じきっていたわけではなかった。
「朝倉」
茅野先輩の声で、私は我に返った。
茅野先輩はベンチに座り、右脚を冷やしている。
走れないことは、もう誰の目にも明らかだった。
でも、その声だけはアンカーゾーンに立っていた。
「嬉しいの、隠せてない」
胸を突かれた。
否定しようとして、できなかった。
「すみません」
「謝らないでいい。……私が走れないのは、私のせいだから」
茅野先輩は短く返した。
それから、少しだけ目を伏せる。
「嬉しいのは分かってる」
言葉が出なかった。
「でも、忘れないで」
「はい」
「今日あんたが渡すのは、私のアンカー」
私は頷いた。
「だから、マークは変えない」
「変えないんですか」
「変えたら全部崩れる。あんたは私に渡すつもりで来て」
私に渡すつもりで。
その言葉が、胸の中でゆっくり形を持った。
ひかり先輩に合わせるのではなく、茅野先輩の場所へ、ひかり先輩が入る。
その場所へ、私はいつも通り持っていく。
「分かりました」
「ひかり」
茅野先輩が呼ぶ。
ひかり先輩はスパイクを履き終え、顔を上げた。
まだユニフォーム姿ではない。
けれど、その立ち方だけで、さっきまでスタンドにいた人とは違っていた。
「あんたは私の出で行く」
「分かった」
「分かってなさそう」
「たぶん分かってない」
「自覚あるなら聞いて」
茅野先輩はアンカーゾーンの方を指した。
「マークを踏んだら出る。朝倉を見ない」
「見ない」
「後ろを見ない」
「……うん」
その一拍を、茅野先輩は逃さなかった。
「今、迷った」
ひかり先輩は黙った。
それから、少しだけ視線を逸らす。
「私、後ろ見たことある?」
「ある」
茅野先輩は即答した。
「一年のとき、二回。見て怒られた」
「覚えてるんだ」
「忘れるわけないでしょ。あんた、見てからでも間に合うと思ってた」
ひかり先輩は何も返さなかった。
その沈黙だけで、当たっているのだと分かった。
ひかり先輩は速い。
多少ずれても、自分の足で取り返せてしまったのかもしれない。
けれど、今日は違う。
取り返せばいい、では済まない。
茅野先輩が預けたアンカーを、私から受け取る。
片桐先生が戻ってきた。
「変更は通った」
先生の声で、全員が顔を上げる。
「決勝はこのオーダーで行く。宮野、橘、朝倉、鴻上」
千秋が息を吸う。
真帆先輩は静かに頷いた。
茅野先輩は目を伏せなかった。
「一本だけ合わせる」
片桐先生が笛を持った。
「全力ではない。ただし流しすぎるな。本番の位置を確認する」
私たちはアンカーゾーンへ向かった。
千秋と真帆先輩は少し離れて、もう一度、一走から二走の声だけを確認している。
真帆先輩が千秋の肩を軽く叩いた。
「始めるのは千秋だから」
「はい」
「ひかりが入っても、そこは変わらない」
「分かってます」
千秋の返事は、思ったよりしっかりしていた。
私は三走の後半位置に立った。
手には練習用のバトン。
本番ではこの重さが、千秋から真帆先輩へ、真帆先輩から私へ来る。
そして、私からひかり先輩へ。
アンカーゾーンに、ひかり先輩が立っている。
見慣れない光景だった。
動画の中のひかり先輩は、いつも一人で走っていた。
今は違う。
後ろから私が来る。
私が、バトンを渡す。
ひかり先輩は足元のマークを確かめていた。
いつもの、何でもないような表情ではない。
肩が少し硬い。この人も、怖いのだ。
そう気づいた瞬間、胸の奥が変なふうに鳴った。
「朝倉」
茅野先輩がベンチから声を出す。
「あんたはいつも通り」
「はい」
「声、遅れるな」
「はい」
「鴻上」
「うん」
「見たら殺す」
「落としたら、じゃないんだ」
「見るなって言ってる」
ひかり先輩は、少しだけ口元を動かした。
「分かった」
笛が鳴った。
私は走り出す。
三走後半から、アンカーゾーンへ向かう。
前に、ひかり先輩の背中。
マークを踏む。
ひかり先輩が出る。
速い。
分かっていたのに、近くだとやっぱり速い。
最初の数歩で、背中が前へ伸びる。
茅野先輩とは違う。
出方も、腕の振りも、背中の形も。
見惚れそうになる。
違う。
今は追うためじゃない。
渡すために走る。
私は腕を振った。
距離を詰める。
ひかり先輩の左手が、まだ出ていない。
「はい!」
ひかり先輩の左手が出る。
けれど、ほんの少し遅い。手の位置が高い。
肩が動く。後ろを確かめようとした。
その一瞬で、流れがずれた。
私はバトンを入れようとする。
手の端に当たる。掴みきれない。
からん、と音がした。バトンがトラックに落ちた。
誰もすぐには動かなかった。
金属の音だけが、テイクオーバーゾーンに残った。
ひかり先輩が真っ先にしゃがんだ。
「ごめん」
