ひかりより速く、   作:おいかぜ

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三話 記録表の外側

 鴻上ひかり先輩は、河川敷を一人で走っていた。

 

 全力ではない。たぶん、流しに近い。

 

 それでも、足の運びはジョギングのそれではなかった。身体の芯だけは短距離のままで、一歩ごとに地面を確かめるのではなく、触れた瞬間にはもう次へ抜けている。

 

 動画の中の十一秒六四とは違う速度なのに、同じ人の走りだった。

 

 土手を下りる階段の一段目に、私は足をかけたまま止まった。

 声をかけるべきではない気がした。

 

 ここは、ひかり先輩が一人で走る場所だった。

 私が勝手に入っていい場所ではない。朝の静謐な空気が、先輩の聖域に帳を下ろしていた。

 

 それでも、呼吸を一つ飲み込んで、私は斜面に足を下ろした。

 

「鴻上先輩」

 

 呼ぶと、ひかり先輩は速度を落としたまま、最後の数歩を流した。

 立ち止まってから、タオルで首元を押さえる。驚いた顔はしなかった。

 

「朝倉さん」

「おはようございます」

「おはよう」

 

 それだけで、次の言葉がなくなった。

 川沿いの道を、自転車が一台通り過ぎる。手入れ不足のチェーンの音が、二人の間を細く抜けていった。

 

「ここで、走ってるんですね」

「うん」

「よく来るんですか」

「たまに」

 

 短い返事だった。ひかり先輩は歩き出さなかった。話してくれる気はあるらしい。ひとまず拒絶されなかったことに、少しだけ安堵する。そのせいで、気が緩んだ。

 

「部活には来ないのに」

 

 口に出してから、踏み込みすぎたと思った。弁明を付け加えようとして、言葉を探す。思考を置き去りにして飛び出た本音を覆い隠せる、便利な言い訳は浮かんでこなかった。

 けれど、ひかり先輩は表情を崩さなかった。

 

「ここ、部活じゃないし」

「それは、そうですけど」

「タイム貼られないし」

 

 返す言葉がなくなった。

 

 タイムが貼られない。

 それだけで、部室の壁が浮かんだ。

 

 ひかり先輩は、タオルの端を指で折ったまま、川沿いの白線を目で追っていた。

 

「ここで走っても、誰も何も言わないから」

 

 声は軽かった。

 けれど、聞き流せなかった。

 

「先輩は、走るのが嫌いなんですか」

 

 ひかり先輩は少しだけ黙った。

 

 嫌い、という答えが返ってくるだろうと予想した。

 それなら、部活に来ない理由として分かりやすい。期待、プレッシャー、嫉妬。ひかり先輩に降りかかりそうなそれらを思う。

 

 そんな予想に反して、返ってきたのは違う言葉だった。

 

「嫌いなら、ここにいないんじゃない」

「じゃあ、好きなんですか」

「それも面倒」

「面倒?」

「好きって言ったら、ずっと持ってなきゃいけない感じがする」

 

 よく分からなかった。

 でも、分からないまま、胸の中に残った。

 好きなら頑張れる。嫌いならやめられる。

 

 そんな簡単な線を、ひかり先輩はどこかで踏み越えてしまったのかもしれない。

 

「朝倉さんは?」

「え?」

「走るの、好きなの」

 

 急に聞かれて、私は答えに詰まった。走るのが好きか。あまり、考えたことがなかった。嫌いではない。すすんで走っている。だからきっと、

 

「好き、だと思います」

「……思います?」

「勝ちたいし、速くなりたいので」

「それで走れるんだ」

 

 馬鹿にされた感じはなかった。

 ただ、そういう人もいるんだ、と確かめるような声だった。

 

 私に言わせれば、記録のことを考えずに走る人の方がよく分からない。走るのは楽しいけれど、同時に、苦しい。それは単に酸欠がどうとかそういう話ではなくて、速くなるためには、辛く苦しい努力が必要だった。脚だって痛む。

 

「今は、あまり走れてません」

 

 私は昨日の十二秒六四を思い出した。

 

「三歩目?」

「はい」

「一日で直ったら怖いよ」

 

 ひかり先輩はタオルを肩にかけた。

 一日で崩れたのに、一日では直せない。少し不条理だ。

 

「動画、まだ見てる?」

「はい」

「私の?」

「……はい」

「自分のは?」

「見てます」

「なら、そっち多めでいいんじゃない」

 

 ひかり先輩の走りは綺麗だ。何度でも見たくなる。

 でも、見ているだけでは私の足は変わらない。

 

 私は納得とともに首肯した。

 

「そろそろ行かないと遅れるよ」

 

 ポケットからスマホを出すと、画面の数字が思ったより進んでいた。

 

「行きます」

「うん」

 

 私は土手を上がりかけて、振り返った。

 

「先輩は、またここで走りますか」

「決めてない」

 

 その返事は、部活に戻るか聞いたときより、少しだけ柔らかく聞こえた。

 

 学校に着くと、千秋にすぐ見つかった。

 

「翠、朝から疲れてない?」

「河川敷で少し」

「自主練?」

「鴻上先輩が走ってた」

 

