ひかりより速く、   作:おいかぜ

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二話 借り物の影

 〇秒九四は、一晩寝ても縮まらなかった。

 練習ノートの端に、私は同じ数字を何度も並べていた。

 

 十一秒六四。

 十二秒五八。

 〇秒九四。

 

 書けば書くほど、数字ではなく距離に見えてくる。

 それでも私は、鴻上先輩を抜きますと言った。

 

 あの一言は、もうノートの端ではなく、身体のどこかに書かれている。

 

 スマホを横向きにする。

 真帆先輩が送ってくれた、鴻上ひかり先輩の十一秒六四。昨日から何度再生したか分からない。

 

 もう、全体は見なかった。

 

 スタートだけ。

 一歩目。二歩目。三歩目。

 

 低いのに、沈まない。

 強いのに、固くない。

 

 身体が前へ進むたびに、余計なものが消えていくように見える。

 

 仏像の世界においては、木の中に最初から形が埋まっていて、刃を入れるたびに少しずつそれが現れてくる。そんな話を思い出した。

 

 ひかり先輩の走りは、削るほど速くなるのではなく、もともとそこにあった形へ戻っていくみたいだった。

 

 親指で再生バーを少し戻す。

 画面の中のひかり先輩が、またスタートラインに戻る。

 何度戻しても、三歩目だけは同じ場所に収まった。

 

 あの形が欲しい。

 そう思った瞬間、自分の身体が邪魔になった。

 

 私の脚は、画面の中の脚とは違う。腕も、肩も、地面を押す感覚も違う。

 真似しようとするほど、私の身体だけが私のものに戻ってくる。

 

 ノートの端に、反省を並べる。

 三歩目に沈まない。

 腕を遅らせない。

 顔を上げない。

 

 書いているうちに、練習メニューというより禁止事項の一覧みたいになっていった。

 そこまで書いて、最後に一行足す。

 

 ──鴻上先輩みたいに。

 

 その一行だけが、練習メニューではなく願いごとみたいに見えた。

 でも、消せなかった。

 

 翌日の練習前、私はいつもより早くグラウンドに出た。

 まだ人は少ない。タータンに手をつくと、朝の冷たさが指先に残った。

 

 動画の中のひかり先輩を思い出す。

 

 低く。

 でも落ちない。

 

 強く。

 でも固めない。

 

 頭の中で唱えるほど、身体の方が遅れていく気がした。

 自分で小さく合図する。

 

 よーい。飛び出す。

 

 三歩目で、力が下へ抜けた。

 足裏で押したはずの地面が、膝の奥に逃げていく。

 慌てて四歩目で身体を起こす。腕が遅れる。足だけが先に行く。

 数歩走ったところで止まると、膝の奥に変な重さが残っていた。

 

 もう一度。

 今度は沈まないようにする。

 すると、最初から高い。地面を押せない。前へ進まない。

 スタート位置へ戻る。指先についたタータンの冷たさは、もう少し薄れていた。

 

 もう一度。

 腕を合わせる。脚が遅れる。

 

 もう一度。

 三歩目だけを見ようとして、一歩目から分からなくなる。

 

「翠、何してるの?」

 

 声がして振り返ると、宮野千秋がスパイクの袋を持って立っていた。

 

「スタート」

「それ、スタート?」

「たぶん」

「たぶんなんだ」

 

 千秋は笑いかけて、それから私の足元を見た。

 

「昨日と違うね」

「それは、良い意味で?」

「うーん」

 

 正直に迷う顔をされた。

 

「鴻上先輩の動画、見た?」

「見た」

「やっぱり」

「分かる?」

「分かる。なんか、翠じゃない人のスタートになってる」

 

 なにか気の利いたことを言い返そうとして、なにも返せなかった。

 その通りだったからだ。

 

 低く出たい。

 沈まずに進みたい。

 無駄なく、迷わず、あの三歩目に入りたい。

 

 でも、やればやるほど、腕だけが先に答えて、脚が遅れてついてくる。

 

「鴻上先輩の走りって、真似できるものなの?」

 

 考えもしなかった、とでも言うように、千秋が言った。

 