短い謝罪だった。
その三文字が、ひかり先輩の声に慣れていないみたいに揺れた。
「今のは鴻上」
茅野先輩の声が飛ぶ。
冷たい声ではない。
でも、逃げを許さない声だった。私がいつも掛けられてきた声だ。
「後ろを見ようとした。手が遅れた。手の位置も高い」
ひかり先輩はバトンを拾ったまま、黙っている。
「朝倉は声、少し早くてもよかった。でも落ちた原因は受け手」
「分かってる」
ひかり先輩が返した。
「分かってるなら直して」
「……失敗したら困るから、」
その言葉は、ひかり先輩らしくなかった。
ひかり先輩は、拾ったバトンを握っている。
「見た方が安心する」
「安心して遅れたら意味ない」
茅野先輩は即座に切った。
「今、見ようとして落とした」
言い訳の余地はなかった。ひかり先輩は黙って頷いた。
その姿を見て、少しだけ分かった。
ひかり先輩は、速く走ることには慣れている。
でも、誰かから受け取ることに慣れているわけではない。
失敗したら、自分一人では終わらない。四人分の走りを、取り零すことになる。
私は一歩前に出た。
「先輩」
ひかり先輩がこちらを向く。
「私、届きます」
言葉にすると、少しだけ怖かった。自信はない。ひかり先輩は、私よりもずっと早い。今までの私は、ひかり先輩の記録に届かなかった。
でも、言うべきだと思った。
「だから、後ろを見ないでください」
ひかり先輩は何も言わない。
「茅野先輩は、いつも見ませんでした」
私はベンチの方へ意識を向けた。
茅野先輩は冷却袋を脚に当てたまま、こちらに顔を向けている。
「怖くても、見ませんでした」
その怖さを、私は少しだけ知っている。後ろから走る側だから。
渡せなければ終わると分かっている側だから。
「だから、私は入れるしかなかった」
手の中のバトンを見る。
さっき落ちたバトン。でも、本番では落とさない。
「今度は、先輩に入れます」
ひかり先輩は、私を見ていた。
「失敗したら?」
静かな声だった。
私は一瞬だけ考えて、それから答えた。
「二人のせいにしましょう」
ひかり先輩が目を瞬いた。
茅野先輩も少しだけ眉を上げる。
「リレーですから」
言ってから、少しだけ自分でおかしくなった。
でも、本気だった。
一人のせいにしない。
一人のものにしない。
そういう競技だと、私はやっと分かり始めている。
ひかり先輩は、バトンを握り直した。
「変なの」
いつもの言葉だった。
けれど、今日は逃げるためではない気がした。
「もう一回はできない」
片桐先生が言った。
「全体で走る時間はない。ここからは歩きと軽いジョグで手の位置だけ確認する」
「はい」
そこからは走らなかった。
歩きと軽いジョグで、手の高さだけを直す。
「手、高い」
「朝倉、声」
「鴻上、肩を動かすな」
「見るな」
茅野先輩の声が、何度も飛んだ。
ひかり先輩は、言われるたびに少しずつ直した。
上手いわけではない。
でも、覚えるのは早かった。
ほんの数回で、手の位置が落ち着いていく。
それが少し悔しくて、少し安心した。
軽いジョグの最後、私は声を出す。
「はい」
ひかり先輩の手が伸びる。
今度は後ろを確かめない。
バトンが手のひらに収まる。
走っている速度ではない。
本番とは違う。ずっと遅くて、余裕がある。
それでも、入った。
ひかり先輩はバトンを握ったまま、少し前へ進んでから止まった。
「後ろにいるのに、結構うるさい」
「入るまで鳴らします」
「足音も?」
「たぶん」
ひかり先輩は、バトンを見下ろす。
「聞こえるなら、見なくていいかもね」
私は頷いた。
「前を向いていてください」
強く言いすぎたかもしれない。
でも、ひかり先輩は怒らなかった。
「分かった」
さっきの「見ない」より、少しだけ深く聞こえた。
茅野先輩がベンチから立とうとして、真帆先輩に止められていた。
「梨央、動かない」
「立つだけ」
「立つだけの人はそういう顔しない」
「うるさい」
そのやり取りで、千秋が少し笑った。
泣いたあとみたいだった顔が、少しだけ戻る。
片桐先生が時計を見る。
「決勝の招集まで時間がない。各自、最後の確認に入れ」
その一言で、空気が変わった。
練習は終わり。確認も終わり。
次は本番だ。
千秋が公式バトンを握り直す。
真帆先輩が二走の位置を頭の中でなぞる。
茅野先輩はベンチに座ったまま、私たちから視線を外さない。
ひかり先輩は、練習用のバトンを茅野先輩へ一度差し出した。
茅野先輩は受け取らなかった。
「決勝で持って帰ってきて」
ひかり先輩は少しだけ黙る。
「返すのは、そのあと?」
「そう」
「落としたら?」
「言わなくても分かってるでしょ」
「分かってる」
「後ろを見たら?」
