鴻上ひかり先輩は、河川敷を一人で走っていた。
全力ではない。たぶん、流しに近い。
それでも、足の運びはジョギングのそれではなかった。身体の芯だけは短距離のままで、一歩ごとに地面を確かめるのではなく、触れた瞬間にはもう次へ抜けている。
動画の中の十一秒六四とは違う速度なのに、同じ人の走りだった。
土手を下りる階段の一段目に、私は足をかけたまま止まった。
声をかけるべきではない気がした。
ここは、ひかり先輩が一人で走る場所だった。
私が勝手に入っていい場所ではない。朝の静謐な空気が、先輩の聖域に帳を下ろしていた。
それでも、呼吸を一つ飲み込んで、私は斜面に足を下ろした。
「鴻上先輩」
呼ぶと、ひかり先輩は速度を落としたまま、最後の数歩を流した。
立ち止まってから、タオルで首元を押さえる。驚いた顔はしなかった。
「朝倉さん」
「おはようございます」
「おはよう」
それだけで、次の言葉がなくなった。
川沿いの道を、自転車が一台通り過ぎる。手入れ不足のチェーンの音が、二人の間を細く抜けていった。
「ここで、走ってるんですね」
「うん」
「よく来るんですか」
「たまに」
短い返事だった。ひかり先輩は歩き出さなかった。話してくれる気はあるらしい。ひとまず拒絶されなかったことに、少しだけ安堵する。そのせいで、気が緩んだ。
「部活には来ないのに」
口に出してから、踏み込みすぎたと思った。弁明を付け加えようとして、言葉を探す。思考を置き去りにして飛び出た本音を覆い隠せる、便利な言い訳は浮かんでこなかった。
けれど、ひかり先輩は表情を崩さなかった。
「ここ、部活じゃないし」
「それは、そうですけど」
「タイム貼られないし」
返す言葉がなくなった。
タイムが貼られない。
それだけで、部室の壁が浮かんだ。
ひかり先輩は、タオルの端を指で折ったまま、川沿いの白線を目で追っていた。
「ここで走っても、誰も何も言わないから」
声は軽かった。
けれど、聞き流せなかった。
「先輩は、走るのが嫌いなんですか」
ひかり先輩は少しだけ黙った。
嫌い、という答えが返ってくるだろうと予想した。
それなら、部活に来ない理由として分かりやすい。期待、プレッシャー、嫉妬。ひかり先輩に降りかかりそうなそれらを思う。
そんな予想に反して、返ってきたのは違う言葉だった。
「嫌いなら、ここにいないんじゃない」
「じゃあ、好きなんですか」
「それも面倒」
「面倒?」
「好きって言ったら、ずっと持ってなきゃいけない感じがする」
よく分からなかった。
でも、分からないまま、胸の中に残った。
好きなら頑張れる。嫌いならやめられる。
そんな簡単な線を、ひかり先輩はどこかで踏み越えてしまったのかもしれない。
「朝倉さんは?」
「え?」
「走るの、好きなの」
急に聞かれて、私は答えに詰まった。走るのが好きか。あまり、考えたことがなかった。嫌いではない。すすんで走っている。だからきっと、
「好き、だと思います」
「……思います?」
「勝ちたいし、速くなりたいので」
「それで走れるんだ」
馬鹿にされた感じはなかった。
ただ、そういう人もいるんだ、と確かめるような声だった。
私に言わせれば、記録のことを考えずに走る人の方がよく分からない。走るのは楽しいけれど、同時に、苦しい。それは単に酸欠がどうとかそういう話ではなくて、速くなるためには、辛く苦しい努力が必要だった。脚だって痛む。
「今は、あまり走れてません」
私は昨日の十二秒六四を思い出した。
「三歩目?」
「はい」
「一日で直ったら怖いよ」
ひかり先輩はタオルを肩にかけた。
一日で崩れたのに、一日では直せない。少し不条理だ。
「動画、まだ見てる?」
「はい」
「私の?」
「……はい」
「自分のは?」
「見てます」
「なら、そっち多めでいいんじゃない」
ひかり先輩の走りは綺麗だ。何度でも見たくなる。
でも、見ているだけでは私の足は変わらない。
私は納得とともに首肯した。
「そろそろ行かないと遅れるよ」
ポケットからスマホを出すと、画面の数字が思ったより進んでいた。
「行きます」
「うん」
私は土手を上がりかけて、振り返った。
「先輩は、またここで走りますか」
「決めてない」
その返事は、部活に戻るか聞いたときより、少しだけ柔らかく聞こえた。
学校に着くと、千秋にすぐ見つかった。
「翠、朝から疲れてない?」
「河川敷で少し」
「自主練?」
「鴻上先輩が走ってた」