「分からない」

「分からないのにやってるの?」

「分からないから、やってる」

「翠って、無茶の仕方が勤勉だよね」

 

 千秋はそう言って、スパイクを履き始めた。

 

 勤勉。そうだろうか。

 今は、がむしゃらなだけだと思う。

 

 私はもう一度、スタート位置に戻った。

 

 分からないから、やっている。

 でもその言葉は、思ったより頼りなかった。

 

 その日のメニューには、三十メートルの加速走と百メートルの測定が入っていた。

 片桐先生が全員を集める。

 

「今日は今の状態を見るだけだ。昨日と別人になる必要はない」

 

 肩が少し固くなった。

 

 私に向けた言葉ではないかもしれない。けれど自然、意識はしてしまう。タイミングが良すぎる。

 

 三十メートルの一本目から、私は遅れた。

 千秋の方が出がいい。私は三歩目を意識しすぎて、一歩目から迷っていた。

 

 二本目は強く出ようとして、重心が下に落ちた。

 三本目は腕を意識して、足が合わなかった。

 

 何か一つを直そうとすると、別の場所が崩れる。

 百メートルの測定が始まるころには、身体より先に頭が疲れていた。

 

「朝倉」

「はい」

 

 呼ばれて、私はスタートラインに立った。

 片桐先生が隣に来る。クリップボードを手に、少し眉を寄せていた。

 

「試すなら一つだけにしろ」

「一つ」

「全部同時に直そうとするな」

「はい」

 

 返事をしたのに、頭の中にはいくつも浮かんでいた。

 

 三歩目。腕。顔。

 沈まない。でも高くならない。

 低く。でも落ちない。

 ひかり先輩の一歩目。私の三歩目。

 

 どれを一つにすればいいのか、分からない。

 

 位置について。

 指先をトラックにつける。

 

 よーい。号砲。

 

 出た瞬間、分かった。

 

 遅い。

 

 一歩目の力が、地面に刺さらず逃げた。

 二歩目で取り返そうとして、三歩目で沈む。

 そこを嫌って上体を起こした瞬間、腕が一拍遅れた。

 中盤に入っても、速度に乗っている感じがない。

 

 前へ進んでいるのに、身体のどこかをずっと引きずっている。

 七十メートルを過ぎるころには、フォームを考える余裕も消えて、ただゴールラインだけを見ていた。

 

 ゴールラインを踏み越えて、息を吐く。

 先生が時計を見る。

 

「十二秒六四」

 

 数字が聞こえた瞬間、まだ荒い息の奥が冷えた。

 

 初日より、遅い。

 

 たった〇秒〇三。

 

 風かもしれない。体調かもしれない。誤差だと言おうと思えば言える。

 

 でも、その〇秒〇三が、今日はやけに重かった。

 

 私は速くなろうとして、遅くなった。

 

「朝倉」

 

 片桐先生に呼ばれて、私は近づいた。

 

「昨日、鴻上と話したな」

「はい」

「動画も見たか」

「……見ました」

「だろうな」

 

 先生はストップウォッチを首から下げた。

 

「見るのはいい。だが、今日のお前は一歩目から自分の重心を捨ててる」

「重心、ですか」

「低く入ろうとして、下に落ちてる。前に押せてない。三歩目を直したいなら、まず一歩目で潰れるな」

「はい」

「鴻上を追うのはいい。ただし、鴻上になろうとするな」

 

 言葉が、まっすぐ入ってきた。

 

「同じ身体じゃない。同じ感覚でもない」

 

 先生はクリップボードの端で、私の一歩目の位置を示した。

 

「借りてくるな。自分の足で押せ」

「……はい」

「十二秒六四で済んでよかったと思え」

 

 私は顔を上げた。

 

「よかった、ですか」

「もっと崩れる前に気づけた」

 

 先生はそれだけ言って、次の選手の方へ向かった。

 十二秒六四で済んでよかった。

 その言葉を、今の私はまだ受け取れなかった。

 

 いまの自己ベストである十二秒五八は、私にとって悪い記録ではなかった。むしろ、中学最後の県大会で全てを出し切った証だった。

 