「見ない」
「ならいい」
茅野先輩はそこで一度、息を吐いた。
それから、ひかり先輩へまっすぐ顔を向ける。
「一人で勝たないで」
ひかり先輩は、何も言わなかった。
「最後だけ持っていって。全部持っていかないで」
その言葉は、命令みたいだった。
願いみたいでもあった。
ひかり先輩は、練習用のバトンを握ったまま、少しだけ目を伏せた。
「返す」
茅野先輩は一瞬、言葉を失ったように見えた。
それから、口元だけで笑う。
「走ってから言って」
「うん」
そのやり取りを聞いて、喉の奥が少し詰まった。
茅野先輩は走れない。
でも、アンカーの席は空いていない。
そこに、ひかり先輩が入る。
奪うのではなく、預かるために。
私はひかり先輩の横に立った。
「先輩」
「何?」
聞かれて、すぐには言葉が出なかった。
十一秒六四の代わりではなく、茅野先輩の場所を空ける言葉でもなく、三走として。今なら言えると思った。
「私のバトンを受けてください」
言った瞬間、周りの音が少し遠くなった。心臓の音が大きくなる。首元から体温が集まってくる。
ひかり先輩は、私を見た。
その目から、いつもの軽い返事がすぐには出てこなかった。
「私の?」
「はい」
「茅野のアンカーでしょ」
私は頷いた。
「チームのリレーでしょ」
「はい」
「それでも、朝倉さんのバトン?」
「私が持っていきます」
手のひらを開く。
まだバトンはない。
でも、本番ではそこに来る。
千秋から始まって、真帆先輩が運んで、私の手に入る。
その瞬間から、私はアンカーへ向かう。
「茅野先輩のアンカーに、私が持っていきます」
ひかり先輩は黙って聞いていた。
「十一秒六四には届きませんでした」
喉が少し熱くなる。
でも、声は切らさなかった。
「でも、アンカーまでは届けます」
私はひかり先輩から目を逸らさなかった。
「だから、受けてください」
ひかり先輩は、少しだけ息を吸った。
「後ろ、見たら駄目なんだよね」
「駄目です」
「見た方が安心する」
「それでも駄目です」
「落としたら」
「そのときは、二人で拾います」
「また、そういうこと言う」
「リレーなので」
ひかり先輩は、ほんの少し笑った。
笑った、と言えるほど大きくはない。
けれど、確かに表情が緩んだ。
「朝倉さんの声、聞こえるかな」
「聞こえるように出します」
ひかり先輩は、私の顔ではなく、喉元のあたりを一瞬だけ見た。
まるで、そこから出る声の位置を覚えようとしているみたいだった。
「足音は」
「届くところまで行きます」
ひかり先輩は、アンカーゾーンの方を向いた。
まだ誰もいないレーン。
数分後には、そこに立つ。
後ろから私が来る。
ひかり先輩は前を向いたまま出る。
私が声を出す。
バトンが渡って、その先をひかり先輩が走る。
「じゃあ」
ひかり先輩が言った。
「私は前を向いてる」
「はい」
「朝倉さんが持ってきて」
「持っていきます」
「茅野のアンカーを」
「はい」
「チームのリレーを」
「はい」
ひかり先輩は、最後に私を見る。
「朝倉さんのバトンを」
私のバトン。ひかり先輩の口から出た言葉を、改めて飲み込む。
「鴻上先輩」
「うん」
「絶対、届けます」
ひかり先輩は頷いた。
「待ってる」
その言葉で、胸ではなく、足の奥に力が入った。
ひかり先輩が待っている。
前を向いたまま、後ろを見ずに。
私の声と足音を待っている。
「そろそろ行くぞ」
片桐先生の声がした。
千秋が公式バトンを大きく振った。
茅野先輩がベンチに座ったまま、私を呼ぶ。
「朝倉」
「はい」
「迷ったら遅れる」
「迷いません」
「ひかりを見るな」
私は一瞬だけ固まった。
茅野先輩は、少しだけ笑った。
「走りに見惚れるなって意味」
「……はい」
「アンカーへ渡す相手として見ろ」
「はい」
「それでいい」
ひかり先輩は、茅野先輩へ顔を向けた。
「最後だけ、だよね」
茅野先輩は頷く。
「全部持っていくなよ」
「分かった」
今度は、逃げるための返事には聞こえなかった。
私は最後に、手のひらを開いた。
まだ何も持っていない。
それでも、右手はもう受ける形を覚えていた。
真帆先輩の声を聞いて出る。
ひかり先輩へ向かう。
それだけでよかった。
招集所の係員が、私たちを呼んだ。
決勝のレーンへ向かう。
一走の千秋が先に歩く。
二走の真帆先輩が続く。
私はその後ろを歩いた。
ひかり先輩は少し先で、アンカーの位置へ向かう。
ユニフォームの背中が見える。
動画の中で見た背中とは違う。
あれは、一人でゴールへ向かう背中だった。
今見えているのは、私のバトンを受ける背中だ。
私は息を整えた。
絶対に届ける。
前を向いているひかり先輩へ。
私のバトンを。