千秋はスパイクの袋を肩に引っかけたまま、目だけを丸くした。
「部活には来ないのに?」
「うん」
「何それ。幽霊って校内に出るものじゃないの?」
「幽霊じゃないよ」
思ったより強い声が出た。
千秋は一瞬きょとんとして、それから小さく笑った。
「ごめん。変な言い方した」
「ううん」
「で、何か言われた?」
「自分の動画を見た方がいいって」
「まともだ」
「うん」
千秋がスパイクの袋を揺らしながら先に歩き出す。
私もその横に並んだ。
ひかり先輩の言葉は、まだ靴の中に小石みたいに残っていた。
その日の練習は、基礎ドリルが中心だった。
ひかり先輩の三歩目は、頭に残っている。
でも今日は、その映像を追いかけるたびに、自分の十二秒六四を挟むようにした。
見たいものではない。
それでも、直す場所はそちらにあった。
片桐先生は私のドリルを見て、短く言った。
「今日は一つでいい」
「はい」
「腕を急がせるな。三歩目の前に上がる」
「はい」
ひとつだけ。
それを意識すると、昨日よりは身体がばらばらにならなかった。
速くなったわけではない。
ただ、一本終わって戻るとき、膝の奥に残る変な重さが昨日より少なかった。
それだけでも、今は十分だった。
放課後、雨が降った。途端に蒸す。朝の澄んだ空気は、もう欠片も感じ取れなかった。
グラウンドは使えず、練習は室内補強に変わった。終わったあと、部室には湿った空気が残っていた。
真帆先輩が、棚の奥から厚いファイルを引っ張り出している。
ビニールの背表紙が少し白く濁っていた。
「朝倉、ひかりに会ったんだって?」
「河川敷で」
「そっか」
真帆先輩はファイルを机に置いた。
「見たい? ひかりが走ってた頃の記録」
私は少し迷った。
本音を言えば、見たい。
けれど、また見すぎると毒になる気もした。
「数字だけなら」
「数字でも毒かもよ」
そう言いながら、真帆先輩は透明なポケットを一枚めくった。
古い紙が擦れる音が、雨音の下で小さく鳴る。湿気でビニールが貼り付いていた。
「一年の春。十一秒七二」
次のページ。
「夏。十一秒六八」
さらに次。
「秋。十一秒六四」
十一秒七二。
十一秒六八。
十一秒六四。
ページをめくるたび、数字だけが少しずつ息を詰めていくようだった。最初から、とてつもなく速い。なのに、成長も続いている。
「すごいですね」
「うん。すごかった」
真帆先輩の声は、懐かしそうで、少し苦そうだった。
「周りは騒いだよ。先生も、他校の人も、私たちも。ひかりが走ると、みんなそっちを見るから」
「本人は?」
「いつも通り」
真帆先輩の視線が、部室の壁に貼られた記録表まで上がった。
「記録表が貼り替えられた日ね、ひかり、しばらく自分の名前を見てたんだ」
雨が窓を叩く。風に煽られて、不規則な音を立てた。
「これ、そんなに残るものなんだ、って」
私は動画のゴール後を思い出した。
掲示板を見て、すぐに目を逸らした横顔。
「そのあとから、来なくなったんですか」
「すぐじゃないよ。冬は来たり来なかったり。春になって、ほとんど来なくなった」
「どうして」
「本人じゃないから、分からない」
真帆先輩は、ファイルの角を指でそろえた。
「でも、離れたかったのは、走ることそのものじゃないのかもね。今日も走ってたんでしょ?」
「はい」
「なら、たぶんそう」
ひかり先輩の名前は、部室の壁に残っている。
でも今朝の足音は、河川敷にあった。
ひかり先輩は、この部屋よりも河川敷を選んだ。
「朝倉、いちおう、言っとくけど」
「はい」
「ひかりを追うのはいいよ。でも、短距離って誰か一人だけ見て走るものじゃないからね」
真帆先輩は軽く笑った。
「まあ、まずは転んだら起きればいいんだけど」
「もう転びかけました」
「手遅れだったかぁ」
軽い言い方だった。
でも、今の私にはそれくらいがちょうどよかった。
その夜、ひかり先輩の動画を一度だけ開いた。
すぐに閉じる。
自分の十二秒六四は、昨日より長く見られた。
ノートの消し跡の下に、もう一度だけ書く。
私の三歩目。
まだ何も分かっていない。
それでも、見る場所は少し変わった。
翌日の部室。
ホワイトボードに、片桐先生の字でメニューが書かれていた。
短距離ドリル。
加速走。
補強。
そして最後に、一行。
四×一〇〇メートルリレー、バトン合わせ。
私はその文字の前で立ち止まった。
ひかり先輩の名前が残る、もう一つの記録。
深く息を吐いた。