 ゴールした瞬間、顧問の先生は笑ってくれた。

「自己ベストだぞ」

 友達も言った。

「翠、すごいじゃん」

 

 私も笑った。ありがとうございます、と言った。

 

 でも、掲示板の上には、私より速い名前がいくつも並んでいた。

 私の自己ベストは、誰かにとっては決勝へ進むための途中の数字でしかなかった。

 

 悔しかった。

 でも、自己ベストを出した日に悔しいと言うのは、贅沢みたいで言えなかった。

 

 十分すごい。そう言われるたびに、私は頷いた。

 その言葉が間違っていないことも分かっていた。でも、十分ではなかった。優勝していないから。もしくは、納得していないから。

 

 だから、十一秒六四を見たとき、胸の奥が焼けた。

 あそこまで行きたいと思った。

 同時に、あそこにいる人が、その場所を少し持て余しているように見えたことが、どうしても許せなかった。

 

 練習後、千秋に頼んで撮ってもらった動画を確認した。

 見たくなかったけれど、見ないままにしておく方が怖かった。

 

 横向きの画面には、スタートラインに立つ私がいる。

 鴻上先輩の動画と近い構図だから、余計に際立つ。

 

 一歩目から、もう違う。

 当たり前なのに、私は画面の中にひかり先輩と同じ形を探していた。

 

 三歩目、沈む。

 そこから起こそうとして、上半身がぶれる。腕が途中で止まり、次の一歩が遅れる。

 

 動画の中の私は、走っているというより、自分の身体を説得しながら進んでいるみたいだった。

 

 スマホの画面を暗くして、ノートを開く。

 

 三歩目。

 腕。

 顔。

 

 その下に、少し迷ってから行を足した。

 

 考えすぎ。

 

 誰かに言われたわけではない。

 

 でも、その四文字だけ、他の反省よりも字が濃くなった。薄い紙が、筆圧で僅かに歪んでいる。

 部室を出ると、夕方のグラウンドにはまだ数人が残っていた。

 

 千秋が真帆先輩と話している。

 片桐先生は倉庫の前で用具を片付けていた。

 フェンスの方へ目が行く。

 

 ひかり先輩はいなかった。

 

 少しだけ安心して、少しだけ悔しい。

 見られなくてよかったと思うのに、見られていないことが悔しかった。

 だと言うのに、校門へ向かう途中、後ろから声がした。

 

「十二秒六四だったんでしょ」

 

 振り返ると、ひかり先輩が校舎側の植え込みの近くに立っていた。

 制服のまま、鞄を肩にかけている。

 グラウンドにいたのか、通りかかっただけなのかは分からない。

 

「どうして知ってるんですか」

「橘が言ってた」

 

 ……なんだ。

 見ていたわけじゃないんだ。

 そう思った瞬間、肩の力が抜けた。抜けた分だけ、悔しくなった。

 

「遠くなったね」

 

 ひかり先輩は、何でもないことみたいに言った。

 

「分かってます」

「ならいいけど」

「よくはないです」

 

 ひかり先輩が、鞄の肩紐を少し直した。

 

「真似した?」

 

 私は黙った。

 答えなくても、たぶん分かっている。

 

「無理だよ」

「どうしてですか」

「違うから」

「何が」

「全部」

 

 短すぎる答えだった。

 でも、嘘ではないと思った。

 

「腕も脚も、タイミングも。たぶん、考えてることも」

「考えてること?」

「走ってるのに、頭だけまだスタート前にいる」

 

 考えすぎ。

 ノートに書いた四文字が、遅れて浮かんだ。

 

 私は手を握った。

 

「じゃあ、私は何を見ればいいんですか」

 

 ひかり先輩は少しだけ考えた。

 考えたというより、面倒な質問を受け取ってしまったような顔だった。

 

「私じゃない方」

「え?」

「自分の動画。見たんでしょ」

「見ました」

「じゃあ、そこ」

 

 ひかり先輩の視線が、すっと私の足元まで下りた。

 

「全部見るから、全部遅れるんじゃない」

「じゃあ、どこを」

 

 ひかり先輩は、私のスパイクのあたりで視線を止める。

 