 千秋はスパイクの袋を肩に引っかけたまま、目だけを丸くした。

 

「部活には来ないのに?」

「うん」

「何それ。幽霊って校内に出るものじゃないの?」

「幽霊じゃないよ」

 

 思ったより強い声が出た。

 千秋は一瞬きょとんとして、それから小さく笑った。

 

「ごめん。変な言い方した」

「ううん」

「で、何か言われた?」

「自分の動画を見た方がいいって」

「まともだ」

「うん」

 

 千秋がスパイクの袋を揺らしながら先に歩き出す。

 私もその横に並んだ。

 ひかり先輩の言葉は、まだ靴の中に小石みたいに残っていた。

 

 その日の練習は、基礎ドリルが中心だった。

 ひかり先輩の三歩目は、頭に残っている。

 

 でも今日は、その映像を追いかけるたびに、自分の十二秒六四を挟むようにした。

 

 見たいものではない。

 それでも、直す場所はそちらにあった。

 

 片桐先生は私のドリルを見て、短く言った。

 

「今日は一つでいい」

「はい」

「腕を急がせるな。三歩目の前に上がる」

「はい」

 

 ひとつだけ。

 それを意識すると、昨日よりは身体がばらばらにならなかった。

 

 速くなったわけではない。

 ただ、一本終わって戻るとき、膝の奥に残る変な重さが昨日より少なかった。

 

 それだけでも、今は十分だった。

 

 放課後、雨が降った。途端に蒸す。朝の澄んだ空気は、もう欠片も感じ取れなかった。

 グラウンドは使えず、練習は室内補強に変わった。終わったあと、部室には湿った空気が残っていた。

 

 真帆先輩が、棚の奥から厚いファイルを引っ張り出している。

 ビニールの背表紙が少し白く濁っていた。

 

「朝倉、ひかりに会ったんだって?」

「河川敷で」

「そっか」

 

 真帆先輩はファイルを机に置いた。

 

「見たい? ひかりが走ってた頃の記録」

 

 私は少し迷った。

 本音を言えば、見たい。

 けれど、また見すぎると毒になる気もした。

 

「数字だけなら」

「数字でも毒かもよ」

 

 そう言いながら、真帆先輩は透明なポケットを一枚めくった。

 古い紙が擦れる音が、雨音の下で小さく鳴る。湿気でビニールが貼り付いていた。

 

「一年の春。十一秒七二」

 

 次のページ。

 

「夏。十一秒六八」

 

 さらに次。

 

「秋。十一秒六四」

 

 十一秒七二。

 十一秒六八。

 十一秒六四。

 

 ページをめくるたび、数字だけが少しずつ息を詰めていくようだった。最初から、とてつもなく速い。なのに、成長も続いている。

 

「すごいですね」

「うん。すごかった」

 

 真帆先輩の声は、懐かしそうで、少し苦そうだった。

 

「周りは騒いだよ。先生も、他校の人も、私たちも。ひかりが走ると、みんなそっちを見るから」

「本人は?」

「いつも通り」

 

 真帆先輩の視線が、部室の壁に貼られた記録表まで上がった。

 

「記録表が貼り替えられた日ね、ひかり、しばらく自分の名前を見てたんだ」

 

 雨が窓を叩く。風に煽られて、不規則な音を立てた。

 

「これ、そんなに残るものなんだ、って」

 

 私は動画のゴール後を思い出した。

 掲示板を見て、すぐに目を逸らした横顔。

 

「そのあとから、来なくなったんですか」

「すぐじゃないよ。冬は来たり来なかったり。春になって、ほとんど来なくなった」

「どうして」

「本人じゃないから、分からない」

 

 真帆先輩は、ファイルの角を指でそろえた。

 

「でも、離れたかったのは、走ることそのものじゃないのかもね。今日も走ってたんでしょ?」

「はい」

「なら、たぶんそう」

 

 ひかり先輩の名前は、部室の壁に残っている。

 でも今朝の足音は、河川敷にあった。

 

 ひかり先輩は、この部屋よりも河川敷を選んだ。

 

「朝倉、いちおう、言っとくけど」

「はい」

「ひかりを追うのはいいよ。でも、短距離って誰か一人だけ見て走るものじゃないからね」

 

 真帆先輩は軽く笑った。

 

「まあ、まずは転んだら起きればいいんだけど」

「もう転びかけました」

「手遅れだったかぁ」

 

 軽い言い方だった。

 でも、今の私にはそれくらいがちょうどよかった。

 

 その夜、ひかり先輩の動画を一度だけ開いた。

 すぐに閉じる。

 

 自分の十二秒六四は、昨日より長く見られた。

 ノートの消し跡の下に、もう一度だけ書く。

 

 私の三歩目。

 

 まだ何も分かっていない。

 それでも、見る場所は少し変わった。

 

 翌日の部室。

 ホワイトボードに、片桐先生の字でメニューが書かれていた。

 

 短距離ドリル。

 加速走。

 補強。

 

 そして最後に、一行。

 

 四×一〇〇メートルリレー、バトン合わせ。

 

 私はその文字の前で立ち止まった。

 ひかり先輩の名前が残る、もう一つの記録。

 

 深く息を吐いた。

 

 

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