「そこ」

「三歩目ですか」

「たぶん」

「たぶん、ですか」

「朝倉さんの身体だし」

 

 突き放すような言い方だった。

 でも、そのあとで、ひかり先輩はもう一度だけ足元を確かめるように見た。

 

「そこが落ちるから、次が遅れる」

 

 説明はない。励ましもない。嘲りも、責めるような言葉も。

 十二秒六四を慰める言葉もない。

 ただ、見えた場所だけを置いていく。

 

「先輩は、どうして沈まないんですか」

 

 訊くと、ひかり先輩は少しだけ首を傾げた。

 

「沈んでないの?」

「少なくとも、私みたいには」

「知らない。そう走ってるだけだから」

 

 それは、おそらく本当だった。

 

 ひかり先輩にとっては、説明する前に身体が知っているようなことだ。

 

 私が動画を止めて、線を引いて、ノートに書く。

 それでも掴めなかったものを、ひかり先輩は説明もなく持っている。

 ずるい、と思う。

 

 それでも、目を逸らせなかった。

 

「朝倉さん」

「はい」

「抜くんでしょ」

 

 私は顔を上げた。

 

「じゃあ、遠くなってる場合じゃない」

 

 優しくはなかった。

 でも、必要な言葉を掛けられた。

 

「……はい」

 

 ひかり先輩は、もう私を見ていなかった。

 グラウンドの方でも、記録表の方でもなく、少し先のどこかを見ている。

 

「借りた形で走ると、途中で返せなくなるんじゃない」

「え?」

「知らないけど」

 

 それだけ言って、ひかり先輩は歩き出した。

 私はその場に残った。

 

 借りた形。

 途中で返せなくなる。

 

 分かったような気もしたし、まったく分からない気もした。

 ただ、歩き出そうとした足元に、その言葉だけが残っていた。

 

 その夜、私は動画を二つ並べた。

 

 一つは、ひかり先輩の十一秒六四。

 もう一つは、今日の私の十二秒六四。

 

 ひかり先輩の走りは、やっぱり綺麗だった。

 

 私の走りは、迷っていた。

 比べるたびに嫌になる。

 

 同じ形を探すほど、違うところばかり見えてくる。

 それなのに私は、同じところばかり止めていた。

 

 ひかり先輩の動画を閉じる。

 自分の動画だけを画面に残す。

 

 三歩目。

 沈む。

 起こす。

 腕が止まる。

 次が遅れる。

 

 そこだけを、何度も追った。

 見たままのことを、ノートに落としていく。

 たぶん、落ちたあとに直そうとしている。

 正しいかは分からない。

 

 でも、昨日のノートとは少し違った。

 

 鴻上先輩みたいに。

 

 その一行に、シャーペンの先を置く。

 

 少し迷ってから、何度も線を引いた。

 

 紙が少し毛羽立った。

 

 ♦

 

 翌朝、私はいつもより早く家を出た。

 

 朝練があるわけではない。

 それでも、家にいると三歩目ばかり再生される気がした。

 

 学校へ向かう道の途中、河川敷に出る。

 少し遠回りになるけれど、平らな道が長く続いている。軽く流しをするにはちょうどいい場所だった。

 

 朝の河川敷は、まだ人が少なかった。

 

 犬のリードを短く持った人が、土手の端を歩いている。自転車のベルが、一度だけ鳴る。会社員らしい人が、タイムを気にしない速さでゆっくり走っていく。植物が朝露に濡れていた。

 

 ここには、記録表も、号砲も、ストップウォッチもなかった。

 

 思わず足を止めた。

 少し先の道を、一人の女子生徒が走っていた。

 

 制服ではない。

 黒いランニングパンツに、薄い色のTシャツ。それでも学生だとわかったのは、それが知り合いだったから。

 

 短い髪が朝の光の中で揺れている。

 全力ではない、ただの流しに近い速度。

 

 それでも、すぐに分かった。

 部活には来ない。来る理由がないと言った彼女が。

 

 私は土手の上で、息を止めた。

 鴻上ひかり先輩は、誰にもタイムを測られない河川敷を、一人で走っていた。

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